あなたに出会った最大の誤算は、死にたくないと思ってしまったことでした。
学園の図書館は、昼下がりになると人の気配が途絶える。
窓から射し込む光が、積まれた本の背表紙を照らし、埃の粒子をきらめかせる。
その静けさが、リディア・エルンストには心地よかった。
母を亡くして以来、彼女には話し相手などいなかったし、社交の場で笑うことも苦痛でしかなかった。
父ギルベルトは家のことばかりで、リディアにかける言葉といえば「子爵家の娘として恥じるな」「建国記念日には務めを果たせ」ばかり。
その「務め」が何を意味するのか、リディアは知っていた。半年後、命を燃やす役割を背負っていることを。
だから彼女は、本に逃げた。
物語の中なら、死ぬことを強いられる令嬢ではなく、ただ夢を追う少女でいられるから。
その日も、リディアは背伸びをして分厚い本を取ろうとしていた。
けれど指先が届かず、結局、本は滑り落ちてしまった。
慌てて抱きとめ、傷ついていないかとページの端を撫でる。
そのときだった。
「大丈夫? 怪我してない?」
不意に声がして、心臓が跳ねた。
振り向くと、背の高い青年が立っていた。整った顔立ちに、涼やかな灰色の瞳。制服の徽章が示すのは――侯爵家の令息。
「……はい。本の角が少し潰れてしまいましたが」
「君が落ちたんじゃなくてよかった」
彼はそう言って笑い、ひょいと手を伸ばして高い棚の本を取ってくれる。
自然な所作。気取らない笑顔。
リディアは思わず戸惑った。
だって、これまで誰も、こんなふうに声をかけてくれたことなんてなかったから。
「同じ本を読むんだね。前にも見かけたよ」
「……そう、でしょうか」
「うん。表情が真剣で、話しかける隙がなさそうだったから」
青年は軽く肩をすくめる。冗談めかした調子なのに、不思議と嫌味がない。
リディアは視線を落とし、唇を結んだ。
「私と話しても……退屈でしょうに」
「退屈かな? 本を好きな人と話すのは楽しいよ」
胸の奥が少し震えた。
リディアは人と話すのが苦手だ。母の死以降、誰も彼女の心に踏み込んできてはくれなかった。
でも、この青年は「退屈じゃない」と言った。
「僕はアレクシス・ヴァンデル。君は?」
「……リディア・エルンストです」
「リディア、いい名前だ」
アレクシスはそう言って、気さくに笑った。
その日から、彼と会うたびに、ほんの少しだけ会話を交わすようになった。
季節の話、本の感想、くだらない笑い話。
リディアは知らなかった――人と話すだけで、こんなにも胸が温かくなるのだと。
ある日、窓辺で本を閉じたアレクシスに、不意に言葉が零れた。
「……私には、友達がいたことがありません」
言ってしまってから、強く後悔した。
きっと笑われる。軽蔑される。孤独をさらけ出すなんて愚かだ。
そう思ったのに。
「それでいいんじゃないか」
「……え?」
「君は君のままでいい。無理に誰かに合わせる必要なんてない」
静かに告げられたその言葉が、胸の奥を鋭く突き抜けた。
父からは「家のために死ね」としか言われなかった。
誰も、リディアを肯定してはくれなかった。
なのにアレクシスは。
ただ、ありのままのリディアを受け入れてくれた。
視界が滲んだ。
――ああ、この人に、もっと会いたい。
その瞬間、リディアは気づいてしまった。
自分が、アレクシスを好きになってしまったのだと。
ーー
この国は今、静かに二つに割れつつあった。
現国王を支持する王派と、その実弟を推す王弟派。
表向きは平和を装っているが、裏では両陣営の暗闘が続き、政の場も社交界も、どちらに与するかで目まぐるしく勢力図が変わっていた。
王弟派の旗頭は、ヴェルナー公爵。
父ギルベルト・エルンストの親友であり、王弟の忠実な支持者でもあった。
ヴェルナー公爵は巧みに人心を操り、「国王は病弱で、このままでは国が衰退する」と流布し、王弟を次代の王に据えようと画策していた。
その目論見のひとつが――建国記念日の同時多発自爆テロだった。
リディアがそれを知ったのは、母の死から数年が経った頃だ。
◆
母は優しい人だった。
病に倒れるまでは、毎晩のように読み聞かせをしてくれ、歌を口ずさみ、リディアの髪を撫でてくれた。
