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あなたに出会った最大の誤算は、死にたくないと思ってしまったことでした。

 学園の図書館は、昼下がりになると人の気配が途絶える。

 窓から射し込む光が、積まれた本の背表紙を照らし、埃の粒子をきらめかせる。

 その静けさが、リディア・エルンストには心地よかった。


 母を亡くして以来、彼女には話し相手などいなかったし、社交の場で笑うことも苦痛でしかなかった。

 父ギルベルトは家のことばかりで、リディアにかける言葉といえば「子爵家の娘として恥じるな」「建国記念日には務めを果たせ」ばかり。

 その「務め」が何を意味するのか、リディアは知っていた。半年後、命を燃やす役割を背負っていることを。


 だから彼女は、本に逃げた。

 物語の中なら、死ぬことを強いられる令嬢ではなく、ただ夢を追う少女でいられるから。


 その日も、リディアは背伸びをして分厚い本を取ろうとしていた。

 けれど指先が届かず、結局、本は滑り落ちてしまった。

 慌てて抱きとめ、傷ついていないかとページの端を撫でる。

 そのときだった。


「大丈夫? 怪我してない?」


 不意に声がして、心臓が跳ねた。

 振り向くと、背の高い青年が立っていた。整った顔立ちに、涼やかな灰色の瞳。制服の徽章が示すのは――侯爵家の令息。


「……はい。本の角が少し潰れてしまいましたが」

「君が落ちたんじゃなくてよかった」


 彼はそう言って笑い、ひょいと手を伸ばして高い棚の本を取ってくれる。

 自然な所作。気取らない笑顔。

 リディアは思わず戸惑った。

 だって、これまで誰も、こんなふうに声をかけてくれたことなんてなかったから。


「同じ本を読むんだね。前にも見かけたよ」

「……そう、でしょうか」

「うん。表情が真剣で、話しかける隙がなさそうだったから」


 青年は軽く肩をすくめる。冗談めかした調子なのに、不思議と嫌味がない。

 リディアは視線を落とし、唇を結んだ。


「私と話しても……退屈でしょうに」

「退屈かな? 本を好きな人と話すのは楽しいよ」


 胸の奥が少し震えた。

 リディアは人と話すのが苦手だ。母の死以降、誰も彼女の心に踏み込んできてはくれなかった。

 でも、この青年は「退屈じゃない」と言った。


「僕はアレクシス・ヴァンデル。君は?」

「……リディア・エルンストです」

「リディア、いい名前だ」


 アレクシスはそう言って、気さくに笑った。


 その日から、彼と会うたびに、ほんの少しだけ会話を交わすようになった。

 季節の話、本の感想、くだらない笑い話。

 リディアは知らなかった――人と話すだけで、こんなにも胸が温かくなるのだと。


 ある日、窓辺で本を閉じたアレクシスに、不意に言葉が零れた。


「……私には、友達がいたことがありません」


 言ってしまってから、強く後悔した。

 きっと笑われる。軽蔑される。孤独をさらけ出すなんて愚かだ。

 そう思ったのに。


「それでいいんじゃないか」

「……え?」

「君は君のままでいい。無理に誰かに合わせる必要なんてない」


 静かに告げられたその言葉が、胸の奥を鋭く突き抜けた。

 父からは「家のために死ね」としか言われなかった。

 誰も、リディアを肯定してはくれなかった。


 なのにアレクシスは。

 ただ、ありのままのリディアを受け入れてくれた。


 視界が滲んだ。

 ――ああ、この人に、もっと会いたい。

 その瞬間、リディアは気づいてしまった。

 自分が、アレクシスを好きになってしまったのだと。


ーー

 この国は今、静かに二つに割れつつあった。

 現国王を支持する王派と、その実弟を推す王弟派。

