アナイス建国記余話…エリクの章
リラ・コンラートは彼の盟友だった。
気が付いたときには側にいた。幼いときから、何を為すのも一緒だった。リラは彼よりも二つ年下で、年齢的にはすぐ下の弟と共に様々なことをするのが普通だったかもしれないが、彼にはリラがいたから弟や妹はあまり視界にすら入らなかった。
同じことを同じようにできる存在は彼にとっては貴重だったし、彼を取り巻く大人たちから見ても貴重な存在であったろう。
彼は天才だった。自身では意識してこそいなかったが、あらゆる天賦の才に恵まれていた。リラも同じように天才だった。中でも剣術や馬術に関しては彼すらも凌駕する実力の持ち主だった。彼にとっては唯一の好敵手だと認められる存在だった。
彼がリラが自分とは違う性別であるということにきちんと気が付いたのは、リラが彼の眼前から失われて以後のことだった。…リラ・コンラートが彼の前から失われたのは本当に突然の、彼にしてみれば信じられないほど急な出来事だった。
彼は十六歳だった。
その日、遠乗りに行く約束だったはずのリラがいつまで経っても現れないことに困惑して、彼はリラの姿を屋敷中探し回った。常ならば探すまでもなく目に入るリラの姿はどこにもなかった。上の妹が彼にリラは彼の父親に呼ばれたようだと教えてくれて、彼は渋渋ながら父の部屋を尋ねた。彼の最大の苦手がこの父親だった。嫌いであったわけでもないが、父は子供たちに対して厳しすぎるほど厳しい態度で接することが多く、彼すらも父の前では萎縮せざるを得なかった。けれど何故かリラや他の使用人に対しては優しい存在だった。
そこにもリラの姿はなかった。困惑は動揺に変わりつつあった。憔悴につながる動揺の中で彼が行き着いた場所はリラの父親、セイ・コンラートだった。
セイ・コンラートはリラの父親である前に彼にとっては剣術や他の武術の師であった。また、彼の父親の若い頃からの盟友だった。苦手な物の皆無に等しい彼のいくつかの例外がこの二人である。
「リラはもうここにはおりません」
セイ・コンラートの言葉を彼は容易に受け入れることはできなかった。
「リラは王都のある貴族の屋敷に奉公へ出ました」
何故と聞き返すとセイ・コンラートは微かに笑ってわかりませんとだけ答えた。
そうしてリラは彼の前から失われた。彼に何の言葉も残すことなく。
動揺と困惑と悲嘆とそれから怒りの中で彼はその夜まんじりともせず朝を迎えた。理解することはできなかった。リラが彼から去っていかねばならない理由を彼は思いつくこともできなかった。
ただ今になって思い出すのは最近のリラの少しうち沈んだような様子だった。それは本当に今になって気づいたほどのほんのかすかな様子だけだったのだが。
リラのことを彼は自分では完全に理解しているつもりだった。リラが生まれてから十四年、一緒にいなかった時間の方が少ない。そしてこの後もそうであるはずだった。
リラと自分をゆくゆくは結婚させようとしている父の思惑も知っていたし、彼自身はそれに違和感も覚えはしなかったが、リラの方は違っていたのかもしれない。
彼は自室のベッドの上でじっと膝を抱えて、さまざまなことに思いをはせた。リラの笑顔も、怒った表情も、喧嘩をしたこと、くだらないことで議論したこと、幼い頃遠乗りにいって迷子になったことも、それから未来を語り合ったことも。
射し込む朝日の中で彼が到達した結論は、リラを忘れるということだった。そうでもしなければ失われた半身を思うままで、いつまでも膝を抱えていることしか彼にはできそうもなかったのだ。
リラが一度去ったからにはもう戻らないことを彼はそれだけは確かなこととして知っていたのだ。
彼は耳を疑った。
そうしてそれでも部屋を飛び出していた。馬に飛び乗り全力で駆けさせ、滅びた王国の燃え尽きた城跡を目指した。
彼の耳にこだまする言葉は「リラ・コンラートが…」という、最早過去の中に消え失せた人の名前だった。
どのくらいの時が過ぎたとしても彼がリラを見間違えることなどなかった。
「リラ!」
馬から飛び降りて、その背中に叫んで、振り返った彼女を腕の中に抱きしめていた。
間違えようもなくリラだった。彼の腕の中にあるのは失われた彼のリラだった。
「どこへ行っていた」
リラが彼の前から去ったあの日からもう五年以上の年月が経過していた。それでも彼はそれがたった今さっきのような気がしていた。
「エリクさま」
少しふるえた響きを持つリラの声はやはり少し大人びて聞こえた。
「戻って来るんだろう?」
強張った体の表す否の返事。
「どこへ行っていたんだ…?」
「…ついこの間まで、シュナイト公爵家でメイドをしていたよ?」
愕然として彼はリラを放した。そしてまじまじとその顔を見つめた。
「旦那様にもとてもよくしていただいて。ね、もう戻れないから」
シュナイト公爵家は彼の父が滅ぼした王国の王族だった。
少し微笑んだリラの表情は彼には覚えのない女の顔だった。
「シュナイト公爵はもうどこにも」
「旦那様は亡くなっても、その理想がある限り。…私が追うのは旦那様の理想だから。ねえ、エリクさま。わかっているのは私だけじゃないでしょう?子供の時は終わってしまったし、あのときには戻れないんだから」
「あのとき?じゃあ、どうしてあのときに」
「だって、あのままだったらエリクさまと共に歩み続けられはしなかった。いつか置いて行かれることを知っていた。ねえ、理解してくれはしなかったでしょう。だってリラはエリクさまにとって女ではなかったから。リラは友達だったよね。同じ立場に立ち続けられるほど、私は強くなかったんだよ、そんな実力もなかったから。…もう過ぎたことだよ。きっとこれからは私はティリカーティス家に敵対する立場に立つから」
会うべきではなかったのだと心の中で誰かが呟いた。知っていたのだから、リラがとうに失われて還らないことを知っていたのだから。
でもそれでもリラが生きていて、そうして強くあることに安堵する気持ちの方が強かった。
「そうか」
エリクはそう答えた。柔らかく微笑んで(それも彼の見たことのない表情だった)、リラは王城に向き直った。
「いつか、多分いつか。私がしなければならないことを追っていくとエリクさまと出会うことになるよね。そのときに恥じないでいられるように私は生きていくから」
「俺もそうできるようにする。俺にも俺の、やらなければならないことがあるから」
「うん」
約束を交わして、リラの去る後ろ姿を見えなくなるまでエリクは見送った。
幼い頃に語り合った未来は、今現実として眼前にあった。
『俺は俺に出来る最善のことをする。俺は領主だからな。俺の民を幸せにするのが俺の仕事だよな』
『リラもそう、リラに出来る最善のことをする。でもリラは領主じゃないから民のことを考えるってわけには行かないけど、リラは人だから。神様が人に与えた運命は幸せだと信じてるから誰かの為にリラは生きるよ。リラは誰かを幸せにする為に生きるよ。だからきっと、リラとエリクの進む道は一緒なんだよね』
俺は俺に出来る最善のことをする。
エリク・ティリカーティスの運命はそこから始まるのだ。