19:抱擁
「涙は決別と決意だ」
ノアはそう言って涙を拭うと、優しくセラに笑いかけた。
「さあ。ここに来たということは遊歩を学びに来たんだろ? 始めようか」
「うん」セラは優しく頷き返した。
故郷を失い、家族を失い、同じ世界の人間の生存を祈るノアの姿に彼女は自分自身を重ねていた。
「さ、ついて来て。なるべく僕と同じように動くんだよ」
ノアはそう言って、ビルから伸びる大樹の枝に足を掛けた。彼が最初にいた二股に分かれた枝とは別の枝だ。
「少し先生っぽくしてみようか」枝をゆっくり歩きながらノアは、なんだかんだ変わらない口調で続ける。「遊歩の心得。その一、周りをよく見ること。その二、力に見合った最善の判断をすること。その三、判断したら迷わずに行動に移すこと。その四、とにかく慌てないこと」
「その四っている?」
「いるよ」
ノアが言ったその次の瞬間、枝の上を渡る二人に強風が吹き付けた。
「あっ!」
セラは突風に煽られ、雨に濡れた枝で足を滑らせた。咄嗟に出した手は太い枝を掴むことは出来ずに弾かれてしまった。彼女はナパードで枝に戻ろうと考えたが、その腕をノアに掴まれたことで考えを引き下げた。
「気を付けて」
ノアは枝の洞に足を引っ掛けて体を支えていた。
「……ありがとう」
ノアによって引き上げられたセラは枝に座り込んで礼を言った。
「こういった、突発的な変化に対応するには慌てないことだ。遊歩そのものを表す、遊歩で一番大事なことだと僕は思っているよ」
「そういうことなら、必要ね」
「さ、まだただ歩いてるだけだ。遊歩はこれからだよ」
「うん」と相槌を打って立ち上がるセラ。
「走るよ。また滑らないようにね」
そう言うとノアは枝の上を軽い足取りで走り始めた。セラもそれに続く。
二人の前には身の丈の三倍はあるであろう壁が立ち塞がっていた。
「この壁をナパードなしで登れるかい?」
ノアに言われて壁を見上げるセラ。壁は手足を掛けられるような出っ張りは一つもなく、助走をつけて向かっても一番上まで手が届きそうになかった。
「周りをよく見て」
「そう言われても……」
壁の周りには少し離れたところ、セラたちの後ろにビルを高々と貫いている大樹の幹しかない。その幹から壁の上に枝が伸びているわけでもない。
「見ててごらん」
セラが大樹を見つめていると、ノアが壁に向かって駆け出した。
ノアは壁を勢いのまま途中まで登ると、体が落ち始める前に壁を力強く、だが軽やかに蹴った。壁を蹴って跳ね返る行先はさっきまでセラが見ていた大樹の幹だ。
どぉんっ。
包み込むような低音を奏でてノアの足は大樹を蹴った。次いで、タンッと軽やかな音を立ててノアは壁の上に立った。
「どうだい? できただろ。さあ、セラも」
「うん」
セラは頷くとノアの見様見真似で、ほとんど寸分違わずに壁登りを実行してみせた。剣術を覚えたときも、駿馬を覚えたときも、彼女は一度見て理解したものを再現することに秀でている。見たものと同等の質かどうかは置いておいて、形の再現度は高い。
今だって彼女は一度で壁の上に辿り付いたが、ノアよりも距離が足りずに壁の縁ギリギリに足を着いた。そのせいで、落ちそうになったのを何とか腕を回して立て直す始末だった。
「すごいね、君は」
「嘘。あなたは危な気なかったじゃない」
「それは慣れてるからね。初めてにしては上出来じゃないか。むしろ、初めてには見えない身のこなしだったよ」
「子供の頃、山とか走り回ってたから、このくらいならなんとかね」
「うん。じゃあ、次行こうか」
その後も、水面に浮かぶ瓦礫渡りをしてみたり、崩れそうな橋を渡ってみたり、大樹の枝を跳び回ったり、壁の出っ張りから壁の出っ張りへ跳んだり、走りながら枝をくぐったり跳び越えたりと、セラは何度かヒヤリとしながらもノアについていった。
ノアが足を止める頃にはセラの体には擦り傷や、切り傷、打撲の跡などが所々に見られた。
「ほんと、すごいねセラは。よくここまでついて来れたよ」
「傷とか服の汚れとか、随分差があるけど……」
「落ち込まないで。ビズラスは僕について来られるまでに何日もかかったからさ」
「もうそういうの何度も聞いた」
「ふふっ、さあ、今日はゆっくり休んで。ふかふかなベッドがあるんだ。さあ、こっちへ」
セラはその日、エレ・ナパスの王城以来のふかふかのベッドで眠りについた。もちろん、一人でね。
でも、彼女はベッドの柔らかさが変わっても、あの悪夢を見るのだ。
夢の中の彼女は今より背が低く、顔があどけない。潤んだサファイアは赤々と燃える町を映している。泣き叫ぶ声は、エレ・ナパスは、黒い霧に飲まれて完全な闇に閉ざされた。
そこで彼女は目を覚ます。
起き上がり顔を歪める彼女の額には玉のような汗が浮かぶ。穴の空いたビルの壁からの月明かりが、水晶の耳飾りと額の汗を光らせる。
「悪い夢でも見ていたのかい?」
ビルの窓辺に座り、月を眺めるように顔を上げているのはノアだった。
「うん」
「僕もだよ」
そう言ってセラの方を見た彼の頬には汗ではなく、涙が流れていた。
「じゃあね、セラ。お達者で」
「ノアも、生存者、見つかるといいね」
「そうだね。僕も君が僕達のふるさとの仇を見つけて、倒せるよう祈ってるよ」
「仇は絶対討つよ」
高いビルの屋上。今日は雲一つなく空高く太陽が燦々としている。二人のプラチナをそよ風が揺らす。その空間はとても温かく二人を包んでいた。
「どうしてだろうね、君とは離れ難い」
「わたしも思ってた。でも……」
「大丈夫。引き止めたりなんかしないよ。また会える気がするしね」
「うん、そう――」
ノアは頷くセラを優しくハグをした。セラは一瞬驚いた様子を見せたが、それも一瞬のことですぐに目を細めその抱擁に応えた。