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ツェルト・リァン-二つ世と未来の女神-  作者: Ari
§02 全惑星放送 Side-H
7/45

【1】

 小鳥のさえずりと水の音が、淡いまどろみに混ざり込む。身体がすうっと高みへ引き上げられてゆく。

 彼女は重い瞼をそろりと開いた。

 あたりは薄暗く、静かだ。白い天井に不規則な光の点が明滅している。ランダムに星図を描き出す天井がこちらを見下ろしている。

 星図の中心から下がる球上の白いペンダントライトは、見覚えのある惑星の姿を淡い濃淡で描き出している。あれは、子供の頃から一番好きだった惑星――

「アスラ」

 身を捩ると、温い水滴が頬に跳んだ。

 まだ夢見心地のまま、縁に手をかけて重い上体を引き上げる。濡れた身体から雫がぽたぽた滴りおちる。

 眠っていたその場所はカプセル状の水槽の中だった。横倒しにした筒のような形状で、上半分である開口部は側面に沿ってスライドしている。槽の縁は七色の光が走り、暗がりに揺れる浅い水面に反射している。ぼうっとそれを見下ろしているうちに、身体を半分ほど浸していた淡緑色の水は排水口に吸い込まれていった。

 ピピ、と軽い音が鳴り、空になった槽の外側で排水終了を示すグリーンのランプが点灯する。

 羽ばたきと木の葉擦れの音が大きくなる。

 壁いっぱいに鮮やかな湖畔の景色が映し出されている。朝靄に包まれた静かな湖面の映像。さざめく森。梢の中から飛び立つ白い鳥。

 プロジェクション・ウォール。そして治療槽。次第に頭がはっきりしてくる。

 ここはハフラム。私はリァン=エーゲルだ。

 パネルに指を滑らせた。治療槽が床に向かって降下し、降り口がスライドして開く。

「どうして今さらあんな夢……」

 もう一人の自分「ツェル」が半双メトワのソーと初めて出会ったのは、もう九年も前のことだ。

 手すりを掴んだままリァンは考え込み、やがて原因に思い至った。

 この間ソーに会った時、無視されたせいだ。深い溜め息がこぼれた。

 床に足を下ろすと目眩に襲われた。虚弱な身体にうんざりする。「ツェル」は健康で元気いっぱいなのに。

 慎重に筒型の装置を降りると、主の目覚めを感知したロボットたちが奥のキャビネットから列をなして出てきた。モップ型ロボット二機が床を駆け回り、ロボメがリァンのいる治療槽の表面を拭き始める。

 じわりと暖かい人工大理石の上をぺたぺた歩いて、リァンは奥のシャワーブースに向かった。

 手に取った新しいシャンプーからは、やや青っぽく爽やかな花の香りがした。洗浄剤の交換があったということは、節が変わったということだ。

 壁面パネルで日付と時間を確認してみる。

 日付はサーラヤ節一日。あと半刻ほどで普段の目覚ましが鳴る。

 サーラヤの木は春の代名詞だ。かつてはこの時期一斉に花をつけて、街を薄桃色に染めたという。

 リァンはパネルのAIに話しかけた。

「スーニィ、春っぽい曲をお願い」

『わかりました。ちょうど二日前に、メイア=カーチェ様から楽曲のファイルが送られてきたようです。こちらを再生してみますか?』

「メイアから。メッセージにはなんて?」

『春のロンド、やっと試作品ができたから送るね。また御子ちゃんのお話聞かせてね。とのことです』

「えっ、すごい、もうできたの! それでお願い」

『かしこまりました。それでは再生します。作曲シェス・テ=アムス、編曲メイア=カーチェで、春のロンド』

 軽快なピアノ曲が流れてくる。実はカナンの名曲だ。トリルが多く、複雑でテンポの速い部分もあるが、よく再現されている。

 音楽好きな友達に、ふと思い立って曲を再現できないかと頼んでみたのか三ヶ月ほど前のこと。記憶にある曲をハミングしてAIに読み取らせ、書き起こされた楽譜を、その友達が編集してくれた。

