【2】
ツェルは考える間もなく瞳を開いていた。押し合い圧し合いする群衆の頭上に駆け上がり、ソーの飛び出していった扉の上部から外へと飛び出した。
「ツェル様っ」
女の声がツェルの名を呼んだ。空を駆けていこうとしたツェルの上に、誰かの影が落ちてくる。ふたりはもつれ合いながら地面に落ちた。ツェルを庇うように下敷きになったその女性が、ツェルの全身に覆い被さるようにして突っ伏する。
「は、離してっ」
身を捩って抜けだそうとするツェルの上に、見知った顔が見えた。騎士団長の長女、リラだった。リラは鋭い声でツェルを一喝した。
「天の火が見えませんか! このような時に空を翔けるなど!」
「でも、ソーが!」
ツェルはまだそこから抜け出そうともがきながら、リラの肩越しにソーが消えた空を見た。分厚い暗雲が垂れ込め、その雲間は不穏な紫色を帯びている。ぴかりと青い閃光が瞬き、雲間から紫の輝きが溢れた。
いくつもの紫雷が空を切り裂き、山が崩れた。森が火を噴いた。辛うじて残っていた街の建物が弾け飛んだ。だが、それよりも怖ろしいことが起こった。塔から逃げ出そうとしていた人々も、それを必死に留めようとしていた騎士たちも、誰もが足を止め、呆気にとられて空を見上げた。
空が軋んでいる。そこに格子状の紫電が駆け抜けたかと思うと、その空が吹き飛んだ。弾け飛んだ。猛獣が齧り付いたような歪な破れ目の下には空ではなく「屋根」があった。帰らずの森の向こうに、連なる山脈の先に、広がる外洋の向こうに、タイル地のような継ぎ目を持つ壊れたドーム状の屋根がこの世界を覆っていた。
耳を甲高い異音がつんざく。塔の上部に再び蒼い光が膨れ上がったかと思うと、次の瞬間それは空に向かって駆け昇った。
閃光は天井部に張り付く分厚い雲を貫き、雲の裏側をひととき蒼に染め、ぽっかりと開いた天井の穴へとまっすぐ吸い込まれていった。一拍置いて、これまでに聞いたことのないような爆音が世界を揺るがした。ツェルとリラは横向きに伏せたまま互いを抱き合い、竦み上がった。
大地が大きく震えた。塔の外壁にひびが入り、細かな礫がパラパラと落ちてくる。
「デル・イオリークス・エフュ・デュイトセルド(外装が破壊されたんだわ)……!」
狼狽えたツェルの口からは、リァンの言葉が出ていた。
スゥラの外装が破壊されたのだ。そしてスゥラの先のハフラム側で何かがその直撃を受けたのだ。壊れた屋根はいくつもの瓦礫になって、カナン海に降り注いだ。海には巨大な水柱がいくつも上がり、海が不規則に波打ち、荒れ狂った。
ツェルの脳裏にかつてラボで見たスゥラの格納空間が過る。大きな支柱がいくつも伸びて、地下の大空洞の中に浮かぶ巨大な外装を支えていた。もしもあの支柱が折れたらどうなるか。あの地下空洞が崩れたらどうなるか。いくら塔が無事でも意味がない。この世界まるごと、瓦礫や土砂に押し潰されて終わりだ。
ぼこぼこという水が排出されるような音が塔のすぐ先に見える外洋の方から聞こえてきた。暗闇に紫電が迸り、その光で海が照らし出された。大海原の中央に大きな窪みが見えた。海が渦を巻いている。断続的に閃く紫電の下、それはあっという間に海全体を巻き込むほど巨大な流れに変わった。海は湾岸を掻き崩しながら、みるみるうちに水位を下げていった。
軋むような音を立てて、対岸の街を乗せた大地が傾ぎ、沈み込んだ。ツェルがしがみついた大地の奥底からは金属がひしゃげるような音が響いてくる。草の合間から見えるカナンの街が激しく揺れている。砕け散りながら陥没してゆく。亀裂の入った外装の隙間から闇の底に飲みこまれてゆく。