母のぬくもりが、この世界をまだ「生きるに値するもの」と思わせてくれていた。
だが、母がいなくなった日。リディアの世界は急に色を失った。
父は涙ひとつ見せず、ただ「家のために強くあれ」と告げただけだった。
学園に通うようになっても、同年代の子女たちと打ち解けることはできなかった。
彼女の瞳は常に閉ざされ、「生きている意味」を見いだせずにいた。
◆
だから、王弟派から「建国記念日に命を捧げよ」と打診があったとき――リディアは迷わなかった。
どうせ意味のない命なら、家のために燃やすほうがまだ価値がある。
そう思ったのだ。
ヴェルナー公爵は笑顔で彼女の手を取り、「その献身こそ国の未来を変える」と囁いた。
父ギルベルトは誇らしげに頷き、「お前はエルンスト家の誉れだ」と言った。
そのときリディアの心に浮かんだのは、安堵とも諦めともつかぬ静けさだった。
――これで終われる。
――もう、生きる理由を探さなくていい。
そうして彼女は、建国記念日の同時多発自爆テロの一翼を担うことを受け入れた。
◆
しかし、図書館でアレクシスと出会った。
彼と話すたびに、少しずつ心に温もりが差し込むようになった。
ーー
アレクシスと図書館で顔を合わせるのが、私の日課になりつつあった。
決して約束をしているわけではないのに、不思議と彼はいつも同じ時間に現れる。
それを「偶然」と言って笑う彼に、私はどうしてか胸を弾ませてしまう。
「また歴史書? リディアは本当に勉強熱心だね」
「……これは、ただの興味です」
「興味って大事だよ。僕なんて、義務で読むものばかりだから」
彼は机に頬杖をつき、退屈そうにノートをめくる。
侯爵家の嫡男として、外交や軍事の知識を叩き込まれていると聞いた。
けれどアレクシスは、いつもそれを冗談めかして語る。
「僕はね、リディア。出世とか名誉とか、そういうのより……人が笑って生きられる国のほうがいいと思ってる」
「……変わったことを仰いますね」
「そうかな? だって、生きているのに笑えないのは、つまらないだろう?」
私は答えに詰まった。
――生きているのに、笑えない。
それは、まさに私自身のことだったから。
◆
あるときは、二人で同じ本を読み合った。
読み終えると、彼は楽しそうに感想を語る。
「悪役令嬢が最後に笑う話、良かったな」
「……私は、ああいう結末は少し苦手です」
「どうして?」
「だって、最後まで孤独に耐えて、誰にも理解されないまま……ただ一人で終わってしまうから」
そう口にしたとき、胸の奥がずきりと痛んだ。
まるで自分自身のことを語っているみたいで。
けれど、アレクシスは優しい声で言った。
「もし本当にそんな人がいたら、僕は見て見ぬふりなんてしない。……きっと手を伸ばす」
その言葉に、顔が熱くなるのを感じた。
誰も自分を救ってはくれないと思っていた。
でも、この人は。
ほんの少しだけ、「生きる理由」が芽生えそうな気がした。
いや、そんなもの芽生えてはいけない。
心に蓋をしなくては・・・。
ーー
(アレクシス視点)
リディア・エルンスト。
最初に図書館で見かけたときから、どこか気になる存在だった。
周囲と馴染もうとせず、いつも一人で本に没頭している。
けれど決して他人を拒んでいるわけではなく、ただ心のどこかに深い影を抱えているように見えた。
その影の奥にある光を知りたい――そう思ったのが、彼女に声をかけた理由だった。
◆
アレクシス自身も、孤独を知っていた。
侯爵家に生まれたということは、幼い頃から「家の顔」であることを求められるということだった。
父は厳格で、母は形式に従うことを何より重んじた。
泣けば叱られ、弱音を吐けば「恥を知れ」と突き放される。
同年代の子どもたちが親に抱きつき、駄々をこねて笑われているのを見ても、自分には許されないことだと理解していた。
――だから、いつも胸の奥に孤独があった。
笑顔の仮面をつけ、誰にも打ち明けられない痛みを抱えて。
リディアの孤独を感じ取れたのは、自分も同じ影を背負っていたからだった。
◆
ある日の図書館の窓辺。リディアは小さな声で言った。
「……私には、友達がいたことがありません」
その瞬間、アレクシスの胸は強く締めつけられた。
彼女の告白は、幼い頃の自分が吐き出せなかった弱音そのものに思えた。
