十三話→About Yuduki
「先輩、寝癖はありませんか?」
「なおしたよ」
「忘れ物はありませんか?」
「壮大な失くし物はあるんだけどね」
「制服は間違ってませんか?」
「……見逃してくれると嬉しいな」
「先輩の頼みごとですからね」
「ありがとう」
さ、行きましょう。
颯爽と歩き出す優月さんの隣を行く。優月さんは、見た目からも雰囲気からも飾り気は感じられないが、どこか爽やかな印象を受ける。今朝はやけに嬉しそうだ。顔は見るからに微笑んでいて、足取りは軽く見える。
「優月さん、朝からご機嫌だね」
「先輩と一緒に学校に行けるのが嬉しいものですから」
「でも、家は遠いんだよね?」
「先輩の家から学校を挟んだ先にあります」
平然と答えてはいるが、それはつまり、僕を迎えに来るためにわざわざ学校を一度通り過ぎてきてるってことだよね。
「朝のウォーキングだと思えば、なんてことはないです」
「優月さんが気にしないならいいけど」
「バスに乗ってきたので時間も掛かりませんから」
「そっか」
あれ、ウォーキングの流れは?
……まぁ、いっか。
「それより先輩は、昼食はコンビニでお弁当を買ってるんでしたっけ?」
「うん、まぁ」
弁当も稀だ。大抵はパン。
弁当を作ろうにも、自分は早起きは苦手だし、姉に負担をかけるわけにもいかない。とはいえ、帰宅部なのでさほど量は求めない。適当に目前にあるものを食べて腹八分満たされればそれでいい。
「それでしたら先輩」
思いついたように優月さんが顔を覗き込んでくる。自然と上目遣いになる彼女。僕は照れから思わず視線を逸らしそうになるが、長い前髪からちらりと見える彼女の澄んだ瞳は、むしろ惹きつけるなにかを持っていた。唯一、それに魅了された僕は、もはや彼女に敵わない。
次に優月さんの口から出た提案は、とても魅力的なものだった。
「私が、先輩のお弁当を作ってきましょうか?」
「え、それは嬉しいけど、……いいの?」
内心、話の流れから少し期待していた分、すぐに頼み込みそうになるが、申し訳なさもあって気兼ねしてしまう。受け渡しは学校ですればいいが、弁当を作ってもらうために、優月さんに早起きさせるのは申し訳ない。
後込みする僕に、優月さんは微笑みかける。
「大丈夫ですよ。私、もともと早起きなタイプですし、二人分のお弁当を作るくらいの余裕はありますから。それに、私が作りたいんです、大好きな先輩のお弁当を」
「……そっか。それなら、お願いしようかな」
せっかく後輩が言い寄ってくれているのだし、お言葉に甘えよう。そもそも恋人同士なのだから、迷惑など気にかけてしまっては、距離が詰まらないというものだ。恋人関係とは、持ちつ持たれつの凭れ合い。共に過ごす以上、相互依存できなければ、もし同居したところで小さい屋根の下に隔たりができてしまう。
なにより、優月さんが作る弁当は、とても美味しそうな気がする。イメージとしては、栄養バランスも彩りも考えられていて、もはや芸術として評価できそうな。
「あまり期待はしないでください。こう見えて、見本どおりに作るのが精一杯で」
「ううん、見本どおりに作れるのなら、それはそれで凄いと思うよ」
優月さんは謙遜はしているが、腕を振るっても見本には及ばない僕にとっては、真似ができる彼女はじゅうぶん尊敬に値する。行為がマニュアルの範囲内でも、それを完璧にこなすことができるのならそれは"上手"といっても過言ではないはずだ。個人的な意見な上、恋人なだけにフォロー意識もあるのだが、僕はそう思う。たとえそうでなくとも、彼女なら特技自慢に料理を挙げる日も遠くない気がする。
特技といえば、優月さんの特技は何だろう。
以前、誕生日でもないのに、手編みのマフラーをプレゼントしてくれたことがあったが、縫い目を目した限り裁縫は手馴れた様子だったので、手芸は得意なのだろう。彼女自身、手先の器用さを自負していることをほのめかしていることはある。運動はどうなのだろう。彼女は、服の上からでも分かるほどか細い身体だが、人は見た目によらない。それはともかく、もし頭が良いのなら、勉強を教えてもらおうか。これまた勝手な印象なのだが、優月さんは指導することに長けていそうだ。年下から教わるというのも、情けない話ではあるけど。