 熱いシャワーを浴び、目を閉じて聴いていると、まるで春のカナンにいるみたいだ。はらはらと落ちてくる御神木の花びらまで想像できる。おかげで寝起きのもやもやした気分もきれいに吹き飛んでくれた。

 バスローブを羽織り、素足に室内履きをひっかけ、髪を拭きながら薄暗い室内を窓辺に向かう。

「おはよう」

 と声を出すと、天井のダウンライトが消えた。それと入れ替わりに窓が大きく上に向かってスライドして開く。

 雨の降らないハフラムの空は、当然、今日も晴れ渡っている。

 庭の灌木の間からロボメが姿を現した。伸びた灌木を丁寧に剪定し、花壇の草むしりに取りかかる。その後ろではスプリンクラーが回り、そこに虹がかかっている。

 少し離れたところに立つ隣家からは物音ひとつしない。住民の姿を最後に見たのは三年ほど前だ。

 二両きりの小さな列車が空を行きすぎ、その上を何台かの飛行車テンピェンドたちが滑走していった。空を裂く駆動音がすぎると、辺りは静かになった。ロボメが刻む規則的なハサミの音だけが響く。

 大気清浄機には、シャンプーと同じサーラヤの香りがセットされているらしい。

 目を閉じて甘く心地よい風を肌に受けていると、天井に取り付けられたスピーカーからAIの声が落ちてきた。

『おはようございます、リァン様。本日正午より星議会による全惑星放送が予定されています。放送の間は惑星ハフラムの全市民が救命活動及び公共活動を除く一切の活動を中止し、放送を傾聴することが義務づけられています。また、この放送を妨害するような行為は惑星法による処罰の対象とされます。放送開始の半刻前よりあらゆるメディアがこの放送に切り替わります。市民の皆様は半刻前より一切の活動を中止して待機してください。次のお知らせです。本日ゼロゴ時に飛行車テンピェンド同士の衝突事故があった影響で、現在、東外周道第一高度が渋滞しています。東街区からセントラルタワー方面へお出かけの方は第五高度をご利用いただくか、列車の利用もご検討ください。それでは行ってらっしゃいませ』

 天井のスピーカーは今すぐ出かけろと言わんばかりにそう締めくくった。

 いよいよ今日、か。

 出かかった大欠伸は半端に消失した。リァンは衣装部屋に入り、少し悩んだ後で無難なスーツを手に取り、シャワーブース隣のパウダールームに向かった。

 手早くブラウスとスカートを身に着け、ドレッサー前のヘアセット・シートに座る。肘掛けのパネルでハーフ・アップスタイルを選ぶと、ロボットアームが伸びてきて髪を手際よく乾かし始めた。壁面いっぱいの大きな鏡には青白い顔の娘が映っている。リァンは両手で軽く頬を打った。痩せこけている上に顔色が悪いせいで、どうしてもツェルより見劣りする。どちらも同じ貌なのに。

 なるべく血色よく見えるようにメイク道具をひとつひとつ吟味し、メイクアップロボにセットする。タッチパネルでナチュラル・スタイルを選択すると、また別のアームがてきぱきと顔中にスプレーを吹き付け始めた。ブラシが頬をくすぐり、唇を撫でる。リァンは背もたれに体重を預け、されるがままになりながら今日の放送のことを考えた。

 市民の生活を制限するほど重要な全惑星規模の発表だ。発表内容については告知されていない。決して悪い話ではないから安心して過ごすように、と星議会は何度も繰り返していた。