 表向きは平和を装っているが、裏では両陣営の暗闘が続き、政の場も社交界も、どちらに与するかで目まぐるしく勢力図が変わっていた。


 王弟派の旗頭は、ヴェルナー公爵。

 父ギルベルト・エルンストの親友であり、王弟の忠実な支持者でもあった。

 ヴェルナー公爵は巧みに人心を操り、「国王は病弱で、このままでは国が衰退する」と流布し、王弟を次代の王に据えようと画策していた。

 その目論見のひとつが――建国記念日の同時多発自爆テロだった。


 リディアがそれを知ったのは、母の死から数年が経った頃だ。



 母は優しい人だった。

 病に倒れるまでは、毎晩のように読み聞かせをしてくれ、歌を口ずさみ、リディアの髪を撫でてくれた。

 母のぬくもりが、この世界をまだ「生きるに値するもの」と思わせてくれていた。


 だが、母がいなくなった日。リディアの世界は急に色を失った。

 父は涙ひとつ見せず、ただ「家のために強くあれ」と告げただけだった。

 学園に通うようになっても、同年代の子女たちと打ち解けることはできなかった。

 彼女の瞳は常に閉ざされ、「生きている意味」を見いだせずにいた。



 だから、王弟派から「建国記念日に命を捧げよ」と打診があったとき――リディアは迷わなかった。

 どうせ意味のない命なら、家のために燃やすほうがまだ価値がある。

 そう思ったのだ。


 ヴェルナー公爵は笑顔で彼女の手を取り、「その献身こそ国の未来を変える」と囁いた。

 父ギルベルトは誇らしげに頷き、「お前はエルンスト家の誉れだ」と言った。


 そのときリディアの心に浮かんだのは、安堵とも諦めともつかぬ静けさだった。

 ――これで終われる。

 ――もう、生きる理由を探さなくていい。


 そうして彼女は、建国記念日の同時多発自爆テロの一翼を担うことを受け入れた。



 しかし、図書館でアレクシスと出会った。

 彼と話すたびに、少しずつ心に温もりが差し込むようになった。


ーー


 アレクシスと図書館で顔を合わせるのが、私の日課になりつつあった。

 決して約束をしているわけではないのに、不思議と彼はいつも同じ時間に現れる。

 それを「偶然」と言って笑う彼に、私はどうしてか胸を弾ませてしまう。


「また歴史書? リディアは本当に勉強熱心だね」

「……これは、ただの興味です」

「興味って大事だよ。僕なんて、義務で読むものばかりだから」


 彼は机に頬杖をつき、退屈そうにノートをめくる。

 侯爵家の嫡男として、外交や軍事の知識を叩き込まれていると聞いた。

 けれどアレクシスは、いつもそれを冗談めかして語る。


「僕はね、リディア。出世とか名誉とか、そういうのより……人が笑って生きられる国のほうがいいと思ってる」

「……変わったことを仰いますね」

「そうかな? だって、生きているのに笑えないのは、つまらないだろう?」


 私は答えに詰まった。

 ――生きているのに、笑えない。

 それは、まさに私自身のことだったから。



 あるときは、二人で同じ本を読み合った。

 読み終えると、彼は楽しそうに感想を語る。


「悪役令嬢が最後に笑う話、良かったな」

「……私は、ああいう結末は少し苦手です」

「どうして?」

「だって、最後まで孤独に耐えて、誰にも理解されないまま……ただ一人で終わってしまうから」


 そう口にしたとき、胸の奥がずきりと痛んだ。

 まるで自分自身のことを語っているみたいで。


 けれど、アレクシスは優しい声で言った。


「もし本当にそんな人がいたら、僕は見て見ぬふりなんてしない。……きっと手を伸ばす」


 その言葉に、顔が熱くなるのを感じた。

 誰も自分を救ってはくれないと思っていた。

 でも、この人は。


 ほんの少しだけ、「生きる理由」が芽生えそうな気がした。

 いや、そんなもの芽生えてはいけない。

 心に蓋をしなくては・・・。


ーー

(アレクシス視点)

