196:興奮の脱出
セラは走る。
蔦と苔にまみれた大樹の枝。洞を跳び越え、崩れたビルの床に跳びつき、素早く這いあがる。
後方ではビルが崩れ落ちていく。限界までその形を保っていたが、それも終わりだ。水面を激しく上下に揺らし、なんの規律もない波紋と飛沫でセラの再来を祝うのだ。
「ふぅ……」彼女は深く息を吐く。「来るたびに崩壊に巻き込まれちゃうのかな……」
独り呆れながら、伯父の匂いや鼓動、気配を探る。もしかしたらイソラとルピもいるかもしれない。そう彼女が思った矢先、今いるビルが揺れた。
「またぁ~……」
すぐさま周囲に意識を戻す。するとどうだろう、揺れているの自身のいるビルだけではないことに彼女は気付く。そしてもう一つ、この揺れは世界が終わるときのものではないただの地震なのだとも。
次第に増していく大地の揺れに、セラはひとまず近場の壁に手を着いて収まるのを待つことにした。
「たぶん、また崩れるんだろうな」
セラは独りごちた。それは確信して出た言葉ではなかった。そう、勘だ。超感覚が何かを捉えたわけではなく、ただそんな予感がしたというだけのことだった。そして彼女の勘は的外れではなかった。
「うそでしょ……!」
今しがた入ってきた方向。隣のビルが大きく傾いた。それは横に伸びる大樹の幹をへし折るほどの力を持って倒れてきたのだ。
瞬時に崩れ落ちてできた開口部から下を覗くが、足場や手を掛けられそうな場所はなかった。反対方向に逃げるしかない。
判断を下したセラは未だ揺れているビルの中を駆けだした。衝撃波のマカで壁を壊してしまうことも一瞬考えたが、それでこのビル自体が崩壊してしまうことも考え、走るに徹することにしたのだ。
室内ということもあって、目一杯走るには苦労するかと思われたが、遊歩を知る彼女にはそう難しいことではなかった。長い廊下では駿馬まで使い、一気に駆け抜ける。カクカクと何度も直角に折れる階段を下るのには足の裏から衝撃波のマカを放つ技を使い、急激な方向転換を可能にした。
遊歩の技術も確実に伸びていた。だが、ビルという建物はマグリアの魔導書館の塔よりも高いものがほとんどで、セラがいたビルも遥かに高いもの。さらに言えばその上層に彼女はいたのだ。いくら素早く駆け下りても倒れてくるビルから逃れることはできないだろう。
走りながらどうしようかと考えていた彼女の視界、ロープのようなものが目に留まった。セラは近付く。
そのロープは鉄の糸を編んで作られたもので、床も天井もない縦に長い空間の遥か上から、下に向かって伸びている。これならいけるかもとセラはそのロープに跳びついた。離して落ちないようにしながらも、握る力を弱め一気に滑り降りていく。キュルキュルと指ぬきグローブが小さな音を立てる。
「揺れは収まったみたい」
地震が収まったのを感じた彼女は一息吐く。だが、安堵はそう長くしていられなかった。
突くような横揺れが一発。ロープと共に彼女の身体が大きく煽られた。隣のビルがぶつかったのだろう。急がないと。
途端、彼女の視線の先、ビルが倒れてきていた側に面する壁が大きく膨れ上がり、弾け崩れた。大樹の幹が姿を現す。そしてまるで彼女を狙うかのように薙ぎ払いを仕掛けてくる。
一瞬の判断。彼女はサファイアを下に向けた。だが、下でも壁が崩れ、行く手を塞がれてしまっていた。手を離しても意味がない。ならば。
セラは大樹に向かって衝撃波のマカを放った。それでも大樹は止まらない。粉砕もしない。しかし彼女の狙いは反動で自らを後ろへ動かすことにあった。
壁のわずかな出っ張りに足を掛け、大樹を避けるように背面飛び。大樹が彼女の背後の空気を薙ぎ払っていく。セラは大樹が空けた空間に入り込む。幸いにもすぐに床があり着地することができた。
辺りを見回す彼女は把握した。このビルは崩れる。
見えたのは外。そして、支えとなるものを全て薙ぎ払われてしまった室内。今から上階が重力に誘われ、下階に圧し掛かることだろう。
「やばい……!」
すぐさま立ち上がり、全方位が出口となったビルの一番近くの出口を目指す。
大樹が端から順に柱を壊していったからだろう、天井は片側から落ちてくる。幸いにも彼女が目指した出口が塞がるのは最後の方だ。といっても崩落は一瞬のこと。セラは力いっぱいの駿馬で駆けた。
だんだんと狭くなる出口、彼女は駿馬の勢いを殺さないように身を屈め、脚から滑っていく。
「……ぅんっ!」
ビルは崩れてゆく。今度は彼女のすぐ後ろだ。
「ふぅ……」
瓦礫と共に重力に従って落ちているというに、何が楽しいのか、興奮冷めやらぬのか、セラは笑みを湛えていたのだった。