23:いざ、調査へ
「ヒュエリさん。例の件なんですけど――」
四人は殺風景な司書室に入ったわけだが、今、この部屋は殺風景なんて言葉を忘れてしまっている。ヒュエリが部屋に入って軽く手を叩くと、あれよあれよと机や椅子、それから大量の書物がゆらゆらと陽炎のように揺れながら姿を現した。
そして、今、セラとユフォンは来客用のソファに並んで座り、執務机で行われている司書と司書補佐官の会話を黙って見聞している。
「――また、黒い霧が発生したようです。今度は『竪琴の森』で」
「!」セラは独り、黒い霧という言葉に反応した。
「被害は出たのですか?」
「いいえ、今回も被害報告はありません。目撃したという、警邏からの報告だけです」
「そうですか」ヒュエリは部下の報告に対して、椅子に座って足をぶらぶらと遊ばせている。「まったく、警邏隊の方々はお仕事をしているんですかね? お散歩してるだけなんじゃないんですか。それに、どうして司書のわたしが調査をしなければいけないんでしょう? 研究職の方がなさればいいのに」
「ヒュエリさんが泣いて承諾したんですよ。今さら断れません」
「だって……警邏の人も、研究所の人も恐い顔で笑うんですもの……」机に突っ伏しくぐもった声を上げるヒュエリ。「脅しじゃないですか、あれじゃ」
「泣き言を言ってる場合じゃありませんよ。原因究明ができないと、セラフィさんにマカを教えることもできませんし、それに、アルバト・カフ先生なら文句も言わずに早急な解決を――」
「うん! そうだよね、そうだよね、テイヤスちゃん! 先生ならすぐに解決だよね! そうだよ。なら、一番弟子のわたしにだってできるよね! さあ、『竪琴の森』へ、いざっ!」
机に突っ伏していた彼女の姿はもう影もない。張り切った様子で椅子から立ち上がる。
と、それと同時にセラも立ち上がった。
「あの。黒い霧、わたしが追ってる奴らかもしれない。一緒に調べても?」
「ほえ? そうなの、セラちゃん? でも、セラちゃんはマカを学びに来たんじゃなかった?」
「はい、だから、マカを教えてもらうお返しに、手伝わせてください」
「あっ、なら、僕も行くよ」ユフォンはセラの言葉を聞くとすかさず立ち上がって宣言した。「僕はセラに手を貸すって約束だからね。ついでに、マカも教えてもらおうかな」
「あなたが? マカの使えないあなたが調査に同行したって邪魔なだけよ。それに、ヒュエリさんにマカを教えてもらおうなんて頭が高い。それなら私が行きます、ヒュエリさん」
「え? でも、テイヤスちゃんは司書補佐官の仕事があるでしょ?」
「そうだそうだ! 君は望んで就いた仕事をしてろ」
「はぁ? あなたね――」
「はい、そこまでぇ~」またも始まりそうになった彼らの口喧嘩をふわっと止めたのはヒュエリだ。「テイヤスちゃん、お仕事しよ? できる?」
ヒュエリの優しい口調は、その口調とは裏腹に有無を言わせるものではなかった。テイヤスは青黒い後ろ髪を揺らして頷く。
「よし、じゃあ、はじめようか」
言ったヒュエリから、白いワンピースのヒュエリが出てきた。出てきたヒュエリは床に足を着けずに漂う。
「うわっ!」ユフォンは驚きの声を上げ、ソファに座り込む。「びっくりしたぁ……」
「それもマカなんですか?」
対してセラは落ち着いた様子で、白ワンピースの方のヒュエリに尋ねた。そのヒュエリが応える前に、テイヤスとローブを着たヒュエリが司書室を出て行った。
「そうですよ。先生と会いたくてわたしが発明した幽体化のマカです。まだ完全幽体にはなれないのですが……」
「完全幽体……?」
「あ、それは僕にも分るよ」何事もなかったかのように椅子から立ち上がるユフォン。「幽霊・幽体っていうのには種類があってね。完全幽体って言うのは名前の通り、完全な幽体なんだ。実体が完全に生命活動を停止していて、幽体が物に触れることができない状態のこと」
「さすが、テイヤスちゃんのお友、同期ですね」
ヒュエリは言って姿を消すと、次の瞬間にはユフォンの背後に現れた。
「準幽体であるわたしはこのように」ユフォンの肩に手を乗せる。「物体に直接触れるのです」
