【3】
リァンとエルは学内のカースペースに向かい、エルの銀色の車に乗りこんだ。操作パネルに行き先を打ち込み終わると、車体は微かな機械音と共に浮かび上がった。そのまま光線で描かれた車道に合流した。
緊張気味に助手席に座っていたリァンに、エルはダッシュボードを指して見せる。パネルを開くと、中からは保温ボトルが出てきた。
「ピアルタ・ティーだよ。熱いから気を付けて。そこを押すと蜂蜜が出るよ」
「ありがとうございます。これ、好きなんです」
「うん、知ってる」
そういえば、ゼミの顔合わせ懇親会のときにそんな話をしたかもしれない。蜂蜜入りのほんのり甘酸っぱいピアルタ・ティーが好きだって。もう一年半前のことなのに、覚えていてくれたのだろうか。付き合いはじめたのはそれより後になるけれど。そういえば先輩はいつから私のことを?
ボトルの中に蜂蜜を落としながら、そっと隣を盗み見る。
エルは操作盤にすらりとした手を置き、前方を見ている。プラチナ色の髪が光に隈取られ、整った横顔を浮き立たせている。
ふとその横顔にソーの顔が重なった。
ふたりが似ているということはない。でも、雰囲気は、ほんのちょっぴり似ているかも。
ぱさり、と皮紙を手繰る音までも聞こえた気がして、リァンはぶんぶんと頭を振った。
「どうかしたの?」
エルが顔を上げる。
「いっ、いえ、別に」
リァンはお茶を一口飲んだ。これが用意されていたということは、最初から送ってくれるつもりだったのだ。先輩は私のことを大事にしてくれている……それなのに私ってば、失礼すぎる!
エルは操作パネルで空路の混雑状況を確認してからリァンに視線を戻した。
「きみは今日の話をどう思ったかな」
「あ……はい、驚きました。薄々、そういう話もあるのかなって思ってはいましたけれど。ほんとうに皆で移住することになるんですね。宇宙船ってどんななんでしょう。私は子供のときに病の症状が出てしまったから、ドームから出たことがないんです。エル先輩は時々、出張で行かれていましたよね」
「まあね。ソラやリスタなんて近場ばかりだったけど」
「実際乗ると、どんな感じなんですか。宇宙船の中は」
「小型船のキャビンは、CMなんかでよく見るだろう。中型船の個室は船によって当たり外れが大きいから、よく選んだほうがいいね。多少高いが、最新のは格段にいいよ。衝撃吸収機構が特に優れていて、窓を見ていないと、いつ出発したのかわからないくらい静かだ。全くといっていいほど揺れも感じない。壁の上半分がドーム型の透過金属でできていて、星々の中で眠る気分を堪能できるよ。大型船なら、もっと快適に過ごせるよう、コロニーを構築するはずだ」
「船に街ができたら素敵ですね。それにしても……ハフラム人が全員乗れるような船を、そんなにすぐ造れるものですか? 移動手段は問題ないって議長は仰っていましたけれど。建造が始まったら、きっとすぐニュースになりますよね? あっ、もしかしてドームの外で、すでに作り始めているのかしら? それとも、そこまで大きくないとか? 残りたいと思う人がたくさんいることを汎用ネットのAI解析から見込んでいて……」
ぶつぶつと呟いていると、エルがぷっと吹き出した。リァンは赤くなって口を閉じた。興奮して一気に話しすぎたかもしれない。
「それで、他に思いつくことは?」
エルが促す。リァンは恨みがましくエルを横目で見た。
「またそうやってからかうんですね」
「からかうなんて、とんでもない。一所懸命考えている姿がかわいいなと思っただけだよ」
「また、からかってます!」
気恥ずかしいやら何やらで小突いてやりたい気分だけれど、いくらオートパイロットとはいえ、運転者にちょっかいは出せない。ぷいと横を向いて反抗を示していると、膝においた手に手が重ねられた。
「本当だよ」
優しい声は反則だ。
「不安なときこそ、考えたり、実際に動いたりした方がいいんだ。そういうことができるのが、きみの良いところだよ」
リァンはじわじわと上がってくる熱をごまかそうと口を開いた。
「それにしても、ハフラムを出たらスゥラが使えなくなるなんて、ショックですね」
「まあ、原理を考えればね」
「そうなのですか」
