84:幻想の主
空を見上げたときに感じた人影は、今もなお尖塔の頂にバランスよく直立していた。
その視線だけがセラの視線とぶつかっている。
セラはアスロンより先に彼のことを感じ取っていた。というより、たまたま空に目を向けたときに発見したという方が正しい。人が尖塔の上に立っているのがぼんやりと感じられて、感覚を研ぎ澄ました。すると、そこに立つ老人をはっきりと捉えることができ、その副産としてアスロンの存在に気付いたのだ。
そのことを考えると、セラが普通にしていたら、アスロンの姿を消す技術は上に立つ男や霊体化したヒュエリの姿を捉えることより難しいことだったと言えるだろう。
「汝、今何時?」
「へ?」
「うぇっ!? 声!?」
唐突に老人が口を開いた。その声は姿が見えていないズィーにも聞こえたようだった。
「なんつって」男は呟いて、マグリア一高い位置から蓄えたもじゃもじゃの髭と長髪を揺らしながら、ゆったりと飛び降りた。「冗談だ」
「えっと……ずっとそこに? ファントムを倒さなくても?」
「降りてきたのか?」セラの視線が下に動いたのを見て、ズィーが訊く。
「ほう。男の方には見えてないのだな。ほれっ」
「うぉっ……うわっと、と……危ね……」
ズィーは突然目の前に姿を現した老人に後退り、塔から落ちそうになる。だが、彼も生半可な鍛え方はしていない。筋力で難なく立ち直った。
「詰まらん反応だ。……娘。我が街に沸いたあの白いのを処分しないのかと訊いたな」
ズィーを鼻で笑った後、セラに向き直って問い返してきた老人に彼女は「ええ」と応える。
「あれを処分するのなら、汝らも処分することになる。どちらも我が世界に突然沸いた異物なのだからな」
「我が世界? もしかして、あなたはこの世界……本を書いた幻想師?」
「いかにもたこにも足がある。……冗談だ」
「あぁ……じいさん大丈夫か?」
「黙れ、小僧っ!」老人はズィーに対してやけに強く声を荒らげる。「男に興味などないわっ! 落ちればよかったものを!」
「うわ……酷いな」
ズィーは肩を竦めて二人から少し離れて、縁に腰掛けた。これから先の会話に入って来ないという意思表示だろう。
「娘よ」ズィーのその姿を見て、老人は満足そうに表情を緩めてセラに話しかける。「ジェルマド・カフである。安心せい、汝らを処分することはない。害成すものではないようでな。男は処分してもよいが」
「あ、はは……。それで、ジェルマドさんはここで何を?」
「見ておるのだ。ただ、見ておるのだ。何分退屈でな」ジェルマド・カフは空を見上げる。「長い間、この世界に手を加えることはおろか、干渉することすらできる者がおらんかった。『副次的世界の想像と創造』は制作途中から当時のお偉方たちに邪魔をされた。密かに制作を続け、完成したところでわしは危険物を産み出した罪で処刑された。しかし、邪魔をしていたお偉方たちは直ちにこの本を封印することはなかった。あれだけ圧を掛けてきたというのに、完成したとみるとその力を自らのために使おうとしたのだ。だが、奴らには使いこなせなかった。使いこなせるわけがなかったのだ、奴らのような愚か者どもにはな。次から次へと書の中に吸収される始末。この本の力で精神と記憶のみここへ逃れていたわしは、奴らをここから逃さなかった。今もなお、永遠に死ねぬ苦しみを味わっておることだろう。そしてついに、次から次へとこの魔導書を使おうとするものが姿を消すものだから、奴らのうちの一人が魔導書館にこれを封じた。それからおよそ百年、ついこの間のことだ、汝より少しばかり年増の娘がこの書を開き、読み解き、手を加えおったではないか。これほど楽しいことがあるか? ないさ。あの稀有な娘がすることを、わしは見届ける。それだけで、楽しいのだよ。娘よ。ほれ、何かしらの催しなのだろう? 行くがよい。汝もまた、わしを楽しませるやもしれん。いつしか、あの娘と共にわしを訪ねてくるがいい。三人で楽しもうではないか。のほほほっ。もちろん、男は抜きでなっ!!」
「どんだけ男嫌いだよ……」ズィーがぼそりと零す。
「うるさいっ! 黙れ小僧が!」
「あ、はは」セラは苦笑いを浮かべながらもジェルマドに手を差し伸べた。彼が握手に応じる。「ヒュエリさんにもあなたのこと伝えておきます」
「待っておる」
それだけ言うとこのジェルマド・カフ老人、セラにも感知できないほどにその存在を消し去った。
「いなくなったか? まったく、変なじいさんだったな」ジェルマドの姿が見えなくなるとズィーは立ち上がり体を伸ばした。「ま、ちょうどいい休憩になったかな」
「あれ、疲れてたの? 英雄様は」
「疲れてねぇよ、これくらいじゃ。行くぞ! まだまだ稼ぐ!」
紅い光と共に消えるズィー。セラもすかさず彼を追った。
ズィーを追って跳んだセラだったが、彼が自分よりマグリアに詳しくないことをすっかり忘れていた。
彼が跳んだ先は、二人が出くわした薄暗い路地だったのだ。
二人でほとんどのファントムを倒し尽したうえに、湧いて出てくる量も少ない。自分のナパードで噴水広場辺りにでも一緒に跳べばよかったと思うセラだったが、あまりにもやる気に満ち溢れたズィプに何を話しても無駄だろうと、一緒になって路地からファントム討伐を再開させた。
なにより、ズィプガルの楽しそうな様子を見れること。それが彼女にとって大事なことの一つだったから。
こうして、時折爆発音と震動が起こる中、時は過ぎてゆき、第十八回魔導・闘技トーナメント大会予選は終わりの時を迎える。