【3】
*
「ソーっ!」
リァンは跳ね起きた。濡れた長い髪が首に張り付き、心臓が大きく飛び跳ねている。
「大丈夫? リァン」
間近から覗き込む人物の顔を認めて、リァンは瞬きした。どうしてここにイヴが? ソーはどうなったの。激情に駆られてあの黒騎士を一人で追おうとしていた。でも、私はあのとき確か倒れて。
イヴは毛布の上に腰を下ろし、リァンの頬を両手で挟んだ。
「おはよ。あなた、ハフラムに戻ってきたのよ。ここはあなたとサジュナ博士が隠れていた旧時代の地下遺跡。覚えてる?」
「イヴ」
身じろぐと、身体の下でずれた毛布が襞を作った。見覚えのある、くすんだ橙色の毛布だ。
「良かったよ、UPSが動いているうちにどうにか呼び戻せて。手順を踏まずに深神経接続を強制切断させると、脳がやられる可能性が高いからさ」
その後ろからほっとしたように声を落としたのはゼノンだ。
リァンはイヴの肩越しに視線を巡らせた。イヴの後ろに、所在なげに立っているゼノン。無機質な鉄パネルに覆われた暗い室内を天井の白い電灯が照らしている。錆だらけのテーブルの上には銀色のスープボウルが二つ並んでいる。
「おじいさま」
サジュナの手作りの味を思い出して、リァンはイヴの肩を掴んだ。
「イヴ、ゼノン。無事だったのね!」
リァンは咳き込んだ。声が掠れて出てこない。リァンは息も絶え絶えに言葉を絞り出した。
「そうだわ、おじいさまはどこにいるの? ずっと待っていたのに、なかなか呼び戻されなくて、心配していたの。こちらで何かあったのかしら」
「リァン、サジュナ博士は」
「待って、イヴ」
説明しかけたイヴをゼノンが止めた。
「とりあえず戻ろう。時間がない」
イヴは表情を引き締めて頷くと、リァンの腕を掴んで引っ張り上げた。
「待って、何が起こっているの?」
「追っ手に追われているのよ。さあ、立って」
立ち上がろうとしたリァンは、その場に倒れかけた。イヴが慌てて肘を掴み助け起こしてくれた。
そういえば肺が炎症を起こしたのだっけ。痛み止めが効いているようだけれど、息苦しいのはどうしようもない。吸っても少ししか酸素が入ってこず、全力疾走した後みたいだ。
ゼノンがリァンを支え、イヴがリァンの背に携帯型の酸素濃縮機を背負わせた。手渡されたチューブを装着している間に、ゼノンが背負っていたバックパックはイヴの背に移された。身軽になったゼノンは有無を言わさずリァンを負ぶった。リァンは慌てた。
「ゼノン、私、自分で歩けるわ」
「いいから、あなたは黙って負ぶわれてなさい。あなたの力を使うのはここじゃないのよ」
「そうそう。それにリァンは痩せすぎだよ。イヴの半分くらいしかないんじゃない」
ドアを潜りながら言いかけたゼノンは痛っ、と叫んで目の端に涙を浮かべた。イヴがゼノンの脇腹を抓り上げたからだ。
「別にイヴが太ってるなんて言ってないのに」
「同じようなものでしょ。ほんと失礼なんだから」
軽口を叩きあうイヴとゼノンだが、足は止めない。二人は廊下突き当たりの真空ボックスからランタンを取り出した。ランタンを灯したイヴたちは、天然洞窟を突き抜ける透明パイプの中に踏み込んだ。
「どこに向かっているの」
「郊外のシェルターだよ。そこにきみを送り届けるのが、俺たちの役目」
「でも私、急いでおじいさまに会わないと。早くスゥラの中に戻らないと、ソーが――」
「ごめんな、詳しい話は後だ。とりあえずここから離れないとまずい」
しばらく通路を歩き、分岐点をいくつか右に左に折れながら進んだところで、ゼノンがあっと声を上げた。
「やっと接続圏内に入ったよ」
ゼノンは耳に手を当てた。その耳で、カナル型の無線イヤフォンがちかちかと光っている。イヴの顔に緊張が走った。
「かえって傍受されない?」
「それでもナビがあった方がいいだろ。しばらくは大丈夫だって、シャジャさんが位置探知システムを落としてくれたから」
イヴは背負っていたバックパックを降ろした。中から取り出したのは一抱えほどの扇形の装置二機だ。ゼノンとイヴが慣れた手つきでぱたぱたと広げてゆくと、それは一抱えほどの円盤になった。携帯型の浮遊盤だ。一昔前に流行った遊具だが、市販のものよりずいぶん小さい。
「サジュナ博士の特製品だよ。狭いところでも安定して飛べるように、急ごしらえで用意してくれた」