「ひょえっっ!」
ユフォンは背筋を震わせて、またもやソファに座り込む。
「うふふ、ユフォン君もテイヤスちゃんみたいで、いい反応をしてくれますね。面白いです」
「ん゛んっ……やめてくださいよ。僕、突然来るやつとか、苦手なんで……ははっ」
セラはもしものときのためにとオーウィンを取りに、一度ユフォンの下宿先へと跳んだ。自分も準備をしたいと言ったユフォンと共に。
「おうぇ~……」
跳ぶや否やユフォンはトイレに駆け込んで朝食を胃の中が空っぽになるまで吐き出した。ナパード酔いだ。
「大丈夫?」トイレにいるユフォンに声を掛けながら、セラはオーウィンを背負い、簡単な荷物だけ身に着けた。「もう、行ける?」
「えっ……!? ちょ、ちょっと、待って、ははっ……。僕も、準備を……」
這う這うの体でトイレから出てきたユフォンは腰巻カバンに水筒や携帯用の筆、数枚の低質紙を詰め込んだ。そして、それを腰に巻く。
「……よ、よし。行こうか。調査を手伝って、早いところマカを教えてもらおう、瞬間移動系の……」
「……そうね。そうした方がいいかも」
「うん、そう。そうだね。僕が君を訪ねる日が来ることを、待っててよ」
「ぁぁ……うん」
セラは苦笑いと共にユフォンに手を触れて、魔導書館司書室に戻り跳んだ。
二人が司書室に戻ると部屋の中は殺風景という言葉を思い出していた。そして、ヒュエリもいなかった。ついでに言うと、ユフォンは碧い光の残滓を眺めながら、何もない胃そのものが出てこようと暴れているのをどうにか押さえ込んでいた。
「ヒュエリさん……」ユフォンのことなど気にすることもなく、セラは呆れたように口を開いた。「出てきてください。わたしには感じ取れてますよ」
「う~ん、セラちゃん、面白くないっ」セラの前に姿を現したヒュエリは大人げなく頬を膨らませてぷいっとそっぽを向いた。「ずるいですよ。まるで『蛍星の舞台』の人達みたいに五感が鋭いじゃないですか」
「……」セラはヒュエリの言葉に少しばかり考えるように間を置いてから、尋ね返した。「ペク・キュラ・ウトラを知ってるんですか? わたし、そこで修業して」
「……ナパス語ではそう言いますね。そうですよ。わたし、霊体での移動実験で最近行きました。あそこの人達、目が恐いんですよぅ、こう、キリ! って。しかも、姿を消してもすぐばれちゃって……泣いて帰ってきましたよ……」
「ぁはは・・・・・」セラは半笑いで返しつつ、ヌォンテェの包帯の下に隠れた縦長の鋭い瞳孔を思い出していた。
「でも、これでセラちゃんに見つかったことにも納得がいきました」
「……あの、お二人さん。そろそろ、行かないか? 僕も調子よくなってきたし」
胃のクーデターを押さえつけたユフォンはその代償として血の気の引いた顔で笑ってそう言った。
魔導書館を出た二人と一体の幽体は噴水と造園で彩られた広場から、噴水から伸びる用水路に沿って真っ直ぐと『竪琴の森』を目指した。
「そういえば、『猛毒は薬なり‐異世界の毒図鑑と調薬の方法‐』って本、どこの世界のかわかりますか? ベルツァ・ゴザ・クゥアルって人の本なんですけど」
道行く人、用水路を浮かぶ小舟の船頭からちらちらと視線を向けられているが、そんなことは気にせずにセラはヒュエリに訊いた。ちなみに、道行く人や船頭たちが視線を向けてくるのは、霊体のヒュエリ司書ではなく、剣を背負う美少女が理由だ。マグリアにおいて剣を携えるこは警邏隊でもごく一部の人間だけで、堂々とそれを背負っているセラは霊体であるヒュエリより視線を集めてしまうのだ。もちろん、彼女が絶世の美女だということも要因の一つではあろうけど。
「ええ。それなら、『白衣の草原』……えっとナパス語だと、トゥウィント? そう、トゥウィントの本ですよ」
「トゥウィント!」それはセラが伯父から聞いていた言葉だった。「ってことは、もしかして、ベルツァ・ゴザ・クゥアルって薬草術の賢者?」
「? さあ、著者がトゥウィントの人だとしか……すみましぇん」
「あ、いえ。大丈夫です。トゥウィントに行けば分かりますから」