 

 リディア・エルンスト。

 最初に図書館で見かけたときから、どこか気になる存在だった。


 周囲と馴染もうとせず、いつも一人で本に没頭している。

 けれど決して他人を拒んでいるわけではなく、ただ心のどこかに深い影を抱えているように見えた。

 その影の奥にある光を知りたい――そう思ったのが、彼女に声をかけた理由だった。



 アレクシス自身も、孤独を知っていた。


 侯爵家に生まれたということは、幼い頃から「家の顔」であることを求められるということだった。

 父は厳格で、母は形式に従うことを何より重んじた。

 泣けば叱られ、弱音を吐けば「恥を知れ」と突き放される。

 同年代の子どもたちが親に抱きつき、駄々をこねて笑われているのを見ても、自分には許されないことだと理解していた。


 ――だから、いつも胸の奥に孤独があった。

 笑顔の仮面をつけ、誰にも打ち明けられない痛みを抱えて。


 リディアの孤独を感じ取れたのは、自分も同じ影を背負っていたからだった。


 ある日の図書館の窓辺。リディアは小さな声で言った。


「……私には、友達がいたことがありません」


 その瞬間、アレクシスの胸は強く締めつけられた。

 彼女の告白は、幼い頃の自分が吐き出せなかった弱音そのものに思えた。


(わかるよ……その辛さを)


 だから、彼は言った。


「それでいいんじゃないか。君は君のままでいい」


 自然に口から出たその言葉は、同時にアレクシス自身への祈りでもあった。

 もし幼い自分に声をかけてやれるなら、きっと同じことを言っていただろう。


 リディアの瞳がかすかに揺れ、潤むのが見えた。

 その顔は、普段の静かな彼女からは想像できないほど無防備で――あまりに愛おしかった。


(……可愛い)


 気づいた瞬間、胸の奥が熱くなる。

 守りたい、支えたい、それだけでは足りない。

 彼女の笑顔を見たい。彼女の涙を拭ってやりたい。

 それは紛れもなく、恋という名の衝動だった。


(もう……目を逸らせないな)


 その瞬間から、リディアはアレクシスにとって、愛しい少女になった。


ーーー

(リディア視点に戻ります)