「おじいさまが?」
「リァンは博士と本当に仲が良いんだな。俺とイヴの共通の趣味がこいつだって、博士はちゃんと知っていたよ」
ゼノンはリァンを背から降ろした。
リァンはサジュナの穏やかな微笑みを思い出した。夕飯のときに今日のできごとをサジュナに聞かせるのがリァンの日課だった。日記は日記で共有していたけれど、それとは別に、会話の中でも、ツェルの話、リァン自身の話をたくさんしてきた。イヴとゼノンが浮遊盤を使ったVRレーシングで意気投合したという話もかなり前にした気がする。
ゼノンは組み立てた円盤を回し、中央の突起を押した。するとそこから伸縮式の棒が飛び出してきた。先端にグリップがついている。ゼノンはリァンを円盤に乗せ、グリップを握らせた。同じ円盤にイヴが上がり、後ろからリァンを抱きかかえるようにしてグリップを握った。もう一方の円盤にはバックパックを背負ったゼノンが乗った。
イヴが慣れた仕草で踵を踏み込むと、浮遊盤は抵抗なく浮き上がり、地面すれすれを滑り始めた。ぐんぐん速度が上がってゆく。髪が頬をなぶる。洞窟の壁が空を切って飛びすぎてゆく。
「……っ」
息も絶え絶えにリァンが喘ぐと、イヴは済まなさそうに心持ち速度を落とした。
「大丈夫? 悪いけど、少しだけ我慢して」
リァンは返答をする余裕もなく、こくこくと小刻みに頷いた。何もかもわからないけど、今は二人を信じるしかない。何度も何度も落下感や壁にぶつかる恐怖に身を竦ませたが、イヴは巧みに浮遊盤を操って、先行のゼノンにぴたりとついて障害物を避けてゆく。
何度目かの分岐点に差し掛かったところで、前を飛ぶゼノンが大きく手を振って寄越した。イヴがグリップを引き、ブレーキをかけた。進行方向の先から複数の走る足音が響いてきた。右か。左か。どちらから聞こえているのだろう。少し先で停止したゼノンは迷わず右に進路をとった。イヴが再びアクセルを踏み、ゼノンに続く。リァンの心配を余所に、聞こえていた足音は着実に遠のいていった。ゼノンが速度を落とし、イヴがそれに倣う。少し落ち着いてきたリァンは訊いてみた。
「イヴ、ゼノンは誰と通信しているの」
「メイアよ」
ゼノンがイヴに並んだ。
「メイアに俺たちのナビ役を引き受けてもらったんだ。生命維持装置を必要とする重症病棟のある病院には、万が一に備えて備蓄エネルギーがあるからさ」
「接続実験のため、スゥラの利用制限をするって話があったものね。でも、無理してないかしら」
「もちろん私たちは止めたわよ。でも、無理してでも手伝いたいって本人が粘りに粘ったのよ。寝たきりの自分でも、目は見えるし指先は動く。誰かの役に立ちたい、救える命を救いたいって聞かないの。それが自分のためだからって」
リァンにはメイアの気持ちが少しわかる気がした。人の世話になってばかりで、役立たずの自分がどれほど身の置き場のなさを感じるか、嫌というほど知っている。無理を押して協力してくれているメイアもまた、精一杯に生きようとしているのだ。
「追っ手もメイアがうまく誘導してくれたみたいだ。だよね、メイア。あ、スピーカーオンで」
後半の言葉を拾ったゼノンの腕の装身情報端末から、ノイズと共に男性の声が発せられた。
『聞こえるかい、リァン、イヴ』
「えっ、エル先輩?」
驚くリァンの横で、ゼノンは咎めるように言った。
「メイア、いたずらがすぎるよ」
『えへへ、ごめんって』
今度聞こえた声は、メイアの声だった。
『そっくりだったでしょ。いつものAI発声機で先輩の声を作って、過激派の兵士たちを誘導したの。声紋認証までパスできるなんて、私って天才かもしれない』
「エル先輩の声で?」
何もかも意味がわからない。オル・クルスを兵器として使おうとしている過激派とエルがどう繋がるのか。それになぜ過激派に追われるような事態になったのか。もしや、絶好のタイミングだった結婚式のときに呼び戻してくれなかったのは、サジュナがスゥラ内の監視ができないような状況に陥ったからなのか。
「待って、全然わからないわ。エル先輩がどうしたの。おじいさまは一体どこにいるの」
『ごめん、余計なこと……あ、この人たちしつこいな。ちょっと誘導してくる。次の角は右ね』