水嵩が減るにつれ、海だったものの正体が明らかになってゆく。それは底にへどろを張り付かせた巨大な鉢だった。海藻塗れのごつごつした岩場の奥に固着化された水の層、そしてその奥の無骨な金属板が見える。過負荷に耐えかねた固着水がぷつんと大きな音を立てて壊れた。薄い板のようにぴんと張っていた水が、形を失い、ぐにゃりと溶けて、ただの水に戻ってゆく。その下の金属板が真っ二つに裂ける。塔の左右に繋がっていた岸はいとも簡単に外れ、舳先を上に向けて沈んでゆく。岸伝いに街を目指していた人々が悲鳴を上げて崩れゆく地面にしがみついた。その地面がずるりと滑った。金属板が傾いたせいで、その上に盛られた土砂が滑り落ちたのだ。樹に、草に、人々はしがみつくが、その命綱ごと崩れてゆく。細い金切り声がいくつもあがり、土砂と共に人々が暗闇の底に吸い込まれてゆく。
やがて、長い長い永遠のようにも思われた崩落も止まった。少なくともツェルのいる元老院塔とその周辺の揺れは止まった。地に伏せたまま頭だけもたげたツェルは、呆然と辺りの惨状を見遣った。
何も残ってはいなかった。
海も、山も、森も、山の麓に広がっていた街の残骸も。どこまでも続く空洞になっている。残っているのは、わずかにこの塔の周辺ばかりだ。陸地が湾曲しているから、対岸を見れば様子がわかった。ここは「装置」の中枢だった。この下には陸地を支える土台があった――いや、この場所は、一番頑丈な柱の上に築かれていたのだ。
誰もが呆然と壊れた世界を見つめている中、誰かが立ち上がり、ツェルの横を過っていった。
ツェルはうつ伏せのまま、その人の顔を見上げた。ソーだった。破壊するものなどもう何も残っていないというのに、今なおしつこく降り注ぐ落雷の中、ソーは崩落した大地の淵にたたずみ、言葉もなく辺りを見回した。
「ソー! 屈みなさい」
リラが叫ぶ。ツェルも続けて叫んだ。
「ソー、伏せて! 姿勢を低くしないと」
この惨状で身を護る術を説くことに、一体何の意味があるだろう。ツェルが自分自身の言葉に自嘲していると、ソーがぎこちなく振り返った。
「一体、何が起こったんだ? この光……『オル・クルス』だよな。でも、これは俺が起こしたんじゃない。だとしたら」
ソーは断続的に蒼い光の生まれる元老院塔を、上から下まで目で辿った。そして、ある一点でその動きを止めた。ツェルはソーの視線を追った。左手に見える星の塔の下方、七、八階の高さの窓から、蒼い光が漏れている。光は少しずつ上に向かって移動している。
「…………レイ…………?」
呟いたソーの上に光が弾けた。再び巨大な紫電が宙を引き裂く。その光は元老院塔から続く、辛うじて残された馬蹄型の陸地の一方に直撃した。何かが砕けるような音が世界を揺るがしたかと思うと、半島の舳先は塔の足元から切り離され、大きく斜めに傾いで暗闇の底へと崩れ始めた。
そこにいた人々が悲鳴を上げて転げ落ちてゆく。次々闇の底へと引きずり落とされてゆく。大地が巨大な金属をひしゃげるような音を立てて傾く。いくつもの悲鳴が重なり合い、土砂と共に闇の底へと消えてゆく。
ツェルはその様子を息を飲んで見ているしかなかった。ぴくりとも動けなかった。考えるまでもなく、最悪の状況だった。
いくら空をゆくことができるからって、助けにいくなんてとても無理だ。だって、こんなにも糸が揺れ動き、次々に消えていっているのだもの。それに、ここからでは距離がありすぎる。辛うじて木の根や、鉄筋にしがみついている人たちも見えるけれど、たとえ今からあそこに駆けつけたって、降り注ぐ土砂や瓦礫に巻き込まれてしまう。
身を竦ませるしかないツェルの前で、ソーが声を限りに叫んだ。犬の遠吠えのような雄叫びだった。雷鳴に掻き消され、ツェル以外の誰もその声に気付かなかっただろう。しかしソーは大きく腕を回して息を吸うと、縁を蹴って、底の見えない虚空のなかに飛び出した。
かつては内海のあった場所だ。水の無い浅瀬の向こうは崖のような急斜面だが、そこに大きな亀裂が入っている。
ソーは素手で僅かに残る光糸を引き寄せ、足場を作りながら、大きく跳躍して対岸を目指してゆく。そこに、一人の少女が悲鳴を上げながら落下してきた。腕を伸ばしたソーはどうにか少女を受け止めたものの、その弾みに糸から足を滑らせた。ひやりと身を固くするツェルが見守る中、ソーは目の前に落ちてきた岩盤を蹴って跳躍し、明滅する不安定な光糸に飛び移った。と、その前に、また幼子がひとり落ちてくる。ソーはもう一方の手で子供の腕を引き寄せ、二人の頭を胸の中に抱えこみ、降り注ぐ土砂から庇いながらこちらに戻ってきた。
