【3】
「ソーっ!」
ツェルは悲鳴をあげ、駆け寄ろうとした。その喉にさっと痛みが走り、血が流れた。カイアの光錘が喉に食い込もうとしている。
ソーの身体を蹴り飛ばしたクィラスは、ゆっくりとツェルを振り向いた。
「今代のクィラスは死んだ。最後は貴様だ。邪神の末裔よ。リァンの身体を返してもらおう」
クィラスが一歩踏み出す。カイアは呆然とするツェルの腕を放し、銃を持ち上げた。
「『レイ』の自我が飛んでしまったのは残念だったな。トロンが死んだと知れば、もっと激しいオル・クルスの奔流を見られると思っていたのに、それもわからないなんてね。まあ、いい。クィラスには悪いが、きみはやはり僕の手で――」
言いかけたカイアは大きく目を見開いてよろけた。ツェルは両手で光錘を逆手に持ち、倒れ込むようにしてカイアの胸に突き立てていた。
「光錘? きみはトロンに渡したはず」
ツェルは震えながらカイアの手から光線銃を奪い、後ずさった。
「そう、か。大司教の……。きみが……僕を殺すのか……」
カイアがゆっくりと仰向けに倒れていく。それを見つめるツェルは金縛りにあったように動けなかった。
激しい轟音が鳴り響く。塔がさらに傾く。そこかしこに倒れていた騎士や神官たちの身体が斜面を滑り、暗闇の底に吸い込まれていく。こちらに駆け寄ろうとしていたクィラスが転倒を避け、宙へと跳んだのが見えた。
「え、エル先輩」
膝をついたまま、ツェルの手は大きく震えた。
この人を殺して、クィラスも殺して。ソーの様子を確認して、そしてレイを助けなければ。そうしなければオル・クルスは止まらない。二つ世の誰も助けられない。わかっているのに、手足が動かない。
クィラの共鳴音ばかりが耳に残る。
壁の一角が崩れ、大樹の枝を叩き割った。巨大な枝がミシミシと音を立てて幹を離れる。今にも折れそうな大きな枝の真下に、倒れ臥したカイアの身体がある。あのままでは、カイアが押し潰される。
自分でも気付かぬうちに、ツェルは駆けだしていた。カイアを抱きかかえ、ツェルは側方に転がった。その身体が、傾いた塔の傾斜に従って転がり落ちてゆく。巨大な枝と葉がすぐ傍を掠めていった。ツェルは大樹の鉢の縁に両足を突っ張り、目の前に飛び出した細い木の根にもう一方の腕でしがみついた。その背に、左足に、砕けた岩の破片がいくつも突き刺さった。ツェルはカイアの頭を庇うように抱え込み、歯を食いしばり、その痛みに耐えた。背が、左足が、焼けるように熱い。瓦礫の雨が収まったのを確かめてから、ツェルはそろりと顔を上げて、滑り落ちそうになる身体を少しだけずりあげて、カイアの顔を覗き込んだ。後ろから白銀の光線銃が転がり落ちてきて、足元の銀の縁に引っ掛かった。
カイアが呻き、薄らと目を開けた。
「フィ、エラ………………?」
「エル先輩」
良かった。生きていた。ツェルはほっと涙ぐんで微笑んだ。カイアは不思議なものを目にしたかのように、ツェルを見上げた。
「リァン」
カイアは開きかけた口を止め、大きく目を見開いた。ツェルはカイアの視線を追うように後ろを振り返った。無表情のクィラスが腰の長剣を抜き放ち、ツェルを見下ろしていた。
「妻の身体から出て行ってもらうぞ」
クィラスが剣を振り下ろした。ツェルは指一本動かせなかった。固く目を瞑って、自分の首が跳ね飛ばされる瞬間を待った。
鋭く空を裂く熱さと、何かが焼けるような匂いがした。クィラスは大きく目を見開き、己の右手から剣を弾き飛ばした銃口を見つめた。
カイアの華奢な手から、白煙を上げる銀色の銃が転げ落ちた。また、激しい落雷の音がした。
リァンはカイアを見た。カイアもまた、己の白い手を驚いたように見下ろしていた。
エル先輩が……助けて、くれた?