「……しょうですか?」
不安そうに涙目で訊くヒュエリにセラは「はい」と優しく頷いた。
「ん?……げっ」 突然、ユフォンが苦々しい声を上げた。
ユフォンは建物の角から警邏の紋章を胸に付けた魔闘士二人組が折れてくるのを視界に捉えたのだ。
「どうしたの、ユフォン?」
セラは不思議そうにヒュエリと目を合わせた後、隣を歩くユフォンに声を掛けた。
だが、その問いの答えが返される時間の余裕はなかった。
角から折れてきた二人の男はセラの存在に、剣を背負う少女の存在に気付くと寸刻の目くばせと会話の後三人の方へ駆け寄ってきたのだった。ヒュエリはそんな彼らを見て「ふえぇ~……!」と消え入りそうな声を上げたかと思うと、本当に姿をじわっと消した。
「君、それは何に使うのかな?」警邏の一人がオーウィンを指して、優しいが訝しげにセラに声を掛けた。
「え、これは――」
「これは!」セラが応えようとしたところをユフォンが声を被せた。「これは、そのぉ、ははっ……」
挙動不審で目を泳がせるユフォンに警邏の二人は優しさを取り払い訝しげに彼を見る。
「なんだ?」
「えーっとですね」
と、そこまで言ったユフォンの目に建物の壁に貼られた一枚のポスターが目に入った。二人の男が向き合っているイラストが描かれている。一方の男は火を放ち、もう一方は水を放つ。そして、一番上にはでかでかと『第18回魔導・闘技トーナメント開催決定!!』の文字。
「そう、彼女はあれに出るんだ」ユフォンは壁に貼られたポスターを指さした。「これから周りに人がいない安全なところで剣の練習をするのさ!」
「……」二人の警邏は黙って目を合わせる。そして、一人が口を開く。「魔導・闘技トーナメントに? トーナメントは半年以上も先だぞ、少し気が早いんじゃないか? それに、どうせなら美人コンテストに出ることをお勧めするよ、お嬢さん」
この、警邏の軽く鼻で笑った言葉がセラの負けず嫌いな心に火をつけてしまった。彼女にとっては容姿を褒められるより、ゼィロスやケン・セイ、それからイソラと身につけた剣術やそれに準ずる身のこなしを馬鹿にされることの方が許せないことだったのだ。
「馬鹿にしないで。何なら優勝しちゃうから」
「ははは……そう、ま、そう言うことなら頑張るといい。でも、街中では鞘から抜かないことだ。すぐに警邏が飛んできて牢屋行きだからね」
そう言って警邏の二人は去っていった。「今年も隊長の独り勝ちだろ」「どうだろうな。警邏隊には入らなかったが、学院からすげぇやつが卒業しただろ、今年」「ああ。なんて言ったけ、あれだろ、開拓士団の護衛になった魔闘士」「そうそう、そいつ! ドルンシャ帝の成績を超えての卒業って話題になった奴」「隊長、部下にしたがってたな」「ああ、そうそう」……などと会話を弾ませながら。
「で、ユフォン。勢いで大会? 参加するって言っちゃったんだけど、説明してくれる」
二人の警邏の声が聞こえなくなると、セラが口を開いた。
「あ、いや、別にあれはこの場をやり切りための方便だから。もう、気にしなくていいよ」
「ダメ。出るって言っちゃたんだから出るよ。それに、大会でなかったら結局あの二人に馬鹿にされるじゃない」
「ははっ、そうかい? まあ、出るのは問題ないだろうけど。君は時間がないんだろ? さっき警邏が言ってた通り、大会はずっと先だ」
「マカを学んで、他の世界に行って、大会の時期に一度戻ってくるよ」
「そう。ま、君の旅だし僕も君がしたいようにすればいいと思うよ。大会は名前の通り、トーナメント形式で行われる一対一の戦いさ。詳しいルールはまたその時にでも。あ、でも、僕に話を聞かせてくれるっていうのだけは忘れないでね」
ユフォンは初めて彼女の負けず嫌いと頑固さを経験し、折れたわけだ。
「うん。じゃ、行こう」
「はいはい、行きましょ~。調査なんてさらっと終わらせて、セラちゃんにはしっかりとマカを教えなければなりませんね。わたしの教え子がトーナメント優勝なんてした日には、先生に自慢できますから」
消えていたヒュエリはぷかぷかと現れると楽しそうに言った。