ゼノンはスピーカーをオフにし、イヴと気まずげな視線を交わした。
「あのさリァン。ショックかもしれないんだけど」
言いかけたゼノンに被せるようにして、イヴがリァンの耳元で声を高めた。
「ねえ。アスラ移住計画のことで、星議会が派閥争いをしてるって話は、博士から聞いてる?」
「ええ、大まかには」
咳き込むリァンの背をイヴは擦った。
「無理に話さないで。えーっと、派閥についてまとめると、一番大きい勢力はドナト議長をはじめとした『移住推進派』。ハフラム人の生存を最優先として、そのためスゥラを犠牲にすることを厭わないとする派閥ね。それと真っ向対立するのがサジュナ博士をはじめとする移住反対派。その間にもいくつかあって、まずは比較的穏便な選民思想派。彼らは移住自体には賛成しているけど、能力的に優れたハフラム人だけを自我のない接続先に繋げ、スゥラの自我を尊重しようとしている。けど、これも結構えぐいよね。優秀な人間なんて、一体何を基準にして決めるってのよ。もちろんそれを決める議員は、真っ先に自分たちが助かるつもりなんでしょうけど」
怒りを顕わにするイヴの続きをゼノンが引き取った。
「派閥は他にも色々あるみたいだけど、一番危険なのが『過激派』って連中だ。さっきこの通路に来ていたのもそいつらだよ」
「おじいさまは、彼らに捕まってしまったの?」
「うん、ごめん。博士は俺たちを庇ってくれたんだ。俺たちが過激派を刺激するようなことをしたから、その身代わりになって……」
「リァン、博士のことはクォダさんたちが救出に向かってくれてる。だからあまり心配しすぎないで」
リァンは泣きそうになるのを唇を噛んで堪えた。
「オル・クルスを兵器として使おうなんて、過激派は一体、何がしたいの。ドームに穴を開けて、大勢のスゥラとハフラム人を犠牲にして、彼らにとっても、得るものなんて何もないじゃない」
「過激派の目的はオル・クルスを兵器として使うことじゃなかったんだ。過去に二回行われたクィラ照射実験のことはリァンも知っているんだよね? 二回とも被験体のスゥラたちはほぼ全滅してしまったけど、たった三人だけ生き残りがいた。しかも生き残った彼らはそれぞれに特殊能力を身につけていた。っていう。どんな能力かはリァンの方が詳しいよね」
「オリジナル・リァンが得たのは光糸を切ったり縒ったりする力。その半双であるクィラスが得たのはクィラを生み出す力。そしてレイェスは糸を編む力を得ているわ。死と進化とを同時にもたらす紫の雷を、ときの研究者たちは『死の夜明け』と名付けた――待って、まさか?」
「そう、過激派はオル・クルスを使って、スゥラ及びハフラム人たちを太陽光線への耐性を持つ存在に進化させようとしているんだ。サジュナ博士の調べた昔の記録によれば、リァンとクィラスは元々、それぞれ隣り合う集落の長の跡目として生まれたそうだ。二つの集落は食糧や富を求めて殺し合い、奪い合う関係にあった。二人は敵対勢力の中に生まれるも、どうにか二つの集落の問題が穏便に解決できないかと隠れて相談しているうちに親しくなったらしい。そんな二人の精神状態が、記憶や人同士の繋がりを操作できる力、癒やしや裁きの力の覚醒に繋がったのではないか――と、当時の記録には書かれていたらしい。だから、有害物質や毒素に汚染され、荒廃したこのハフラムでも生きたい――そう考えるハフラム人が進化を起こせば、有害物質への耐性が生まれるかもしれない。それが過激派の目的らしいんだ」
滅茶苦茶だ。それは証拠も何もない、ただの推測にすぎない。また同じような奇跡が起きる保証なんてどこにもない。進化よりも前に、下手したらスゥラたちが全滅してしまう。
「推測に基づいて試してみるだなんて、まるで実験じゃない」
「そう。いつものように、実験のつもりなんでしょうね」
イヴが珍しく気弱げに呟く。
「まさかこんなことまでするなんて。私たち、もう上の街には戻れないのかな」
「イヴ」
ゼノンが強い口調でイヴを止める。イヴはあっと声を上げてリァンを確かめるように覗き込んだ。リァンは恐る恐るすぐ後ろのイヴに問うた。
「ドームの被害はそんなに?」
二人は目を見合わせて口ごもる。リァンは震えつつも言い募った。
「お願い、隠さずに知っていることを教えて。私は全部知らないといけない。これは私にも責任があることだから」
