二十三話→今朝の少女
性転換後、四日目の朝。
今朝は息苦しさに目を覚ますと、眼前は暗闇だった。性別の次は目に異変が訪れたのかと背筋が凍るも、少し身じろぎすると視界は光に満ちて、安堵する。と同時に、自分の視界を塞いでいたものを目にした僕は、とっさにそれから距離を取ろうと仰け反る。
「きみぃ~……」
「んむぐっ!?」
仰け反ったつもりが、いつからそうなのか首に回されている姉の腕にぐいっと引っ張られ、またも僕は姉の胸に押し付けられる。朝の陽気に誘われて目覚めると、女性のそれなりに実っている乳房に、たった薄い布一、二枚隔てて顔が埋まっている状態となれば、その持ち主が血縁者といえど、僕の顔が真っ赤に染まり、何が何でも離れようともがいてしまうのは致し方が無いといえよう。
とはいえ、男というもの、触れるに憧れていたこの弾力。まさかこのような形で味わうとは思いもよらなかった。
上辺だけ見れば天国、本質を見れば地獄ともいえるこの状況。マシュマロに顔部を圧迫される夢も見るはずである。
とにかく離れないと。息苦しい。このままでは姉の胸が一つの凶器になってしまう。
「……ぐぐ、ぷゎはっ!」
寝ながら強い腕力を誇る姉の腕から、やっとの思いで抜け出す。
姉は心底寂しそうに唸り、抱き枕の行方を追うように寝返りを打つ。お生憎さま、あなたの求める抱き枕は逃げることを知らない無機質ではないので、とっくにベッドから離れてますよ。
子猫たちを見ると、彼らもまだ夢の中にいるようだった。
「早く起きちゃったな」
壁時計を見やると、針は六時前を示している。
家の立地が良いもので、高校は歩いて三十分も掛からない位置にある。故に毎朝、七時頃にベッドを飛び起き、二度寝で猶予を削った己を呪いながら着替えと朝食をさっさと済ませ、寝ぼけた頭そのままに家を出るのが常。ところが今朝は、姉の胸元という刺激が寝ぼけ眼には強すぎて、すっかり目が覚めてしまった。
「…………」
姉に抱きつかれていたせいかやけに乱れた寝癖頭を搔きながら、ひとまず着替えようと思い立ち、壁に掛けていた制服をハンガーごと手に取る。寝巻きの一番上のボタンを外したところで、着替え中に姉が起きた場合を危惧し、しかたなく姉の部屋を借りることにした。
でもその前に、ある事を思い出す。
「……そうだ、その前にトイレ行かないと」
女の子の日を身を以って知った男の子は、おそらく僕だけ。
トイレで用を済ませた後、姉の部屋に入ると、僕の部屋とそう変わらない景色が見えた。絨毯やカーテンの模様が違うなどのちょっとした差異はあるが、こうも似るのは姉弟故というべきか。姉弟揃って、模様替えにおいて重視するのは、性別また年相応のお洒落ではなく快適性なのである。
しかしながら、どんなに仲の良い兄弟姉妹であっても、許容し合えない点はあるもので。
「これ、あの時の写真かな」
綺麗に整頓されている勉強机の上に、カラー写真の束。それらはどれも、例のお人形イベントの際に、姉が撮った僕のあんな姿やこんな姿であった。
一度は燃やさないと宣った以上、無用心に置いておくななどという忠告はともかく、僕から処分を申し出る筋合いは無い──が、回答は求めないうえで、ただこれだけは言いたい。
これほどの量、いつの間に焼いたんだあの人は。
「……見なかったことにしよ」
それらを目にした上で僕にできることと言えば、眼前の物証から目を逸らし、嫌でも脳内に棲み付いているその思い出にそっと蓋をすることだけだった。ついでに重りも載せておこう。
いずれ姉の大切なアルバムに仲間入りするであろう自分のあられもない姿から距離を取りたくて、僕は着替えを急ぐことにした。寝巻きを脱ぐと、下着がお目見え。この格好で鏡の前に出ることはできないが、ありったけの勇気を振り絞って目線を下に向けると、本来の僕にはあってはならない女らしさが薄いシャツを密かに押し上げているのが見えた。
「……これ以上、大きくなったりはしないよな」
