天才魔導師と最強使い魔
――声が聞こえる。
怒号のような、悲鳴のような。何かを訴えるような。
雪と氷に包まれたこの峻烈な山々に、おぉん、おぉん、と響き渡って。
※※※
万年氷に包まれた、融けること無き凍える山脈。中でも最も高く険しい山の、その更に頂近くに、その人間は現れた。
全身を黒褐色の外套で覆い、深く被った防寒帽とゴーグルに隠されて、顔の造形は分からない。華奢な体格に不釣り合いな武骨なブーツで、ざくり、と雪に足跡をつけたその人間は、彼から数歩の距離を空けた所で立ち止まる。
まるで脅える気配も見せず、己の前に立つ人間。それに僅かな興味を覚え、氷の壁に張り付けられた彼は視線を向けた。
「――誰だ」
低い声が零れ落ちる。寒さと衰弱に侵されてひび割れた唇から出た声はひどくしゃがれて不明瞭だったが、それでも人間は聞き取ったようだった。かつては蒼い炎と呼ばれた彼の視線にも一向に怯む気配はなく、じっとこちらを注視しながら口を開く。
「えーと。お前が『氷雪山の魔物』?」
耳に届いた声が柔らかなアルトであったことに、彼はほんの少し、驚く。
落ち着いた中にも幾分か幼さを残した声色は、若い男――恐らくはまだ少年と言えるほどの歳のそれだ。
昼も夜も途切れることなく渦巻く彼の魔気に魅かれてやって来た凶暴な魔物が多く生息するこの山に、人間の少年などあまりにも不釣り合いなはずなのに。
「俺さ、麓の住民から依頼を受けて来たんだ」
警戒の眼差しを送っていると、少年は勝手に判断したらしく言葉を繋いだ。
「数年前、麓に採掘を生業とする小さな村が出来たんだけどさ。ずっと山から不気味な唸り声が聞こえてくるって。怖くて仕方ないから原因を調べて、もし害のある魔獣か何かなら退治して欲しいって。お前、一見人間みたいに見えるけど……、こんな所でそんな格好で生きてるってことは、人間じゃないんだよな。唸り声を上げてたのは、お前で間違いなさそうだ」
轟――と吹いた強風に煽られて、少年の外套が激しくはためく。
「この俺を殺すっつーのか、ガキ」
身の程知らずの少年を、彼は半分霜の降りた顔で見据えた。
注意してよく見てみれば、目の前の少年が、幼いながらもどこか不可思議に老成した、飄々とした雰囲気を持っているのが分かる。奇妙な感慨を振り払うように頭を振って身動ぎするも、己を拘束するものがそれ以上を許さなかった。
かつて大陸中にその武を謳われていた彼が、この山に囚われて百年。頭部以外を氷と鎖に縛められ、磔にされてから百年だ。
この冷たい場所にたった独りで取り残され、身を切る苦痛と孤独に堪えかねて、昼も夜も咆哮を上げた。怨嗟にも似たその声に怯え、これまで彼の元には獣の一匹すらも近づいてきたことはなかったのだ。
だが、それが今になって、この少年を呼んだというらしい。しかも、己の命を断つために。
――それもまた、良いのかもしれない。そう彼は思う。
「なら、殺すといい」
怒る気配もなく言われ、少年は一瞬沈黙した。意表を突かれたようなその反応を、彼は僅かに小気味良く思う。
「……随分思い切りがいいんだね。お前、結構強そうに見えるのに」
「俺をここに縛ったのは、かつて仕えていた主だ」
呟くように、しゃがれた声で彼は言った。人生で最後に言葉を交わすこの人間に、自分のことを知らせておいても良いと、柄にもなく思った。
「俺は、その主に造られた使い魔だった。だが俺は許されないミスを犯し、主は俺をここに縛って、苦しんで死ねと言い置いて去った。主を失った使い魔はただの化け物だ。俺は命令に従わなければならない」
もう苦痛にも飽いた。それにどの道このままでは、この身はあと十年も持たずに朽ちるだろう。この少年が自分を殺すと言うのなら、抵抗する力などない。
ならば、最期の趣向に、この奇妙な少年に殺されてみるのも良い。
「殺せばいい。俺はお前を恨んだりしないぜ」
どこか穏やかな心地で、彼は告げる。
だが、当の少年は首を傾げ、肩を竦めるような仕草をしてみせた。
「……正直、どうしたもんかと迷ってる」
「何が」
彼は少しだけ眉を寄せた。
麓の住民は怯えている。その原因である化け物は、殺されても構わないと言っている。
ならば、化け物を殺すのに何の問題があるのだろう。
――少年が、ゴーグルを押し上げた。急に露になった両の瞳が己に向くのを見て、彼は我知らず息を呑んだ。
天頂の炎の色を秘めた、鮮やかな紅金。今にも吸い込まれそうに澄み渡り強い光を宿す、稀有なる宝石。
「害がある奴なら殺すつもりだった。けど、どうやらお前はそうじゃないらしい。人を脅すつもりでなく、苦痛で吼えていただけなら、それは咎とは言えないな」
告げる少年は、一歩こちらに足を踏み出す。
「――だから、こうすることにした」
少年の手が軽く閃いた、刹那。
金色の炎が迸った。
炎は波となって彼に襲い掛かり、しかしまったく熱さを感じないことに彼は驚いた。肌を舐めるような感触にはっとして目をやると、自分をここに縛り付けていた氷と鎖が、どろりと溶けて落ちてゆくところだった。
「な――!!」