ゼノンが少し迷いつつ話し始めた。
「リァンが目覚める少し前に、スゥラ波が断絶したんだ。前回のオル・クルスで外装が脆くなっていたせいだと思う。外装を突き抜けたオル・クルスはそのままドームの屋根を砕いたんだ。幸いラボの人たちは前回のオル・クルス後から郊外のバックアップ・センターに移っていたから、被害を受けたのは外装の修復にあたっていたロボットたちだけで済んだそうだ」
イヴがその後を引き継いだ。
「だけど今度は地下シェルターにも外気が入りこんでしまったのよ。緊急装置が作動して、手前の方でせき止めたから、最悪の事態は防げたみたいだけど。生き残った人たちは、地下深くのシェルターや、さっき私たちがいたような郊外の地下古代遺跡に避難してる。みんな持ち出せるだけの避難物資を持ち出してきたみたいだけど、それもいつまで保つかわからない。スゥラ波が断絶したら、外気中和剤の噴射も止まる。外に出られないんじゃ、手元の物資が尽きたときが運の尽きになる」
本当に危機的状況だ。
「どうしてそんなことを……。ドームを壊せば画策した彼らも無事では済まない。スゥラがなければ宇宙船も動かない。移送用の小型艇にはほんの数人しか乗れないのよ」
「後先なんてどうでも良かったのかもしれないな。良くも悪くも目的を果たすためには犠牲を厭わないようなところのある人だから。それがたとえ他人のものであっても、自分自身のことであっても」
ゼノンはまるで感情に流されるのを避けるかのように、抑揚を抑えたまま言葉を続ける。
ここまで聞けば、もう思い浮かんだ顔を払拭することはできなかった。始めにオル・クルスが起きたあのとき、倒れる直前に聞いたあの人の声はリァンの耳に今もはっきりと残っていた。
「だが、もし、もっと劇的な進化があちらこちらで起きたなら、どうだろう?」
リァンは顔を俯けた。
どうして。ずっと優しかったのに。
「エル先輩、なの……?」
黙って顔を俯けるふたりの表情は、リァンの推測が正しかったことを示していた。
「もう一つ、きみに言わなくちゃいけないことがある。辛いことだと思うけれど、きみやソーさんの身に関わることだから」
震えるリァンの手の甲をイヴの指先が擦る。ゼノンは沈んだ声のまま続けた。
「エル先輩はスゥラに不正アクセスして、議長の手足となって動いていたみたいなんだ。表だっては動けないような仕事をスゥラの中で行うためにね。その一つが、オル・クルスのもう一人の生き残りの監視。えっと、名前は」
「レイェスちゃんでしょ。それとエル先輩の接続先スゥラの名は『カイア・バス=エンテ』」
リァンの手から力が抜ける。イヴが慌てたように重ねた手でその手を支えた。
嘘だって言いたい。信じたくなかった。ツェルを救ってきたカイアの優しさまでも全部嘘だったなんて。
それにエル先輩が『オル・クルス』を扇動したということは、すなわちあの黒騎士を従えていたのもまた先輩であり、カイアだったということになる。
でも、それならすべて説明がつく。
結婚式前夜にエル先輩は私に鍵を開けさせ、レイを連れ出した。その後レイはおそらくオル・クルスを強要されたに違いない。なぜ、今回は強力なクィラを生み出せるソーを使わなかったか。彼らの予想以上にソーが苦痛に耐えたため、十分な成果を得られる前に切り札を使い果たしたからだろう。それならば多少パワーは落ちるとしても、レイを使う方が彼らの目的に適う。
レイは一体、どんな酷い目に遭わされたことだろう。
ソーが目の前で大切なルゥたちを最も残忍な形で奪われたように、レイの感情を爆発させるため、彼らはレイにとって最も大切なものを奪い、傷つけたはずだ。
そして、恐怖と絶望に屈したレイがあのオル・クルスを起こした。そう考えれば説明がつく。
アイリスでルゥたちが助けられるなんて嘘だったのだ。エル先輩は端からアイリスに興味なんてなかった。ただオル・クルスのために私を利用した。
いや、違う。
先輩は私の欲望をあおり立てただけ。私には鍵を開けないという選択肢もあった。鍵を開けたのは私自身の意志だった。ソーを奪われたくないという私のエゴだった。本当はどこかでおかしいと思っていた。理性的で頭の良いエル先輩がアイリスなんて夢物語を本気にして、あんな話をするだなんて。疑いはあったのに、私は先輩の言うがままに動いてしまった。私がレイを道具にしたのだ。ソーの大切なものを奪い、孤独なレイを殺戮兵器に変え、スゥラを壊し、ハフラムを滅亡寸前に追いやった。