「ソー!」
ツェルは腕を伸ばしてソーにしがみつく子供たちの身体を受け取った。泣きじゃくる子供たちの背や肩に血がついていたが、かすり傷程度だ。
ということは。
土まみれのソーは、痣や切り傷まみれで、額や肩、背から、血が幾筋も流れていた。
「頼む」
ソーは上がった息もそのままに、再び救助に戻った。稲光が走り、ソーの背中と、その向こうに見える対岸とが明るく映し出される。対岸の土砂崩れも収まりつつあるが、山肌のようになってしまった陸の一部に、まだ何人か取り残されていた。
ツェルは託された子供達をリラに押しつけ、ソーの背に引き摺られるようにして立ち上がった。
そうだ、私は御子だ。人々を救うのが私の役目だ。やるか、やれないかじゃない。一人でも多くの人を救う。やるしかないのだ。
ツェルは空に轟く雷鳴を前に尻込みする騎士たちを振り返った。
「向こう岸に取り残された市民を助け出しましょう。動ける者はついてきなさい。片翼のあとに続くのです!」
「ツェルさまっ」
リラの手を掻い潜るようにして、ツェルは思い切って崖を飛び降りた。
いつも世界に溢れていたはずの色とりどりの糸がほとんど消えかかっている。どうにか向こう岸に繋がりそうな糸の上に着地したものの、足元はあまりに深すぎて闇に飲まれている。遙か彼方の底のほうから、崩落する崖が金属にぶつかる音が、幾重にも反響しながら聞こえてくる。足が竦む。身体が震える。くらりと立ち眩んだツェルは、ぎゅっと目を瞑った。
(掴まって)
そのとき、なぜか――本当に唐突に、スゥラ本体の前で腕を差し出してくれたエルの横顔が思いだされた。
(もし、ここで私が死んだら)
轟く雷鳴に、儚い糸を掴む指が震える。
(エル先輩が、きっとおじいさまを助けてくれる。スゥラたちを、ソーやお父さまたちのことを護ってくれるわ)
そろそろと足を踏み出したツェルの腕が、背後からしかと支えられた。
そこには穏やかなエルの笑みの代わりに、忠実な騎士たちの緊迫した顔があった。
「ツェル様、我々は最後までお供いたします」
「そうそう、俺らもいますんで!」
騎士たちの後ろから顔を出したのはネスだった。ネスの後ろには速翔の選手たちの姿が並んでいる。
嬉しい。でも、彼らの力を借りて良いものか。ツェルは迷った。彼らもまた、ツェルが護りたいと思った人たちだ。ネスは学校を卒業したけれど、騎士ではない。
塔の中に戻っていて、そう口を開こうとしたツェルを制するように、ネスは大声を張り上げた。
「止めてもだめですよ、ツェル様。あいつにばっか、イイ顔させられないんで!」
ネスは崩落しかけた大地にしがみつく市民を救助しているソーを指さすなり、勢いをつけて、次の糸に向けて大きく跳んだ。ツェルでもほとんど視認できないくらいなのだ。ネスにはもっと視えていないだろう。後ろに控えていた他の選手たちも、我先にとネスの後に続いてゆく。
「光錘戦じゃソーのやつには敵わなかったけど、人を抱えて走るくらいは俺にもできるんで!」
「俺たちの心配ならご無用ですよ。こいつなんか、逃げ足だけはピカイチだし。なっ、アダン」
「や、やめろよ、ノク」
優勝候補のひとりだったノクが、小柄なアダンを小脇に抱えて、空っぽになった大海の跡を跳んでいく。彼らの覚束ない足取りが、ツェルの勇気を奮い立たせた。がんばっているのは、私だけではなかった。みんな、視える足場がほとんどなくても、雷に打たれるかもしれなくても、自分以外の誰かの命を救うために集まってきてくれたのだ。
「みんな――気を付けて!」
ツェルもまた、散り散りに救助に向かう彼らの背に向かって叫びつつ、騎士たちと共に空を跳んだ。
