I'm OK You're OK 1
仕事を始めて3年目。ようやく力の抜き方がわかってきたころで。
よく友人たちには「他の仕事より休みが多いでしょう?」と聞かれるけれど、そんなことは決してない。
毎日残業、休日出勤当たり前。もちろん無給で。
年休だって保障はされているけど、「遊びに行くから」なんて理由では、立場上、職場の雰囲気上休めない。
気力的も体力的にもしんどいことが多いけど、それを含めても、今の仕事は私に向いているとは思う。
こうして誘ってくれる友人がいることが、いい気分転換になっているのだから。
友人から電話があったのは先週のことだ。
いつものごとく残業を終え帰路に着こうと職場を出た瞬間、ポケットに入れていた携帯電話が着信を告げた。ディスプレイには友人の名前が表示されていた。あわてて出る。
「もしもし」
『あ、綾?突然だけど、来週の金曜の夜空いてない?』
突然用件を話し始めた彼女とは、10年来の付き合いだ。自由奔放の彼女は、用があるときにしか連絡をしない。しかも、相談ではなく報告の連絡だ。
「来週の金曜日?」
頭のなかで来週の予定を広げてみる。4月半ばの金曜日は、特に予定は入っていない。
「午後は研修が入っているけど、夜は特に予定はないよ」
『じゃあ、予定空けておいて。ちょっと行きたいところがあるから、付き合ってよ』
「どこ?」
電話の向こうで軽く笑ったのがわかった。
『ふふふ。内緒。また連絡するわ』
じゃあね。とやけに軽やかな口調で電話を切った彼女であったが、また新しい飲み屋でもみつけたのかと思い大して気に留めてはいなかった。
が。あのときのことを、今、猛烈に後悔している。
出張扱いの研修を終え、職場には「そのまま直帰します」と電話を入れてから、駅へと向かった。職場より研修先から直接向かう方が、距離も近いしラッキーと喜んでいた自分があほらしい。電車に乗り彼女との待ち合わせへ向かう時点で、気づくべきであった。
たしかに彼女と会うときは、よくこの駅を集合場所にしていた。しかしそれは休日のことだ。休日前とはいえわざわざ平日に、会ってご飯を食べるだけでは、お互いの住まいから少し距離のあるこのターミナル駅を選ぶことはない。
彼女には、この場所じゃないといけない、明らかな目的があったのだ。
店の前についた途端、逃げ出すべきだった。
いやな予感はしたのだ。駅から歩いていく道は今まで行ったところがなったのに、これから向かう先のことがおぼろげにわかるような、そんな雰囲気に包まれていた。
きらびやかな、看板。道の両端には、派手な頭に、スーツのお兄さんたち。
「ねえねえお姉さんたち、これからどこ行くの?」
ずんずんとわき目も振らず前を歩く友人は、そんな彼らの言葉なんて聞いていない。見向きもしない彼女に興味を失ったお兄さんたちは、またほかの人へと声をかけている。迷いのないその足取りに、もはや恐怖さえ覚える。
「ね、まさか…」
「あった。ここよ」
ぴたりと足を止めた友人の視線の先を追って、ぎょっとした。
「ここって、まさか…」
再び友人の方へ目を向けると、すでにそこには彼女はいなかった。慌ててきょろきょろ見渡すと、瞬間移動したかのように、一瞬のうちにドアの前にいて、こちらを見ていた。
にこりと笑って、私の考えを読んだように言った。
「そう。ホストクラブよ」
友人を置いて帰るわけにも行かず、堂々としている友人の横で早く帰りたいな・・・と通された席に座ってぼんやりと店内を見回していた。
「ね、やっぱりまずいんだけど。知り合いにあったらどうしよう」
「大丈夫。そのためにここまできたんじゃない」
なんてことないようにいう友人だが、彼女と違って私の場合、あってはまずい知り合いなんて桁が違う。
この受け答えは予想していたのだろう、席についてからこちらをちらりとも見ず、従業員に何か言っている。
「…ホストに行ったことあるなんて、初めて聞いたんだけど」
「え?今日が初めてよ?」
「駅からまっすぐ向かっていた様子といい、店内に入ってからの堂々とした雰囲気といい、てっきり何度も行っているかと思った」と告げると、「この間偶然会った友だちが今ここでホストしているって言うから、じゃあ一度行こっかなって思っただけ」とさらりと理由を言う。
「だって一度は行ってみたいと思わない?」
にこっと笑う彼女を見て、そういえば好奇心旺盛のこの性格に、昔から振り回されていたんだな、とちっとも学習しない私の脳を恨めしく思った。