「……もし、私がその役目を断ったら、どうなりますか」


 勇気を振り絞って問うた。

 父ギルベルトはしばし沈黙したのち、冷たい声で言い放った。


「愚問だな。エルンスト家の名誉を汚すというのか」


「……私は……」


「断れば、裏切り者として処刑されるだけだ。家族である私も連座は免れまい。それでもいいのか」


 静かな叱責だった。だがその目は氷よりも冷たく、言葉よりも残酷だった。


 返事を詰まらせた私を、父は容赦なく睨みつける。


「建国記念日の務めは決まっている。お前はその日、学園で魔力を解き放ち、この国を揺るがす火種となる。それが誉れだ。……余計なことを考えるな」


 その晩、私は屋敷の小さな部屋に閉じ込められた。

 窓も狭く、外に出ることは許されない。食事だけが無言で差し入れられる日々。

 建国記念日の前日まで、私はその檻の中で過ごすことになった。



 小部屋の薄暗い天井を見上げながら、私は何度も問いかけた。

 ――生きている意味なんて、本当にないのだろうか。


 以前の私なら、父の言葉に疑問など抱かなかっただろう。

 死ぬことが家のためになるなら、それでいい。そう諦めていたはずだった。


 けれど今は違う。

 アレクシスの笑顔が、声が、何度も脳裏によみがえる。


『君は君のままでいい』

『もし孤独な人がいたら、僕は必ず手を伸ばす』


 彼の言葉が胸の奥で温かく響いて、眠ることもできなかった。

 生まれて初めて、心から思った。


 ――死にたくない。

 ――彼に会いたい。


 小さな檻の中で芽生えたその願いは、決して誰にも口にできないものだった。

ーー

小部屋の窓から見える空は、もう春の色を帯びていた。

 建国記念日まで、残りわずか。

 父の命令に背けば、家も自分も破滅する。逃げ場などどこにもない。


 けれど――。


「……会いたい」


 気づけば、その言葉が唇から零れていた。

 アレクシスの笑顔。灰色の瞳。

 図書館で過ごした日々が、夢のように思えてならない。


 本を閉じて語り合ったこと。

 支えてくれた掌の温もり。

 「君は君のままでいい」と言ってくれた声。


 その一つひとつが、胸の奥を焼きつけて離れない。


(私……死にたくないんだ)


 生きる意味なんてないと思っていた。

 母を失ってから、空っぽのまま歩いてきた。

 なのに今は――ただ一人の人に会いたいと願ってしまう。


 その想いが強くなるほど、足枷のように父の言葉が心を縛る。

 「家の誉れだ」「務めを果たせ」――それだけが私に残された道。


 気づけば涙が頬を伝っていた。

 泣いても、誰も気づかない。

 ここには、私しかいないのだから。


ーー

 当日の朝、重い扉が開いた。

 父の従者が無言で立ち、私に外套を差し出す。

 冷たい布を羽織ったとき、心臓が嫌な音を立てた。


 馬車に揺られながら、私は窓の外を見つめる。

 街は祝祭のざわめきに包まれ、人々が笑顔で旗を掲げている。

 ――こんなにも喜びに満ちた日に、私はそれを壊す役割を担っている。


 魔法陣が足元に広がり、淡い光が次第に強さを増していく。

 刻印された紋様の一つひとつが脈打つように輝き、空気が震え始めた。

 肌を刺す熱が体の内側から噴き出し、血管を焼き尽くすような痛みが走る。

 呼吸は浅く、胸は苦しく、視界の端がじわじわと白く滲んでいく。


 暴走は――もう止まらない。


 選んだのは学園の古い講堂の裏庭だった。

 壁はひび割れ、誰も近づかない。

 ここなら人を巻き込まない。ここなら、せめて自分だけで済む。


(……これでいい)


 そう思うはずなのに、心臓は乱れた鼓動を刻み、足は震えている。

 怖い。

 本当は怖い。


 けれど、口を閉ざし続けた父の命令が耳にこびりついている。

 「家のために死ね」

 「お前の務めだ」


 背筋を押すその声に従って、私はただ膝をついた。



 魔力がさらに膨れ上がり、骨が軋む。

 両手の指先は痺れ、震えを抑えることもできない。

 耳鳴りがして、世界の音が遠ざかっていく。


(……死ぬのだ、私)


 その事実を理解するたび、胸の奥に別の願いが生まれる。


 アレクシス。


 あの灰色の瞳。

 「君は君のままでいい」と言ってくれた優しい声。

 並んで読んだ本の温かい時間。

 支えてくれた掌の感触。


 全部、全部、愛しい。


(どうして……どうして、もっと早く出会わなかったのだろう)


 もっと長く、彼と話したかった。

 もっとたくさん笑ってみたかった。

 せめて「ありがとう」を伝えたかった。


 それでも――もう間に合わない。



 魔法陣が爆ぜた。

 眩い白光が世界を呑み込み、轟音が耳をつんざく。

 衝撃が身体を引き裂き、内側から熱が溢れ出す。

 痛みと共に、すべてが遠ざかっていく。


(ああ……これで終わるのか)


 最後に浮かんだのは、彼の笑顔だった。

 また会いたい――その願いだけが、胸の奥で叫んでいた。


 けれど、光に呑まれたその声は誰にも届かない。


(……終わった)


 全身の力が抜け、私は静かに意識を手放した。


ーー


――静かだった。

 熱も痛みも、もう何もない。

 ああ、私は……死んだのだろう。


 重たい瞼を持ち上げると、白い天井が目に映った。

 柔らかな光に包まれた部屋。薬草の香り。

 まるで夢の中のように穏やかだった。


(ここは……天国?)