いまも塔からは断続的に蒼い光が弾けている。そしてその一瞬後には、続けざまに紫電が降ってくる。救助に向かった騎士たちも、救助を待つ市民たちも、ひとり、またひとりと紫電に打たれ、あえなく外装の割れ目に消えてゆく。誰も彼もが顔見知りばかりだ。調理場でツェルの好きなおやつをこしらえてくれた料理長。祭司のため出られなかった授業の内容を丁寧に教えてくれた学友。庭園でいつも朗らかに挨拶してくれた老人。そのひとつひとつが、あまりにもあっけなく消えてゆく。
何人目かに救助してきた者を塔の足元に下ろしたとき、ふと空を仰いだツェルはどきりとして動きを止めた。
暗闇の中、蒼い光と紫電によって断続的に照らされる元老院塔の先端で、何かが動いているように見えたからだ。
もともと塔は三つ叉のフォークのように三つの尖塔に分かれている。左右にみえる星と海の塔。中央の月の塔。月の塔の突端は盃型をしているが、左右の塔のさきは円錐型をしている――そのはずだった。
しかし、円錐の一方が欠けていた。雷に打たれたのか、星の塔の屋根から壁の上部が欠け落ちていて、その欠けた屋根の代わりに、大きな杭が突き出している。杭の先には何かが括り付けられているようだ。そしてそこで、まるで国旗のように何かが靡いている。
ぱっと稲光が走り、明るい紫色の光がその杭を照らした。
杭の先に結わえ付けられていたのは、一組の男女だった。
ほっそりした女の、長い銀髪がたなびいている。もうひとりは大柄な男だ。
目を眇めてその正体を確認したツェルは、震えながら声にならない息を零した。
「テュナ――ッ」
ブラムドワ兵に連れ去られたきり行方不明だったはずのテュナと、ソーとの一騎打ちの後、ザンダストラ兵に引き上げられていったワジが、杭の先端に括り付けられていた。まるで人柱のように。古き悪習にあった生け贄のように。
早く助けなければ。
あれではいつ雷が落ちるかわからない。
ツェルは上空に伸びる糸を探して陸地を蹴った。制止する騎士の手を振り払い、上空を目指して空を登り始めた。
あんな高いところに、なぜふたりがいるのか。誰が、何のためにあんなことを? いや、誰かなんて決まっている、あの黒い騎士たちの仕業だろう。でも、彼らは何のためにこんなことを。
少し先の崖向こうに、また雷が人に落ちた。さっき駆けつけてくれた速翔選手のひとりだ。彼は無言で海だったものの底に消えていった。。だが、友人の死を嘆く間もツェルには与えられない。指をかけた糸は大きく揺れ動き、飛び移ろうとした糸はふっと消失する。何度も弾き飛ばされ、糸から振り落とされ、足場を見失って落下する。
だいぶ上がってきたと思ったのに、まだたった五階の高さだ。この調子では、とても高空まで上がれない。テュナたちのいる塔の先端まで、かなりの距離がある。これ以上、上がるための足場が見つからない。いや――少しさきのあの糸には届くだろうか。がんばって跳べば、ここから飛び移れるだろうか? かなりの距離があるけれど、でも。
思い切って足場を蹴ったツェルの足は、しかし次の足場に届かなかった。悲鳴をあげて落下してゆくツェルの腕を、力強く掴む手があった。思いきり引き寄せられ、ツェルは顔からその人物の胸に激突した。鼻がツンとしびれ、ふらつく頭をどうにかもたげる。ツェルの足は助けてくれたその人のブーツの上にあった。
「ツェル、どうかしたのか」
ソーだった。いつの間にか戻ってきてくれていたらしい。ツェルは雷鳴にまけじとソーに涙声をぶつけた。
「あそこを見て! テュナよ! テュナとワジがあそこにいるの!」
ツェルがまっすぐ延ばした指の先を追ったソーの目が追ったそのとき、塔からまた蒼い光の円が迸った。
世界が淡い紫色に染まったかと思うと、大きな衝撃と共に大地が下から突き上げられた。糸から振り落とされそうになったツェルとソーは、両手で目の前の光糸にしがみついた。
轟く電が世界を紫に染めるのとほとんど同時に、甲高い悲鳴がやや遠くから降ってきた。
少しの間を置いて、どすんという大きな音が聞こえてくる。少し先の塔の足元に、折れた杭を背負ったままのテュナが倒れていた。ワジの姿はそこにはない。