(わかるよ……その辛さを)
だから、彼は言った。
「それでいいんじゃないか。君は君のままでいい」
自然に口から出たその言葉は、同時にアレクシス自身への祈りでもあった。
もし幼い自分に声をかけてやれるなら、きっと同じことを言っていただろう。
リディアの瞳がかすかに揺れ、潤むのが見えた。
その顔は、普段の静かな彼女からは想像できないほど無防備で――あまりに愛おしかった。
(……可愛い)
気づいた瞬間、胸の奥が熱くなる。
守りたい、支えたい、それだけでは足りない。
彼女の笑顔を見たい。彼女の涙を拭ってやりたい。
それは紛れもなく、恋という名の衝動だった。
(もう……目を逸らせないな)
その瞬間から、リディアはアレクシスにとって、愛しい少女になった。
ーーー
(リディア視点に戻ります)
「……もし、私がその役目を断ったら、どうなりますか」
勇気を振り絞って問うた。
父ギルベルトはしばし沈黙したのち、冷たい声で言い放った。
「愚問だな。エルンスト家の名誉を汚すというのか」
「……私は……」
「断れば、裏切り者として処刑されるだけだ。家族である私も連座は免れまい。それでもいいのか」
静かな叱責だった。だがその目は氷よりも冷たく、言葉よりも残酷だった。
返事を詰まらせた私を、父は容赦なく睨みつける。
「建国記念日の務めは決まっている。お前はその日、学園で魔力を解き放ち、この国を揺るがす火種となる。それが誉れだ。……余計なことを考えるな」
その晩、私は屋敷の小さな部屋に閉じ込められた。
窓も狭く、外に出ることは許されない。食事だけが無言で差し入れられる日々。
建国記念日の前日まで、私はその檻の中で過ごすことになった。
◆
小部屋の薄暗い天井を見上げながら、私は何度も問いかけた。
――生きている意味なんて、本当にないのだろうか。
以前の私なら、父の言葉に疑問など抱かなかっただろう。
死ぬことが家のためになるなら、それでいい。そう諦めていたはずだった。
けれど今は違う。
アレクシスの笑顔が、声が、何度も脳裏によみがえる。
『君は君のままでいい』
『もし孤独な人がいたら、僕は必ず手を伸ばす』
彼の言葉が胸の奥で温かく響いて、眠ることもできなかった。
生まれて初めて、心から思った。
――死にたくない。
――彼に会いたい。
小さな檻の中で芽生えたその願いは、決して誰にも口にできないものだった。
ーー
小部屋の窓から見える空は、もう春の色を帯びていた。
建国記念日まで、残りわずか。
父の命令に背けば、家も自分も破滅する。逃げ場などどこにもない。
けれど――。
「……会いたい」
気づけば、その言葉が唇から零れていた。
アレクシスの笑顔。灰色の瞳。
図書館で過ごした日々が、夢のように思えてならない。
本を閉じて語り合ったこと。
支えてくれた掌の温もり。
「君は君のままでいい」と言ってくれた声。
その一つひとつが、胸の奥を焼きつけて離れない。
(私……死にたくないんだ)
生きる意味なんてないと思っていた。
母を失ってから、空っぽのまま歩いてきた。
なのに今は――ただ一人の人に会いたいと願ってしまう。
その想いが強くなるほど、足枷のように父の言葉が心を縛る。
「家の誉れだ」「務めを果たせ」――それだけが私に残された道。
気づけば涙が頬を伝っていた。
泣いても、誰も気づかない。
ここには、私しかいないのだから。
ーー
当日の朝、重い扉が開いた。
父の従者が無言で立ち、私に外套を差し出す。
冷たい布を羽織ったとき、心臓が嫌な音を立てた。
馬車に揺られながら、私は窓の外を見つめる。
街は祝祭のざわめきに包まれ、人々が笑顔で旗を掲げている。
――こんなにも喜びに満ちた日に、私はそれを壊す役割を担っている。
魔法陣が足元に広がり、淡い光が次第に強さを増していく。
刻印された紋様の一つひとつが脈打つように輝き、空気が震え始めた。
肌を刺す熱が体の内側から噴き出し、血管を焼き尽くすような痛みが走る。
呼吸は浅く、胸は苦しく、視界の端がじわじわと白く滲んでいく。
暴走は――もう止まらない。
選んだのは学園の古い講堂の裏庭だった。
壁はひび割れ、誰も近づかない。
