474:夢か、未来か
エメラルド色。
ただ、エメラルド色。
在って無い。
空間はない。
時間はない。
感情はない。
情景はない。
境界はない。
際限はない。
言葉はない。
なにもない。
在るもない。
無いもない。
ここでない。
そこでない。
あそこでない。
どこでもない。
いつでもない。
誰でもない。
なにでもない。
なぜもない。
どうもこうもない。
ない。
エメラルドで、エメラルドでない。
ない。
い。
。
なにかが、なにかを……。
…………。
感じた。
音。
「 」
音。
だけでは、ない。
…………。
匂い。
温もり。
……。
音、匂い、温もり……。
……じゃない。
音……じゃない。
「セラっ!」
声だ。
誰かの、声だと、なにかは気付いた。
それから。
…………。
わたし……。
なにかじゃない、わたし。
声……呼び声…………呼ぶ声……。
セラを呼ぶ声。
セラは、誰……?
わたし。
セラは、誰……?
わたし。
セラは、わたし……。
セラはわたし。
わたしが、セラ。
誰?
セラを呼ぶのは……。
わたしを呼ぶのは……。
まろやかで、温かい………。
セラを呼ぶ、誰か。
誰……?
…………。
わたし。
セラ。
……じゃない、誰か。
……あなた。
あなた。
わたしじゃない、あなた。
セラじゃない、あなた。
…………。
あなたは……。
あなたは――――。
――――ネル!
ぱちりと開いた瞳は天を仰いでいた。
その瞳は空よりも美しい、青だ。
鼻孔はまろやかな匂いに満たされていて、身体は人の温もりに包まれている。ぼーっと空を見上げながら、彼女はそれだけを思っていた。
不意に激痛を感じ、急激に、現実に引き戻される。
「ネルっ……!?」
ハンサンの細剣によって、没頭の護り石を囲う軟弱のガラスが砕けたところまでは覚えていた。それからどうなって現状に至っているのか、そんなことを考えている暇はなかった。
膝を着いたセラに、ネルが抱き付いていた。そんな二人をネルの背後からハンサンが細剣で貫いていた。
細剣は二人の姫の腹部を見事に串刺しにしていた。
「セラ、よかった……」
ネルが安堵に優しく笑みながら、弱々しく片腕を上げて見せた。その手から垂れるのは、セラの首にかかっていたはずの真っ青な石のペンダント。それが意味していることはセラには充分理解できていた。なにも言わず、小さく数度頷く。
その時。
「んぶっ……!」
ネルはセラの胸元に血を吐いた。彼女のサファイアが虚ろになってゆく。光を失いはじめていた。
「ネル! 駄目っ!」
セラは今までだらりと垂れていた腕を友の背に回した。強く、柔らかく抱きしめる。そして自身も傷を抉られる痛みに耐えながら、ネルの後ろで細剣をねじる男を睨む。
「さすがはお嬢様です。セラさんの意識を戻すとは。ですが愚の骨頂ですね。二人まとめて始末されてしまうだけだというのに。こうやってっ!」
「う゛ぅっ……ぁあ…………」
セラはネルと共に細剣から逃れようと、身体に力を入れて身を退きはじめる。ネルはもう、痛みに悲鳴も唸り声も上げない。
「おやおや、お得意の渡界術はどうしたのですか?」
ハンサンの言葉に耳を傾ける余裕はない。セラはひたすらに、後ろを目指す。だが、ハンサンが押しながら捻っている細剣に、セラの背は一向に切っ先に届かない。
このまま敵に剣を握らせていては駄目だと、今更になって考え至る。セラはハンサンに向けて衝撃波を放つ。
「おやっ?」
セラの思い通りに、ハンサンは細剣から手を離して二人から離れた。この機を逃すまいと、彼女はネルの背に回した手で細剣を抜きにかかる。
ズブブと体内を刃が動いてゆく。血で滑る刀身を、しっかりと握り、抜いてゆく。
「っんぁ……」
セラの中から刃は抜けた。あとはネルだ。体を離すことができれば無理な体勢でなくてもいい。ネルを優しく横に倒し、その背中から細剣を抜いた。
辺りは二人の血で汚れたいた。
「セ、ラ……」
弱っていく呼吸の中で、ネルは笑みを湛えて友の名を呼んだ。