ソーはツェルの片腕を肩に回し、すばやく糸を飛び降りていった。
陸に降り立ったふたりは息を弾ませたまま、落ちてきたものを覗き込んだ。
焦げくさい匂いが鼻をつく。上部が炭化した杭と、部分的に焼け落ちた縄。そして、縮れた銀髪を頬に張り付けた娘。ソーが娘の鼻先に耳を寄せ、それから首筋の脈をとった。そこへ空から大柄な男、ワジが落ちてきた。荒い息をついている。腕の付け根から肘にかけて、赤い蔦のような形が刻まれている。ワジは顔を歪め、火傷を負った腕をだらりと垂らしたまま、噛みつきそうな勢いで倒れている娘を睨んだ。大声を張り上げようとして開けた口が、そのままの形で動きを止めた。
ソーはちらりとワジを一瞥し、唇を引き締めてテュナを横抱きに抱え上げた。
テュナの黒く煤けた顔がだらりと垂れ下がる。焦げた額飾りがぷつりと切れ、その額から蒼い石が転げ落ちる。
「テュ……、テュナ?」
久しぶりに再開した親友は、ツェルに応えない。水色の眼は見開かれたまま、ぴくりとも動かない。
再び蒼い光が塔を中心に弾けた。落雷の雨が降り注ぎ、人々の悲鳴が闇に轟く。
「皆、塔の中へ避難してください! 神官・司祭は怪我人の手当を。聖堂騎士のうち五位以下の者は避難者の誘導を! 四位以上の者は、手分けして対岸の巡回へ。救助が他になければ、速やかに塔へ帰還なさい!」
どこかからかリラの叫ぶ声が聞こえてくる。
事態が飲み込めない。テュナに一体、何が起こったの?
呆然としたまま、ツェルはふらふらと塔に向かうソーの後に続いた。ソーの腕からはみ出したテュナは目を開けている。それなのに、テュナは動かない。人形のようにソーの動きにつれて揺らされているだけだ。
ソーは塔に入るなり壁際の人が少ないところにテュナを下ろした。ツェルはテュナの黒い頬をそっと撫でた。そして気がつく。テュナの首から胸にかけて、あの枝葉のような火傷がくっきりと刻まれていることに。
「そ、ソー。お、お願い、テュナを」
しかしソーはもう、テュナの落雷の跡に両手で触れていた。手元から溢れた蒼い光がテュナの肩の傷の上をさまよっている。
「なんで、だよ」
のろのろと後をついてきたワジが混乱したように呟く。いつでも居丈高だったワジのこんな声は、おそらく学校では誰も耳にしたことがないだろう。
ソーは振り返らないまま言葉を返した。
「天の火が落ちた瞬間、テュナは杭ごと身体を捻って、あんたを下に突き飛ばした。自力で縄を解いて、抜け出そうとしていたあんたのことを。その意味くらい、わかってるよな」
「まさか……本当に……俺を庇ったってのか」
ソーはその問いに答えない。
ツェルはテュナの胸に耳を当てた。心拍が聞こえない。何事と集まってくる人々を目で牽制し、ツェルはテュナの胸に両手を押し当て、蘇生術を試みた。ソーの両手から発せられたクィラは、テュナの身体の上を惑うように撫でた後、吸い込まれずにそのまま霧散してゆく。
「テュナ、お願い、目を開けて。テュナっ」
市民の救助を終えたネスがその後からやってきてワジの胸ぐらを掴んだ。
「何ぼんやり見てんだよ、ワジ。俺ら、見てたんだぞ。ソーの姉さんは、あんたのことを守ったんだっ。ひとりで逃げようとしていた、あんたのことを――」
ワジはネスに押されるがまま、ふらりと足を踏み出し、両手で頭を抱えた。
「なんだ、これ……。変な……何か……変なもんが……入ってきて……うぐっ」
ワジは壁にもたれかかり、大きく息をした。それから何かに気付いたかのように唐突に瞳を開き、宙に手を伸ばした。切れ落ちた何かを捕まえようとするかのように。
その意味するところに気付いたツェルは、さあっと頭から血の気が引いていくのがわかった。
まさか。
ツェルはテュナの胸部を押しながら、瞳を開いてワジの見つめているものを探した。
光の粒子がテュナの周囲を舞っていた。テュナを繋いでいた糸たちが一つ、また一つと切れ落ち、解け、掻き消えてゆく。最後に残った金色の糸を、その一端の持ち主であるワジが掴んでいた。うっすらと瞬いた金の糸は、それを握るワジの手の中に吸い込まれ、ふわりと消失した。
