十九話→必要な涙
一晩越しの前言撤回。
とりあえず生きようといったな、あれは嘘だということにさせてくださいお願いします。
なぜ僕がこの思考に至ったか、その原因は目の前のベッドの今朝の様子にある。少し乱れたシーツの一部が真っ赤に染まっているのだ。その影響は掛け布団にまで広がっていて、なにより僕が着用しているパジャマの股間あたりまで同じ色に浸食されていた。
──いや、根源はおそらく僕にある。しかしそれを認めたくないのは、もし認めようものなら、また別の真実を認めなくてはならないから。血色に染まったベッドと僕のパジャマ──この二つの物証が指し示す一つの現実は、本来の新立吉海にはあってはならない事なのだ。たとえ天変地異が起ころうと。ただし、天変地異ほどの衝撃ではない出来事が、これを引き起こしたのはやはり明らかなのであった。
「……吉海」
これを、現妹を起こしにきた姉も目撃していた。
なんと声を掛けてよいやらと戸惑う様子が背中にひしひしと伝わってきていたが、やがてその口は、眼前の光景が意味する真相を漏らす。
「……もしかして」
「…………」
「生理?」
それを耳にした途端、無数の感情が沸いて出て脳内を駆け巡り、しかしそれらは一つたりとも表に出ること無くただ僕のブレーカーを落とした。
「吉海!?」
僕はその場に崩れ落ちたのだった。
目が覚めた時には、僕はリビングのソファで頭を姉の膝に委ねていた。
「私が片しといたから、安心して」
僕の目覚めに気づいた姉が、僕の頭を撫でながらそう言う。
服はすっかり替えられている。肌触りの良いゆったりとした暖かみのある服装。気絶している人間を動かすだけでも大変だっただろうに、姉は隅まで気を遣ってくれたらしい。何かが股間を包んでいる感覚がするのは、つまりはそういうことなのだろう。
「ここまで来ると、さすがに陽気じゃいられないかな」
「…………」
「ビックリしたんでしょ。でも血くらい、吉海だって見たことあるでしょ? 生理痛は辛いって聞くけど、個人差あるし。私やお母さんはそれほどでもないから、吉海も多分そうじゃないかな」
姉は、なおも僕の頭を優しく撫でている。慰めてくれているのだろう、珍しくそこに他意は感じられなかった。
うつろなまま、ふと時計を見ると、学校ではとっくに授業が始まっている時間帯だった。寝起きが遅いのもあるが、さすがに我ながらショックを受けすぎやしないだろうか。相応の理由はあるのだが、それにしても情けない。
「仕方ないよ、無いと思ってたことが起きちゃったんだもん。学校には私が休みって言っておいたから、今日は休んだら?」
頷き、お言葉に甘える。
普段ならこの膝枕にも姉の下心を疑っていたが、今はそんな気力も無い。この数日間、慣れない身体で周りを誤魔化して過ごしていた疲れも溜まっていたのだろう。テレビの小音量に耳を澄ましつつ、姉の膝を枕に目を瞑る。
「……僕、本当に、……なっちゃったんだね」
「……みたいだね」
「……もう、散々なのに。まだ、戻れないの?」
姉は口籠ったように、返答しない。
「この身体になって、良い事だってあったよ。姉ちゃんには字を褒められたし、優月さんに近づけたし、優月さんの家にも行けたし、僕がどんなに恵まれてるのかも分かった」
でも、もう懲り懲りなんだ。とっくに疲れ切ってる。馬鹿な頭に考え事や悩み事は向かないし、前向きな思考はただの強がりな気もしてくる。この先どうなるのかわからない、知らぬ間に霧中の中に放り込まれて訳も分からず駆けまわっているような思いはもうたくさんだ。このたった二日間が、僕の限界なんだ。
「痛いよ、姉ちゃん……」
わからない。どこかが痛い。いつから痛いのだろう、それもわからない。とにかく、どこかが痛いのだ。心当たりがあるとすれば、それは性転換を自覚したときから痛かったような気がする。そうだとして、僕はいつ性転換を自覚した?