「……あっ」
「なに?」
ふと、優月さんは思い出したように声を出す。
「そういえば、先輩っていまは女の子なんですよね」
「……まぁ、そうだけど」
「だとしたら、量が多すぎちゃ食べ切れませんよね」
そうかもしれない。
もともとインドア派なのもあって食は細かったが、女になってさらに胃袋が小さくなった気はする。自覚をしたのは、昨日の夕飯時。僕はいつもに比べ、早いうちに手を合わせていた。自分がもはやこれ以上はと受け付けないお腹をさすっている横で、姉がおかずを美味しそうに頬張っていたのを覚えている。
「そうだね。だから、あんまり張り切らなくてもいいよ?」
「張り切りますよ。大好きな先輩のためですから」
「そっか、じゃあお願い」
「でも、せめて先輩の胃袋を直接計れたら、お弁当箱のサイズも決めやすいんですけど……」
「優月さんなら、頑張ったら見えるかもしれないね。レントゲンみたいに」
「そうでしょうか。頑張ってみますね」
「う、うん」
ボケたのはいいもののツッコミどころか真面目に返答されて困惑中でござるの巻。
「…………」
「……先輩」
「え、なに?」
「先輩がツッコミを入れてくれないと、私本当にレントゲンアイ手に入れるために頑張らなくちゃいけなくなるじゃないですか」
「れ、レントゲンアイって……」
「いくら私でもそんな人外じみた能力は持ってません。たまに見透かすように人の心を読めることはありますけど、それは相手が先輩のように単純なだけですし、なにより今のは先輩の冗談に乗っただったけじゃないですか」
地味にそしられた気がする。
「その、優月さんって、ジョークとか好きだったりするの?」
「大好きですよ」
意外だ。いや、そうでもないのだろうか。
優月さんのような人は生真面目そうだ、というのは僕の個人的な偏見であって、思いのほかユーモアに富んだ人が多いのかもしれない。中でも、融通の利くこの人と出会えた僕は、きっと恵まれている。と、思いたい。思っても間違ってはいないはずだけど。
「とくに心の許せる人と話していると、口をついて出てしまいますね。といっても、下ネタは提供するのに勇気が要りますから、ちゃんと自覚して、コントロールしてますよ? 下ネタで場を弁えなかったら、それこそ変態さんですから。もちろん、控えめなジョークやネタだって、日常の色々な会話の中に散りばめてますけど、どうしたことか殆どの場合が真に受けられちゃうんです。今日なんか、『一桁の内は、北の裸族の一員として生まれ育った』っていう話を、クラスの中でも一番頭の良い子に鵜呑みにされちゃいまして……。嘘だと教えるのには苦労しました」
「もしかして、それも嘘?」
「ご名答。先輩も鋭いですね。嘘だなんて教えてません」
「えっ、あ、そっち?」
「勿論、話自体が嘘です。ちょっと意地悪だったでしょうか?」
「すっごい意地悪。泣きたいくらい」
「すいません。手の上で綺麗に踊ってくれる先輩があまりにも可愛かったものですから」
ふふふ、と奥ゆかしく笑う優月さん。心理学の知識は無くても、いま彼女が心から楽しんでいることは明白だった。
これほどまでにジョークを語る彼女は、本当に洒落が好きなのだろう。真面目に語ればそれこそ真実と間違えられるほど信憑性の高いような性質の悪い嘘も、周りからはつまらないとあしらわれるような冗談も、時と人と場合を選ぶ下品なネタも、すべてが彼女にとっては面白い冗談。それがその人の人間性を示す真剣な材料としては捉えず、純粋に、ひとつの娯楽要素として楽しむ。
「どのような冗談にも、可愛げはあります。バラエティ番組の価値が分からない人は、それを見出すのが下手なのでしょうね」
あくまで、私個人の見解ですけど。
そう付け加える彼女は、決して冗談の通じない人が嫌いというわけではないようだった。自分は好きでも、それを不快に感じる人はいる。アニメが好き嫌いで分かれるように。それは致し方の無いこと。
だからこそ、エイプリルフールは私にとって盛り上がるんです。
人に嘘をつき、それを嘘としらしめたときの相手の表情は面白い。
また、エイプリルフールだと教えたときの間の抜けた顔も。
面白い。
とても面白い。
でも、程ほどに。
優月さんは、本当に楽しげだ。