それと同時にワジの腕に刻まれた落雷の跡があっという間に薄くなってゆき、古い傷痕のような微かな痕となった。
元の褐色に戻ったワジの目は、ぴくりとも動かないテュナの顔を見下ろした。
「なんだ、よ……。俺のことなんか気に入らねえって、無関係に生きようって、おまえから先に言ってきたんじゃねえか」
そのとき蘇生を続けていたツェルの腕をソーが遮った。ソーの青い瞳が濡れている。テュナはもう二度と戻ってこない。半双のワジに最後の力を託して逝ってしまったのだ。ツェルは身を起こし、ソーの胸に縋って泣いた。
ざわついていた人々が一斉に静まりかえった。冷たい軍靴が石の階段を打つ音がしたかと思うと、感情のこもらない淡々とした声が響いた。
「半双融合か。やはり変異はそう簡単には起きぬようだな。それにしても、出来損ないのクノタ・スナでも、操作次第ではここまでの出力を出せるとは。やはりあの方の慧眼に間違いはなかったということか」
低く、通りの良い声。しかしどこか冷酷な声が雷鳴の合間に響いた。ツェルは思わず身震いし、両手で己が身を抱いて、声の主を目だけで探した。隣のソーが表情を失くし、同じように声の主を探っているのがわかった。
忘れたくとも忘れられない、この声。あの大樹の元で一度だけ邂逅した声の持ち主。
ブラムドワの黒騎士が上へと続く階段の上に立ち、ツェルたちを見下ろしていた。その下に群がるブラムドワ兵たちが震え上がる市民らに剣を突きつけている。
ソーはゆらりと立ち上がった。悲しみに濡れた青い瞳に深い憎悪の炎が燃え上がる。
黒騎士はその怒りを平然と受け流し、疑問を投げかけた。
「クィラスの血よ。貴様はまた同じ歴史を繰り返すのか」
「なんだと」
「貴様の未熟さがこの悲劇を呼び起こしたのだ。貴様は何も守れない。それどころか、最も大切な者を貴様のせいで失うのだ。千年前と同じだ。あのときは彼女が犠牲になった。そして今度は、クノタ・スナがその役割を担うようだな」
「犠牲だって? ふざけるな! これはおまえの仕業なんだろう! おまえがレイを脅して、オル・クルスを起こさせたんだな! レイはどこだっ、どこにいる!」
「ソー、だめっ」
今にも黒騎士に殴りかかりそうなソーを止めようとツェルは立ち上がったが、ふいに襲い来た眠気のような意識の混濁に足を縺れさせた。
リァンに切り替わろうとしているのだ。
意識が遠のく。そんな。こんなときにハフラムに戻されるなんて。顔を手で覆って、ツェルは必死に抗おうとした。
今は、今はだめよ。ソーを止めなくちゃ。兵士から奪った普及光錘で立ち向かえるような相手じゃない。私が創った本物の光錘でもこの男には敵わなかったと言っていたのに。
ツェルの目の前でブラムドワ兵たちが一斉に剣を取り落とした。金属が石畳を叩く冷たい音が次々に重なりあう。ブラムドワ兵らがくりと膝を折り、その場に次々倒れていく。突如倒れたのはブラムドワ兵だけではなかった。壁際でけが人の救護に当たっていた神官の一人。仕女の一人。聖堂騎士の一人。びっしりと広間に詰めかけていた集団の中から、一人、また一人と人が倒れてゆく。
「まさか、接続が切れたの? スゥラが、壊れたから…………?」
状況を俯瞰した黒騎士は身を翻し、階段を上り始めた。ソーがブラムドワ兵の中に突っ込んだ。一斉に襲いかかる剣を避け、光錘で払いのけ、なぎ倒してゆく。
ツェルは必死に手を伸ばした。
だめ、だめ……。そんな無謀な闘い方をしたら……今度はソーが……。
「ツェル様ぁっ」
誰かが叫ぶ音が聞こえた。そのままツェルの意識は何も見えない闇の中に落ちていった。
*
一方、スゥラ研究所にもオル・クルスの衝撃は及んでいた。最初に異変が起きたのは、外装の修繕に当たっていたロボットたちだった。
外装開発部の応援に来ていたシャジャは、恒久エネルギー発生炉「スゥラ」の外装を映しているモニタを見て首を傾げた。
「あれっ、ロボットたち、止まってません?」
