二十七話→奮闘
とざいとうざい。
新立吉海が贈ります、一世一代の挑戦でござい。
大袈裟は承知の上、挑戦と称しますのは。
いまから一人でお風呂入ります。
「……苦行だ」
己の肉体を、己の精神が嫌でも性的な視線で見てしまう屈辱を誰が知りえようものか──僕を除いて。我ながら奇怪な存在である。外見の変化に内面が取り残されている状況というのは、なかなか堪えるものだ。
とはいえ入浴後には夕飯が待っているので、ぐずぐずしていられない。
持ち込んだ着替えを洗濯機の棚に置く。シャツの裾を両手で掴んだところで、いちど深呼吸を行い、裾を硬く握り締める手を思い切り頭上までたくし上げる。露出した肌を風呂場の生ぬるい湯気が撫ぜる。そのままの勢いで下も降ろし、脱いだ服を傍のかごへ投げ入れる。持つものが無くなって手は脱力するも、瞳はなぜかまぶたの裏から露わになろうとしない。それが意思に反しているのかとなると、しょうじき僕にもよく分からない。理由があるとするならば、それは大きく顎を引けば見えるだろう絶景を見ようとしないからなのだが──はて、自問自答してみても、見たいのか見たくないのかはっきりしないのである。
これでもかというほど頬が上気しているのを熱気のせいと決め付けて、一糸まとわぬ姿で風呂場に足を踏み入れる。
万人にとっての当たり前なのに、事情が事情なだけあってどうも意識してしまう。しかし、姉は着衣入浴を許してくれなかった。本気でしようとしてたわけじゃないけど。
「……まず、お湯を浴びて」
そうする必要も無いのに、口が勝手にせんとするを呟く。身体と口は連動している器官ではないのだが。
べつに、これはいい。桶で浴槽のお湯をすくって身体に掛けるだけなのだから。何も難しいことはない。普通なら、この先の行動もできて当然のことなのだ。僕にだって、やろうとすればやれる。ただやるために、羞恥がつきまとうだけ。
桶を持ち、湯をすくい、四肢から胴体へとじょじょに掛けていく。それを幾度か繰り返す。いつもより湯が熱いような気がするのは、きっと僕の気のせいだろう。
「……次は、頭を、洗って」
これもまだいい。強いて困難な点を挙げるならば──それは困難というより、髪が伸びたせいで洗うのがすこし面倒なくらい。伸びたからには切るなと姉や優月さんに言いつけられているので、今後もこの面倒から逃れることは出来ない。
近所の庶民派スーパーで買える比較的安価な代物のシャンプーを、湯で濡らした頭の上であわ立てる。十分な泡と指の腹を用いてやさしく髪と頭皮を洗う。姉の教えを律儀に守る弟の鑑であった。
すこし腕が疲労を覚えたころに頭を洗い流し、次はリンスを手に取る。個人的にリンスのような粘性はしつこくて嫌いなのだが、髪は命との姉の教えを破ることはできない。気持ち急いで髪にほどこし、多量の湯でしっかりとすすぐ。
「……次は……、身体」
口にするだけでも躊躇してしまう。
脳内にはあれこれよくわからない感情が渦巻いているが、手は震えながらも機械的にすべきことを行っている。いいかげん肌寒いので、浴槽に漬かりたいのである。しかしながら、精神が、己の手が身体に直接触れることを拒否してしまう。
性転換してからというもの、入浴は今回を除いても三回は体験している。そう、女になってからの入浴は、これが初めてではない。つまりは、身体を洗うことも、これが初めてではないということ。とはいえ、まともに洗えなかった部分はある。
今日の僕は、それすらも克服する覚悟があるのだ。
泡にまみれたタオルを肌に当て、擦る。力は込めすぎないように。タオルを持つ右手とは反対の左腕から、左肩、左の脇、首の左側面、鎖骨。タオルを左手に持ち替え、右腕、右の脇、右肩へ。タオルの両端を持ち、背中を。タオルを右手に持ち直し、胴体の前面。生粋の女性だったらば、夢という名の空気が足らないと不満だったかもしれない小さな風船も欠かさず。ただでさえ熱い顔がさらに火照る。
「……足、足を」
ひとまずはとばかりに足へタオルを持っていく。
余談だが、毛の有無だけでも、肌が衣服などに触れる際の触覚はわりと変わるものである。毛が生えていないというのは、それはそれで無防備といえるのだろう。北に生息する動物が厚い体毛を持つのも、寒さから身を守るためなのだから。
「……最、後は」
最後に残した部分は、いわば局部。
いちど目にしようと挑んだところを姉に邪魔され、それ以降は思うまでに至ることもできなかった。
今回は、そこを洗うのだ。手を抜かず、しっかりと。ただし、段階を踏むとなれば、やはり見てから触れるべきなのか。神様は、なぜこうも高いハードルを僕に押し付けたのだろうか。今頃、羞恥に身悶える僕を天上から眺めて下卑た笑みを浮かべているのだろうか。
口には出来ないが、畜生め。
「…………」
ためらいがーる。
たしか母親の顔をした変態は、つるつるだなどとほざいていた気がする。まさかそんな。これでも男のころは人並みの成長期を過ごしていたのだ。性別が変わったとはいえ歳は変わらないのだから、相応の姿形のはずだ。
現実を語るつもりなら、まずは現実を知らなければならない。自身について未知な部分があるなど、あってはならない。
こればかりは、意地でも確認しなければならない。
ような気がした。
次に母親の顔を見たとき、少しでも気丈を装うためにも。
「……ふーッ」
一世一代。後生一生。
一生に一度というべき最大の覚悟を推し進める。
「……──ッ!」
その後の時の流れは定かではないが──少なくとも、湯船が僕を迎え入れるまで、五分近くを要した。
結論を言おうか。
母親の言葉が真実である、と。
「…………」
湯船の中で、顔面を手で覆っている僕。
絶句。
いい加減に結った後ろ髪から滴る水滴が、湯船で鳴る。折り曲げた膝の皿が水面からちらりと見える。湯船の白さと僕の肌にそう差は無い。でありながら、か細い手の奥に隠れる顔は焼けるように赤い。
自分で自分を穢したような気分。
自分の身体を確認しただけなのに、他の異性のデリケートなプライベートゾーンを盗み見してしまったかのような罪悪感。
そして背徳感。
せめて顔についた火が収まるまでは、姉の前には出られない。
「……あえぇっ……」
塞ぐどころではない口から、声ともいえぬ、とうてい文字には起こしがたい呻き声がもれてしまう。年齢が逆行したかのように、ただでさえ甲高い声がか細さを増し、加えて掠れた。
白い湯船に浮かぶ白い少女は、その性別を得たついでに、ひょっと白い湯気に溶け込んでしまいそうなほどの儚さも得てしまっていた。
軟弱と言ってしまえば、それはそれで身も蓋もないのだが。
ここに姉がいたとすれば、涙など関係なしに抱き寄せられていたかもしれない。
誘うことなど断じて無いが、姉を誘わなくてよかった。
お風呂を上がるころにはすっかり湯疲れしていて、色々と冷めやらぬ妹ののぼせ顔を目撃した姉が理性を捨てたのはここだけの話。