「お、なん来たんか」
「来たよ・・・・・・あはは、高山がホスト!やっばい似合いすぎるっ」
友人の向こう側、視界に何かまぶしいものが入り込んできた。
するりと友人の隣に座り込んだ人は、白い髪をしていた。照明が反射してまぶしくて思わず目を細める。
「そっちは?」
ひょこりと顔を覗かせた彼と視線が合う。少しきつく感じる目、口元のほくろ。白い髪とスーツで、なんというか、見事なかっこいいホストだった。
その彼の目が、私を見て一瞬で丸くなった。
え、何。やっぱり場違いってこと。
研修のため、グレーのパンツスーツに控えめなメイク。派手ではないけど、これでも普段よりきちんとした格好である。
彼はすぐに驚いた表情を隠し、にこりと笑った。
「私の大事な友だちよ。あんたより百倍真面目で千倍いい子なんだから、変なことしないで丁重にもてなしてよね」
「ひどい言い草やのう」
そんなひどいことしとらんし、と笑う。友人は砕けた口調で彼に近況を語り始めていた。
こういうところは初めてだから確証はないけれども、多分、彼はとても気を使ってくれているのだと思う。
ドラマとかで仕入れた情報だけど、こういう場合最初に人気がある人が接待して、他のいかにも新人とかいう人がその後引き継ぐものじゃないのだろうか。指名が入るのか何なのか時々席をはずすことはあるが、基本的に隣にいる彼は、仕草や話の振り方からしても結構レベル高いと思うのだけれども。
「そんで?綾は?」
社会人になってからは滅多に下の名前で呼ばれることはないので、どうにもこうにも落ち着かない。それもイケメンに。敬称もないのかよと突っ込まなかった私を褒めてほしい。居心地悪いからすぐに名字呼び捨てを希望したのだけれども、彼に「大事な人の名前を呼んで何が悪いん?」とにっこり笑ってあっさりと却下されてしまった。あーむずむずする。
これってあれかな、明らかに年上だったら「~さん」みたいな呼び方になるのかな。見た目から判断しても多分あまり変わらないと思われる。親しみを込めての呼び捨てだとは思うのだが、そもそも親しくしようと思っていない私にはこの状態は軽く罰ゲームだ。
「いや高山くんね…さっきから言っているけど名字呼び捨てに変えてくれないかな…」
「却下。それに俺のことも名前の呼び捨てでかまわん」
「はははは遠慮しときます」
「名字呼びのが好きやけん、たいがい名字にしてもらっちょるけど、特別に綾は名前で呼ぶの許したる」って言われたときにはね…あなたどこのホストですかと思ったよ。あ、ホストなんだけど。
すごいなホスト。特別って言われたらそりゃあ普通のオナゴは落ちるわ…と冷静に見ている自分てなんだか悲しくなってくるわ。
それにしたって彼の下の名前なんて即忘れたんですけど。名前覚えるのは仕事上得意なんだけど、もう頭の中はどうやって帰るか考えるので忙しいのですよ。
友人を振り切って帰るほど強気になれないのがね、悲しいんですけど。
そんな私をここに連れてきた張本人は興味があるだと言っただけあって、隣についている若いお兄ちゃんの方を向いてずっと喋っている。もう私と話す気なんて微塵も見られない。その背中が「お前邪魔すんな。雰囲気ぶち壊したら死刑」って言っているんですよ。
こうなったら私にはどうにもできない。大人しくしているのが最小限に防げることを、長い経験から知っている。
こういうとき、やっぱり友だちって選ぶべきかなって軽く後悔する瞬間でもあるのだけれども。
「それで?綾は仕事何しているん?」
「あーなんというかその質問は無しの方向で…」
さっきから目線をはずさない彼に耐えられなくて思わずグラスを口に運ぶ。視線に威力があったらとっくに左側の頬は焼け焦げていますね。距離が近い。近すぎる。
ずっと背筋を伸ばしてぴしっとソファーに座っている私の左横に彼は座って、体ごとこちらを向いている。というかソファに行儀悪く片足を乗っけて、その膝が私の太ももに触れているんですけど。気にしているのは私だけですか。 これくらい当たり前でみなさんは気にもしないことなんですか。
「…なぁ、触ってええ?」
「はぁ?」
短い沈黙のあとに耳にとどいたその言葉が全く理解できなくて、思わず彼の方を向いてしまった。 いままでにこにこと笑っていた彼の顔が一瞬で変わってしまって、その真剣な目にぶつかってたじろいでしまった。
すっと彼の左手が伸びてきて頬から首筋を撫でたのだ。それはもう触れるか触れないかの絶妙な加減で、思わず背中に何かが走った。