「ツェルッ!」
鋭い叫びが聞こえた。
顔を上げたツェルの前に、疾風のように何かが飛び込んできた。ソーだった。身を捻り躱そうとするクィラスの身体をソーが組み伏せる。クィラスはソーの腹を膝で蹴り上げた。二人は銀の縁の上を転がり、もつれ合うように取っ組み合った。
「貴様っ、まだ生きていたのか!」
「この身体の丈夫さはあんたも知っての通りだ!」
クィラスの拳がソーの頬に入る。倒れ臥したソーの上に黒騎士が乗り上げる。ソーは床に押しつけられたまま、上にのし掛かるクィラスの胸に両手を押し当てた。ソーの身体が青い燐光を帯びたかと思うと、クィラスが悲鳴を上げて手足をつっぱねた。バチバチと弾けるような音を立てながら、クィラスの全身に紫電がまとわりついている。
クィラスはふらりと身体を傾がせた。その身体の下から抜け出したソーは、肩からクィラスに体当たりした。黒い鎧を纏った背の高い身体はそのまま銀の縁の先へと投げ出され、深い闇に飲み込まれていった。
激しい落雷の音が鳴り響き、塔が揺れた。壁がさらに瓦解し、崩落する。大きく空いた穴からスゥラの外装の先に広がる闇が見える。駆け抜ける紫電の嵐が見える。折れた大樹の枝と葉が嵐のように傾いた塔内を吹き荒れている。
塔は不吉な声で唸りながらさらに傾いてゆく。足元が大きな音を立てて揺れた。大樹の鉢を支える柱が唸り声を上げてひしゃげ、ぼきりと折れた。大樹が傾ぐ。傾いた塔の中に葉をまき散らしながら倒れる。鉢の上に這いつくばり、木の根に縋って身を竦ませるツェルたちの前で、大樹の幹は一度大きく弾んで動きを止めた。枝葉のクッションを挟み、塔の内壁に斜に凭れる形で、大樹は辛うじて倒れるのを免れていた。
思わず下を覗き込んだツェルは、身震いした。大きく斜に傾いだ鉢は、床まではかなりの距離がある。この高さから落ちれば確実に助からない。己の重さに耐えかねた巨木が悲鳴をあげて軋んでいる。
気を失った騎士団長の身体が転げ落ちてきたが、幸いにも大樹の根に引っ掛かって止まった。死んだ騎士たちが、神官たちが、瓦礫に混ざり奈落の底に消えてゆく。
そのとき、ツェルのすぐ脇を誰かが滑り落ちていった。
「お、お父様ぁっ」
ツェルは淵にしがみついていた両手を離し、その身体に向かって伸ばした。そのとき、また塔が大きく揺れた。支えを失ったツェルの身体は宙に投げ出された。
「ツェルっ」
地を蹴ったソーがツェルの身体をかっさらった。ソーは光錘を鉤爪状に変え、大樹の浮いた根の一本に引っ掛けた。ソーの全身に付けられた無数の切り傷から血が噴き出し、腕を伝い、ツェルの腕にまで伝い落ちた。血に濡れた手が滑る。ツェルは震えながらソーの身体にしがみついた。そうして、はっとして辺りを探した。カイアは。落ちていないだろうか。
ツェルの足元で誰かが動く気配があった。カイアは今にも鉢から滑り落ちそうだった。胸から下は宙に投げ出され、両手で辛うじて縁にぶら下がっている。だが、腕に力が入っていない。ずるずると手が滑ってゆく。ツェルの刺した傷のせいだ。
「エル先輩っ!」
ツェルはソーに抱えられたまま身を乗り出し、必死に手をカイアに向け伸ばした。
「エル先輩、手を伸ばしてください!」
カイアが手を伸ばしてくれれば、ぎりぎり届きそうだ。
カイアは伸ばされた手を見、ツェルの顔を見た。そして、口の端を持ち上げた。
いつもの穏やかだけれど、底の読めない不思議な微笑だった。
「きみに助けられるなんてまっぴらだよ――リァン」
カイアが瞼を伏せる。その細い身体は崩れ落ちる塔の破片に、折れた枝葉に混ざり、散るように闇の中へと吸い込まれていった。
「エル先輩――――っ」
「ツェル!」
ツェルはソーの手を振り払い、瓦礫の降る闇の底へ駆け下りようとした。だが、ソーはツェルの腕を引き寄せ、力尽くで腕の中に閉じ込めた。
「ツェル、無茶だ! それにきみの役目はまだ残っているだろう!」
ツェルははっとした。ソーは一度強くツェルの頭を引き寄せると、ツェルを複雑に絡まりあう木の根の間に下ろした。
「ここでじっとしているんだ」