すべては私の罪だ。
右に、左に、分岐点が現れるたびにゼノンはイヤフォンに意識を向け、迷わずに進み続けた。やがて浮遊盤の速度が落ちてきた。
「やば。エネルギー切れ?」
「もう着くよ。ギリギリセーフだ」
三人は浮遊盤をそこに乗り捨て、再びゼノンがリァンを負ぶって洞窟を歩いた。数分も経たずに洞窟の終端が見えてきた。岩壁に両開きの銀色の扉が埋まり込んでいる。ゼノンが腕の装身情報端末を翳すと扉は軽い音を立てて左右に開いた。そこを潜るとたくさんのコンテナが積まれた倉庫のような部屋に出た。
「ふう、やっと帰ってこられた」
ゼノンがリァンを下ろしている間、先行したイヴはぶつぶつ文句を言いながらコンテナを押した。
「見つからないように入り口を塞いでおくとは言っていたけれど、クォダさんってば、ちょっと積み過ぎじゃない?」
ようやくコンテナに隙間ができると、三人は横向きに身体をねじ込ませてどうにか通り抜け、倉庫のような部屋を出た。戸口の先には天井の低い狭い廊下が蛇行しながらどこまでも続いていた。左右の壁にレールのように敷かれた淡緑色の照明が暗い通路をわずかに照らしている。先導するゼノンに続いて通路を進み、四つ目の扉を開けた。その先の部屋は救護室や仮眠室のように見えた。カプセル型のベッドが左右二列、上下二段、左右に三つずつの計十二個並んでいる。その奥に固そうな四人掛の長椅子が二つ。そこにはリァンが今、一番会いたかった人物が座っていた。
「リァンっ」
「おじいさまっ」
リァンは足を縺れさせながらも駆け寄り、立ち上がったサジュナの胸に飛び込んだ。
「無事で本当に良かった。あんな場所に一人置いていってすまなかったね。すぐに戻るつもりだったのだ」
「いいえ、イヴたちを助けてくださったのでしょう。私の大事な友人たちを、どうもありがとうございました。それに私はずっとカナンにいましたもの。何より、おじいさまがご無事なら、それで十分です」
リァンは後ろのゼノンとイヴを振り返り、微笑んだ。
「イヴ、ゼノン。それにメイア。みんな、助けてくれてどうもありがとう」
「どういたしまして」
「なんか照れるな」
『てへへ』
イヴとゼノンの二人は並んでにかりと笑い、ゼノンの装身情報端末からははにかむような笑い声が聞こえた。
サジュナはリァンの肩を両手で掴むと、リァンを長椅子に座らせ、正面から向き合った。
「時間がない、端的に話そう。きみはスゥラの中でブラムドワ兵たちを見たと思う。彼らの実態はオル・クルスを起こそうするエル=ドナトの一派だ。彼らはドナト議長他、主だった議員たちを暗殺し、議会を掌握した。そしてクノタ・スナ、すなわちレイェスを使って再びオル・クルスを起こした。元々レイェスの起こすエネルギーはごく一点に稲妻を放出する程度のものでしかなかった。しかしながら今の出力は、過去の観測では見られなかったほど上がっている。取り急ぎ彼女を止める必要があるが、エネルギー発生炉がダウンする可能性を考え、一度きみをこちらに連れ戻してもらったのだ。それに、判明した急進派の目的や首謀者を伝える必要もあったし、きみの安全確保も必要だった。こちらの都合で呼び戻してすまなかったね」
「いいえ」
レイについて思い当たる原因は一つあった。ソーの血を飲んだことだ。レイは他者を喰らい――すなわち血肉を取り入れてその能力を得、急速な自己成長を遂げる存在だという。ソーの血を飲んだあのとき、レイはソーの力をある程度手に入れたのではないだろうか。今にして思えばカイア、いやエルの目的は最初からそれだったのかもしれない。レイが飢餓状態に陥るように仕向け、その状況でソーがレイに会いに行けるように計らった。そしてもう一つ、オル・クルスのトリガーを作る目的もあったかもしれない。レイはソーに精神的に依存していた。寄せる信頼や想いが深ければ深いほど、それが壊れたときの衝撃は大きくなる。そこで二人の仲が深まる状況を作り出した。感情の爆発をきっかけに起こるオル・クルスのトリガーとして利用するために。