ここなら人を巻き込まない。ここなら、せめて自分だけで済む。
(……これでいい)
そう思うはずなのに、心臓は乱れた鼓動を刻み、足は震えている。
怖い。
本当は怖い。
けれど、口を閉ざし続けた父の命令が耳にこびりついている。
「家のために死ね」
「お前の務めだ」
背筋を押すその声に従って、私はただ膝をついた。
◆
魔力がさらに膨れ上がり、骨が軋む。
両手の指先は痺れ、震えを抑えることもできない。
耳鳴りがして、世界の音が遠ざかっていく。
(……死ぬのだ、私)
その事実を理解するたび、胸の奥に別の願いが生まれる。
アレクシス。
あの灰色の瞳。
「君は君のままでいい」と言ってくれた優しい声。
並んで読んだ本の温かい時間。
支えてくれた掌の感触。
全部、全部、愛しい。
(どうして……どうして、もっと早く出会わなかったのだろう)
もっと長く、彼と話したかった。
もっとたくさん笑ってみたかった。
せめて「ありがとう」を伝えたかった。
それでも――もう間に合わない。
◆
魔法陣が爆ぜた。
眩い白光が世界を呑み込み、轟音が耳をつんざく。
衝撃が身体を引き裂き、内側から熱が溢れ出す。
痛みと共に、すべてが遠ざかっていく。
(ああ……これで終わるのか)
最後に浮かんだのは、彼の笑顔だった。
また会いたい――その願いだけが、胸の奥で叫んでいた。
けれど、光に呑まれたその声は誰にも届かない。
(……終わった)
全身の力が抜け、私は静かに意識を手放した。
ーー
――静かだった。
熱も痛みも、もう何もない。
ああ、私は……死んだのだろう。
重たい瞼を持ち上げると、白い天井が目に映った。
柔らかな光に包まれた部屋。薬草の香り。
まるで夢の中のように穏やかだった。
(ここは……天国?)
そう思ったとき、視線の端に人影が映った。
窓際の椅子でうたた寝をしている青年。
銀の髪が光を受けて揺れ、整った顔立ちが静かに眠っている。
「……アレクシス……?」
掠れた声が漏れる。
その名を呼んだ途端、胸が痛いほど熱くなった。
「どうして……? 天国に、いるの……?」
「でも……なぜ……?」
言葉はうまく繋がらず、ただ混乱のまま口から零れる。
けれど次の瞬間、どうしようもなく安心してしまった。
彼がいる。そばにいる。それだけで。
頬がふにゃりと緩み、私は力なく笑った。
「……天国でもいいや……アレクシスがいるなら」
そう呟いて、再び瞼が閉じていった。
ーー
(アレクシス視点)
リディアの瞼がわずかに震えた。
長い眠りから戻るように、彼女の灰緑色の瞳がゆっくりと開く。
その姿を見た瞬間、アレクシスの心臓は痛いほど跳ねた。
何度も諦めかけた。何度も、もう失われたのだと思った。
だからこそ、こうして目の前で彼女が息をしていることが信じられなかった。
「……アレクシス……?」
掠れた声で呼ばれ、胸が詰まる。
彼女の唇から自分の名が零れたことが、涙が出るほど嬉しかった。
だが次に紡がれた言葉に、思わず目を瞬いた。
「どうして……? 天国に、いるの……? でも……なぜ……?」
ぼんやりとした視線で問いかけながら、彼女は力なく微笑んだ。
その笑みは、ふにゃりとほどけるようで――あまりに儚く、そして愛しかった。
(天国、か……そう思うくらい、君は死を覚悟していたんだな)
胸が締めつけられる。
彼女をこんなにも追い詰めた世界が、心底憎らしかった。
けれど同時に、彼女が笑ったことが嬉しくて、涙がこぼれそうになる。
「……リディア。君は、生きているよ」
その声は、彼女の耳に届いただろうか。
再び瞼を閉じたリディアの頬には、安堵の色が残っていた。
アレクシスはその寝顔を見つめながら、深く息を吐いた。
(もう二度と離さない。君が天国なんて言わなくていいように……必ず守る)
ーー
学園の裏庭にリディアの魔力を感じて駆けつけたとき、目にしたのは眩い光に包まれるリディアの姿だった。
魔法陣が膨張し、今にも爆発しようとしている。
彼女の髪が光に揺れ、必死に唇を噛み締めているのが見えた。
「……リディア!」
叫んでも届かない。
だが彼は知っていた。彼女が選んだのは人目の少ない場所。
――誰も巻き込みたくなかったのだ。
(そんな優しい子が、自分を犠牲にするなんて……許せるわけがない!)
