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I'm OK You're OK 6

「はい、チャイム鳴ったよ!席に着く!」

 まだざわざわとしている朝の教室。

 机の上に鞄が乗ったまま、となりの席の生徒と話をしている生徒も多い。

「セーフ!」

 野球部の生徒が息を切らして教室に駆け込んでくる。

「チャイムが鳴り終わったのでアウトです」

「えー先生、俺朝練してたんだぜ?とっくに学校来てたよ」

「ルールはルールです。チャイムが鳴り終わるまでに座ってないといけないって、一番最初に言ったはずですが」 

 まあ実際に出席簿にはつけませんけど。

 ルールは明確にしておかないといけない。

「頑固」

「頑固で結構」

 クラスの中で、ルールが、正義が通らなくなったらそれを持ち直すのは大変だ。

 いつも通り、挨拶をして連絡をしてSHRを進めていく。

「最後に、何か質問や連絡のあるひとはいますか?」

 形だけの質問だ。行事や委員会からの連絡などがなければ、手を挙げる生徒はほとんどいない。とくに連絡はないだろうと思って、すぐに切り上げようとしたが。

 いきなりひとりの女子が立ちあがった。

 いつも元気で、クラスのムードメーカーである生徒だ。行事などでは率先してクラスを引っ張っていく。

「なに?」

「せーのっ」

 私の声と、彼女の声はほぼ同時だった。

「ハッピィバースデイ!」

 クラス全員が、声をそろえて叫ぶ。

「高瀬先生ー。誕生日おめでとー!」

「え、え、ええええ!?」

 今日?

 あ。私の誕生日だ。何で知っているの。

「はやく結婚しなよ」

「その前に彼氏見つけるところからだよ」

「結婚してない先生って誰だっけ」

 好き勝手に騒ぎ始める生徒たち。

「あーもーうるさい!」

 恋愛に興味津々の年頃だ。なにかあると誰かとくっつけたがる。しかも自分たちの知っている人間関係の中で。

 彼らの世界は学校が主だ。場合によってはそれがすべての生徒もいる。

 そういう狭い環境の中で、逃げられない中で様々なことを経験していく。

 勉強も、人間関係も、それ以外も。

 その人生の片隅に私という存在がいるということ。彼らを構成するひとつのピースになれたら、これ以上嬉しいことはない。

 与えることが多い中、こうして思いがけないところで生徒から気持ちが返ってくるのが、この仕事の醍醐味だとも思う。

「ありがとう。本当に嬉しい」

 私はこの子たちから、とても大きなものをもらっているんだということを。

 おめでとう、の言葉がこんなに嬉しいなんて知らなかった。



 普段部活三昧で勉強をちっともやっていない男子テニス部。テスト期間になると部活は休みだが勉強会をやっている。希望制だが、参加する生徒は多い。家に帰ったってやらないしね。

 私の教室でやってもいいけど、三年生だし自習する生徒もちらほらいる。そういう生徒もいるから、邪魔にならない理科室を借りて各自勉強させている。

 私の担当は国語だけれども、答えられる範囲ならほかの教科の質問も受け付け可にしている。まあだいたいは職員室に行かせることにしているけど。

 そんな感じで監視兼質問コーナーをやっているが、生徒たちが私のところに来るのは少ない。片手間で事務作業をしながらやっている。

 一般下校の時間が来たので部員を追い出す。戸締りを確認しようと窓に近づくと、最後まで粘って勉強をしていたタカが、「手伝います」と手を貸してくれた。

 ほんとうにできた子だ。

 できた子過ぎて、心配になる。

「タカはさ、何がきっかけでテニス始めたの?」

 先日の試合での兄弟のやりとりを聞いて気になっていた。

 二人の間に流れる、空気。お互いを否定しているわけではない。仲が悪いわけではない。

 しいて言えばどう距離を近づけていいのかわからないような。

 年齢の差だけ距離が遠いのかもしれない。また高山くんの愛情が見えにくいだけかもしれない。

 タカは窓の鍵に手を伸ばし、じっと外の風景を見つめる。夏へ近づく季節だ。日はまだ沈んでいない。門の向こう、下校する生徒たちの姿が見える。

 高山くんと似ている目がそっと伏せられる。

「最初は、テニスが嫌いだったんです。お兄ちゃんテニス部で家にいないし、全然遊んでくれないし。…けれど、お姉ちゃんに連れてってもらった試合、お兄ちゃんが高校三年のときのインターハイ予選の試合で、初めてプレーを見て。家ではあんまり話をしないというか、何考えているんだろうって思っていたお兄ちゃんが、試合では闘志むき出しって言うか、絶対勝つっていう気持ちがこっちにまで伝わってきて。…それまでなんだかずるいって思ってたんです。なんて言うか、テニスにお兄ちゃんを取られた気分で。でもその試合を観て、僕もやりたいって思ったんです」