「えっ、あなたは?」
「早くレイを助けないと」
ツェルは一度大きく息を吸い込み、震えながら吐き出した。涙が止まらない。
「わ、私も行くわ」
ソーは右脚を、ツェルは左脚を負傷していた。二人それぞれの負傷を確かめたソーは、互いの腕を肩に回した。
二人は身体を支えあうようにして、上を目指した。枝や、塔の壁がばらばらと降り注ぐ。まともに固定された糸はほとんどなかったが、幸い幹が斜めに倒れているおかげで、多少は登りやすい。大樹の表面を這うように上がった。レイの足元の少し手前の枝であがった息を整えたツェルは、隣で待ってくれているソーを見上げた。
「行って。ここからは、あなた一人で」
ソーは戸惑ったようにツェルを見た。だけどツェルは覚悟を決めていた。ソーを自由にしてあげるのだ。スゥラは砕かれ、聖皇は死に、教会も実態をなくした。ソーを縛り続けていたしがらみはあと、ツェルとの関係だけだ。
「あなたとの結婚は周りに決められたものだったけれど、私はずっとあなたの隣を夢みてた。こんな私の夢を叶えてくれて、たくさんの幸せをくれて、今まで本当にありがとう。教会はもうない。私たちを縛り続けたハフラムの影ももうない。あなたもレイも、やっと自由になれたのよ。私は、大好きだったあなたに、誰よりも幸せになってほしい。だから、私たち離婚しましょう、ソー。あなたは、あなたが一緒にいたいと思う人と、この先を……生きて」
ツェルは戸惑ったままのソーの頬に口づけた。
「これは御子ツェル・ト=リァンの贈る最後の祝福です。あなたに幸多き未来がありますように」
ソーは照れたように手を頬に宛がい、初めて出会ったときのような屈託のない笑顔を浮かべた。
「…………ありがとう、ツェル」
ソーは片足を引き摺りながら、一人レイの元に向かった。
「レイっ! レイ、迎えにきたぞ」
ソーは仰向けのレイの両肩を掴み、レイの耳元で声を張り上げた。レイの繋がれた手が微かに跳ねた。虚ろだった目が僅かに持ち上がる。
ソーは光錘をナイフに替え、レイを繋ぎ止める鎖を断ち切った。そして支えをなくしたレイの身体を両腕で抱き起こした。
「約束より遅れごめんな、レイ……」
甲高い音が止んだ。青い光がレイの中に吸い込まれてゆく。空を切り裂いていた轟音が収まり、レイの青い目が亜麻色の瞳に戻ってゆく。
「………………ソー。……信じてたのに……」
レイの唇が震え、微かな音を漏らした。
「嘘つき。恨んでるよ。憎んでる。世界も、きみも、全部この手で殺してやりたい……それなのに…………」
ぐったりと目を閉じたレイは、ソーの肩に顔を凭せかけたまま腫れ上がった瞼を痙攣させている。もう、流すべき涙も枯れてしまったのだ。ソーは眉根を寄せ、苦しげに息をつくと、レイの身体を抱き竦めた。
「そうか。…………それでも、俺は……」
塔を大きな音が包み込んだ。凍えるような冷気が収まり、空気の流れが収まった。何か大きなものに包み込まれたかのように。大きく傾いていた塔がゆっくり、ゆっくりと垂直に戻ってゆく。微かな揺れと共に。
「おじいさま」
ツェルは暗い塔の窓を見やった。オル・クルスが止むのを見て、サジュナたちが元老院塔の移送を始めてくれたのに違いない。
「ソー。塔の頂上の水槽が並んだ部屋を覚えている? あそこまで行くわ」
ソーはぐったりとしたレイを背負い、何も言わずに頷いた。瓦礫が止んだおかげで光糸が安定していた。二人は互いに手を貸しながら、よろよろと宙を上がった。天井の先端から折れたパイプが突き出ていた。おそらく、樹の洞を使ったエレベータがこの中を通っていたのだろう。
パイプの中に通るメンテナンス用の梯子を使って、ふたりはさらに上へと登っていった。エレベータの出口を潜り抜けると、ハフラムで見慣れた金属製の筒の中に出た。閉じているスライド式の扉は光錘をつかってこじ開ける。
懐かしい空気が鼻先に流れ込んできた。
塔の突端に建つ銀色のドームの中に出たのだ。中は無傷だった。サジュナはここを、オル・クルスに耐えうるバネの樹液で保護されていると話していた。