セラはぐっと涙を堪えた。「なに、ネル?」
最期なんだと、そう悟ってしまえた自分が虚しくなった。一度、目の前で経験した友の死が重なる。白き鎧を纏った友人。
「お母、様のそばに……行きたいわ」
虚ろな瞳が墓石を捉えようと躍起になっていた。セラは頷いて、そっと彼女を立たせ、肩を組むと彼女の母の眠る場所を目指す。
ハンサンが動かないことが気掛かりではあったが、もう長くない元主への最後の忠誠心だとセラは思うことにした。どうか、もう何もしないで見守っていてとも。
そうしてセラの願いが通じたのかいないのか、ハンサンは何もしてこなかった。不幸中の幸いだと思いながら彼に視線を向けつつ、セラはネルを墓石に寄りかからせた。
「ありがと、うセラ……」
彼女は嬉しそうに笑った。その表情に耐えきれず、セラはついに涙を流す。
そうしてこつんと、友の額に自分の額を当てる。「ネル……」
「セラ……」ネルは応えるように名を呼び返し、涙を流した。
それから二人は幾度となく、互いの名前を呼び合った。
徐々に弱くなっていく「セラ」と呼ぶ声が、「ネル」と呼ぶ声を咽ばせる。
そしてついに――。
セラの名を呼ぶ声が、途絶えた。
ネルの名を呼ぶ声が次いで消えて、そして涙にぬれた叫びとなった。
――という、夢を見た。気がした。
――時が、戻った。そう思った。
セラはネルに抱擁され、天を仰いでいた。
腹部が異物感を覚えているのは、ハンサンの細剣が刺さっているからだろう。見ずとも分かった。
いや、一度見ている。
夢か、未来か……。
そんなことはセラにはどうでもよかった。
あの光景は訪れないと、知っているからだ。
あんなことにはさせないという強い想いがあるのではない。ただ、ああはならないと知っている自分がセラの中にはいたのだ。
無言で、セラは花を散らした。ネルと共に、シュリアの墓石の前へ。
「セラ!……セラ?」
ネルが彼女に安堵の表情を向けてきた。しかし、彼女の顔を見たネルはどこか異様な雰囲気を感じ取ったらしく、心配そうに眉を顰めた。
セラは一度頷くと、無言のまま、傷を負ったネルを墓石に寄りかからせた。
そして自らの視界から手の平でネルを隠した。そのまま手を動かし、再びセラの視界に入ったネルは驚きの表情でセラと自らの身体を交互に見た。
怪我がなくなっていた。血に汚れたドレスも、きれいな黄色を取り戻していた。
「待ってて」
ぽつりとそれだけ言うと、セラはネルの手に握られた没頭の護り石を一瞥してからハンサンの方を向いた。
「なにが、起きたというのですかっ……!?」
こちらも驚愕の表情。だがセラは敵よりも、自身が置いてきた愛剣に視線を落とした。
――オーウィン。
セラが心でそう呼ぶと、フクロウがナパードが如く花を散らし、主の手に納まった。
これは一体なんだろう。驚きはしない。しかしセラはどこか他人事に思えてならなかった。自分のことなのだが、自分ではないような。自分の皮を被った他人を、俯瞰しているような不思議な気分だった。
ただ、呼べばオーウィンは応えてくれると。この手にその柄を掴めると、知っていた。できると、知っていた。
ネルにしたことも、知っていた。どうしてそうしているのか、自身でも一瞬不思議に思ったが、ああ、とすぐに納得していた。
右手に握ったオーウィンから意識を逸らし、左手で自身の腹部に空いた穴を覆った。すぐに塞がった。治ったのか、戻ったのかは定かではない。ただ、傷はなくなった。
傷を塞いだ左手を静かに見つめる。これまでに極集中の状態に入ったときと同じようにヴェールは纏っているが、極集中ではない。
神の力か。これが。
冷静に、平坦にセラがそう思っているとハンサンも同じ答えに行き着いたようで、たじろぎを見せる。
「まさか、神の力っ……!」
セラは左手からハンサンに視線を向ける。
それから無言のまま、剣も構えず携えたまま、じっと立ったままハンサンを睨むでもなく見据えているだけの時間が静かに過ぎていった。