 高山くんと対照的な真っ黒な髪。成長期の体。

「お兄ちゃんは高校でテニス辞めちゃって、僕が一緒にやろう、練習してよって言っても全然相手してくれなかったんです。ずるいって思った。僕にテニスをやりたいって思わせてから、自分は勝手に辞めちゃうだもん」

 徐々に言葉が砕ける。私に話しているのではない。自分に向ってだ。対おとな用の顔ではなくて、年相応の。普段同級生と話しているような、顔。

 少年の顔。

「だからうちのコーチやるって言ったとき、すごく嬉しかった。家でも部活の話とかするし、いままで全然そういうのなかったから」

 鍵に掛けられた手がすっと降りて、窓の枠をつかむ。強い眼が景色の向こうを見据える。

「いままでずっとお姉ちゃんとお兄ちゃんがうらやましかった。僕だけ年が離れているから、話すことも違うし、あんまり一緒に遊んだりしなかったし」

 高山くんがテニス部を指導するようになっても、タカの態度は変わらなかった。兄弟が、家族が学校にいると恥ずかしいと思う生徒の方が多い中で、だ。

 それは成長期ではあたりまえのことだ。

 自己の芽生えから、親から距離をとっていく。同年代のともだちと秘密や思い出を共有する、ギャングエイジと呼ばれる時期だ。この時期を経ておとなへと成長していく。

 だから反抗期というものは、成長過程において必要なことなのだ。

 参観会でもそうだった。ほかの生徒は家族が見に来ると、照れくさそうに、うっとうしそうにする態度をとるが、タカは思春期特有の家族に対する恥ずかしさがまったくなかった。

