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碧き舞い花  作者: ユフォン・ホイコントロ  訳者:御島いる
第三章 ゼィグラーシス

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463:朝食の席にて

「それにしても、わたしったらどうしてお母様との約束を忘れてしまっていたのでしょう……」

 遅くなった朝食の席で、ネルは白身魚の香味焼を喉に通すと首を傾げた。それに対してセラは口をつけていた逆鱗茶のカップを零さないように受け皿に戻した。そして口を空にすると、驚きの声を少し遅れてあげる。

「あれだけ鮮明に話してたのに、昨日まで忘れてたの?」

「ええ。あの月夜の約束だけすっぽりと抜け落ちてしまっていたかように。それを、昨日お母様を強く想ったことで、偶然拾った感覚よ」ネルは言いながら肩を落とした。「他の思い出はしっかりと覚えているのに……」

「ネルお嬢様も歳を重ねた証拠ではないですか?」テーブルの傍らで給仕のために待機していたハンサンが小さく笑いながら言った。「物忘れや度忘れは誰しもありますよ」

 ネルは頬を膨らませる。「失礼ねっ! わたしの記憶力は宝よ! 資料だって全部覚えているんですからっ」

 今の話を聞いて、セラは心内で魔導書館司書ヒュエリを思い浮かべた。評議会初参加の日にフェリ・グラデムの番狂わせの記載がある書物の場所を口にした彼女の記憶力を。

「それに再生の水の研究に助言を貰ったことはちゃんと覚えていますもの。変ですわ」

「でも研究は続けてるし、世界や異空のことはわからないけど自分のことは好きでしょ、ネル? 単純に友達のところだけ忘れてたんじゃないの?」

「いいえ。確かに研究は楽しいので続けていますし、保全活動をするくらいに世界や異空は好きですわ。もちろん、自分のことも。そしてお母様のことも大好きです。あと、元気でもいます。けど、その約束をしたことは昨日まで、忘れて……いいえ、知らなかった。これが一番しっくりと来る表現ですわ」

「知らなかった……。思い出として体験してることなのに、知らなかった、なの?」

「おかしな言い回しだな」セラとネルが来る前に一人食事を済ませていたヅォイァが、壁際にある椅子に座ったまま誰に聞かせるでもなく感想を呟いた。「まるで記憶を抜き取られでもしたようだ」

「記憶を抜き取る、か」セラは従者の呟きに頷きつつも、反論を口にする。「でもネルの、それもお母さんとの約束の記憶だけを抜き取って意味があるのかな? ハンサンさん」

 セラはハンサンに目を向けて呼びかけた。ハンサンは突然呼ばれたことに少しばかり驚いたようで、給仕に使う台車を揺らしながらも柔和な笑みで返事をした。「はい?」

「もしもハンサンさんがネルの記憶を操れる力があったとしたら、そんな中途半端なことしないですよね? どうせ抜き取れるなら、ネルが辛いと思う部分は全部抜き取る。わたしが同じ立場ならそうすると思うんですけど、どうですか?」

「……ええ、そうですね。確かにそんな道具があるのならば、お嬢様に辛い思いをさせないよう、女王様とのお別れの理由に支障がないように配慮しながら、嫌な記憶だけ抜き取るでしょう」

「やっぱりそうですよね……」

 わずかに視線を落とし考え込むセラにネルが訝しむ。「なにかあるの、セラ」

「……これは一つの考えなんだけどさ。お母さんとの別れがあまりにも辛い出来事だったから、記憶を消したんじゃないかなって。自分で、無意識に」

「一理ありますが、そうそう起きることではないでしょう?」

「そうだよね……わたしもそうだし…………」

 セラは炎と崩壊を思う。あの日のことはできることならなかったことにしたい。しかしむしろ鮮明に覚えてて、彼女の根底にあって、時に悪夢になり、時に力を与えてくれるものとなっている。

「それよりもわたしはヅォイァおじさまの、記憶を抜き取られるという考えの方が当てはまるような気がします。というのも、昨日思い出した出来事がなくても、わたしの記憶は支離滅裂なく繋がっていたんです。違和感なく。あの日はお母様に助言を貰い、研究に戻った。その研究の時間が約束の時間に覆い被さったみたいな……そう、まるで空間圧縮したように! 約束の記憶が潰されて、空いた隙間を研究の記憶が埋めた。空間が時の濃度を戻すように。……そう、そうですわ、これはもしかして新しい発見――」

「お嬢様!」

 興奮しはじめたネルを、その背後に立ってハンサンが声で制した。

「せっかくの朝食が冷えてしまいます。今はお食事を。セラ様も」

「ええ」

「はい」

 まだ温さを残す朝食を、二人の姫は美味しくいただいたのだった。

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