32:ひとときのお別れ
「次はどこに行くんだい?」
「トゥウィントにも行きたいけど、ひとまずはビュソノータスって世界に行くことにする」
魔導書館司書室。
オーウィンを背負い全ての荷物を持ったセラは、ユフォンと実体ヒュエリと向かい合っている。テイヤス・ローズンは司書補佐官の仕事だ。
セラとユフォンが酒場で甘い時間を過ごしてから数日。セラのマカ修行は終わっていた。炎以外にも性質を変えられるようにもなり、最初の頃に比べたら自在にマカを操れるようになっていた。なってはいたが、やはり異世界人の彼女にとってマカは補助的なものだ。戦いになれば剣術をメインに使うことになるだろう。実際、彼女のマカはナパードを使った剣術には及ばない。
「ビュソノータス? ナパス語で『三つの蒼』って意味ですね。思い当たる世界を知りません。ごめんなさい、お役に立てず……」
「いえ。マカを教えてもらったんですから、十分ですよ」
「そうですか……?」ヒュエリは眉尻を思いっきり下げて、眉頭を寄せ上げる。「寂しくなりましゅ……」
ついには涙を浮かべるヒュエリ。
「そんな、泣かないで。トーナメントの時期には一度戻ってきますから」
「はい……うぅ……」
「ヒュエリさん、寂しくなるって僕もいるんですけどね?」
「はい、すびばせん……」ハンカチで目元を押さえるヒュエリ。「ぞおでした」
「頑張ってね、ユフォン」
「もちろん。セラも気を付けて」
「うん」セラは二人から少し離れる。「じゃあ、行くね」
「うん。また」
「まだ、あ゛いまじょう……!」
あまりにも泣きじゃくるマカの師匠にセラは最後に苦笑ぎみに微笑んで、碧き光を放って跳んだ。
「寒い……」
白い息と共に呟かれるセラの言葉。
しかし、実際、彼女がナパードで現れた場所は寒いなどと軽く言えるほどの寒さではない。極寒だ。変態術を会得している彼女だからこそ「寒い」で済まされているのだ。
そこは青みを帯びた白い大地。決して凍っているわけでもなく、厚い雲に覆われて吹雪いているというわけでもない。むしろ真っ青な空には白い雲が太陽の光を受けて輝いているし、大地の果てには青々とした海が穏やかに白波を泳がせている。ビュソノータスはまさに三つの蒼、蒼天、蒼海、蒼土が支配する世界だった。
「奴らの情報を集めないと」セラは辺りを見回す。どうやらセラがいる場所は島の様だった。海に目を向けると遠くにも蒼白な島がいくつか見える。島の内側に目を向ければ蒼い山が一つ中央にあるだけの殺風景しか見えない。人が暮らしている島には思えなかった。「他の島に跳んだほ方がいいみたい……」
と、セラが再び海の方に目を向けると、大砲をたくさん積んだ大型の帆船が岸に着けているのを発見した。岸に着いた船は帆を畳み、そこからは毛皮でできた防具を身にまとった屈強な男たちが静かに大挙して降りてきた。一人の男が声を発せず、身振り手振りで仲間たちに山の方を示す。
何やらただ事ではなさそうだったが、山と彼らに挟まれる場所にいたセラは彼らが自分のところに来るのを待った。少しくらい話せるだろうと考えたのだ。近付いてくる彼らの姿かたちはセラと少しばかり違っていた。体や顔のつくりこそ人間だが、頭の側面ではなく上部に動物のような耳がついていて、臀部にはフサフサな尻尾が生えていた。
「なっ? なんでこっち側に人が……?」
「作戦がばれたんじゃ……」
「馬鹿言え、日時を指定したのは協力者だぞ!」
「その協力者が、裏切ったんじゃ……」
「なんだとぉ!?」
セラのところまできた男たちは口々に、囁き声で騒ぎ出した。そんな彼らに、セラは申し訳なさそうに訊く。「あの、ちょっと聞きたいことがあるんだけど?」
「どっちにしろ、女一人だ」
「やっちまおう」
「作戦に支障はねえだろよ」