慌てて駆けつけてきた外装開発部のメンバーはシャジャの指先を目で追って慌てふためいた。
「なっ、なんだ」
モニタの中で、スゥラ修繕のため忙しなく動き回っていたロボットたちが一様に動きを止めている。ロボットたちの身体が淡く光りだした。スゥラの外装から漏れてきた紫色の光が外装を伝い、ロボットたちに纏わりついている。
「この光って――や、やばっ!」
咄嗟にシャジャはその場に屈みこんだ。次の瞬間、モニタ越しの「スゥラ」本体は内側から弾け飛んだ。BCPセンターの足元を照らす間接照明とモニタが一斉にブラックアウトし、建物全体が地響きを立てて大きく揺れる。室内の機器が帯電してじりじりと焼けるような音を立てる。次の瞬間、ばかでかい破裂音が遠くから聞こえてきた。立っていた所員たちは転がってきた椅子や倒れてきたパーティションにぶつかり、悲鳴をあげて逃げ惑っている。
「来ちゃったかあ、オル・クルス! クォダさん、間に合わなかったんだ。リァンちゃんは無事なのかな」
やっぱこんなところで仕事なんかしてる場合じゃなかった、と思っても後のまつりだ。ラボに所属している以上、緊急時こそ仕事が落ちてくるのは当然だ。
だけど、今日の本当の仕事は外装開発部の応援ではない。ここの設備を使って、サジュナ博士とリァンを救出に向かったクォダやゼノンたちをフォローするのだ。
シャジャは頭の中に叩き込んできたマップを思い浮かべつつ、手探りで混乱する室内を進んだ。そして緊急用の手動ロックを解除して廊下に滑り出た。
スゥラが止まればセキュリティもすべて停止する。今ならやりたい放題だ。
シャジャはいつでも使えるよう、肌身離さず身に着けていたウエストポーチから非常灯を引っ張り出して廊下を進んだ。あった。倉庫だ。今度はポーチからマルチプライヤーを取り出す。クォダから渡されたものだ。
金属棒の突起をスライドさせると、鋏のように持ち手が二つに広がりペンチになった。間に強力なバネが渡っている。広がった持ち手部分には様々なツールが収納されている。ナイフ、缶切り、鋸、ドライバー、その他諸々だ。倉庫の扉の隙間にナイフを差し込み、テコの原理で力を加えてやると、わずかに隙間ができる。ツールの持ち手部分を回転させるとペンチが万力に変わる。突端を差し込む。脇についた突起をくるくると回してやるとバネが広がり、スライドドアにわずかな隙間ができた。そこに扉をつなぎ止めている錠が微かに見える。シャジャは額に押し上げていたサングラスを目元に下ろし、ジャケットの内側に忍ばせてきたレーザーガンとグローブを取り出した。銃の動力を標準のスゥラ波から予備バッテリーへ切り替える。防熱グローブで上腕部までをしっかり覆ってからレーザー出力を固定し、噛み合う錠に押し当てる。じりじりと音がして、錠が焼き切れてゆく。
「扉の表面は二千度までの防熱処理が施されているけど、内側の錠の部分はそうでもない、っと。お、切れた」
内部で金属の落ちる音がして、錠が外れた。シャジャは軽く突いて熱くないことを確認してから扉を開けた。身を滑り込ませ、背の後ろで扉をぴったり閉める。
「おー、あるある。簡易防護服も、予備バッテリーもたんまりある。おっ、これは非常食かな」
小型のバッテリーを棚の奥から選び取って床に並べる。これだけあれば、数十分は大型のスゥラ機器が動かせるだろう。腰のポーチから圧縮されたバックパックを取り出して広げると、その中にバッテリーやマルチプライヤー、非常食、圧縮型防護服をぱんぱんに押し込み、倉庫を抜け出した。
奥の部屋から飛び出してきた同僚たちが、慌てふためきながら非常口を目指して通り過ぎていった。シャジャは彼らとは正反対の方に進んだ。人気のない仮眠室にたどりつき、しっかりと施錠すると、背中の荷物をベッドの上に次々並べた。ノート型端末を取り出し、予備バッテリーの接続先を自身の機器及びクォダの装身情報端末に設定する。シャジャは深紅のピアス型端末に向かって呼びかけた。
「クォダさん、クォダさん。聞こえてます?」