アレクシスは両手を突き出し、自らの魔力を解き放った。
高位の収束魔法。暴走する力を無理やり押し潰すため、限界まで魔力を重ねる。
轟音。閃光。
衝突する二つの魔力が、互いを削り合い、耳を裂く音を立てた。
「絶対に……君を死なせない!」
歯を食いしばり、血が滲む。
熱が皮膚を裂き、骨にまで響く痛みに身体が軋んだ。
だがその奥で、リディアが小さく呟いた声が確かに聞こえた。
『ああ……また、会いたかった』
その一言で、アレクシスはすべてを振り絞った。
暴走の光が消え、風だけを残して魔法陣が消滅する。
気を失って崩れ落ちるリディアを抱きとめたとき、彼の胸に溢れたのはただ一つの感情だった。
「……生きていてくれ」
強く抱き締め、彼は何度もそう呟いた。
ーー
(リディア視点に戻ります)
目を開けたとき、最初に見えたのはアレクシスだった。
彼は窓辺の椅子に座り、疲れた顔のまま私を見つめていた。
灰色の瞳が私の視線を捉えた瞬間、安堵に震える笑みが浮かんだ。
「……リディア。生きていてくれて、本当に……よかった」
その声を聞いた途端、堪えていたものが溢れ出す。
頬を伝う涙は止まらず、喉が詰まって言葉にならなかった。
「わ、私……死んだと思って……でも、また……」
嗚咽混じりに零れる声を、アレクシスは優しく抱きとめてくれた。
彼の胸に顔を埋めたとき、はっきりと理解した。
――私は生きている。
そして、彼と再会できた。
それだけで、奇跡だった。
◆
しかし、保健室の外からざわめきが聞こえてきた。
教師たちが慌ただしく行き交い、緊迫した声が飛び交っている。
「王派が……動き出したらしい」
「同時多発テロに加担した貴族が、次々と捕まっていると……」
その言葉に、私は息を呑んだ。
父も、ヴェルナー公爵も、必ず追われる。
そして私もまた――共犯者だった。
震える手を握りしめると、アレクシスがその上からそっと手を重ねる。
彼の手は温かく、揺るぎなかった。
「リディア。君を助けるには……この国から逃げるしかない」
「……逃げる……?」
「そうだ。王派に捕まれば、君は処刑される。僕も侯爵家の嫡男として立場を失うかもしれない。でも構わない。君を失うくらいなら、すべてを捨ててもいい」
アレクシスの言葉に、胸が大きく揺れた。
「……一緒に来てほしい。君となら、どこへでも行ける」
その真剣な瞳に、息が詰まる。
けれど同時に、恐怖が押し寄せた。
「でも……私は、王弟派の一員です。国を揺るがす計画に加担した……罪人なんです。あなたにまで迷惑をかけるわけには……」
震える声で告げると、アレクシスの顔が苦しげに歪んだ。
次の瞬間、彼は一歩近づき、私の両肩をしっかりと掴んだ。
「迷惑なんかじゃない!」
その声は鋭く、けれど切実だった。
「リディア……君がどんな立場でも、どんな罪を背負っていても、関係ない。僕は――君が好きだ」
心臓が止まったように感じた。
言葉の意味を理解するより先に、胸の奥に熱が広がっていく。
「……アレクシス……」
「好きなんだ。だから君を守らせてくれ。好きな女を、僕は絶対に見捨てない!」
彼の瞳は強く、真っ直ぐに私を射抜いていた。
その瞳を前に、私はもう言葉を失った。
迷惑をかけることになる――そう思っていた。
でも、彼は違う。
「君だから守りたい。」「リディアが好きだから守るんだ。」――ただそう言ってくれた。
涙が頬を伝い、私はようやく声を絞り出した。
「……私も……あなたが、好きです」
アレクシスの目が大きく見開かれ、それから安堵と喜びに染まる。
彼は強く私を抱きしめた。
「ありがとう……リディア。もう絶対に離さない」
その腕の中で、私は小さく頷いた。
――たとえこの国を捨てても、彼と一緒に生きたい。
初めて、心からそう思えた。
ーー
夜の帳が降りたころ、保健室の窓が静かに開いた。
アレクシスが差し出した手を、私は震える指で握る。
「大丈夫、僕がついている」