 そう思ったとき、視線の端に人影が映った。

 窓際の椅子でうたた寝をしている青年。

 銀の髪が光を受けて揺れ、整った顔立ちが静かに眠っている。


「……アレクシス……?」


 掠れた声が漏れる。

 その名を呼んだ途端、胸が痛いほど熱くなった。


「どうして……? 天国に、いるの……?」

「でも……なぜ……?」


 言葉はうまく繋がらず、ただ混乱のまま口から零れる。

 けれど次の瞬間、どうしようもなく安心してしまった。

 彼がいる。そばにいる。それだけで。


 頬がふにゃりと緩み、私は力なく笑った。


「……天国でもいいや……アレクシスがいるなら」


 そう呟いて、再び瞼が閉じていった。

ーー

(アレクシス視点)


リディアの瞼がわずかに震えた。

 長い眠りから戻るように、彼女の灰緑色の瞳がゆっくりと開く。


 その姿を見た瞬間、アレクシスの心臓は痛いほど跳ねた。

 何度も諦めかけた。何度も、もう失われたのだと思った。

 だからこそ、こうして目の前で彼女が息をしていることが信じられなかった。


「……アレクシス……?」


 掠れた声で呼ばれ、胸が詰まる。

 彼女の唇から自分の名が零れたことが、涙が出るほど嬉しかった。


 だが次に紡がれた言葉に、思わず目を瞬いた。


「どうして……? 天国に、いるの……? でも……なぜ……?」


 ぼんやりとした視線で問いかけながら、彼女は力なく微笑んだ。

 その笑みは、ふにゃりとほどけるようで――あまりに儚く、そして愛しかった。


(天国、か……そう思うくらい、君は死を覚悟していたんだな)


 胸が締めつけられる。

 彼女をこんなにも追い詰めた世界が、心底憎らしかった。

 けれど同時に、彼女が笑ったことが嬉しくて、涙がこぼれそうになる。


「……リディア。君は、生きているよ」


 その声は、彼女の耳に届いただろうか。

 再び瞼を閉じたリディアの頬には、安堵の色が残っていた。


 アレクシスはその寝顔を見つめながら、深く息を吐いた。


(もう二度と離さない。君が天国なんて言わなくていいように……必ず守る)

ーー


 学園の裏庭にリディアの魔力を感じて駆けつけたとき、目にしたのは眩い光に包まれるリディアの姿だった。

 魔法陣が膨張し、今にも爆発しようとしている。

 彼女の髪が光に揺れ、必死に唇を噛み締めているのが見えた。


「……リディア!」


 叫んでも届かない。

 だが彼は知っていた。彼女が選んだのは人目の少ない場所。

 ――誰も巻き込みたくなかったのだ。


(そんな優しい子が、自分を犠牲にするなんて……許せるわけがない!)


 アレクシスは両手を突き出し、自らの魔力を解き放った。

 高位の収束魔法。暴走する力を無理やり押し潰すため、限界まで魔力を重ねる。


 轟音。閃光。

 衝突する二つの魔力が、互いを削り合い、耳を裂く音を立てた。


「絶対に……君を死なせない!」


 歯を食いしばり、血が滲む。

 熱が皮膚を裂き、骨にまで響く痛みに身体が軋んだ。

 だがその奥で、リディアが小さく呟いた声が確かに聞こえた。


『ああ……また、会いたかった』


 その一言で、アレクシスはすべてを振り絞った。

 暴走の光が消え、風だけを残して魔法陣が消滅する。


 気を失って崩れ落ちるリディアを抱きとめたとき、彼の胸に溢れたのはただ一つの感情だった。


「……生きていてくれ」


 強く抱き締め、彼は何度もそう呟いた。


ーー

(リディア視点に戻ります)