「だからこそ、自分に嘘がつけたら、どんなに楽しいことだろうって思うんです」
「でも、それじゃ良い事ばかりじゃないような気も……」
「何事も加減です。馬鹿正直に生きれば悪用されますし、すべてを欺きつづければまるきし誰からも信じられなくなる。それこそ、自分からも」
いかなる場面や状況においても、必ず嘘は存在する。その中には、少し考えれば真実に行き着けるものや、本人以外がいかに勘繰ったところで分からないものもある。いわゆる化けの皮を被って生きる人は、それらの使い分けが達者なのだ。あえて薄っぺらい嘘を吐いて話を逸らしたり、不意に大層な嘘を吐いて混乱に陥る事態を眺めて娯楽を得たり。そして知らしめる──嘘は使い方次第。詐欺を見抜けぬような人間は半人前なのだと。
詐欺師が活躍するような映画は、もしかすれば人の本質を描いているのかもしれない。物を考える知能から派生して嘘を吐くことを覚えた人にとって、やはり嘘は必要不可欠なのだと。ただでさえ息苦しい現代で、偽り無しに生きる人はほぼいないに等しい。だからこそ、何があっても、どんな事があっても純粋を貫く人は、人に好かれ、稀有な存在となり得る。しかし、それも表面上なだけで、心の底は見え透いたものではないのかもしれない。
世にはびこる嘘は、しょっちゅう形を変える。事が起これば、そのつど事を凌ぐに都合の良い形に。ときには思いやりがあり、ときには悪意もある。この町に溢れている道徳とかいう洗脳宗教の代名詞のような思想に準ずるなら、善は、おそらく前者。それを見分ける術といったら、やはり最後に笑い話として語れるのかどうかだけ。
彼女は、その事を決して忘れたくないという。
「私だって、最後は笑いたいですからね」
優月さんは、遠くを見ているようだった。
僕は、隣で静かに頷いた。
どうやら頭は今朝からすこぶる好調のようで、優月さんの言う事がかろうじて理解できる。そして分かる。彼女は、馬鹿な僕よりはるか先にいると。
そんな優月さんが、何故、僕ごときを好きになったのか。
僕にとっては、それが甚だ疑問だった。
「優月さん」
「なんですか、先輩?」
「優月さんって、どうして僕のことを、その……好きになったの?」
僕がそう問うと、優月さんはとっさに顔を伏せた。
不味い事を訊いてしまったのかと思い、内心うろたえていると、優月さんは口を開く。
「……先輩、そういうことは、せめてもっと日が経ってから訊いてください。いま言うには恥ずかしいじゃないですか」
いま言うには恥ずかしい理由……。
何だろう。すごい気になる。気になるけど、ここで食い下がるのは僕のキャラではないし我慢しよう。
「ご、ごめん……、えっと、いつくらいが丁度良い?」
「三世紀後」
「えぇ!? い、いやあの、僕としてはもっと近いほうが……」
「三日後」
「早っ!?」
「妥協点です」
なら仕方ない。
というか、いま訊くのと三日後に訊くのは、さほど変わらないような。
「優しいから、好きになりました」
「けっきょく答えちゃうの!?」
僕の耳が正常なら、ほんの数秒前に『三日後に答える』と聞いたばかりなのだけれど……。
「三日後のつもりではあったんですけど、訊かれたからには、つい三時間後にでも喋っちゃいそうな気がして。とにかく私は、優しい先輩だから惚れたんです」
「優しいって言ったって……。僕はあんまり親切できてなかったけど」
例の出逢いは約一年前。
僕は二年で、彼女は入学したてだった。たった一度の親切で慕われて、挨拶はもちろん、誕生日やクリスマス、年賀状、バレンタイン──すべてに優月さんの笑顔が付きまとってきた。それを拒まなかったのは、満更でもなかったから。どうやって誕生日や住所を突き止めたのかなど程々の疑念はあったが、それ以上に、後輩の女子生徒に想いを寄せられることが嬉しかったのだ。
嬉しさゆえに僕のほうから調子に乗ったかと問われれば、そうでもない。基本的には受け身の姿勢で、何をされても受け入れた。かといって、自分からは何もしなかったというわけでもなく、たまに彼女と遭遇すれば会話を持ちかけたり相談に乗ったりなどすることがあったくらい。
しかし果たして、彼女にとっての『優しい』とはその程度の事だったのか?
優しいとは、基本の人付き合い以上の施しをしてあげることではないのか?