レイの介抱はソーに任せ、ツェルは保存槽の一つ一つを確認して回った。この部屋の動力はまだ動いていた。保存槽からは駆動音が聞こえてくる。
ツェルは室内のキャビネットの中に使えそうなものがないか、確認して回った。思ったよりも収穫があった。
非常食や、医療道具が一通り揃っている。
治療槽に入る前に飲む睡眠薬も見つかった。瓶に貼られたラベルはハフラムで見慣れたものとほぼ同じだった。
「レイは起きているかしら?」
「反応は返すが、朦朧としているみたいだ。それに、胸の痛みも」
ソーは横たえたレイの心臓に手を宛がっているが、クィラは弱々しく明滅している。ソーもまた出血がひどく、衰弱しているのだ。「脈もかなり弱っている。あれだけのクィラを放出したんだ。このままでは……」
「大丈夫、心配しないで。あなたも、レイも、ゆっくり休めば良くなるわ」
ツェルはソーを空の水槽が並ぶところまで引っ張っていった。瓶の中の錠剤を取り出して、ソーに二粒握らせる。
「それをレイとあなたとで、一粒ずつ飲み込んでね。それから、一人ずつこの筒の中に入るのよ」
「あの……俺たちそっくりな……あれと同じようにか?」
ソーは困ったように、クローンたちが眠る水槽を見遣っている。ツェルはくすりと笑った。
「平気よ、溺れたりしないから。私もハフラムでは定期的にこれを使っているの。これはハフラムの医療器具で、この薬液に浸かると肉体の修復を早めることができるの。液体の中での呼吸は……そうね、お魚をイメージして。この中では鼻や口ではなく、皮膚で呼吸ができるのよ。逆に口や鼻から呼吸してしまうと薬液を飲んで苦しくなってしまうから、そうならないように、この薬を飲んで眠るのよ。身体を包む液体が脳を休眠状態に誘い込んで、心地よい眠りにつけるの。怪我が完治したら薬液は排出されて、自然と目が覚めるから」
「なるほど、猛獣の冬眠みたいなものか。ツェルもこれを使うんだろう?」
「私も近いうちにそうするつもりだけれど、まだやることが残っているから」
「だったら俺も」
「だめ。あなた酷い怪我よ。足の骨も折れているでしょう」
治療槽の開閉ボタンを操作しながら、きっぱりと言い切る。
「レイだって、ひとりで休むのは心細いでしょうし、隣に居てあげて」
ソーはしぶしぶ頷いた。
「……わかった。また、会えるんだよな」
ツェルは慣れた微笑を顔に貼り付けた。実のところ、怪我が完治した後も、諸々の用が済むまでソーたちには眠っていてもらうつもりだった。途中で治療水を生体保存液に入れ替えれば良い。
以前、ここの端末を調べたときにわかったことがいくつかある。このコントロール・ルームはドームの壁と同じようなステルス機能を備えている。だからこそこれまで誰にも見つからなかったのだ。
でも、それだけでは不十分だ。
今やソーも、レイも、ここに制御室があることを知ってしまった。それに騎士団長や、騎士たちも、ハフラムの文明を知り、オル・クルスの存在を知ってしまった。
それにもしかしたら、ハフラム人と関わったスゥラたちの中には、この世界の秘密を聞き知った人たちもいるかもしれない。
サジュナたちがハフラムに残ると決めたのは、ハフラムの文明をスゥラに持ち込まないためだ。
この制御室は航海に必要なものだ。しかしここには、ハフラムの文明や記録が詰まっている。リァンには管理者権限があるという話だったが、ここの機能のすべてを理解しているわけではない以上、いつかここからハフラムの秘密がスゥラたちに伝わってしまう可能性がある。スゥラたちにハフラムの文明を持ち込まない、というサジュナたちの意思が守られないことになる。
サジュナたちははっきりと口にはしなかったが、ツェルが船の操縦者に選ばれたことにはその意味もあったように思えてならない。
口に出して言わなかったのは、リァンを気遣ったからだろう。避けたければ避けることができるように、逃げ道を残しておいてくれたのだ。
そう遠くないうちに、その日が来るかもしれない。スゥラたちの光糸を裁ち切り、その記憶をまっさらな状態に戻す日が。