にこりと笑う彼。
「ああああれだね!高山くんってお姉さんいるでしょ!」
この雰囲気に耐えられる図太い神経を持っていたらいいのだけれども、イケメンにこんなふうによいしょされる状況なんて今までなかったので免疫なんてあるはずがない。
「ほぉ?どうしてそう思うん?」つぶやく彼から発しているオーラというか雰囲気がすっと変わった。目を細めて面白そうに私を見てる。
「た、多分ね、兄弟構成は姉、高山くん…年が離れているか仲良くないかはわからないけど下に弟か妹。お姉さんとはそんなに年は離れていない」
「…あたっちょるよ。姉貴、俺、弟。弟とは10離れとる」
「これちょっとした特技」
だいたい人の行動や言動は、家庭が影響している場合が多い。特に人生経験の少ないこどもは顕著だ。家庭での役割、環境、家族の考え方や雰囲気をそっくりそのまま反映している。それらが知らず知らずのうちに自分を構成する要因になっている。
おとなになるにつれて色々なことを経験し、学び吸収していくなかで自分を構成するものが多岐にわたる。だからおとなのほうがもう少し複雑なのだが、彼は独特の雰囲気を持っていた。
仕事とはいえ、女性に触れるその動作にためらいがなかった。きっとずっと昔から距離の近い女性がいて、彼の中で女性とは身近な存在で、それがあたりまえの環境で育ったんだと想像される。 それに相手の表情や動作から様子を読むその自然さは、努力して習得するよりも育ちながらおのずと身に付いたという印象を受けた。それくらい自然だ。
上に兄弟がいて、彼自身が末っ子ならそんな努力はいらなかったはずだ。
何も努力をしなくても両親から惜しみない愛情をかけてもらえる立場ではなく、複数の人間関係の中で己のポジションに甘えることなく常に物を見色々なことを考えて育ってきたように感じたのだ。
先ほどから感じる距離感。おとななのに思春期のこどものような、不思議なアンバランス。それは、多分。
「これも想像なんだけど、高山くんの中におとなはいない。あなたに影響を及ぼしたのはあまりいない。はやいうちに自分の世界を持っていた。先生とか周りのおとなを好きではなかった。多分、先輩とかもあなたに影響を与えたように思えない。人からあまり影響を受けないタイプかな?強いて言うとあなたの中にいる他人は同級生ぐらい…?それもあいまい。なんかね、高山くんてこどもっていうか中学生っぽい感じがして…私から見るとすごく不思議」
そう思ったのは方言。大学時代全国各地のともだちと親しくなってから気付いたけれども、方言の習得は意図するもしないも毎日のリスニングに左右される。その言葉を毎日聞くような環境で生活をしないと、違和感の無い滑らかな方言は話せないのだ。
彼の言葉のなかにはたくさんの地域が見え隠れする。家の都合で転校が多かったのだろうか。転校生はゼロから新しい友人関係を築いていかないといけないため、環境適応能力、対人関係のスキルを要求される。回数が多ければそれだけ経験も積むだろう。
多感な時期の環境の変化は大きなターニングポイントだ。何度も繰り返すと、始めから終末がみえてしまうのだろう。誰に教えられたわけではないのに経験から知っている。諦め。出会ったときから常に別れをイメージしてしまうその環境で。
いつかは終わる。そう思ってひとつひとつに心を動かさず、どうせと思って最初から期待なんてしない。
そういう、たくさんの終わりを知った人のような気がする。
「番号、教えて」
高山くんが面白い物みつけたという目で私を見ているのは気のせいだろうか。いや身を乗り出してきているんですけど。
「いや、もう二度とこないから。薄給の身なので売り上げに貢献なんてできません。他の人捕まえたほうがよっぽどいいよ」
営業だろうと社交辞令だろうと何だろうと教える気なんてないですよ。いやしかし彼は何か勘違いしてないか?興味をもたれるような個性は持っていないのですが。
「教えてくれなかったらキスするけど?」
「…書くもの、貸して」
高山くんは満足そうに笑って胸元から一枚の名刺とペンを出してテーブルに置く。さっきの必要以上に過敏に反応した様子を見てこいつ絶対楽勝と思ったんだろうな…。その通りだよ。そんな駆け引きできるほど経験つんでいません。
ため息をひとつついてペンを持った私を見て高山くんはくつくつと笑った。
ああ、もうホストクラブなんて来るんじゃなかった。
11桁の数字を書きながら、右隣でからからと笑う友人を横目でにらみつけた。