恒久エネルギー発生炉「スゥラ」の詳細は機密事項とされ、一般には明かされていない。でもエルはスゥラ研究員の一人、スゥラの原理の詳細を知る数少ない一人だ。
「スゥラがなければ、とてつもなく原始的な暮らしに逆戻りだ。ただ放置しておくだけで恒久的に莫大なエネルギーが作れる『スゥラ』はあまりにも便利すぎたんだ。スゥラが誕生してから、その他のエネルギーに関する技術の大半は失われてしまった。きみは、ロボットたちのいない生活に耐えられそう?」
リァンはええ、と自信を持って頷いた。
「なければないで、すぐに慣れますよ」
「それは頼もしい」
ツェルの世界にはスゥラはおろか、古代エネルギー「電気」さえもない。カナンの人々は日の出と共に起き、朝から晩まで働いて、日の入りの後は早めに休む。ボタン一つで何でもできるハフラムとは全く違う。それでもツェルたちはたくましく生きているのだ。
「それに、多少不便になったとしても、身近な人たちがどんどん亡くなっていくのを見送るよりは、ずっとずっといいです」
「前にも話していたね。大事な人が亡くなったり、信じていた人に裏切られたりするほど、辛いことはないって」
「そんな話、私、したでしょうか」
「うん、僕が告白した日にね。覚えていない?」
あっ、と声を上げてリァンはその時のことを思い出した。
一年生の学年末試験が終わり、ゼミ生たちで食事会をしたときのことだ。人気のOBとして呼ばれてきたエルは全員に奢ってくれて、ただひとり飛行車を持たないリァンを自宅まで送り届けてくれた。そのとき、何かの流れでそんな話になったような気がする。直後にそれどころではなくなって、すっかり忘れていた。
なぜそれどころではなくなったのかまで思い出してしまい、リァンは熱くなった頬を両手で覆った。
「おっ、覚えていてくださったんですね。そうなんです、私、小さいときに両親を亡くしていまして、そのせいか、そういうのにすごく弱くって」
エルはオートパイロットの制御盤に目を向けたまま、静かに訊いた。
「……両親、か。少しは記憶が?」
「いえ、全然です。おじいさまからお話は聞いていますけれど」
「…………そう。僕も母のことは覚えていないんだ」
どこか遠くを見ているようだ。まるで目の前にいるリァンのことをつかの間、忘れたかのように。
何となく気詰まりになったリァンは話題を変えることにした。
「そういえば、アスラまではどのくらいかかるのでしょうか」
エルはリァンに目を戻した。そこにはいつもの落ち着いた色が戻っている。
「船にもよるが、一千万人乗せる船なら、スピード以外の全てを犠牲にするわけにもいかないだろう。亜空間航空法を併用しても、軽く数百年はかかると思うよ」
「航行の間はスリープで? あ、そもそもスリープ装置は使えるのかしら」
「スリープや生体保存装置程度なら、スゥラがなくとも船内の循環エネルギーで賄えるだろう。けど、細胞活性装置は消費量が多いから、難しいかもしれないね」
「細胞活性装置が使えないとしたら、大変なことになりませんか」
「だろうね。老化が始まった、と気付いたとたん、星議会のせいだなんだと、大騒ぎする人たちは出てくるだろうよ。老化は星議会が与えるものじゃない。自然に始まる現象なんだということも忘れてさ」
「自然……そうなんですよね。先輩、私、たまに思うんです。病は人間に与えられた罰なんじゃないかって。自然の摂理に反してなお生きようとした私たちを、戒めようとしているのかもしれません」
「それは誰が?」
女神様、と咄嗟に思い浮かんだ言葉を打ち消して考える。ハフラムにもいくつか宗教はあるが、リァンはいずれも信じていない。
「しいて言うなら、天罰かしら」
「それなら、罰を受けるべきはきっと僕らなのだろうね。サジュナ博士も、僕も」
ふたりはラボの生物部門所属。ということは、多少なりと細胞活性装置には関わっているはずだ。
「そんな、特定の誰かって意味ではないんです。つまりその、ヒトという存在そのものが何か大きな存在に問われている――そんな感じです。私たちは進化によってここまで生かされてきた。それなのに老化を止め、子孫を残すことを止めて、理論上、永遠に生きられるようになって……」