その一言で、不安が少しだけ和らぐ。
彼に導かれるまま、私は学園の庭を駆け抜けた。
月明かりに照らされた回廊も、見慣れた中庭も、今はもう二度と戻れない場所に見えた。
◆
学園の外には、一台の馬車が待っていた。
アレクシスが事前に手配していたらしい。御者が顔を隠し、声もかけずに手綱を握る。
「急げ。王派の追手はもう動き出しているはずだ」
馬車が走り出すと、街の灯が窓の外に流れていった。
昼間の祝祭の喧騒が嘘のように静まり返った路地を抜け、街道へと出る。
鼓動はまだ早く、落ち着かない。
けれど、隣にアレクシスがいる――それだけで、心は確かに強くなっていた。
◆
夜を徹して馬車を乗り継ぎ、闇の中を進む。
御者を替え、馬を替え、休む間もなく走り続ける。
何度も背後を振り返ったが、今のところ追っ手の影はない。
「……もう少しで国境だ」
アレクシスの言葉に、胸が高鳴った。
隣国へ辿り着ければ、王派の手も届かない。
新しい未来が、きっと待っている。
けれど同時に、涙が零れた。
母を眠らせた故郷。
図書館で過ごした日々。
すべてを置いていくのだと思うと、胸が締めつけられる。
その涙を見て、アレクシスがそっと手を取った。
「大丈夫だよ。これからは君と一緒に、新しい場所で新しい物語を作ればいい」
その言葉に、私は嗚咽混じりに頷いた。
彼の手を強く握り返す。
「……はい。あなたと一緒なら……」
夜明け前の冷たい風が吹き抜ける。
馬車は、東の空へと続く街道をひた走っていった。
冷たい風が窓から吹き込み、頬を撫でた。
けれどその隣には、確かな温もりがあった。
アレクシスはずっと私の手を握り、離さなかった。
彼の手の熱が伝わるたびに、胸の奥の震えが少しずつ静まっていく。
◆
やがて、地平線の彼方が淡く色づき始めた。
東の空に、朝の気配が忍び寄る。
漆黒だった夜が少しずつ和らぎ、世界が新しい一日を迎えようとしていた。
「……もうすぐ国境だ」
アレクシスの声に振り向くと、灰色の瞳が柔らかな光を映していた。
その瞳に自分が映っている――それだけで涙が零れそうになる。
「アレクシス……」
「大丈夫。君はもう独りじゃない。これからはずっと一緒だ」
その言葉に、胸の奥が熱く溶けていった。
母を失って以来、空っぽだった心がようやく満たされる。
馬車は国境の丘を越える。
その瞬間、夜が完全に退き、朝日が昇った。
黄金の光が馬車の中に差し込み、私とアレクシスを包み込む。
闇を抜けた先に広がる新しい世界。
私たちの物語は、ここから始まるのだ。
――君と出会った最大の誤算は、死ぬのが怖くなったこと。
でもその誤算が、今は生きる理由になっている。
私はアレクシスと手を取り合い、夜明けの光を見つめた。
――― 完 ―――
リディアとアレクシスの物語を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
二人は国を出て、新しい世界で共に生きることを選びました。
彼らには魔法の才能があります。アレクシスの力強い魔力制御と、リディアの繊細な魔力感知――それはきっと、どこで暮らしても役に立つでしょう。
豪奢な屋敷も、誇り高い家名もなくとも、二人には互いがいる。それだけで未来を切り開いていけます。
そして――物語の陰で、リディアの父ギルベルトもまた揺れていました。
冷徹に「務めを果たせ」と命じた彼でしたが、不器用ながら、心の奥底では娘を愛していたのです。
だからこそ、リディアが計画に失敗し、なお生き延び、アレクシスと共に姿を消したと知ったとき――彼は誰にも見せない安堵の息を漏らしました。
親としては間違いだらけだったかもしれません。
それでも、娘が生きている。それだけで十分だと、ギルベルトは思ったのです。
彼女を愛する人の腕の中で、リディアはきっと幸せに生きていくでしょう。
その未来を信じて、この物語を締めくくります。