ハフラムとの関わりを完全に絶ち、異惑星で新たな人類として歩んでいくために。
問題は、切断ではツェルに繋がる糸を切ることはできないこと、それから、騎士団長やソー、レイなど、瞳の強い人たちの糸はツェルには切れないことだ。
しかし、その対処法もここには用意されていた。
ここには様々な薬品が保管されていた。中には記憶障害をもたらすが、身体的には害のないというものもあった。ハフラムでは主に犯罪者の更生に使われていたものだ。大人になってからの記憶には効きやすいが、幼少時の記憶は残りやすいと書かれていた。
なぜそんなものがと思ったが、どうやらラボはクノタにそれを投与していたらしい。
この薬を生体保存液に混ぜれば、ソーたちもここであったことを次第に忘れていくだろう。でも、子供の頃に出会っていたソーとレイには、互いの思い出が残るはずだ。
かけがえのない思い出を勝手に奪うなんて、互いに絆を造りながらここまで生きてきたスゥラたちにとっては、身勝手な暴力にすぎないだろう。
でも、これは最後のハフラム人である私の務めだ。
黙り込むツェルの首に、冷たい金属の感触が降りてきた。
驚いたツェルは首に手をやった。その手に木彫りのペンダントヘッドが触れた。自由の象徴、渡り鳥を象った彫り物。これはルゥたちがソーに贈った誕生日プレゼントだ。
ソーは鎖をかけた手を引き、レイの身体を抱え上げた。
「これが俺にとっては一番のお守りだ。この先はきみに任せることしかできない。せめてこれはきみに持っていてほしい」
ツェルは涙ぐむ目尻を指の背で拭って、その鳥を撫でた。
翼を広げた鳥。
自由の風に、私たちはなるのだ。
「どうもありがとう。大切にするわ」
ソーはにこりと笑って傷だらけの右手を左胸に当て、その手をツェルに差し出した。
「こちらこそありがとう。またな、ツェル」
ツェルは微笑み、ソーに絆の挨拶を返して、その大きな手をそっと握った。
「またね、ソー。私の大切な半双」
睡眠剤を飲んだソーとレイは、水平に倒しベッド状になったカプセルの中に収まった。
間もなく二人が深い眠りに落ちたことを示すレーダーがパネル表面に表示された。カプセルが元通り垂直に立ち上がり、淡緑色の治療液が槽の中に溜まってゆく。
ツェルはソーの入った保存槽をしばらくの間見つめ、それからゆっくりと立ち上がった。揺れが止まっていた。元老院塔の移送が完了したらしい。
内心ほっとした。
ハフラムとスゥラの大きさの比を考えると、下手をすれば建物が崩壊するほどの大地震になるのではと心配していたが、杞憂だったようだ。
〈さすがはおじいさまだわ。それに、クォダさんたちや、イヴたちも……ありがとう〉
ツェルはソーとレイが入った槽を除く、すべての槽のスイッチを回し、生体分解液に切り替えていった。自我を持たないクローンたちも、死してなお肉体だけを保存されていたソーの父クノタも、アスラへの長い旅の間に槽の中で分解され、あるべき姿に還ってゆくだろう。
操縦室はコンピュータルームの奥、とサジュナは言った。その言葉を思い出しながら、クノタが入った槽の前を通り過ぎ、大型コンピュータ端末の周りを探した。
ふと、以前ここに来たときのことが思い出された。あのときはソーがいた。元気なレイがいた。カイアは一晩中ツェルの傍に寄り添って、画面の中を覗き込んでいた。カナンの外には、広い世界が広がっていると信じていた。たとえ眠ったとしても、目が覚めればまたハフラムで目覚めるのだと信じて疑わなかった。
コンピュータの右手の隙間に細い扉があった。何の飾り気も目印もないから、パネルの継ぎ目だと思っていた。よく見れば壁の切れ目のすぐ隣にフラップパネルが取り付けられている。そこを開けば、中は黒い認証パネルになっていた。試しにそこを覗き込み、手を押し当ててみたが、反応はない。ツェルは光錘を取り出してぼやいた。
「できれば壊さないで開けたかったけれど……あっ」
ツェルの声を聞き分けたかのように、黒い認証パネルに赤い光が灯り、扉が横にスライドした。
〈そうか、ここから先はおじいさまの言っていた通り、私の生体情報の組み合わせが必要なのね〉