でも、その果てに、私たちはどんな存在になっていくんだろう。
ツェルとして、洗礼を受けにやってきた赤子に聖名を与えるたびに思う。罰でも、祝福でもない。これが在るべき形なんだって。
「リァン、手すりに捕まって!」
エルの焦った声に、リァンは咄嗟に脇の手すりを掴んだ。
がくん、と大きく車体が揺れた。
突然速度を落とした右側の車が、前方に割り込み、左端に寄ろうとしている。急ブレーキをかけたエルの車は、警告音が消えた後も徐行を続けた。空路前方が、一部分だけ妙に混雑している。
「怪我はない? 急にごめん」
「はい。大丈夫です」
脇に逸れた車はその場でホバリングしている。同じように停車している車が何台か固まっていて、そのせいで渋滞が起きているようだ。車を停めたドライバーたちは、揃って窓から首を伸ばして空路の下を覗き込んでいる。
「何かしら」
「今朝の事故の跡を見物しているんじゃないかな。せめて空路外でホバリングしてくれるといいんだが」
それだと空路走行法違反では、と思いながらリァンは窓を開け、通りすがりにエルの指差した場所を覗き込んでみた。
空路の下に、屋根に大きな穴の空いた家が見えた。何か大きなものが落ちてきたように二階の床を貫通し、一階に大きな穴が空いている。
修理ロボットたちが行列を作り、新しい外壁パネルを運んでいる。野次馬たちがそこに装身情報端末をかざし、映像に収めている。
ひやりとしたリァンは首を引っ込めた。
「住民やドライバーは無事だったのかしら。飛行車の事故なんて珍しい」
「一方が空路を逸れて、対向車にぶつかっていったらしいよ。今朝のニュースでやっていた。被害に遭ったのは星議員のひとりで、幸い命は助かったそうだ。加害者側は反政府勢力との関係が疑われて、少し前から調査が進められていたらしい」
ルカーブは異星移住計画に反対する過激派で、これまで幾度も議会に対し爆破予告を送りつけたり、星議長を襲撃したりしている。彼らの実態は掴めていないが、これまで様々な機関から情報が漏れていたことから、スパイの存在が疑われている。
「また急進派ですか。もしかして、わざとぶつかったのではなく、車の制御装置に細工をされて?」
調査対象になったことで、組織に足切りされたのではないだろうか。
「どうだろう。全部燃えてしまったというから、どちらにせよ証拠は出ないんじゃないかな」
「怖いですね。首謀者も規模もわからないなんて」
思わず首を竦めると、エルは宥めるようにリァンの肩に手を置いた。
「惑星警察は優秀だ、彼らに任せておけば大丈夫だよ。それよりさっきの――天罰の話だけど。僕もきみの意見には賛成だ。人は進化する生き物で、進化こそが生き物に許された特権だ。無為な長生きは進化を妨げる。実をいうと僕は人類の進化の行く末をこそ、この目で確かめたいと思っていてね」
「先輩、矛盾してますよ。どれだけ長生きされるおつもりですか」
リァンはくすくす笑った。
「でも、いいですね。もしかしたら数千年後には、人間にもオルに対する抵抗力が付いているかもしれませんしね」
「そうだね」
エルは心底嬉しそうに笑い返してくれた。
リァンの家に着くと、エルは予備のカーポートに車を下ろした。逆噴射に煽られた名残で、庭樹がざわざわと葉を揺らしている。
車を降りたリァンは瞼に揺れる木漏れ日の眩しさを手で遮った。
木漏れ日のあたる景色に、ソーの姿が思い浮かぶ。
エルが車のドアを閉める音ではっとし、リァンは慌ててエルを振り返った。
「エル先輩、送っていただいて、どうもありがとうございました」
「ちょっと待って」
エルが近づいてくる。リァンはどきりとして顔を上げた。
「おじいさまなら、今日は遅いと思います」
「うん、知ってるよ。今は、きみに用。だから逃げないように」
エルはポーチへと続く小径を塞ぐようにしてリァンの前に立った。
「逃げるなんて、そんな」
釘を刺されてしまい、気まずい思いでリァンは口ごもり、下を向いた。
「何かあった? 今日は全然こっちを見ないね。話があったんだけど、迷惑だろうか」
「まさか、迷惑だなんて」