見た者が驚くほど大きいわけではない。むしろ小さい部類。それでも、体操服など薄着しか身に着けていない状態では、少し前屈みにでもなっていないと怪しい程度にはある。
考えたくはないが──これ以上、胸が大きくなろうものなら、逆転した性別を誤魔化すのは難しくなってくる。最も、大きくならずとも、いつまでも周りを欺けるとはとうてい思えないが。
「いいや、元男の僕に、これ以上胸が大きくなる素質などあろうものか!」
なんてことをほざきながら、さっさと制服に袖を通す。
ええ、わかってます。素質がどうとかいう問題ではないのが分かり切ってることなのは、それこそよくわかってますとも。身体的な女子力というのが、不可抗力であることも。しかし、どうか神様、せめてそれを与えるのは優月さんにお願いします。あの方の、女になった彼氏の胸を見て打ちひしがれる表情が哀れでならないのです。
神頼みも程々に、着替えを終えたら寝巻きを仕舞い、未だ寝返りをうち続けている姉に、とりあえず縦長に丸めた毛布を掴ませると、階段を下りてリビングへ向かう。
リビングに入ると、テレビを点け、それなりに美人なニュースキャスターが今日も今日とて巷で起きたらしい物騒な事件を淡々と読み上げているのを横目に、食パンをオーブントースターで焼く。ニュースが報道から天気予報に切り替わったところで、チンという聞き慣れた小気味良い音が鳴った。程よいきつね色に様変わりした食パンにマーガリンだけ塗って、それと牛乳入りのコップを持ってテーブルに着き、食し始める。
こうして、のんびりと食べられる朝食もいい。口の中の物を何度も咀嚼しながら、足を前後に揺らす。
今週に入ってからというもの、心が落ち着いたことは滅多になかった。言わずもがな、それはひとえに性転換のおかげさまさまだが。
昨日の一件で、心境はずいぶん変化した。身体は相変わらずだが、心なしか視界が広がったような気がする。
「今日も雨か、夕方は」
今日の天候を確認する余裕も出てきた。
一昨日の優月さんとの相合傘も楽しかったが、わざわざそれを目当てに故意に忘れるのはよろしくない。いい加減、恋人にも小言を言われそうだ。
食パンを半分ほど食べ終えたところで、眠たげな姉が入室してくる。二匹の子猫と、なぜか枕を引き連れて。
「おはよ」
「ん、おはよ。……ああ吉海、起こしてくれたら作ったのに、朝ごはん」
「いいよ、別に。ところで、その枕は新しいペット?」
「ん、……戻してくる」
起きたものの、盛大に寝ぼけてらっしゃるご様子。
姉は寝ぼけ眼を擦りながら、枕を戻しに部屋へと戻っていく。その後ろに、背中の茶色が濃い方の子猫がついていく。
もう一方の背中の茶色が薄い方は、僕の膝の上へ軽やかに飛び乗ってきて、そのまま丸まった。いま僕が着ているのは制服なので、少し居心地は悪いかもしれない。
たった一晩で、拾い子にここまで懐かれるとも思わなかった。早々に警戒心を解いてくれたのは、こちらとしても願ったり叶ったり。かといって、あまりにガードが甘いのも心配である。
「……まあ、悪い気はしないんだけどさ」
里親としての不安が明朗な里子によっていともあっさりと壊されてしまって、なんとも調子が狂う。
親を恋しがる姿に心を痛めずに済むのはこちらとしても気が楽だけど、もう少し執着心があってもいいんじゃないかな。
人語が理解できない相手といえど、そんな思考を口に出すのは憚られる。思うまでに留めて、己の境遇など露知らずいちど飯をくれただけの人間に甘えている小さな童を見つめながら食パンを食べ終え、コップの牛乳も飲み干し、手を合わせる。
「ちょっと、ごめんね」
膝の上から猫を下ろして立ち上がり、少し不満げに見える小顔に詫びを入れる。それから台所で食器を片し、家を出るまでまだ余裕があるのを確認すると、子猫と一緒に洗面所に向かう。
途中の階段付近で、枕を戻してきた姉とすれ違った。
「そういえば吉海、今朝はどう?」
「……微妙」
「微妙、っていうのは?」