 全惑星放送の日程が発表されたのは今から二節前だ。それ以降、様々な憶測がネット上に飛び交っていた。

「ついに外惑星移住決行なるか」

「流行病テランは、反政府急進派ルカーブによる生体兵器と確認。全星民への心理検査で首謀者あぶり出しか」

「保護層クィラの流出確認、第一衛星『ソラ』への緊急避難決まる」

 あまりにも突拍子のないものを除けば、どれも真実のように思えたし、見当違いのようにも思えた。一市民、それも政治と無縁な一学生の憶測でわかるはずもない。

 身支度を終えて半螺旋状の階段を降り、ダイニングへ向かうと、スーツに腕を通していた祖父のサジュナが顔を上げた。

「おはよう、リァン。ちょうど様子を見に行こうと思っていたところだ。どれ、じいさんに顔を見せておくれ」

 淡い金の髪を後ろに流したその姿は、今も若々しい青年のまま。十九歳のリァンより幾らか上といったくらいだ。

「おはようございます、元気ですよ。それより、おじいさんなんて、今考えてもやっぱり変ですよ。お兄さんくらいにしか見えないのに」

「中身は立派なじいさんだよ。それとも、私は祖父として不足かい」

 しょんぼりと小さくなるサジュナに、リァンは慌てて両手を振った。

「まさか、おじいさまは世界一の、自慢のおじいさまですよ!」

「そうか、ありがとう。ああ、まずは食事を摂りなさい」

 リァンはサジュナの引くダイニングチェアに収まった。

 天板に操作ボタンが浮かび上がった。朝食のメニューの一覧だ。フレッシュジュース、グリーンサラダ、OK、と触れると、エネルギーとタンパク質とカルシウムが足りませんと注意された。少量のスモークチキンとミックスビーンズのトッピングを追加し、二度目の忠告は無視して確定した。

 テーブルが朝食の内容を読み上げ、壁の奥で調理が始まる。

 リァンはちらと、コーヒーを片手に正面の椅子を引くサジュナを見た。

 今日は確か遅番のはずだが、それにしてはずいぶん早い。それにいつもの半袖開襟シャツにスラックスではなく、ぱりっとしたスーツを着ている。

「いつもより早いのですね。事故渋滞のせいですか」

「いや、出張だよ」

 出張。

 今日は全惑星放送がある。そのために星議会に呼ばれたのだろうか。だとしたら、放送は恒久エネルギー発生炉「スゥラ」に関すること? 例えば、スゥラ・エネルギーを全振りして動かすような、全ハフラム人が乗れるほど巨大な宇宙船の稼働とか……。まさかね?

 詳しく聞きたい、とつい顔に出ていたのかもしれない。サジュナは目を逸らせて話題を変えた。

「帰りが遅くなるようなら、連絡するよ。きみは大学で放送を聴くのだったね。まだ目覚めたばかりだし、無理せず、家で聴いても良いと思うが」

 祖父から話を聞けるとは端から思っていない。リァンは素直に祖父に応じた。

「本当に大丈夫ですってば。それに、学生は原則、大学で聴くように言われているんです。行けば久しぶりにみんなにも会えるし。それに、溜まっているレポートもどうにかしないと。十日で五つ、いえ、六つ?」

 ひとつあたり五冊ほど読むとして、六つレポートを書き上げるのに三十冊だ。終わるのか。いや、到底無理だ。AIの要約を使って要領よくまとめれば書くには書けるが、初回授業で受けさせられた思考パターン解析とのマッチングによって、レポートの正確性や独自性をチェックされるから、ぜんぶAI任せとはいかない。一番問題なのは亜空間航空学と、遺伝子相関学だ。実験は優秀すぎる助っ人のお蔭で難なく終えたが、あれをどう証明にもっていこう。あれはAIでもどうにもならない気がする。リァンは絶望的な気持ちで続けた。

「放送の時間まで大学の図書館でやろうと思って……。イヴも手伝ってくれるって」

「ああ、あの赤毛の元気な子か。それは感謝しないといけないね。試験が落ち着いたらまたうちに連れておいで。確かあの子はハンバーガーが好きだったね」

「そうです、初デートもハンバーガーランチだったみたいですよ。本当によく飽きないわ」

 サジュナは声をあげて笑った。

「頼もしい助っ人がいて何よりだ。やれる範囲でがんばりなさい。締め切りを守ることは大切だが、身体のことはきみのせいではないのだからね。進級も卒業も急ぐ必要はない。根を詰めすぎてはいけないよ」