瞠目し、声を上げる。支えを失ってぐらりと前のめりに投げ出された身体が、積った雪の上に膝をついた。
「何のつもりだ……っ!!」
すぐさま跳ね起きるほどの力はなかった。彼の反応を見届けることもなく既に身を翻し、何事もなかったかのようにその場を立ち去ろうとしている少年の背中に向けて、憤怒のままに叫びを上げる。
「見ての通り。お前の主が与えた縛鎖を解いたんだよ」
振り向きもせずに少年が応える。当然のような口調に、彼はますます怒りが募った。
「同情したというなら余計な世話だ! 俺はここで死ぬつもりだったのに!」
「同情?」
足を止め、少年が肩越しに振り返る。いつの間にかその目が再びゴーグルに覆われてしまっていたことが、何故か一瞬、とても残念なように思えた。
「お前に同情なんてしてないよ。お前のことをよく知りもせずにそんなことをするのは、お前に対して失礼だ」
「なら何故!」
「何故って」
呆れたようにそう言って、少年は肩を竦めたようだった。
「俺はただ、余計な殺しをして自分が不快になるのが嫌だっただけだよ。単なる死にたがりの自殺に手を貸してやるほど、俺は優しくないんだ」
辛辣な言葉を至極当然のことのように告げられて、彼は目を見開いた。
「お前の身体を縛っていた枷は外した。とっくにお前の前からいなくなった主の命に準じて今すぐ死ぬか、それとも自らのために生きるのか。……どっちを選ぼうと、もうこの山から魔物の吼え声が聞こえることはないよね」
返す言葉を失う彼に、少年はもう一度、少しだけゴーグルを押し上げた。――そして初めて表情を変えた。
口の端を歪め、にや、と笑ったのだ。
「俺は俺の都合のいいようにしただけ。お前の都合なんて知ったこっちゃないよ、だって俺には俺の我儘を押し通すだけの力があるんだもん。
でも、お前に俺の我儘に付き合えとまでは言わないよ。俺はお前にこれ以上干渉する気はないから、ここから先はお前もお前の都合のいいようにすればいいんじゃないの?
もう鎖の絡み付いてない、その体使ってね」
「…………っ、」
呆然としている彼を放って、少年はゴーグルを着け直すと、そのまま吹雪の中、元来た道を歩き去っていった。
それきり一度も振り返ろうとはしなかった小さな背中を、彼は指一本動かせないまま見送ることしかできなかった。
――それからしばしの時が経ち。
人通りの激しい、大きな街の喧噪の中。
防寒用の分厚いマントはとうに荷の中にしまい、今は薄手の旅装束に身を包んだその少年は、雑踏の只中でふと足を止めた。宝石のような紅金の瞳が、人込みを透かして前を見る。
「……何の用?」
数歩離れた前方に、若い男が立っていた。
月光を縒ったような金色の髪に、冬を想わせる冷たい蒼の瞳。
一週間前に見た時ほど痩せ細ってはおらず、追い詰められたようなぎらぎらした瞳の輝きも失せていたが、その精悍な顔はむっつりとした仏頂面を浮かべていた。
ひょっとして仕返しにでも来たのかなぁ、と一瞬思って不安になった少年だが、男はすたすたと歩み寄るといきなり少年の手を取って、
「『我が忠誠のもと、貴殿の傍に在りその意志に従うことを誓う』」
細い指先に唇を落とした。
「…………、」
「マスター承認の儀だ。だいぶ略式だけどな」
眉を上げる少年を上目遣いに見上げ、男は言う。
「てめぇのせいで、俺は死に場所を失った。今更自殺も興醒めだし、さりとて行き場もやることもねぇんだよ。だから、しばらくてめぇについて行くことに決めた。俺が他の何かを見つけるまで」
「……承諾した覚えはないんだけど?」
なにせ使い魔にはマスターが必要だしな、と嘯く男に、少年は聞く。だが、男はフンと鼻を鳴らし、
「てめぇの都合を考えてやる義理が、俺にあるのか?」
「…………」
いつか自分が言ったと同じ言葉を返されて、少年は目を見開き、そして「はっ」と息を吐いた。馬鹿にされたのかと一瞬むっとした男は、少年が体を折って笑い出したのを見て目を瞬かせる。
「はははっ! あはははははははっ」
悪意も嘲弄も一片とて無い、心から可笑しそうな声を上げて。
未だ幼げなその少年は、涙まで浮かべて笑い転げた。
「ああ、悪くない、悪くないね! 全てを諦めたような顔をしていたあの死にたがりが、よく言ったもんだ! 良いよ良いよ、好きについて来れば良い。でも、俺の都合が悪くなったらとっとと置いてくかもしれないけどね?」
「お、おう。望むところだ! 俺も都合が悪くなったら、てめぇなんかさくさく置いてってやるからな!」
「へぇ、いい度胸じゃん。でも、そう簡単に俺を振り回せるとは思わないことだよ」
少年はニヤリと笑い、男に向かって右手を差し出す。
「俺はエアーファのカイ、魔導師だよ。カイで良い」
言われて初めて男は、二人が互いの名すら知らなかったことを思い出した。右手を差し出し、少年の双眸を真っ直ぐ見据えて告げる。
「俺の名はルヴナ=ルヴィナ=マルクレアだ。宜しく頼むぜ、カイ――俺のマスター」
――のちに二人は、この日のことを振り返って思う。
異端児と呼ばれたエアーファの天才魔導師と、最強と謳われた使い魔の物語は、きっとここから始まったのだろう、と。