「思い出っていったら、保育園の迎えで手をつないで家に帰ることしかなくて」

 胸の前まで上げた右手をぎゅっと握る。

 夕焼けの向こう、制服を着た高山くんが幼いタカの手を繋いで歩いている姿が浮かぶ。

「だから、中学最後の大会で、お兄ちゃんと一緒に部活できるのが、すごく嬉しい」

 いままでいい生徒すぎていたタカ。年齢相応の、こどもの心が見える。

 なんだかほっとした。タカが私に心を開いてくれたこと。高山くんが愛されていること。

 タカがちゃんと中学生をしていることに、安堵をおぼえた。



 定期試験前なので、テニス部だけでなくどの部活も活動は無い。生徒たちもさっさと下校し、完全下校の時刻には校内の戸締りをすることができた。

 いつもは部活指導や教材研究で遅くまで残っている先生方も、ほとんど帰宅している。

 残っているのは若い先生だけだ。

 仕事を終えて靴を履き替えているとき、携帯が鳴った。

 友人からだった。

「もしもし」

『ハッピーバースデイ!今日これから暇?』

 やっぱり突然だ。私の予定なんて考えていない。このひと自由すぎる。

「…ありがとう。覚えてくれていて光栄だわ。ちょうど仕事が終わって帰るところだけど」

『ちょうどいい。今からご飯食べに行こう。奢ってあげる。この前集合した駅で』

「了解」

 今日はたくさんのひとに祝ってもらっている。

 ほんとうに、嬉しい。


 と思ったのは30分前の私。

 そろそろ学習したほうがいいんじゃないかとは思う。

 いやもう、いいけどさ。突っ込む元気もないよ。

 意気揚々と店のドアを開ける友人。

 お店に入ると同時に「高山呼んで、高山。至急来るように言って」だもんね。二度目だっていうのにほんとこのひといい根性している。

 友人も今日来ることは知らせていなかったのだろう、私たちを視界に捉えた高山くんの表情は、とても驚いていた。

 私だって二度と来ないと思っていたよ。

「来るなら一言言ってくれたらええのに」

 高山くんの嫌みのような文句のような。

「…いまのいままでここに来るとは知らされていなかったのよ」

 言われなくても知っていたら来なかったよ。

「そうよー。サプライズ!今日は綾の誕生日なんだからパーッとしようと思って。姫扱いでよろしく」

 姫扱いってなんだ。

「…誕生日なん?」

「…まあ」

 誕生日にホストってどうなの…。友人の思考回路を覗いてみたい。普通に食事するだけで十分なんですけど。

 高山くんは怒ったような顔を見せている。

 いや、不機嫌だ。

 いままででいちばんの。

「帰れ」

「はぁ?」

「帰れって言っちょる」

「何でよ」

「いいから帰るなり」

 私の肩を掴んで、ぐいぐいとドアのほうに押しやっていく。え、ちょっと待ってよ。

「私じゃなくて前にいるひとに言ってよ!私は連れてこられただけ!」

 ほんと私の周りのひとって話を聞かないひとばかりだ。私の意志を華麗に無視して好き勝手言ってくれる。

「えー、今日綾と約束しているのは高山じゃなくて、このわ、た、し。自分の迂闊さ棚にあげてなに言ってんのよ。どうこう言われる筋合いはないわよー?」

 後ろから聞こえてくる声。高山くんの手が私から離れる。振り返ると高山くんの背中が見える。その向こう、得意げに笑う友人。

 そのふざけたような言い方、なに挑発しているの。ああもうにやにや笑っている場合じゃないよ。いままで見たことないけど、高山くんたぶん本気で怒っているよ。背中しか見えないけど、なんだかそんな気がする。私の勘が言っているんだって。

「帰れ」

「やだ」

「か、え、ろ」

「やなこった」

「ちょっとなにこどもの喧嘩みたいなことしているのよ!」

 額をくっつけそうな勢いで、睨み合っている。今にもつかみかからんばかりの勢いだ。このひとたちお互いがお互いに我が強いから、冗談じゃなく取っ組みあいの喧嘩に発展しそうだ。

 こんなところで喧嘩なんてやめてほしい。お互いいいおとなだっていうのに。

 慌てて間に入る。喧嘩の仲裁なんて仕事中だけで十分だ。

 まさか学校以外でこんなことするなんて思いもよらなかったよ…。

「明日も仕事だからすぐに帰ります!お互いに譲歩して!もうそれでいいでしょう!」

 なんでこんなこと言っているの、私。

 がっくり肩を落とす。なんで誕生日にこんな疲れる思いしなくちゃいけないの。

 なにこのひとたち。もうやだ、早く帰りたい…。



 いやはやわけがわからない。高山くんも、友人も。

 席に着いてからも友人の態度は大きい。ソファーに踏ん反り返っている姿は、余裕すぎて常連みたい。二回目だよね?この場に慣れている感じが、友人としては頼もしくもあり怖くも感じるわけで。

「やー。もう、高山あいつ面白いね!じつに面白い!」

 上機嫌なのはあなただけだよ…。

 そもそもあなたがここに連れてこなかったら、彼とも会わなかったわけだ。

 私の周りには自由なひとが多いのかもしれない。

「高山くんってどんな中学生だったの?」

 友人がグラスに手を伸ばす。カクテルを口に含みながら、思い出すように目が泳ぐ。

「んー、アイドル集団のテニス部でわーきゃーって騒がれてて、クラスではだるそーに授業受けてたかな」

 さっぱりわからないのですが。あ、でも退屈そうに授業受けている姿なら想像できるかも。

 というか、アイドル集団ってなんなの。部活と歌って踊れるアイドルなんて関係ないと思うけど。

「テニス部、だったんだね」

 仁科さんも言っていたけど。とても意外だけれど。

「そうそう。うちのテニス部って、見た目で惚れたら痛い目見るぜって感じのびっくりするぐらい強い部長を中心として、学校一練習量の多いっていうか厳しい部だったのよ。常に優勝があたりまえ、みたいな中でさ、特待生枠あったんじゃないかな。それくらい力入れている中で、レギュラーだったんだよね。あの時は興味なかったし、テニス頑張ってるの?ふーん、あっそ、だからってクラス行事サボんなよ、ぐらいにしか思っていたけど、いま思うとすごいことだったんだよね」