「体調かもしれないし、気分かも」
「まあどっちにしても、あんまり優れないようなら無理はしないでね」
洗面所に入ると、真正面の洗面台に備え付けてある鏡が目に入る。
そこには、男装姿の少女が映り込んでいた。頭は寝癖にまみれており、目はまだ薄目気味で眠気が感じられる。身に着けている男用の制服は、慣れた着こなしながら華奢な体格にはまったくもって似つかわしくない。
相変わらずの、僕である。
しかし、数日前に比べ、表情はいくらか落ち着いたとみえる。
「……いつになったら戻れるのやら」
そうぼやきながら、顔を冷水で洗い、ドライヤーで寝癖を直す。悪戯心で温風を子猫に当ててみると、鬱陶しげにドライヤーをどけた。そんな仕草もベリーキュート。
足元をうろちょろと歩き回る自立型愛玩毛玉を足で相手しながら、歯を磨く。磨き終えると、うがいをする。去り際に鏡の中の女の子に向かってべーと舌を出すと、洗面所を後にした。子猫が物欲しげに鳴くものなので、両手で抱きかかえて差し上げ、そのままリビングに戻る。
「吉海、今日は学校はやいの?」
ソファに座り、膝の上に置いた子猫が毛づくろいしているのを眺めながら、姉と会話する。
「べつに、たまたま早く目が覚めただけ」
「ごめんね、やっぱり邪魔だった?」
「邪魔っていうか……」
あなたの溢れんばかりの妹愛に窒息死しそうになっただけなので、気にすることはないです。
「それより、僕が寝てたあいだ何もしてないよね?」
「してないよ。もしかして、してほしかった?」
「…………」
「ごめん、ごめんって。本当に何もしてないから、そっぽ向かないでくださいお願いします」
「一度きりだからね。もうしない」
「こんなに冷たかったかなあ、私の妹って……?」
まず妹としての過去が浅いんですがそれは。
「そういえば、昼ご飯代はまだある?」
僕は、いつもは購買で買ったパンで昼食を済ませる。その代金は、むろん家計から割いてもらっているわけで。積極的に体を動かすことはないが、それでも昼食を取ってるのとそうでないのとでは、午後の頭の具合に差が生まれてくる。
とくに食べ物にこだわらないタイプなのでパンでも文句は無いが、今日からは優月さんがお弁当を作ってきてくれる。恋人のお弁当──もはや遠慮するなどという選択肢はございません。
「要らない。優月さんが作ってくれるらしいから」
「そっか。神奈ちゃんって、ほんと良い子だね」
健気というか、甲斐甲斐しいというか。
負担にはならないだろうか。好きでやってくれている人間にそこのところを心配するのは、むしろ野暮だろうか。
もし重荷になれば自分から申し訳なさげに打ち明けるような人だとは思うが──そんなときは、僕の方から気を遣うべきだろう。
「どっちから告白したの?」
質問の内容からして、姉はとっくに僕と優月さんの関係を知っている。
姉は察しがいい。あるいは、優月さんの口がうっかり裂けたのかもしれない。彼女はああ見えて、意外と感情が表に出やすい人だから。
「告白っていうか、単に成り行きっていうか、まあきっかけはもちろんあるんだけど」
「へえ、それは?」
「僕が女になっちゃったのを、優月さんが一目で見抜いちゃったもんだから」
「へえ。恋は盲目って聞くけど、神奈ちゃんってしっかりしてるのね」
いいや、そうでもない。
ああ見えて、ちょっとばかり天然なところもある。
「……ほんと、良い人だよ」
そう、僕にはもったいない。
でも、そう思えるくらいが丁度良いのかもしれない。そう思える内は、恋人そっちのけに自分ひとりで足を滑らせるなんてことはできないのだから。
お弁当を作ってくれるというのなら、大事に頂こう。こんな僕でも構わないといってくれるのなら、僕も自分を気にしないでいよう。僕に一途でいてくれるというのなら、僕もそうしよう。
彼女の厚意には、必ず応えよう。
彼女がどじを踏んだのなら、必ず手を貸そう。
それだけで、優月神奈が、新立吉海を好いてくれるというのなら。