「はい」

 そう言ってくれる祖父本人は、飛び級に飛び級を重ねて十三歳で大学を卒業、十六歳で博士となったことをリァンは知っている。

「それより、いつもの日記を楽しみにしているよ。今度は向こうで、どんなことがあったんだい」

「ツェルですか」

 ふと、気付かなかったふりをして顔を逸らせたソーの横顔が思い出された。ツェルは無意識のうちに胸を押さえていた。

「夢で何か嫌なことでもあったのかね」

「いえ……、いつも通り楽しかったですよ。朝礼拝のあとは学校でアシャド語と神学論の授業を受けて、お昼は私と同じ神学専科のみんなと食堂に行きました。午後は委員会のあと、今年はじめて湖畔に行きました」

 ツェルは今、レイェス大聖堂付属学校に通っている。それも今年で七年目、もう少しで卒業だ。昨年テュナが卒業してしまったが、意識して広く浅い交友関係を維持してきたおかげで、それなりに楽しくやっている。御子の責務から離れていられる貴重な時間だ。

 同じ神学科に、実は半双メトワのソーも在籍している。半双メトワが同じコースの場合、原則としてさまざまな課題でペアを組まされる。ツェルにとってはそれが一番の楽しみであり、また悩みの種でもあった。

「湖畔? ああ、もう速翔セハが始まる時期だったか」

「はい。大会に向けて練習が始まったところです。委員会も、そのための役割決めがメインでした」

「レイェス大聖堂付属学校」は教会の一組織だが、聖職者でもある先生と学生会との共同運営の形を取っている。そのため授業の合間や放課後などにそうした運営委員会や会議がしばしば開かれる。

「忙しそうだね。ツェルは他にも学生寮運営委員会や外国特進生選考委員会などの会長を務めていただろう。掛け持ちしすぎて身体を壊すことがなければ良いが」

「おじいさまが仰ると説得力ないですよ」

 スゥラ研究所所長、星立大学スゥラ研究室及び遺伝子工学研究室名誉教授、ハフラム医療機器開発推進機構理事長、里親包括支援センターアドバイザー等々。その他一体いくつの肩書きがあるのか、唯一の家族であるリァンも全部は把握しきれない。最近は本業のラボのほうが忙しいらしく、断れるものは極力断っているようだが、名前だけでも貸してほしいと食い下がる組織があるのを漏れ聞こえた通信で知っている。

「それに、楽しくてやっていることですから。学校側の準備にも本当は参加してみたかったのですけどね。今年もやっぱり、光錘リューゲルの点検係になってしまいました。他にも、万国旗づくりや各国への招待状作り、選手応援団、演奏団、それに食事の差し入れ係なんかもあるんですよ。でも、忙しくてできないだろうからって言われて。どうせなら見込みのない試合の練習こそ免除してくれたら良いのに。練習は全員参加だって言われて……えっ、おじいさま、どうして笑うの」

「きみは運動が苦手だからなあ。ツェルもさぞかし苦労しているだろう」

「ひどい。確かにそうですけれど」

 速翔セハはレイェス大聖堂付属学校が十数年前に編み出した比較的新しいスポーツで、今や国際的人気がある。徒競走と格闘技を組み合わせたような複雑な空中競技で、複数名が光糸認識力ハルファ・リィを駆使して競いあう。集団で行うが、基本的にチーム戦ではなく個人戦だ。ただしその場で協力者を作っても構わない。光糸認識力ハルファ・リィのほか、光錘リューゲルを扱う技術力、腕力、敏捷力、反射神経、戦術を立てる頭脳、味方を得る人徳、あるいは財力、そういったものの総合力が問われる。

 だからこそ速翔セハの上位者には卒業後の富と地位とが約束されている。夏の本大会ともなれば各国の重鎮、大手商家、貴族、はては王族が、さらには裏社会の要人たちまでもが密やかに観戦に訪れ、試合の行方に目を懲らす。彼らにとって速翔セハは最高の娯楽、かつ人材バンクなのだ。優勝者ともなれば卒業後の進路の引き合いが殺到する。

