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三十話→少女の初勝利

 どこの独り身教師の口が裂けたか知らないが、我が校に転入生が近々やってくるという内容の噂話が、校内に出回りつつある。男女共に、まだ名も知れぬ余所者に、己の理想の異性像を重ねて胸を弾ませているのは、どうやら僕の所属するクラスでも同じらしい。

 噂の正体の性別がどちらにしても、異性とも同性とも断言し難い僕としては、転入生の顔より事情が気になるところである。

 小鳥とさぞ気が合いそうな担任に、日頃からよく絡むクラスメイトの仕入れた情報が正しければ、転入生は三年らしい。卒業まで一年を切った時期の転校なのだ、止むを得ない事情があったのだろう。それを作り出した要因が本人なのかはたまたそうではないのかで、同情の度合いも変わってきそうなものだが。とはいえ、そこは道徳的な学校。それが長く住むまでもなく、子羊の都となりましょうぞ。

 例の噂が現実としてこの町に訪れる時といえば、それは夏休みの二週間前だそうだ。逆算すれば、残り一ヵ月と半月といったところか。そこまで口を滑らせたのなら、本人の性別も教えてくれてもいいと思うのだが、どうやらはぐらかされているらしい。

 珍しい時期に新しい顔を見れるというのはそれなりに期待を煽るイベントだが、そればかりに気を取られていられない。進路もある、しかし僕にとっては現状維持が何よりの問題なのだ。


「──"此処"というのは、曲がりなりにも、惰性な私が、なけなしの意気地で生を貫き通すことを甘受してくれている、この寛大な世である。私が枝や刃物で地面を削ってみても、悲鳴のひとつも上げない地球。私ごときがいくら思いを馳せても、返事のひとつも返してくれない宇宙。そして、私が微塵たりとも想像できないのをいいことに、手掛かりのひとつもまろび出してくれないその外側。今なお、──」


 こうして、母国を知り、語るための授業での音読においても、表情は毅然を気取っておきながら、内心は自分でも見透かせないほど様々な思考が混濁している。

 溜めておけばすぐにでも腐ってしまいそうなそれを、どこに追いやろうとしているやら、心臓の鼓動は速まるばかりだし、大きくなるばかり。その音は、今にも僕の薄い脂肪を突き破り、外へ漏れ出てしまいそうで。

 心配し過ぎなのかもしれない。いや、心配し過ぎなのだろう。

 幸運な事に、こうして僕が甲高い声を響かせている校舎で共に生活している生徒は、十割が育ちの良い人々だ。しかして事が事なだけに、その幸運すら、理由も未だ不明確なままに僕を抱え込む不運に呑まれてしまうのではないかと、心配してしまうのだ。

 猜疑心。

 これが僕の中で消化されない内は、僕の方から秘密を打ち明けることはしない。できない。


「よし。座りなさい」


 区切りのいい所で、着席を促される。


「はい」


 素直に、椅子に腰を下ろす。

 これでいい。この通り、極めて当たり障りのない日常を意識すれば、特別になるべき僕も、普通の生活に溶け込める。違和感はあれど。周りとは違い、意識しなければならないのが難しいが、それも無理な事ではない。

 無理な願望を叶えるためには、無理な行為もつきもの。

 そう考えてみれば、この程度。

 どうということはない。


「……どうってこと」

「うん。オッケーだよ、上手だったし、可愛かった」


 僕の微音を耳ざとくも聞いたらしい隣人が、小声でそう話しかけてくる。

 彼女から聞いた話だが、このクラスにおいて、僕が女子力の象徴として定着しつつあるらしい。

 おかしい、性別の事は決してばれていないはずなのに。どこで間違ったのだろう。違う、そもそも間違った覚えなんてない。変化はあったのだ。でも、その原因というのが、当事者および被害者である僕ですら与り知れぬ事柄なのであって。

 ひとまず、教壇の上でふんぞり返っている威厳の権化に叱られたくなくて、隣人は無視した。隣人は不機嫌そうに頬を膨らませている。


「前、ね?」


 俯き加減で真横に笑みを向け、板書に打ち込む教師の背中を指差す。

 即座に従う隣人。

 なるほど、可愛げとは、外見ばかりのステータスというわけではないらしい。



「昨日は残念でしたけど、今日は絶対です」


 優月さんが、意気込むように呟きながら、僕にお弁当を手渡してくれる。


「そう。安心して、昨日の今日で逃げたなんてことは無いから」

「まさか、心配なんて。見るからに母性溢れる先輩のことですから」

「……姉ちゃんにも言われたなあ、それ」

「ふふ。褒められて、どんな気分ですか?」


 可愛いや女子力などの単語とは、また違った角度で心を抉られるような気分です。

 