目を開けたとき、最初に見えたのはアレクシスだった。

 彼は窓辺の椅子に座り、疲れた顔のまま私を見つめていた。

 灰色の瞳が私の視線を捉えた瞬間、安堵に震える笑みが浮かんだ。


「……リディア。生きていてくれて、本当に……よかった」


 その声を聞いた途端、堪えていたものが溢れ出す。

 頬を伝う涙は止まらず、喉が詰まって言葉にならなかった。


「わ、私……死んだと思って……でも、また……」


 嗚咽混じりに零れる声を、アレクシスは優しく抱きとめてくれた。

 彼の胸に顔を埋めたとき、はっきりと理解した。

 ――私は生きている。

 そして、彼と再会できた。


 それだけで、奇跡だった。



 しかし、保健室の外からざわめきが聞こえてきた。

 教師たちが慌ただしく行き交い、緊迫した声が飛び交っている。


「王派が……動き出したらしい」

「同時多発テロに加担した貴族が、次々と捕まっていると……」


 その言葉に、私は息を呑んだ。

 父も、ヴェルナー公爵も、必ず追われる。

 そして私もまた――共犯者だった。


 震える手を握りしめると、アレクシスがその上からそっと手を重ねる。

 彼の手は温かく、揺るぎなかった。


「リディア。君を助けるには……この国から逃げるしかない」


「……逃げる……?」


「そうだ。王派に捕まれば、君は処刑される。僕も侯爵家の嫡男として立場を失うかもしれない。でも構わない。君を失うくらいなら、すべてを捨ててもいい」


アレクシスの言葉に、胸が大きく揺れた。


「……一緒に来てほしい。君となら、どこへでも行ける」


 その真剣な瞳に、息が詰まる。

 けれど同時に、恐怖が押し寄せた。


「でも……私は、王弟派の一員です。国を揺るがす計画に加担した……罪人なんです。あなたにまで迷惑をかけるわけには……」


 震える声で告げると、アレクシスの顔が苦しげに歪んだ。

 次の瞬間、彼は一歩近づき、私の両肩をしっかりと掴んだ。


「迷惑なんかじゃない!」


 その声は鋭く、けれど切実だった。


「リディア……君がどんな立場でも、どんな罪を背負っていても、関係ない。僕は――君が好きだ」


 心臓が止まったように感じた。

 言葉の意味を理解するより先に、胸の奥に熱が広がっていく。


「……アレクシス……」


「好きなんだ。だから君を守らせてくれ。好きな女を、僕は絶対に見捨てない!」


 彼の瞳は強く、真っ直ぐに私を射抜いていた。

 その瞳を前に、私はもう言葉を失った。


 迷惑をかけることになる――そう思っていた。

 でも、彼は違う。

 「君だから守りたい。」「リディアが好きだから守るんだ。」――ただそう言ってくれた。


 涙が頬を伝い、私はようやく声を絞り出した。


「……私も……あなたが、好きです」


 アレクシスの目が大きく見開かれ、それから安堵と喜びに染まる。

 彼は強く私を抱きしめた。


「ありがとう……リディア。もう絶対に離さない」


 その腕の中で、私は小さく頷いた。

 ――たとえこの国を捨てても、彼と一緒に生きたい。

 初めて、心からそう思えた。

ーー

夜の帳が降りたころ、保健室の窓が静かに開いた。

 アレクシスが差し出した手を、私は震える指で握る。


「大丈夫、僕がついている」


 その一言で、不安が少しだけ和らぐ。

 彼に導かれるまま、私は学園の庭を駆け抜けた。

 月明かりに照らされた回廊も、見慣れた中庭も、今はもう二度と戻れない場所に見えた。



 学園の外には、一台の馬車が待っていた。

 アレクシスが事前に手配していたらしい。御者が顔を隠し、声もかけずに手綱を握る。


「急げ。王派の追手はもう動き出しているはずだ」


 馬車が走り出すと、街の灯が窓の外に流れていった。