「幸いにも『元老院塔』はクィラス・クローンの実験施設として使うため、オル・クルスに耐えうるバネの樹液を補強材に用いている。しかしあのまま外装やラボが破壊され続ければ、いくら落雷に耐えたとしても、土台から崩れ落ちることは免れない」
エネルギー発生炉「スゥラ」を格納する地下施設の天井が崩れ落ちても、塔の土台部分が壊れて床に墜落しても、塔は粉々になる。
「そんな中、我々がすべきことはいくつかある。それが何かわかるかね」
サジュナがちらとリァンを見る。リァンは先ほど話を聞きながら考えていたことを口にした。
「一つはレイを救い、オル・クルスを止めること。二つ目は、元老院塔を当初の予定通り小型艇に移し、アスラへ送り出すことですね」
サジュナは何か言いたげに口を開きかけた。まだ何かあるのだろうか、とリァンは続きを待ったが、サジュナは単に頷き返しただけだった。
「そういえば先日、私も船に乗るべきだと仰いましたよね。ソーの半双としてツェルがいた方が良いのはわかります。スゥラたちをアスラに降ろすタイミングでは船の操縦が必要になることも理解できます。でも、なぜ私がそれをするのでしょうか。私は宇宙船の操縦なんてできません。専門家がいた方が良いのではありませんか」
「そうだね。それについては順を追って話そう」
サジュナはリァンの拳に手を重ねた。
「脱出用の小型艇はかなり昔に設計されていた。議長はその船を定期的にメンテナンスさせていた。私もかつて携わっていたことがある。船は星議会の所有物だが、議長の許可なしには動かすことも触ることもできない。実質、議長の私有物なのだよ。そして今その権限は議長の後継者、すなわち議会を掌握したエル=ドナトの手にある」
「先輩の許可がなければ船は動かせないということですか」
「一つだけ別の方法がある。実は管理権限を乗っ取る方法があの船には隠されているのだよ」
「権限を乗っ取る?」
「『リァン』の生体認証だよ。私がそれに気付いたのは偶然だった。あの船のブレーンには船の制御を行う何らかのブラックボックスが仕込まれていた。同じものはどうやらラボのメインブレーンにも仕込まれているようだった。プロジェクトを進める中でそれに気付いたものの、私にはそのトリガーが長年わからかった。ところが、ひょんなことでそいつは反応を見せたのだ。自宅で仕事をしていたとき、夜食を運んできてくれたリァンの声にそれは反応したのだ。調べていくうちに、それはリァンの声、虹彩、静脈が揃って初めて作動することがわかった。こちら側のきみでは完全作動させることはできないが、ツェルはオリジナル・リァンのミラーリング・クローン――つまり後天性生体情報まで調整された完全なる複写体だ。あの船を動かすにはエルの指令か、あるいはツェルが必要なのだ。カナン元老院塔の頂上にあるラボ・ルーム、その端末の奥に隠されたカプセルの中からきみが生体認証を行えば、すべての権限において議会の操作権限を上回る。宇宙船への指令もきみの声や脳波のみで行うことができる。なぜ、ノラン=ドナトが『リァン』にそのような権限を持たせようとしたかまではわからないがね」
つまりツェルが宇宙船の、新しいスゥラ世界を管理する頭脳になるということだ。スゥラたちの導き手になるということだ。ハフラム人の最後の生き残りとして。
「他に誰があの船に乗るのですか。あと何人かは一緒に乗れると仰っていましたよね」
サジュナは困ったようにリァンの肩に手を置いた。
「それについては協力者たちの間で話し合ってみたのだがね。今さらかもしれないが、これ以上こちらの文明をあの世界に持ち込むべきではない、という意見でまとまったのだよ。あの船はきみ一人に任せることになるだろう。今の今まで話す勇気を持てなかった私を、きみは赦してくれるだろうか」
リァンは頷いた。何度も、何度も。それから蒼白な顔を上げてサジュナを見つめた。
「赦すだなんて、おこがましいことです。私は罪を犯しました。私の身勝手がこの事態を引き起こしたのです。私にできることがあるのなら、何でもします。私からお願いします、どうかやらせてください。こんなことでは到底償いにはならないとわかっています。でも、それでも私は、償わなければいけません」