「ふーん」

 人気があるひとが集まったような部活、ってことなのだろうか。

 友人はそういうことに興味がなさそうである。距離のある言い方から想像すると、当時そんなに仲良くなかったのだろう。

「あとなんか異様にモテてた。ていうか告白されてた?っていう。なーんか付き合ったりすぐ別れたりって感じを繰り返していた」

「…へー」

「たぶんあんたが先生だったら手こずってたんじゃないの?」

 生徒指導で?付き合うな別れるなって指導すること?エスケープしていたら探しに行くってこと?それは勘弁してほしい。

「いまでも十分手こずっているんですけど。ていうかいやな想像しないでよ…」

 彼は手強いだろう。想像しただけでげんなりする。

「んー。でもあんたがあいつの先生だったとしても、面白いと思うけど」

「何がよ」

「振り回されるあんたを見てみたい」

「…そうですか」

 このひと私をどうしたいの。ともだちじゃなかったの、と思わず突っ込みたくなった。


「なに話しちょるの」

 するりとスーツを着た高山くんが私の隣に座る。

 やはり太陽の下でジャージを着てテニスを指導している姿と、今の夜を纏った姿は少し違う。

 作ったような。壁。距離を感じる。

 高山くんを演じているということなのだろうか。

 まじまじと見つめてしまった。高山くんが「どうしたん?」と訊いてくる。

「ううん、なんでもない」

 なんでもない。

 これが仕事用の彼なんだ。

「いやー高山の中学のときの話。あんたは超不真面目で女ったらしだったよね」

「おまえさん、何吹き込んでいるんじゃ」

「ウソは言ってないよ。全部本当じゃないの。にししし、己の行動を反省するがいい!」

「あれは噂なり。そんな暇あるわけなかったぜよ」

「ウソおっしゃい。何度か女子と一緒に下校している姿を見たんだから」

「…若気の至りじゃ」

「うひょー。あんたからそんな言葉を聞くとは思わなかった。なにこれ高山もおとなになったってこと?」

「うるさいやつじゃのう」

「わーお、なにこの反応。新鮮!そうそう。あのさ、思い出したんだけど、吹奏楽部だか何部だか忘れたけど付き合っている子と部室でえっちぃことしたって、あれほんと?」

「おまえいますぐこの場から消えろ」

 方言が消えた。完璧なまでの標準語。いつものような独特のイントネーションと言葉ではない。高山くんの標準語、初めて聞いた。

 違う、学校で、参観会で会った時、二度目に会った時に聞いた。

 その時の声音とはまるで違う。

 高山くんがものすごく冷たい視線で友人を見る。

「うお。まじで怒らないでよ!若気の至りはたのしい酒のつまみでしょ!」

 ふーん。あっそ。いや別にそういうことはどうでもいいんですけど。

「なかなか楽しそうな中学生活ね」

「おまえさんも変なこと聞かんほうがいいぜよ」

「へー、変なこと?私はどんな中学生だったの?って訊いただけですが」

「…普通の中学生だったなり」

「ど、こ、が!あんたバレンタインでチョコ三桁もらっているなんてどこが普通の中学生よ!」

 …どこのアイドルですか?

「黙れ」

「なによー隠すようなことじゃないし。てっきり高山のことだから、俺こんなにモテたんだぜ?いまもモテモテだぜ?って自慢するのかと思った」

「黙れって言っちょる」

「ふーん、そうなんだ。やだ、面白いことになってんじゃないの」

 その時、高山くんはほかのホストに呼ばれた。どうやら指名が入ったらしい。人気者でなによりである。

 席を立つ瞬間、「おまえさん、これ以上余計なこと言うな」と友人に釘を刺し、高山くんは他のテーブルへと移った。

 高山くんがいなくなったのを確認してから、話を続ける。

「まあたぶん綾が王海にいたら、まず近寄らなかったタイプじゃない?」

 私の性格をよくわかっている友人。付き合いは長いのだ。言いたいことはわかる。

「ん、でも中学のときの高山くんには会いたかったかな」

 どんなことを見て、どんなことを考えていたのか。

 いまの高山くんになるまで過程を、見てみたい気もする。

 と呟くと、友人が目を見開いて私を見ている。何か私の顔についているのかな。

「あんたさぁ、それ素で言ってるの?」

「なにが」

「なんで気づかないの?」

「だからなにを」

「仕事にしか…中学生にしか興味なくて、いつも気にかけているのも話題の中心も悩む対象も全部中学生で、おとななんてかかわってこなかったくせに。中学生にはびっくりするぐらいその個人のことを考えて必要とあれば踏み込むくせに、おとなには一切しないじゃないの」

 その言い方はまるで他人に関心を抱かない冷たい人間だ。彼女のいうことは間違ってはいない。そういう風に生きてきた。そうだけど、だけど。

「だって中学生には手が必要なんだよ。おとなは私の手がなくても道を選べるんだよ。だから」

「あんたが信念を持って仕事しているのを知っている。あんたは相手を信じて甘やかさない。簡単に手をかさないだけで、できないことだけ手を差し伸べるだけであって、冷たい人間じゃないってことも知っている。相手を認めているからこそ、できると思って必要以上の心配をしていない、介入もしない。あんたのおとなに対する姿勢はそうなんだよ」

