222:一抹の不満
散った水たちが一つに纏まってゆく。なるべく蒸発しないように素早く。乾燥したホーンノーレンとて、人間大の水を一息に飲み干すことは出来ない。
人の形となってゆく水の塊にその場の人間の視線が集まる。
「加熱系のマカが使えない方は離れてください」ヒュエリが指示した。
何人かがそれに従い、後退る。
セラは持っていた薬瓶をしまい、オーウィンに手を掛けて、そこにいる誰よりも液状人間の一部に意識を凝らした。気配を読むためだ。
眼前の敵の気配を知ることができれば、浸透されてしまった者とそうでない者を見分けることができるかもしれないと、思惟放斬を利用して液状人間だけを斬ることができるのではないかと考えたからだ。
「お、のれ『紅蓮騎士』……」
未だ完全な人間にはなっていなかったが、口が形成され水から声が発せられた。
「妙なものを飲ませやがって……。お前だけは内側から破裂させてやる」
「はっ、逃げ出したくせによく言うぜ」
ズィーは竜の眼のまま液体を睨む。
「本体でない上に満足に力を発揮できないこの地でこの様なら、水の豊富な地では充分お前らを征服できるさ」
「へぇ、本体どこにいんだよ。今すぐ行って俺がぶった斬ってやるよ」
「ふん。その手には乗らないぞ」
「とか言って、どうせマグリアってオチじゃねえか?」
「未だ全域を支配しているわけではない状態で、そんな短絡的であるわけないだろう。この世界は広んだぞ」
液状人間はズィーを馬鹿にするように笑った。だがズィーは感情を荒立てることなく不敵に笑い、言い返す。
「俺の勘を舐めんなよ」
「……そろそろ限界のようだな」
ズィーの言葉など全く意に介さず、液状人間は輪郭の不確かな顔を天へ向けた。途端、その形が崩れ、地面に染みをつくった。濃くなった岩色の地面はすぐに本来の色へと戻っていった。
「やはりホーンノーレンは彼にとって厳しい環境のようですね」
ヒュエリが今まで液状人間がいた場所を見つめながら言った。
「ひとまず帝居に行きましょう」ユフォンはそう言ってから振り返る。「誰かクラスタスさんを運ぶの手伝ってくれますか」
彼の呼びかけにヤーデンをはじめ数人の魔闘士が声をあげ、クラスタスの方へと向かった。
「あ、わたしはジュメニを」とヒュエリは一人と一体でジュメニに駆け寄り、浮遊のマカを使い軽々と気絶するジュメニを持ち上げた。
彼女に入っていた液状人間はついさっき蒸発した。目覚めたとき、それで浸透寄生が解かれたのかどうかが判明することだろう。
「感じたかよ、気配」
瞳孔が普段の状態に戻ったズィーがぶっきらぼうにセラに言った。彼は彼女が液状人間の気配を探っていたのだと理解していたようだった。長年の付き合いが成せるものだろう。
「駄目、ただの水。弱すぎたのかも」
「あっそ」
互いにそっけない。喧嘩は続いている。
「『虹にかかる諸島』、行ったことあるんだ」
本来なら彼からクラスタスに対しての謝罪の言葉が欲しかったが、徐々に関係を修復してからにしようと、セラは話題を竜毒のことへと転じる。
しかしズィーには会話をする気がないらしく、「ああ」とだけ答えると先行するヒュエリの後をついて行った。
彼女の胸に漂う一抹の不満。
非を認めてくれればそれでよかったはずなのに、あの態度は何のか。自分が歩み寄ったことが馬鹿馬鹿しく思えた。
「セラ?」ユフォンの声が彼女が憤りの深みにはまるのを留めた。「行こう。帝居はこっちだよ」
「うん」
ホーンノーレンの帝居が打倒液状人間の本部になっているのだと言う彼について行くように、セラも歩を進めたのだった。
「ズィプくんの言ったこように液状人間の本体はマグリアにいるとわたしは思っています」
毛足の長い絨毯が敷かれた部屋。街並みと同じノーレンブルーを基調としつつも明らかに格式の高さを漂わせるホーンノーレン帝居の応接室でヒュエリは言った。主にセラに向けて。
だが反応を示したのは別の人間だった。
「そのことは何度も聞きましたが……ズィプくんとは誰のこと、でしょうか」
あのヒュエリよりも物腰弱く声を発したのは部屋の一番奥に座する男。ホーンノーレンが帝、ヨルペン帝だ。
線の細い身体つき、男性にしては高い声、白みを帯びた紅色の髪は、眉尻と目尻が常に下がった威厳とは無縁の顔を縁取り小顔に見せる。まるで女性だった。
ドルンシャ帝と比べる以前の問題として見た目や性格通り、非力。セラはなぜ彼が一都市の帝なのだろうかと疑問に思っていた。
「今、ジュメニとクラスタスさんを看ている青年です。『紅蓮騎士』、訊いたことはありませんか? セラちゃんと同じ渡界人です」
ヒュエリの言う通り、ズィーは別室で眠る二人の魔闘士を監視していた。目覚めたとき中身が液状人間だった時に対処するためにその役目を申し出たが、本心としてはセラと一緒にいたくなかったのかもしれない。セラでさえ今はズィーと空間を共にすることを避けたいと考えていたのだから、彼がそう考えていても不思議ではない。
「ああ……ええ、何年か前に、マグリア開拓士団の護衛をしていた」
「そうです」
「分かりました。話の腰を折ってしまい申し訳ありません。続けてください、ヒュエリさん」
「はい。単刀直入に言います、ヨルペン帝。今が、攻め時です!」
マグリア魔導書館司書はいつになく強気で他都市の帝に言ってのけた。ブレグに対してそのような態度をとったかと思えば言い返され涙目になる、そういった光景を目にしたことがあるセラは今回もそうなるのではないかと思っていた。だが、そうなることはなかった。ヨルペン帝が一言も発することなく、困り顔を示したからだ。
なんでこんな人が帝なんだろうという疑問を膨らませながら、セラは彼をただただ見つめて待った。それはヒュエリをはじめ、この部屋に集まったユフォン、ヤーデン、それからセラは知らないがホワッグマーラでも名実を知られるであろう魔闘士数人も同じだった。
「……理由を、訊いてもよろしいでしょうか?」
ようやく口を開いた帝の言葉はやはり、帝のものとは思えない力なきものだった。