 が、それもツェルには無縁のこと。

「一応、最初の練習試合では最後まで生き残っていたのですよ」

「それはすごいじゃないか」

光糸認識力ハルファ・リィだけは学校でトップなんです。ですから、とにかく落とされないよう逃げに徹しました」

「それじゃあ勝てないじゃないか」

 笑うサジュナに、リァンは言い募った。

「おじいさまだって、光糸リーリエの上で追われてみたらわかりますよ。どこから光錘リューゲルが飛んでくるかわからないし、そちらに集中すれば足を踏み外すしで、すっごく怖いんですからね!」

 試合中は熟練の先生、卒業生らが選手三人に一人の割合で補佐につくし、選手の力量に応じて高度制限もある。ツェルは最下層だ。試合は海上もしくは湖上で行われる。本大会に出場するような高度制限のない一級選手ならともかく、最下層の学生が足場から落ちたとしても、ニ、三人で操る小型漁船の甲板から飛び降りる程の高さなので、大きな怪我をする心配はない。それでも落ちる、いや誰かに落とされるというのは怖い。恐怖のあまり自分から湖に飛び込んでいた入学当初の頃を思えば、最後まで空を逃げ回ったことを褒めてもらいたいくらいだ。

「ソーの方はどうなんだね。毎年予選落ちと聞くが、走るのは速いというから、練習次第で強くなれるのではないだろうか」

 確かに、子供の頃のソーはボールを蹴るのもルブラを走らせるのも喧嘩も、身体を動かすことならなんでも得意だった。

 だけど速翔セハとなると、ソーは毎年、残り選手が三分の一に減ってくる頃に落とされるのだ。向かってくる光錘リューゲルに絶対気付いているはずなのに、避けようともしない。

「ソーは速翔セハが好きではないみたい。今年も予選落ちじゃないかしら。ソーに教えていた先輩が――とにかく熱血な方で、学校中の男子に一騎打ちを持ちかけ全勝したという伝説まである方なんですが、その方がとうとう紡錘つむを投げたくらいなんですもの。なんでそんなにやる気がないんだって」

「それは色々な意味ですごいなあ」

「でしょ。ただソーは、もしかしたらわざと真ん中を狙っているのかしら、とも思うんです。どうしても立場上、目立つ人ですから」

 初めてツェルがソーと出会った九歳の春。

 あのとき、ツェルを探しに来た聖堂騎士たちが実はソーに気づいており、密かに彼の後を追っていったらしい。

 御子が貧民街スラムの子供に唆され、流血事件に巻き込まれた。

 その報せを受けた大司教はすぐさまソーを目の前に引き立ててこさせた。子供といえど、御子を危険に巻き込むというのは子供同士のケンカとは話が違う。大罪だ。

 事情を訊かれたツェルは必死に弁明した。ソーは悪くない。大聖堂を飛び出していったのはツェルが街中で遊んでみたかったからで、偶然貧民街(スラム)に迷い込み、怖い大人に絡まれたところをソーは助けてくれたのだ、と概ね事実を訴えた。

 結果としてソーは謝礼を握らせて解放となったのだが、大司教はその前にお決まりの作業をした。ツェルと同じ年頃の子供がいれば、念のため光糸リーリエを確認するのだ。見つかりもしない「片翼」を探すための定型作業。もちろんこの時の大司教も、本当に見つかるなどとは思っていなかった。

 ところが、ソーの周囲にはどれだけリィをこらせど糸は一本たりとも視えなかった。大司教のリィは、御子に次ぐものとして名高い。そのリィを持ってしても及ばない、高い光糸認識力ハルファ・リィを備えた、御子と同じ年頃の少年が初めて現れたのだ。

 大聖堂はにわかに騒がしくなった。貧民街スラムのソーの家には、ただちに大聖堂から遣いが走った。加えて、風呂に入れられたソーの蒼い髪が顕わになると、大司教と騎士団長はさらに慌てふためき、即日ザンダストラに遣いが送り出された。

 やがてソーに関する情報が大司教の下に集められた。ソーの誕生日、生まれや育ち、そして家族のこと。その間に大司教のもとには、ソーは確かに片翼であるという、女神のご神託までもが下された。

