二十八話→遭遇
金曜。今日を乗り越えれば、ようやく週末に入る。
ここ五日間はやたら長く感じただけあって、土日が待ち遠しかった。しかし、優月さんの話では、土曜は出かけなければならない。女になったのだからと、姉の手によって男物の衣類は押入れの奥に追いやられてしまった。ジャージなどの例外もあるが。それ故、女物の衣類を買う必要があるのだ。存分に心を休められるのは日曜だけになりそうだ。
とはいえ、買うのは普段服。いまさら性別相応の服を着るくらいで動揺は無い。スカートなど、人形にされたときにいくつ履いたか分からない。その上、姉や優月さんも、公共の場で僕を辱めるような真似はしないはずだ。
現時点の経験地で事足りる。
「今日も起きるの早いね、吉海」
寝間着のままリビングに訪れると、朝から澄んだ姉の声が聞こえてくる。
寝起きの僕は、目をぐしぐし擦りながら、姉が用意してくれた朝食の前に座る。寝ぼけ眼で時計を見やると、わりと余裕があった。
「妹の生活リズムが改善してきて、お姉ちゃんは嬉しいです」
「……たまたまだよ」
昨晩は姉の添い寝を拒んだので、昨朝のごとく姉の寝相に惰眠を妨げられたわけではない。今日はなんとなく目が覚めたのだ。鳴る前の目覚まし時計を見ても、それのスイッチを切って二度寝に耽る気にはなれず、そのままベッドから出てきた。
性別が変わった影響なのだろうか。いやまさか。男でも女でも、寝起きが悪い人は数多くいる。それが性転換しただけで改善されるとは思えない。
よって、ここ数日の早起きは偶然。明日は、もしかしたら約束など忘れて昼まで眠りこけているかもしれない。そうしようと思っても、どうせたたき起こされるだろうけど。
などと考えつつ、箸を進める。偉い偉いなどと頭を撫でようとしてくる姉の手を、まだ残る眠気に惚けた頭で甘んじて受け入れながら。
「寝癖ついてるよ」
「あとで直す」
「私がやったげようか?」
朝食最中のドライヤーはさすがに丁重にお断りした。
寝癖は自分で直して家を出て、学校目指して路地を歩いているのですが──現在、まずい状況です。
「…………」
「…………」
見慣れた仏頂面。栗のイガのように逆立った髪は寝癖ではないのか。わざわざ僕に歩調を合わせて隣を歩くそいつは、加邉。
ついさきほど遭遇し、先にあちらから僕の背中を発見されて挨拶されたからには逃走するわけにもいかず、二人して同じ目的地を目指している。挨拶以降、交わした会話は今のところ無く、沈黙ばかりが二人の間に居座っている。
僕としては、あまり傍にいたくない相手。もちろん故あっての存意でありそれは、家族や優月さん以外に、加邉だけがゆいいつ僕の異変に気付きつつある存在であること。
いざ気付かれたときにはしかたないと思っていても、気付かれていないうちはどうしても誤魔化そうとしてしまうもので。
言葉こそめったに交わさないが、交わせるほどの距離にあるだけで、胸中には僕を押しつぶししそうなほどのやましさが募る。そうなってしまっては、内心を見透かされまいと、余計な会話をしようと不必要に口を開いてしまう。
「……そ、そういえば、夏ももうすぐだよね」
「そうだな」
「加邉はさ、夏休みの予定は何かあるの?」
「別に」
「そ、そっか」
加邉は律儀に返答こそすれ、内容に広がりがないのでどうしても会話が続かない。
一年からの付き合いでそれなりに親しいので、これが加邉であることは重々承知している。人から向けられた言動に対し、あまり愛想の無い応対をすることから、どうしても無愛想に見られてしまう。しかし、加邉は人を決して無視はしないのだ。
僕もそれが分かってからは、加邉との友好関係に不満を抱かなくなった。
ところが──今の状況、加邉という人間を、改めて難解に感じた。
なかなか表情に出さないので、感情が読み取りずらい。ちっとも口に出さないので、内心が分かりづらい。彼の心境を知りたければ、たとえば微かな眉の歪みやいつもと比べてやや低い声のトーン、加えて棘のある一言から、怒っていると予想するしかない。予想というのも、まあ、特訓すれば八割まで確実になる確率である。
しかし、このときばかりは、その八割に当てはまる予想はできそうになかった。
「あ、あのさ加邉」
「何だ?」
「たとえばの話なんだけど──もし、僕とか周りの友達がありえない事になってたら、どうする?」
「ありえない事って何だよ」
「それは……、とにかく、ありえない事だよ」
変な質問であるのは自覚している。おそらく、回答者は怪訝な表情をしていることだろう。
加邉は、すこし間を要して、答えた。
「事情を聞く、真っ先に」
「聞いて、どうするの?」
「事情による」
事情を聞く、それは言い換えれば、物事の内面を知ろうとするということだろうか。
当事者をあくまで物事の表面としてしか捉えず、表面から物事の内面を聞き出したりあるいは見出したりする。それも真っ先に。つまりは、そういうことなのだろう。
僕の性転換において、この当事者は紛れもなく僕である。加邉自身の言葉が嘘でなければ、僕の性転換を知ったとき、加邉は真っ先に事の経緯を僕から聞きだそうとするのだろう。とはいえ、突発的な現象なのだ。僕から話せることはほとんど無い。しかし、誤解を避けるためにも、これは弁解だという前置きをしたうえで、僕も語れるだけのことは語るべきだ。
事情を聞きだしたあとに加邉が取る行動が、その事情によるというのなら──僕が正直に話せば、加邉だって僕の変化を真正面から受け入れてくれる。そう思うから。
「……僕、思うんだよね」
「何だよ、さっきから」
「加邉ってさ、つくづく良い奴だなって」
「……やめろ、気持ち悪い」
加邉は悪態をつくわりに、満更でもなさげに笑った。
それはやはり微かな変化であったが。
でも、僕の予想が確信に至る変化だった。
なおも、僕らの足は、迷いなく学校へ吸い寄せられていく。
さっきより、ずっと調子の良い足取りで。
受験生というのもあり、更新が遅延しております。
更新停止はしないので、気長にお待ちいただけると。