 昼間の祝祭の喧騒が嘘のように静まり返った路地を抜け、街道へと出る。


 鼓動はまだ早く、落ち着かない。

 けれど、隣にアレクシスがいる――それだけで、心は確かに強くなっていた。



 夜を徹して馬車を乗り継ぎ、闇の中を進む。

 御者を替え、馬を替え、休む間もなく走り続ける。

 何度も背後を振り返ったが、今のところ追っ手の影はない。


「……もう少しで国境だ」


 アレクシスの言葉に、胸が高鳴った。

 隣国へ辿り着ければ、王派の手も届かない。

 新しい未来が、きっと待っている。


 けれど同時に、涙が零れた。

 母を眠らせた故郷。

 図書館で過ごした日々。

 すべてを置いていくのだと思うと、胸が締めつけられる。


 その涙を見て、アレクシスがそっと手を取った。


「大丈夫だよ。これからは君と一緒に、新しい場所で新しい物語を作ればいい」


 その言葉に、私は嗚咽混じりに頷いた。

 彼の手を強く握り返す。


「……はい。あなたと一緒なら……」


 夜明け前の冷たい風が吹き抜ける。

 馬車は、東の空へと続く街道をひた走っていった。

 冷たい風が窓から吹き込み、頬を撫でた。

 けれどその隣には、確かな温もりがあった。


 アレクシスはずっと私の手を握り、離さなかった。

 彼の手の熱が伝わるたびに、胸の奥の震えが少しずつ静まっていく。



 やがて、地平線の彼方が淡く色づき始めた。

 東の空に、朝の気配が忍び寄る。

 漆黒だった夜が少しずつ和らぎ、世界が新しい一日を迎えようとしていた。


「……もうすぐ国境だ」


 アレクシスの声に振り向くと、灰色の瞳が柔らかな光を映していた。

 その瞳に自分が映っている――それだけで涙が零れそうになる。


「アレクシス……」


「大丈夫。君はもう独りじゃない。これからはずっと一緒だ」


 その言葉に、胸の奥が熱く溶けていった。

 母を失って以来、空っぽだった心がようやく満たされる。


 馬車は国境の丘を越える。

 その瞬間、夜が完全に退き、朝日が昇った。


 黄金の光が馬車の中に差し込み、私とアレクシスを包み込む。

 闇を抜けた先に広がる新しい世界。

 私たちの物語は、ここから始まるのだ。


 ――君と出会った最大の誤算は、死ぬのが怖くなったこと。

 でもその誤算が、今は生きる理由になっている。


 私はアレクシスと手を取り合い、夜明けの光を見つめた。


――― 完 ―――


 リディアとアレクシスの物語を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


 二人は国を出て、新しい世界で共に生きることを選びました。

 彼らには魔法の才能があります。アレクシスの力強い魔力制御と、リディアの繊細な魔力感知――それはきっと、どこで暮らしても役に立つでしょう。

 豪奢な屋敷も、誇り高い家名もなくとも、二人には互いがいる。それだけで未来を切り開いていけます。


 そして――物語の陰で、リディアの父ギルベルトもまた揺れていました。

 冷徹に「務めを果たせ」と命じた彼でしたが、不器用ながら、心の奥底では娘を愛していたのです。

 だからこそ、リディアが計画に失敗し、なお生き延び、アレクシスと共に姿を消したと知ったとき――彼は誰にも見せない安堵の息を漏らしました。


 親としては間違いだらけだったかもしれません。

 それでも、娘が生きている。それだけで十分だと、ギルベルトは思ったのです。


 彼女を愛する人の腕の中で、リディアはきっと幸せに生きていくでしょう。

 その未来を信じて、この物語を締めくくります。


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