僕はあきらかに、道徳の基本しか実行できていない。
優月さんは、それでよかったのだろうか。
「……先輩、野暮ですよ」
不機嫌にも聞こえる台詞と声色につられて優月さんの方を見ると、彼女がふくれっ面でこっちを睨んでいた。
「私が言ってるのはどれだけ優しいかじゃないんです。これはヒントです。分かりますか?」
「……えっと」
「優しいか優しくないか。二つ目です。まだ分かりませんか?」
「……つまり、優しくしてもらえたか、してもらえなかったか?」
「そうです。他にも理由はありますけど、一番はそれです」
「でも、それくらいで……」
「なら一つ訊きます。あの時、先輩以外に手を貸してくれた人はいましたか?」
「あっ……」
あの時といえば、僕が、廊下でプリントを落とした彼女を見かけたとき。
いなかった。僕以外に、プリントを拾う彼女を手伝った人は。
「急いでいたり両手が塞がっていたり、理由があって無視するしかなかったとか、友達との会話に夢中で気づかなかったなんて人もいると思います。でも、気づいているのに、手が空いているのに手伝ってくれなかった人もいたはずです」
でも、うちは道徳心溢れる校風で通ってるはずじゃ……。
「たしかに、うちの学校はそこに関してほかより力を入れています。でも、それは学校側が躍起になっているだけかもしれないんです」
『男女隔たりなく、仲良くしましょう』。
『問題は、話し合いで解決しましょう』。
『少しでも困っている人を見かければ助けましょう』。
世に耳が腐るほどありふれた言葉達。
あるいは、腐ったからこそ、言葉と行動が伴わない人間が多いのか。
悪の表面に膜同然に覆いかぶさるだけで、あまりの説得力の薄さゆえに生まれる歪から絶えずにじみ出る悪を、それによる被害が起きてからようやく感づき、排除しようと試みる。試みるだけもあれば、試みることすらしないこともある。それが、俗にいう正義。
口達者な小心者がわざわざ酸素を使ってそんな筋の通らない正論を述べた末に生まれた人道的な行為および思考が、道徳なんだとか。じゃあ他の生物はどうなんだ。怠惰を生み出す知能など欲しがらず、種を残すためにあくせく働いていればそれで道徳なのではないか。なら人間もそうしたほうが、よっぽど合理的というものだろう。
とりあえず、僕と優月さんが通う学校は、人のいう道徳を一日におびただしい回数唱えている。
「そのような校風なのは確かですから、他校と比べて道徳が目に見える学校ではあります。それこそいじめは無いし、喧嘩も可愛い程度。協調性にも富んでいます。でも、よほど人に尽くすことが好きでないと、自ずから困っている人を探そうとは思えませんよね。たまたま見かけても、いざ手助けするのには相応の勇気が要るものですから」
確かに。
おまけに、それが異性に対する行動であれば、下心を見透かされまいかと余計に逡巡してしまうこともある。男性が女性を助ける場合なら、とくに。
「なのに、何の迷いも無くプリントを拾ってくれた先輩は、私にとっては優しい人なんです。誰がなんていったって、それは揺るぎません」
「…………」
「それとも先輩は、自分が本当は冷たい人間だって言うんですか?」
優月さんが、上目遣いでそう問うてくる。
その瞳は、まさしくたった一つの回答しか求めていなかった。
不安そうに眉根をひそめておいて、心の底には自信が満ち溢れているのが見て取れる。自分に見る目はあると、信じているのか。その揺るぎない芯は、やはり僕にはもったいない。僕はいったい、どうすればいいのだろう。
「……そうやって訊かれたら、そうですなんて言えないでしょ」
兎にも角にも。
彼女はずるいのだ。
「ですよね。先輩は優しいですから」
でも、その勝ち誇ったような笑みは、とても可愛らしかった。
「朝はもうお別れですね」
気がつけば、校門は目前だった。
まだ優月さんと話していたいのに、川のような生徒の流れに逆らえない。
僕は女になって、心も弱くなってしまったのか。
そんな中、雑踏の中でも良く通る声でこう提案してきた優月さんが、僕の寂しがりぶりを察していたのかは定かではない。
「先輩、お昼、一緒に食べましょう」
「えっ」
「実をいうと、今日は少し作りすぎちゃったんです」
「…………」
「新立先輩!」
優月さんが、芯の通った声で僕を呼ぶ。そのたびに、僕の心は彼女の色に染められていくようだった。
情けないとは思う。そんな彼女に、心底、縋ろうとしてしまっている僕は。
でも。
いいんだ。そう思う。
彼女なら、弱さを見せても。
彼女なら、きっと受け止めてくれる。
ちょっと、からかわれちゃうかもしれないけど。
抗ったって女なんだ。
どうせ。
それなら、いっそ甘えたって。
「うん!」
僕も、彼女にはっきり聞こえるように、大きな声で返事をした。