 このひとは言わなくてもわかっている。わかっているのになんで。

「ねえ、ここ最近ずっと同じひとの話しか聞いていない。…あんたの口から高山の話しか聞いていなんだよ」

「え…」

 そんなことない。だって彼女とはいつもたわいのない話や仕事の話や最近見たテレビなんか…話題なんていっぱいある。色々な話をしていたはずだ。

 彼の話しかしてないなんて、そんなのウソだ。勘違いしている。


「あんた周りには敏感のくせに、自分のことになると鈍いからもうはっきり言う。長い付き合いだから断言できる。綾、あんた高山のことが気になっているんだよ」


 一瞬、周りの音がすべて消えた。まわりの声も、流れている音楽も。

 え、何、何言っているの。

 気になるって、それって。

「…き、気になるってそれはそうでしょ、今一緒に仕事してて、あんな不思議なひと…」

「ねえ、綾」

 とてもとてもやさしいこえだ。こんなやさしいこえ、この人から聞いたことはない。

「気になって気になってしかたない、そういう気持ちに嘘ついて…何になるの?それがベストなら何も言わない。だけど自分に嘘つく理由なんてどこにもないんだよ」

 まるで中学生に言い聞かせる先生のように、ゆっくりとはっきりと彼女は言った。

 それはとても残酷な響きをしていた。

 そしてその言葉はずしりと心に重くのしかかった。

 


 どうやって家までたどり着いたのか、覚えていない。

 気がついたら家のリビングのソファーに座っていた。

 ただただ、疲れていた。理由もわからず疲れていた。

 その時かばんの中から着信を告げる音楽が鳴った。

 出たくなかった。とてもなにかを話せるような気分ではなかった。

 後でかけなおそう、そう思ってただぼんやりと音楽を聞いていた。

 ずいぶん長い間鳴っていたが、ぷつりと切れる。そして間を空けず、もう一度携帯が鳴り始めた。

 もしかして緊急の要件かもしれない。ようやくそう思ってのろのろとかばんの中から携帯を取り出した。

 相手を確認する気力もない。

「…もしもし」

『今、家におるん?』

 独特のイントネーションと、声。

 耳になじんでしまった。毎日聞くその声を、聞き分けできるようになってしまった。

 電話の向こうに高山くんがいる。

「……そう」

『外に出てきてほしいなり』

「外?」

 頭はちっとも回らなくて、なんでとかどうしてという考えが浮かばない。ただ言われたからそのとおりに動いただけだ。

 玄関の扉を開けると。

「なんで、」

 なんでここにはいるはずのないひとがいるんだろう。

 仕事は?私の家なんで知っているの?

 なんで笑っているんだろう。

 なんでなんでなんで。

「おまえさん、今日が誕生日ぐらい教えてくれてもええんやないの。ぎりぎり間に合ってよかったなり」

「ぎりぎり…」

 ツーツーと音を鳴らし続ける携帯電話を耳から離してディスプレイを見ると、確かに日付は変わっていない。

「それにしてもうっかりしとった。誕生日を聞いてなかったんなんて思わんかったぜよ。誕生日祝わわん彼氏がどこにおる?」


「誕生日、おめでとう。なんも準備しとらんかったけど」

どうしてこのひとはきらきらしているのだろう。まぶしすぎてみることができない。


「…めん」

「なん?」

「ごめん。ごめんごめんごめん」

「何言うちょるの」

「ごめんごめんごめん」

 このひとは、私には眩しすぎる。

「どうしたんぜよ、いきなり」

 それでもごめんとしか言えない私に、高山くんは困った顔になる。

 

 うぬぼれていた。勘違いしていた。このひとはとても強いひとだ。

 自分の気持ちを素直に言えるひとだ。自分のしたいことをできるひとだ。

 手を貸すなんて、なんて失礼なことを考えていたのだろう。

 I'm not OK you're OK. 自己否定・他者肯定。

 逃げているのは私。

 回避しているのは私のほうだ。

 私が高山くんから逃げていたんだ。


 ごめん。かえって。混乱しているから。ひとりにして。

 そう言って玄関で泣き始めた私の手を引いて、リビングに連れていく。ソファーに私を座らせて、その横に高山くんも座る。

 高山くんは何も言わずにずっと手を握っていてくれた。

 初めて触れた彼の手は、初夏へと近づく夜なのに、とても冷たかった。

 冷たさだけがこれが夢ではないことを告げている。

 泣き疲れて、気がついたら寝ていたのに、彼はずっと傍にいた。私を抱きしめてくれていた。


 こんなやさしさ、私はもっていない。

 今の私には、とても持てるような気がしなかった。

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