 およそ一月と少しで、ザンダストラ本国から聖皇自らがやってきた。ザンダストラとカナンの往復にかかる日数を考えると一月ちょっとは最短の日数だ。聖皇はただちに「ソーは御子の半双メトワである」と認めた。あれよあれよという間に、ソーとカナン領主ノイ・ス=エバンの養子縁組みが決まり、片翼の存在は大々的に諸国に報じられた。

 貧民から一点、領主の息子へ。しかしそれがソーにとって良いことだったかどうかは、わからない。

 ソーの立ち位置は不安定だ。

 ツェルは、聖典の預言通りに生まれ落ち、古文書にある「初代御子」によく似た風貌を持ち、赤子の頃から大聖堂で育てられてきた。ツェルのことを疑う者は誰もいない。

 けれども、聖典本篇には一切登場しない、ぽっと出の「片翼」はそうもいかなかった。貧民街スラム出身の平民が領主家に入るなどあり得ない、と騒ぐ者たちが一定数いたのだ。

 ソーに向かって往来で侮蔑や厭味が投げかけられるところは、ツェルも何度か見聞きしている。子供の頃は聖典を隠されたり、礼装を破かれたりもしていた。

 最初のうちは怒ったり、相手に掴みかかったりしていたソーだったが、次第に無反応、無表情になり、それと共に口数が減っていった。ご神託も、聖皇の金印も、根深い偏見を取り除くには、充分とはいえなかった。

「もしツェルの半双メトワでなかったら。ソーはもっと気負わず、伸び伸び暮らすことができていたのかも……」

「しかし、それはツェルのせいではないのだろう。機会さえあれば、また仲直りできることもあると思うが」

「でも、ソーはたぶん私に怒っているのよ。この間だって、知らんぷりされたもの」

 あれは、今年初めての速翔セハの練習の後だった。ツェルは久しぶりにソーに声をかけにいった。

 速翔セハの後はペアを組んで防具を外すことになっている。籠手を付けていると肩当てが取り外しづらいのだが、肩当てを外さないと籠手を外すことができない構造になっているせいだ。ペアは特に決まっていないが、自然と半双メトワ同士になることが多い。

 だが、ソーはツェルに応えなかった。声を掛けたときに一瞬目が合ったから、気付いていたのは知っている。でも彼はツェルより一拍遅れて声をかけてきた別の女友達に取り外しを頼んでいた。

 もやもやしながら寝付いたせいかもしれない。ツェルはその晩、夢を見た。見たのは初めてソーと出会った頃の思いでだった。

「子供の頃は仲が良かったんです。時々は喧嘩もしたけれど、仲直りも早かったし」

 といっても、ツェルが一方的に拗ねて、ソーが宥めてくれることがほとんどだったが。

「だけど学校の二年目くらいから突然、ソーがよそよそしくなって。教室で挨拶をすれば返してくれるし、用があれば同級生として最低限の会話はするけど、でも、本当にそれだけ」

 サジュナは困った顔をして、俯くリァンを見ている。リァンは天板の時刻に気がつき、何でもない顔を取り繕った。

「ごめんなさい、もうこんな時間でしたね」

「すまないね。もう少しゆっくりできれば良いのだが。あまり思い詰めないようにな」

「ええ、大丈夫です。おじいさま、お気を付けていってらっしゃいませ」

 立ち上がろうとするリァンに座るよう促し、サジュナはダイニングを出て行った。

 ロボメたちの声と、彼女たちが開けた玄関扉をサジュナが出ていく音。やけに情感たっぷりの「いってらっしゃいませ」の機械音声が聞こえる。飛行車テンピェンドのエンジン音が鳴り、その音はすぐに遠ざかっていった。

 リァンがテーブルに突っ伏すと同時に、ピッと音が鳴った。背面の壁の一部がするりと開いて、豆入りサラダとジュース、それにスモークチキンの乗ったトレイが出てくる。チキンには軽い焼き目がつき、香ばしい匂いが漂ってくるが、相変わらず食欲は湧かない。

 リァンはトレイをテーブルに移した。頬杖を突いて皿をぼんやり眺める。そして、ふと思い出した。

 そういえばソーの好物は、塩でシンプルに味付けた山雉キトセのグリルだったなと。

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