男たちはセラの言葉を全く耳に入れず、内々で話した後、腰に帯びた反った刃を持つ剣や小筒に引き金の付いた武器を各々手にした。男たちが明らかに戦闘態勢に入ったことで、セラも表情を絞める。その手をオーウィンに伸ばしてフクロウの意匠が施された刀身をあらわにする。
「戦わなきゃ、駄目みたいね」
「お、やる気だぜこの嬢ちゃん!」
「へへっ、やっちまおう、やっちまおう!」
男たちの大半がセラに飛び掛かってくる。セラは闘技の術を持ってして、躱して、受けて、蹴って、弾いて、なるべく男たちを傷つけないようにいなしていった。それにはホワッグマーラでの出来事が起因しているわけだが、本来、彼女にとって彼らは戦う必要のない相手だ。だからこそ余計に傷つけることはおろか、命を奪うことなど出来なかったのだ。
だが、相手の男たちは違う。彼らはセラフィのことを敵だと思っているのだ。そこに手抜きは存在しない。が、セラに飛び掛かっていく男たちのほとんどが簡単にいなされていた。大雑把に振るわれる男たちの剣ではしっかりと剣術を学んだ彼女にその刃を届かせることは出来なかったのだ。そう、剣術ではね。
セラの耳に瞬発的な大きな音が届いた。届いたかと思うと、セラは自らの脇腹に刃で裂かれるのとは全く違った衝撃を受けた。音のした方を見る彼女の顔は痛みに歪み、その視線の先には小筒の先から細く煙を上げる武器を持つ男の姿。セラは見たこともない武器の存在に何が起きたかが分からなかった。警戒していなかったわけではなかった。剣を持って飛び掛かってくる男たちの後方で何もしてこない男が何人かいたことは視界の端に捉えて外さなかった。
セラが見つめる小筒の武器を持った男が筒の横から金属でできた球を武器に入れている。そして、球を入れ終わると筒の先をセラに向けて引き金に手を掛けた。恐らくあの球が飛んでくる、弓矢のような遠隔武器に違いないと判断したセラはとにかくその射線から外れようと青白い地面を転がった。
「っく……」ふくらはぎに痛みが走った。筒から放たれた球体は矢なんて比べ物にならない程早く飛んだのだ。セラの目にはその球が飛んでくる姿さえ見えなかった。
脇腹とふくらはぎの痛みで地面に伏したセラに剣を持った男たちが飛び掛かる。セラは衝撃波のマカを加減して使い、男たちを退けるとナパードでその場所から離れたのだった。
碧い光と共に消えた少女を男たちは血眼になって探し、辺りにいないと見るや、みんなして頓狂な顔を見合わせた。そして、各々首を傾げながらも山の方を目指し始めた。
青白い山腹に跳んだセラは山肌に寄りかかった。脇腹を押さえた手は血で濡れ、ブーツには二つ穴が空いている。痛みに邪魔されながら彼女は感覚を研ぎ澄ました。そして、感じ取った音を頼りに彼女は再び跳んだ。
彼女が飛んだ先には山を静かに下るせせらぎがあった。せせらぎのすぐ傍にある形のいい岩に寄りかかり、両手からグローブを外すと荷物のうち薬などが入ったカバンからきれいな布を取り出して水につける。そして、水を絞ると服を捲り上げて口で挟み、血で汚れた白い肌を拭いていく。
「……っ!」
次いで傷薬を取り出し、しみるのを我慢しながら傷口に塗り込んだ。息を少しばかり荒くしながら今度は包帯を取り出してきつく、体に巻き付けた。真っ白な包帯は巻いた直後から赤く染まるが、今現在セラにできる処置はこれで全部だった。もちろん、その後はブーツとソックスを脱いで脇腹に対して行った処置と同じことをした。
しばらくすると、脇腹もふくらはぎも薬に含まれている痛み止めの薬効により痛みは和らいだ。痛みは和らいだが傷が塞がっているわけではない。変態術は渇きや寒冷などの自然現象や毒など体外からもたらされる脅威に対してはその力を発揮するが、傷の治りを早くする技術ではないのだ。
ビュソノータスの寒さに耐えられる彼女だったが、大量の出血からか悪寒を感じ始め、岩に寄りかかっているにも関わらず視界が揺れ始める。そして。
ついには彼女の視界は闇に閉ざされた。