「リァン、そう思い詰めるものではないよ。そもそも、オル・クルスはきみの気持ちと信頼を逆手に取り、策を弄したエル=ドナトが引き起こしたのだ。しかし……真に責められるべきは、この私だよ。私は彼を正しい道に導いてやれなかった。あの子もまた、最初は可哀想な子供だったのだ。それなのに私は、娘たちを奪われた悲しみと怒りに囚われ、まだ幼い彼に手を差し伸べるどころか、彼を避けてきてしまった。フィエラとアルセルがそうしていたように、私がもっとあの子に寄り添っていれば……。必要なのは怒りでも恨みでもない、慈しみだったはずだ。私が間違っていたのだ。すまない、リァン。本当にすまない」
「おじいさま……」
「すみません、サジュナ博士。クォダさんとシャジャさんからコールです」
ゼノンが遠慮がちに言葉を挟む。サジュナはゼノンに目を向けた。
「ありがとう。まずはクォダから繋いでもらえるかい」
「はい」
ゼノンが腕の装身情報端末に触れると、そこから乱れがちな音声が入り混じって聞こえてきた。
「クォダ、状況はどうかね」
博士の声に落ち着いた青年の声が返った。
『ちょうど今しがた議長のシェルターを抑えました。予想通りですね。議長は脳死状態です。医療機器が万全なときなら再生の道もあったでしょうが、今の状況ではまず無理でしょうね。問題はエル=ドナトの方です。周辺を捜索しましたが、姿が見当たりません』
「なに」
『近くのカプセルからスゥラへアクセスした痕跡はあるのですが、一度切断して戻ってきたようです。おそらく安全な場所に身を隠したのでしょう。しかも博士の予想通り、開発中の携帯型スゥラ・リンク装置や予備バッテリーが見当たらなくなっています。あいつが持ち出したとすれば、こちら側から強制切断することはできませんね。私やシャジャの接続体もオル・クルスにやられてしまったようで信号が途絶えています』
「状況はわかった。すまないが、大至急エルの捜索に当たってくれないか」
『はい!』
サジュナは額を押さえて思案げにしている。
「接続が困難な今、エル本人を抑えればオル・クルスも止められると思ったのだが、先手を打たれたようだ。一応捜索はするが、エルを探し当てるのは簡単ではないだろう。ワームの巣のように張り巡らされたハフラムの入り組んだ地下をすべて覚えているだろうからね」
「一度見たものは何でも頭に入っていますからね、先輩は」
ゼノンは気分を切り替えようとするかのように首を大きく振り、「次、シャジャさんに繋ぎます」と再び腕の装身情報端末に触れた。
「どうだい、シャジャの方は」
『博士! スゥラ内に送り込んだ監視バグが元老院塔上層階の映像を送ってきたっすよ』
「ありがとう。再生を頼めるかね」
ホログラムに再現されたのは、『命の間』の床に立ち大樹を見上げているソー、そして騎士団長や大司教、聖堂騎士たちの後ろ姿だった。バグはソーを追い越して飛んでゆく。大樹が根を張る鉢の淵に差し掛かると、少し先に痩せぎすの少年の姿と、黒い甲冑が一瞬映った。そのとき、ホログラムの中にまばゆい紫の光が走り抜けたかと思うと、ぶつりと映像が途絶えた。
「カイアと黒騎士だわ。やはりソーは彼らを追っていったのね」
リァンは自分でも気付かないうちに腰を浮かせていた。シャジャの初めて聞く弱り声がその後に続いた。
『博士、すんません。今のが最後のバグだったんですけど。全部、例の雷にやられちゃったみたいっす』
「いや、助かったよ。ありがとう、シャジャ」
サジュナもまた立ち上がり、両手でリァンの手を握りしめた。
「リァン。行きなさい、カナンへ。予備バッテリーの残りも少ない。残エネルギーはきみの接続と、元老院塔の星間航行船への移送にのみ使う。『スゥラ』たちを乗せた塔が船にドッキングすれば、塔はエネルギー供給装置として稼働し、船は航行可能になる。きみはソーと共にレイェスを止めるのだ。幸い、思ったよりも協力者が増えた。オル・クルスが止まり次第、私たちの方で塔の移送を行う」
リァンはサジュナを、イヴを、ゼノンを順に見た。つまり、ここで接続を行えば、もう二度とリァン=エーゲルとして目覚めることはないのだ。
「で、でも。せめておじいさまだけでも一緒に船に乗りませんか。今から接続先を探して――」