扉を潜ると思いのほか広い空間が広がっていた。不思議な空間だ。中央の球上ディスプレイから青い光が差す中、部屋の周囲をぐるりと木立が取り巻いている。まるで月夜の中に佇む森のようだ。近づいてその樹を眺めたツェルは思わず独りごちた。
「これ、まだ小さいけれど『御神木』だわ」
命の間のそれは言うに及ばず、大聖堂の前に植えられていた樹よりもさらにずっと小さな若木だが、葉の形も、幹の様子もそっくりだ。
御神木。最初の樹と、最遠の樹。
光錘の材料となる樹と、瞳を詐害する樹。ソーやレイがあの樹に繋がれていたことを考えると、最初の樹にはクィラを強める力もあるのかもしれない。
部屋中央の球上ディスプレイの前に、柱のように聳え立つ端末と、カプセル型ベッドが二つ並んでいた。
カプセルの表面に取り付けられた金のプレートの刻印をツェルは読んだ。左のものにはハフラムの標準語で「リァン」と、右のカプセルには「ノル=ドナト」と刻まれていた。
どこかで見た覚えがある。しばらく考えたツェルは、記憶の片隅からその答えをひっぱりだした。ハフラム星立動物園の創立者の名だ。三百年も昔の人の名がここに刻まれている。まるで伴侶のごとく、リァンの隣に。その理由は今となっては知るべくもない。
ツェルは己が名の刻まれた左のカプセルの中に身体を預けた。フォルムチェンジボタンを押せば、背もたれとフットレストが持ち上がり、チェアの形状に変わった。
ディスプレイをまっすぐに見つめて、ツェルは口を開いた。
〈通常操作モードを解除。私の権限においてこの船を操作します〉
ディスプレイに光が灯り、コンピュータがその声に応じた。
『おかえりなさい、マザー。通常操作モードを解除し、あなたの脳波における操作に切り替えました。カプセルの背もたれ、肘掛けに神経接続パネルが設置されています。発声以外で操作を行う場合、いずれかに身体の一部を触れさせて操作を行ってください』
〈わかったわ。さっそくだけど、塔内外の様子を確認したいの。可能な限り映してもらえるかしら。ええと、塔ってわかるかしら。ブリッジ、つまりこの部屋を内包する着脱可能な建造物のことだけれど〉
『もちろんです、マザー。私はあなたの思考を読み取ることができます。オービター内の映像を順次投影します』
中央の球上ディスプレイに立体映像が映し出された。ツェルは息を飲んでその様子を見つめた。
最初に映し出されたのはかなり高所からの映像だ。銀色のドーム状の建物と、盃型の淵が見える。遙か下の方に移っているのは、広々とした緑の絨毯だ。元老院塔の先端付近から周囲を俯瞰するように撮っているらしい。カメラがくるりと回る。抜けるような空が映った。輝く太陽、そして、薄雲をところどころに浮かべた水色の穏やかな空だ。その下にはどこまでも続く緑の平原。とうとうと流れる豊かな河。青々とした森林。遠くには山々の峰が見える。
森の上には薄衣のような四枚の翼を生やした黒い生き物が飛んでいる。草原を四本脚で疾走する灰色の獣たちの群れも見える。巨体を持ち、のんびり草を食む緑色の獣も。どれも見たことのない生き物ばかりだ。
〈これが、新しいスゥラたちの世界……〉
ホログラムは次々と映像を切り替えた。塔の下層の様子。顔を輝かせ、窓に駆け寄る市民たち。手を取り合って喜ぶレイェス大聖堂付属学校の学生たち。神官、騎士たちが扉を開け放ち、どこまでも広がる豊かな自然に目を丸くしている。階段を這うようにして騎士団長が降りてきた。騎士団長は四方八方から四人の娘たちと若手騎士たちに抱きつかれ、だらしなくへたり込んでいる。その前を子供たちの集団が走りすぎ、その親たちが慌てて後を追っている。子供たちは制止を振り払い、大きく開かれた扉から外に飛び出した。広々とした草原を、笑い転げながら走りまわっている。
映像は上の客室層に切り替わった。ベッドに横たわる重傷者や病人たちが、治療士や神官と手を取り合って、窓からの明るい景色に息を飲んでいる。
さらに上の貴賓室。ハフラムからの接続が切れ、二度と目覚めない抜け殻となった者たちが眠るベッドが並んでいる。