わからない。なにもかも。
「……吉海、また泣くの?」
泣きたい。いますぐにでも。ずっと痛いそれは、もはや痛みで張り裂けそうだ。
でも、なけなしのプライドが、それを邪魔する。
「いいよ、泣いて」
姉が僕を抱きしめる。
優しく、それでいて力強い抱擁。
「……??」
腕の中で狼狽える僕の耳元で、姉が囁く。
「言ったでしょ、吉海が泣きたいときはいつでもこうしてあげるって」
「ッ──」
途端、堰を切ったように僕の目から涙が溢れた。押し殺しているつもりはないのに、不思議と声は出ない。出ない声の分も、涙は流れる。姉が背中をおもむろに叩くたび、心底に溜まっていた泥のような何かが出ていくような、そんな感じがした。
それからは、ひとしきり泣き続けた。
泣いてる内に、僕は眠りに落ちていた。眠っている間も、姉は僕の傍から片時も離れなかったことを感覚として覚えている。そのうち、姉も一緒になって夢を見始めたことも。
本日三度目の目覚めは、すっかり傾いた日が窓から差し込む中、家の呼び鈴が鳴るのとともにやってきた。
鳴らした主は、きっとあの人だろう。
姉はまだ寝息を立てている。僕は姉を起こさぬよう起き上がると、慌てて涙の跡を拭い、玄関へ向かう。
なんだか、吹っ切れたような、すっきりしたような気分だ。
気が軽くなったおかげか。また今日も恋人の顔を見れると思うと、無意識に唇がゆがむ。今まで顔を固めていた糊が流れ落ちたような思いだ。
「……これなら、笑えるかな」
自然に、笑えるだろうか。
ここ数日の中で、一番。
いま開けます。
玄関越しに外へそう声を掛け、鍵を開け、ドアノブを捻る。
ゆっくりと扉を開けると、そこには案の定。
「今日は学校をお休みしたと聞いて心配だったもので」
「……そっか」
彼女はいつも通り、かすかに微笑みを浮かべながらそこに立っていた。
「元気ですか?」
「うん。もう、すっきり」
「そうですか。……それは良かったです」
長い前髪に見え隠れしている僕を見透かすような瞳は、とっくに僕の心境を察しているのだろう。昨日までとは打って変わって、胸がすいたような心境でいることに。
彼女はなにか言いたげだが、敢えて沈黙を選んだらしい。それから一度、深呼吸したかと思うと、僕に笑みを向けた。
「こんにちは、新立先輩」
何があろうと僕を好きでいてくれる人の笑顔。今までの僕は、それを見て何を思ってきただろうか。今振り返れば、自分がその笑顔を向けられるに値する人間かなど、どうでもよいことだ。何より大事なのは、その人が僕に笑顔を向けてくれている以上、僕もそれを受け止める器を持っていなければいけないということ。
悩みなら何でもかんでも性転換に結び付けて解決しようのないほどの問題として捉えてしまっていたからこそ、恋の悩みにも性転換が介入してきてしまったのだろう。優月さんが気にしないでくれているなら、僕もそうするべきなのだ。恋の悩みは恋の悩み、性転換は性転換。優月さんは女で、僕は男。傍目には違って見えても、二人の間でその事実が生き続けている限り、僕らの縁も切れはしまい。たとえ切れても、この優月さんなら──。
いや、もはや可能性として考えるまでもないか。本人がそう明言している限り、優月神奈は一途だ。すべては僕次第なのである。
僕が強がったところで世界は変わらない。僕が甘えたところで世界は変わらない。僕が何をしようと、それは僕を変えるだけなのである。それは逆に、僕以外の誰かが僕に何をしようと、僕は変わらないということだ。僕自身の気の持ち様で、僕は頑なにでも素直にでもなれる。僕が性転換したことで様変わりしていく環境に適応もできれば、変わらない人達と一緒にいられることもできる。
たとえ違っても、母や姉、そしてこの人は、きっと僕の傍にいてくれるだろう。
少なくとも、それは変わらない事実だ。
「うん。こんにちは、優月さん」
そう返し、微笑む。その微笑は、たしかに自然に出たものだった。
そんなワケアリな彼氏の笑顔を見て、彼女は冗談めかしてこう言った。
「また可愛くなりましたね、先輩」
多少なりとも成長したはずの僕も、これには頑なになるべきか素直になるべきか大いに迷った。