257:睡魔
壁を破られた事には驚いたが、やはり苦痛の声は上げない液状人間。やはり痛みは本体には通じていない。
「本物はどうかは知らないけど、盾に自信を持ち過ぎるのはよくない」
「せっかくのチャンス、敵を手早く殺さないのもどうかと思うが?」
「周りの水で襲ってくる? やめときなよ。どこからだろうと分かってるから」
「本当にそうか?」
ハッタリだとセラは思った。周囲に向けている超感覚では水の動きはおろか、誰かが近付いてくる様子も感じられない。
「お前がこの世界の人間を殺さないことは俺にとって……幸運だ」
「っ!」
セラは辺りに魔素の動きを感じ、ナパードでその場を離れようとした。だが、跳べなかった。咄嗟に足首を掴まれたと思ったら、内臓が浮くような不快感に襲われたのだ。
そして、周囲の魔素は球状の障壁のマカとなった。
卑しく笑みを浮かべるノルウェイン。
「乗っ取った奴の中に『幻想の狩り場』の呪いが掛けられたロープを持っていた奴がいてな。これを巻かれれば跳べないんだろ? 渡界人」
そう言ってセラの足首を目で示した。彼女が従って目を向けると、そこにはどこから出てきたのか、黒いロープが巻かれていた。
「人だけじゃねえんだよ、水を通して移動できるのは」
「そんな素振り……」
「牢を作った瞬間に決まってるだろ? お前が周りに気を取られたその一瞬と逃げようとするその一瞬のごくわずかな隙間だ。それに、これくらいのものなら手の平にある水で充分なんだよ!」
高々と勝ち誇った笑い声を上げる液状人間。あまり知らないとはいえ、セラの知る限りのノルウェインではしないだろうと思われるほど大口を開けている。
「んはははははっーんぅぅうん、さっきみたいには逃げられねえだろ? ゆっくり、貰ってやるよ、『碧き舞い花』の身体! 力! 名誉! 全てだ! お前と『紅蓮騎士』を足掛かりに、まずは評議会、そしてっ!……俺は異空を手に入れる」
馬乗りをされているとは到底思えない。
「お前らがこの世界に来たこと……ほんと、幸運だぜ。異空は俺に支配されたがっているとしか思えないなっ、うぅぅううふふふぅああははははははははっ!」
恍惚ともいえる表情で笑う姿は彼女の脳裏に異空の悪魔を思い起こさせる。エァンダの顔で悦に浸っていた悪魔。それが目の前の顔に重なる。
哄笑の音は彼女を苛立たせ、ついに、セラはオーウィンから手を離しノルウェインの顔面を強打した。彼本人には申し訳ないと思いながらも、どうしても抑えきれなかった。
「やるならやれっ」
「っぷ」口の中が切れたようで、ノルウィンは口から血を吐き捨てた。「なんだ? また何か企んでいるのか? 俺に入られても、また何か飲めば大丈夫だと思っているんだろ。そんなことさせると思うかよ」
言われながら、セラは薬カバンに手を入れる。
「ほらそれだっ! させねえっつってんだよ!」
セラの手が地面から飛び出た水によって弾かれ、その勢いで薬カバンの中身が散乱する。小瓶がいくらか割れたようで、その破片が彼女の指に傷をつけた。ジュサから譲り受けた指輪がはめられた親指の側面だ。
「ぃっ」
セラは傷口に口を当て、血を吸う。
「もう変な動きするなよ? 今度は腕一本くらい吹っ飛ばしてやるからな」
傷口を吸いながら、キッと液状人間を睨む。かと思ったらふっと力を抜いた。
「おん?」
「もういい。好きにすればいい」
セラは障壁のマカ越しに空を見上げた。曇天ではあったが、いくらか光の筋が見え始めていた。じき、空気も乾燥してくるのだろうか。そんな疑問を浮かべつつ、目を閉じた。
「諦めたか。いい心意気だ。最初から逆らう必要なんてなかったんだよ」
声の後、じわじわと壁の中を水が上がってくる。ノルウェインから浸み出ているようだ。
戦闘で上がった体温が急激に下がっていき、浸み入られる不快感。寄生生物の黒い液体とは反対だ。あれは一つの快楽ではあった。
そして、眠気。
抗っていないからか、急激に睡魔に襲われた。
ここだ。
セラは眠りに落ちるその寸前、まだわずかに動く舌と歯を動かし、弱々しく咀嚼する。
カリッ、カリッ、カリッ……――。
クッキーのような食感。
その咀嚼音が眠気を押しやっていくかのように……。
白く麗し喉元が音を立てて、それを飲み込んだ。
途端。
心臓は激しく踊り、体が中心に集まろうとかでもするかのように縮こまった。
「くっそ! いつの間にぃ……!」
液状人間の声が彼女の耳に届いたかと思うと、障壁のマカがペリンッと音を立て割れた。
未だ鼓動は激しいが、体の収縮が収まり始めるとセラは目を開ける。辺りを見回すと下のノルウェインは気絶していて、大きな水の塊が暴れ狂いセラから離れて行っていた。あれが障壁を壊したのだろう。
などと冷静な判断こそできたものの、苦しかった。
彼女はノルウェインの上から降り、その横に寝転ぶ。激動の鼓動に合わせ肺が異常なまでに空気を求める。
次第に体中が内側から痛み出した。
苦痛は酷くなる一方。
そんなことをしても逃れられるわけでもないに、地面に指を立て泥を掴む。のたうち回る。バシャバシャと水溜りを叩く。
長いことそうしてから、今度は俯きに背中を丸めたまま呼吸だけに専念し始める。動くことすらが苦痛だったのだと彼女は言う。
「っかぁ……!」
血を吐いた。
その事実に驚き、彼女はわずかに顔を上げる。顔の下には水溜りがあり、彼女の血が泥水に混じる。きれいとは言えない水溜り、ふとセラが自分を見つめる。
呼吸により上下する顔。揺れる白銀。
そして――。
縦に鋭く伸びたサファイアが映っていた。