「すまないが、私はここに残るよ。この星に残された人々のために、まだ幾ばくかやれることはあるはずだ。私もまたラボに属する身として、数え切れない罪を犯した。何らかの形で命の贖罪をしたいのだ」
サジュナが穏やかに言う。泣き出しそうなリァンの頬をイヴが突いた。
「なーに迷ってるの、リァン。あれだけずっと、ソー、ソーって言っていたくせに。ここは悩むところじゃないでしょ。少しでも遅れて、ソーくんに何かあったらどうする気? クィラはスゥラたちにだって必要不可欠なんだからね」
わかっている。ソーはもう命の間まで辿り着いていた。自分ではいくらも戦力になれないだろうけれど、ソーの治癒力を高めることくらいはできるだろうし、黒騎士やカイアは無理でも、無名兵くらいなら切断で無力化できるかもしれない。
でも、大切なのはハフラムだって同じなのだ。ツェルになりたかったからって、こちらをどうでも良いと思っていたわけではない。ここにいる一人一人が大切な友達で、かけがえのない家族や友人たちだ。
戸惑うリァンの前にゼノンは腕に巻いた装身情報端末を突き出した。
「メイアが、言いたいことがあるってさ」
「メイア……っ」
『やっちゃえ、リァン! 私も、ここにいる皆も、誰もあなたを責めたり恨んだりしないよ。私たちみんな、人生諦めたわけじゃない。スゥラがなくても生きる気満々なんだからね。大丈夫、サジュナ博士だっているんだもん。どうにかなるってば』
マイクの向こうに微かに何かの落ちるような音が聞こえた。疲れ果てたメイアの腕がキーボードを滑り落ちたようだ。AIスピーカーが届けたのは明るい口調だったけれど、これだけのメッセージを打つのでもメイアには精一杯だったのだろう。
腕を降ろしたゼノンがリァンに向かって照れ臭そうに頬を掻いた。
「えーと。俺からもありがとうって言わせて。きみのおかげでイヴとよりを戻せたし、テム・ハルが最高のできだったってことも確認できたし、あんなにすごい世界まで見せてもらった。……実は、こんな状況になるなんて思わなくて、本当はずっとびびってるんだ。でも、不安に負けて状況に流されたら死ぬほど後悔するんだってことは、ちょっと前に散々思い知ったからさ。だから怖くても、俺は自分が正しいと思うことを選ぶことにした。俺はスゥラを守るって決めたリァンを、全力で支持するよ。ハフラムはもう、スゥラたちを十分に振り回してきたんだ。これ以上、彼らを俺たちの道具にしちゃだめだ」
「うんうん。それにね、リァン。これは、千年前も昔から積んできた積み木が、今になって崩れてしまったって話でしょう。最後のブロックを積んだあなただけが悪いの? 違うでしょ。スゥラを便利に使って、何も知らずに移住計画の始まりをただのんびり待って、身近にいた人のことを止められなかった私たちにだって責任はある。でも、それを後悔しているハフラム人だってちゃんといるんだからね。そういう人たちが今、博士やあなたに協力しているってこと、絶対忘れないで。本当はあなたと一緒にスゥラの中に行けないのが、歯がゆいくらいなんだから」
「みんな……」
抱きしめてくれるイヴの腕の中でひとときリァンは目を閉じた。皆それぞれの意志で自分の居場所と役目とを選んだのだ。もちろん、ハフラム人の中には選ぶ権利も与えられない人たちが大勢いる。その人たちの命運を勝手に決めてしまおうというのはエゴだ。その重みを私は背負わなければならない。でも、それを一緒に背負うと言ってくれている人たちがここにいる。それなら私も、自分の選んだ道を最後まで歩いていける。
リァンは深呼吸した。もう、迷わない。
「行きます。おじいさま、スゥラに接続してください」
「ああ、こちらにおいで」
長椅子に掛け直したサジュナが端に寄った。リァンは横になると、サジュナの膝に頭を乗せ、その温かな茶色の瞳を見上げた。
「あなたの孫に生まれて、私はとても幸せでした」
「リァン。きみが私の生きる意味だった。生まれてきてくれて本当にありがとう。スゥラたちを頼むよ。ハフラムが生み出してきた有象無象の文明の中で最も価値がある宝物だ。私が犯した罪の分まで……彼らを、きみが生きるべき未来を、どうか導いておくれ……」
リァンの頬に落ちてきた、温かな雫。
それがリァン=エーゲルにとっての最後の感覚だった。
次回から最終章に入ります。