命の間は映されなかった。最もオル・クルスの被害を受けたあの場所のカメラは壊れてしまったのかもしれない。
大樹の足元には、ハフラムに翻弄された挙げ句に命を散らした人々が眠っている。大好きだったツェルの父。ツェルを可愛がり時に支えてくれてきた聖堂騎士たち。それに、クィラスや、カイア……エルたちも。
この船が飛び立ち、無事にアスラへの航路に乗ったなら、最初に彼らを弔いに行こう。ツェルは胸に手を当て、彼らのための祈りを捧げた。
最後に、巨大な空洞の映像が映し出された。はじめのうちツェルにはそれが何の映像なのかわからなかった。ここは定点カメラではなくドローンが撮影しているらしい。どこまでも広がる暗闇を、下方から淡い緑色の光がぼんやり照らしている。ひたすらに滑らかな水平線のようなものが続き、しばらく行くと、黄金色の河が現れた。そして、白く滑らかな砂丘のようなものと、赤黒い沼地のようなものが。
〈全体像がわかりにくいわ。もう少し高度を上げて撮影できる?〉
『了解。操縦室の全体像を撮影します』
操縦室? でも、船の操縦は今この部屋から行っているのに。
一直線に飛びすぎたドローンが高度を上げる。画面いっぱいに映っていた黄金の河が次第に小さくなる。ツェルは思わず両手で口を覆った。
そこにあったのは、巨大な保存槽だった。淡翠の液体に満たされた槽の中にはツェルよりも少しだけ年上の娘が眠っていた。リァン=エーゲルだ。
そこはハフラム人のための操縦室だった。奥にコンピュータ端末らしきものが微かに映った。あまりに巨大すぎ、部屋の全貌はカメラに捕らえきれなかったが、リァンの眠る槽の他にも三つのカプセルが円を描くように並べられていることはわかった。そのうち使用されているのはただ一つ。リァンの眠るカプセルだけだ。
ツェルは再びこみ上げてきた涙を指の背で拭い、深呼吸した。泣いている場合ではない。邪魔が入る前に離陸しなければ。
〈出立します。私たちの移住先、アスラへ向かってください〉
『了解致しました、マザー。銀河系コード〇〇〇〇九九七九〇一三〇六、惑星コード〇〇〇〇三、アスラへ向けて自動航行に入ります。スゥラ内への振動はすべて緩衝体に吸収されますので、身体を固定する必要はありません。ただし緊急時対応が必要な場合があります。大気圏を抜けるまで、管理者は操縦席を離れないでください』
その言葉通り、船は、いや、スゥラたちのいるこのエリアは全く揺れなかった。しばらく沈黙していたディスプレイの映像が、やがて船外の映像に切り替わった。
真っ白なセントラルドームが映し出された。分厚い雲に覆われた灰色の空と、どこまでも荒涼と広がる大地に、千年前に壊れた街の遺構。その中に曲がりくねりながら荒野の中を走る線路と、二両きりの古びた車両が豆粒のように小さく見えている。
死の星の中、ぽつりと白い面をさらしているセントラルドームはひどく寂しげに飛び立つ船を見上げている。船が上昇するにつれ、ドームの屋根に空いたいくつもの穴が見えるようになった。
〈おじいさま……〉
ツェルはハフラムからこの船を見上げているだろう、ひとりひとりの顔を思い浮かべた。サジュナ。イヴ。メイア。ゼノン。それから……。
高く、高く船は昇ってゆく。
分厚い雲を突き破り、青いシールドを張り、大気圏を突き抜ける。そして翔ぶ。星ばかりが冷たく輝く宇宙へ。
星翔けるスゥラたちの船、星翔船の、アスラへの長い旅が始まる。
Fin.
... and To Be Continued in the episode of CESLA.
ここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。
初めての作品だったので、拙い部分も多かったと思います。
そんな中、おひとりでも読んでもらえていることが本当にありがたかったです。
色々と悩みもしましたが、楽しい活動でした。
最後に、貴重なお時間かとは思いますが、評価またはコメントをいただけたら、とても嬉しいです。