「困らせたいわけじゃないんだ。距離をおいてほしいというのなら、そうする。でも僕に問題があるわけじゃないなら、手を取って、こっちを見てほしい」
エルが手を差し出す。
エルにはソーのことを簡単に話してある。もちろん「もう一つの世界があって、そこでは別の人生を歩んでいます。その世界に気になる人がいるんです」なんて妄想じみた話、尊敬しているエルにはとても言えない。だから、絶対に会うことはできないけれど、どうしても忘れられない人がいる、と説明した。それでも構わないとエルは言ってくれた。リァンの心が向くまでいつまでも待つと。
エルは気持ちをわかった上で、こう言ってくれている。
迷いつつも、結局その手を取る。白く冷たい指だった。他のハフラム人たちのほとんどがそうであるように、手荒れなど知らない陶器のように滑らかな肌がリァンの手を包み込む。
と、エルはその手を離し、両手でリァンの頬を引っ張った。
びっくりして目をぱちぱちさせていると、エルは笑いながら手を離した。
「な、なんですか?」
「深刻な顔をしているなと思ってね」
「もうっ」
まだ笑っているエルの胸を拳でぽかりと叩くが、素早く伸びてきた手に押さえられてしまった。
「それで、良かったら今度、一緒に出かけられないかな。見せてあげたい場所があるんだ。ちょっと遠いけど、きみもきっと興味があると思うよ」
「どこですか?」
「それは当日のお楽しみ」
予定が決まったらまた連絡すると告げて、エルはそのあとすぐに帰っていった。持ち帰った仕事があるそうだ。
リァンは玄関で消毒の噴射を浴びて二階の寝室に入り、豆粒のように小さく見える銀色の車体を窓から見送った。
そのままベッドに倒れ込む。
やや濃い金の光がベッドの上まで差し込んでくる。ドームの天井に映し出されていた青空は、今は夕陽色に変化しつつある。
「あんな時にソーを思い出すなんて」
どうかしている。
笑って流してくれたエルにあまりに申し訳なくて、リァンは瞼に腕を乗せて息をついた。
ぱさり、ぱさりとソーが皮紙を捲る音は、まだ耳に残っている気がする。
あれは委員会の後、溜まっている課題を片付けるため図書室に寄ったとき、二階の窓から見えた光景だった。
中庭の樹の根元に寄りかかっているソーは、最後までツェルに気がつかなかった。ソーの手元の皮紙は細かい文字でびっしり埋まっていた。
可の中の真ん中なんて、嘘。あんなに難しいアシャド語の商業指南書を翻訳しながら読んでいるなんて。全科目とは言わなくとも、少なくともアシャド語については、ソーはわざと成績を落としていたのだ。それにツェルと同じ神学専科なのに、どうして商業科の教科書を勉強しているのか。
半双だというのに、何も知らなかった自分が恥ずかしかった。中庸な成績を維持してきたのは、本当にいじめを避けるため?
でもツェルの知っている子供の頃のソーは、そんなものに屈するような人ではなかった。争いごとは好きではないけれど、誰かの顔色を窺ったりは決してしない、芯の通った強さのある子供だった。
本当のところどうなのだろう。今、何を考えているのだろう。知りたい。話してくれたらいいのに。
ソーの投げ出した足の傍に青い小鳥が舞い降りてくる。ふ、とソーの緩めた口元から漏れた微かな吐息が二階まで聞こえてきそうだった。ソーが指を伸ばすと小鳥はそこにひょいと飛び乗った。
ソーが微笑っている。
ツェルは息を詰めてその様子を見つめていた。
「ばか。ハフラムにソーはいないのよ」
頭のなかで何度繰り返してみても、瞼の裏の光景は消えてくれない。
いい加減「ツェル」と「リァン」の境をはっきりさせたい。ハフラムに実在しないツェルの思い出や感情を「私」が引き摺ったところで、何にもならないもの。
腕をずらしてぼんやり天井を見上げれば、アスラを模したペンダントライトが目に付いた。
「アスラに移住、かあ」
この二重生活は宇宙船の中でも続くのだろうか。
いっそのこと、二度とカナンに行けなくなればいいのに。
ぼんやり天井を見上げていたリァンは、やがてのろのろと起き上がった。首のチョーカーに触れてレーザーキーボードとエア・スクリーンを呼び出す。忘れるどころか、ひとまず昨日のツェルのことを記録しなければいけなかったのだ。