『シャジャか。スゥラ機器が全滅だ。さっきの揺れといい、やはりあれか?』
「はい。予想通りでっかいオル・クルスです。スゥラの外装がぶっ飛びました」
『間に合わなかったか』
「急いで防護服着た方がいいっすよ。この分じゃ地下もいつまで保つか」
『ちょうどいい、シャジャ。扉を開けてくれ。サジュナ博士が囚われている地下シェルター前まで来たんだ。今ならセキュリティも全部死んでるだろう』
「いやあ、クォダさんも考えることは俺と同じっすね」
『おまえと一緒にされるのは遺憾だな。まあいい、エリア番号と扉のIDを伝えるから解除してくれよ』
「ラジャー」
シャジャは指示された扉にバッテリーのスゥラ波と、ロック解除の信号を次々送り込んでいった。高揚感からなのか、なぜか目尻か滲んだ。この先にあるのは破滅の道だ。自分は単なるエネルギー源を救うため、人類の生き残りの道を壊そうとしているのだ。そう考えると、今さらながら恐怖と罪悪感に足が竦みそうだ。
元々ノラン=ドナト議長には興味がなかった。エル=ドナトのことだって、とてつもなく優秀だけど、ちょっと小うるさい奴、くらいにしか思っていなかった。だから、あの二人に対してどうこうという思いはない。
ただ、サジュナ博士のことは好きだった。シャジャは生まれて間もなく、両親を病で相次いで亡くし、孤児院で育った。見た目の美醜に頓着しない家系だったのか、シャジャはハフラムで好まれる白い肌を持たずに生まれた。黄みがかった肌を持つシャジャを周囲の人々は皆、残念なものを見るかのように見下し、同情し、ときに嘲った。そんな中、サジュナ博士だけがシャジャの才能を見いだした。数万行に及ぶコードの中から、AIも見落とすようなバグを閃きのように見つけ出すシャジャを、ラボ直営の保育施設に引き取り、英才教育を与えてくれたのはサジュナ博士だった。
「俺が特異点を見つけ出すのが得意なのは、俺が皆と違う『黄色いカルプ』だからなのかもね」
自嘲ぎみに笑ってみせるシャジャの頭をサジュナは会いにくるたび、撫でてくれた。
「『皆と違う』ことは悪だろうか。劣ったことの証明だろうか。私にはきみの才能が、ラテスの原石のようにまばゆく見えるよ」
そうして博士は説明してくれた。なぜ、これほどまでに病が広まってしまったのかを。
皆が皆、美貌や優秀な頭脳を求め、優れた遺伝子を求めた結果、人類は遺伝的に似たり寄ったりになってしまったのだ。その結果、病に強い体質を持つ者が僅少になってしまった。シャジャが症状を発していないのは、生まれながらに有害物質への抵抗力の強い遺伝子を残していたからではないかというのだ。
「実はきみを引きとった当初は、きみの遺伝子を調べてみたいという思惑もあったのだがね」
「そーだったんっすか」
シャジャはすまなそうに眉尻を下げる博士にへらりと笑ってみせた。今まで皆にばかにされてきたこの肌も、ぱっとしない容姿も、さして良くない記憶力も、意味のあるものだったとは。
「えー、長きにわたる生物史において、いずれが真に価値あるものであるかは後世にならなければわからないのだ、でしたっけ」
「そうだよ。生物は皆、そうして違いを生み出しながら、進化してきたのだからね」
博士にとっては、美点も欠点も、単に個体差の一つにすぎないのだ。それは当然で自然なこと、生物のあるべき姿なのだ。そのとき、今まで蔑まれてきたシャジャの欠点は、すべて世界に受け入れられた気がした。
死ぬのは怖い。死にたくはない。
けれども、サジュナ博士がスゥラたちを守ろうというのなら、シャジャはそれに付いていくつもりだ。きっとサジュナ博士には、画一化されず多様性に富んだあの小さなスゥラたちが、特別な原石に見えていたのに違いない。
どうもにもしっくりこないシーンだったので、大幅に書き換えてシリアスに内容を変更しました。
もう一週間先延ばしにするか悩みました。
が、一ヶ月ほどお休みしてしまった為、誤字が目立つかもしれませんがとりあえずUPしておきます。