「いじける先輩も可愛いんですから、そういじけないでください」

「言ってること矛盾してるの分かってる?」

「可愛いって言われたくないんですよね?」

「…………」


 敵わない、この人には。改めて、そう思った。

 必要以上に水気の増す眼球を、外気に晒して無理やり乾かしながら、包みから取り出した弁当箱を開ける。案の定、見てくれの良い芸術品は、料理としても上出来だった。


「……今ばかりは、現実も忘れられるなあ」

「恋人のお弁当を現実逃避に用いるのはどうかと思いますよ」


 やだ、釘刺されちゃった。いっそのこと、そのまま心臓貫いてくれてもいいんですよ。ああ、この至福の中で息絶えたい。でも、この幸せを作り出してくれた人は、それを許してくれそうにない。

 肩を落とすも、箸は進める。不思議と、気分によって味が落ちることはない。


「……優月さん」

「はい?」

「食べ終わったらさ、昼休み終わるまで慰めてくれない?」


 返ってきたのは、返事ではなく、問いかけだった。


「……先輩、狙って振舞ってるわけじゃないんですよね?」

「……ここで泣いたら、否定したことになるかな」


 なるよね。

 瞳よ、とんと潤いたまへ。

 優月さんの狼狽ぶりが耳に届いてくる。


「す、すみません! 先輩を泣かせたかったとかそういうわけではなくて……、いくら先輩が可愛いって言ったって、そんなこと──」


 言葉を詰まらせる優月さん。

 ここまで彼女を振り回せることもそう無い。いつもはからかわれてばかりだから、珍しく恋人より優位に立てた僕の心に、小匙一杯ばかりの報復心が芽生えたのは禁じえない事なのだと許してほしい。

 悪い内心を悟られないよう、顔を伏せる。すると、如何とすべきかと取り乱している優月さんの声音が更に深刻になるのが分かった。僕が箸まで止めていることだし、真に受けたのだろう。冗談が好きだからといって、冗談に強いわけでもないらしい。

 困ったような唸り声を聞いた後、ふと僕の顔が細い手でおもむろに持ち上げられた。

 そして、あろうことか、僕の額と、優月さんの額がくっつく。

 

「……先輩が駄目だと思うようなら、私が励ましますから。先輩なら、きっと乗り越えられます」


 眼前に迫る、恋人の小さな顔。

 長い前髪の奥に、ちらりと見える目は固く閉ざされ、それが表情を真っ赤に染める羞恥からの仕草なのだと察した。

 初心なのに、人一倍の行動力を持っている彼女。一分(いちぶん)たりとも包み隠さない無垢な好意が、境遇に悩む僕を支えてくれている。


「……これでいいですか?」


 言の十秒後といったところか──優月さんは、そっと額を離す。座りなおすと、まだ余分に血が巡っているらしい頬を手で覆い隠しながら、僕にそう尋ねてくる。

 この上ない激励だった、僕に限っては。優月さんにしては無茶な、しかし優月さんらしいやり方が、僕の心を潤してくれる。

 微笑んで、お弁当の包みの上に取り落としていた箸を拾う。


「まだ食べきってないや、お弁当」


 これには優月さんも、唇を尖らせた。


「……先輩って、そんなに意地悪でしたか?」

「誰に似たんだろうね」


 内輪に見れば、僕にとっての模範対象は面前にいる訳で御座いまして。

 とはいえ、悪戯が過ぎたのは否めない。

 でも、結果的に、優月さんの思い切った行為は、僕の心を強かに打った。この件だけではない、たった一週間で積み重ねられた出来事の大抵が、僕の精神をこの貧相な身体に繋ぎ止めてくれているのだ。現時点で愛着など毛頭無いが、馴染み始めているのは事実なのである。


「先輩が最後の一口を飲み込んで、蓋を閉めて、お弁当箱を仕舞ってから、もう一回言ったほうがいいんですか?」


 からかわれていた事に気付いたらしい。垣間見える恋人の瞳に、微かな対抗心が伺える。

 口論においては、女性のほうが強いと聞く。

 それを言うなら、僕だって今は女なのだ。

 負けてばかりではいられない。


「んん。可愛い優月さんが見れたから、大満足」


 追い討ち成功。

 それは、ようやく冷めかけていた恋人の表情がまたもや沸騰する様子を見れば分かった。


「……今日は、先に帰ってもいいでしょうか」

「猫はいいの?」

「……やっぱり、一緒に帰りましょう」

吉海君には没短編の一部を音読してもらいました。


17/03/23 タイトル話数訂正

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