【6】
ツェルは手を引かれて走りながら大きく深呼吸した。
ようやくあの場所から抜け出せた。
盗まれた光錘のことも盗んだ少年のことも気がかりだった。でも、あの子ならきっと無事だろう。どちらかというと、あの大人たちが命を落とさないことを祈ろう。
どこまでもどこまでも鮮やかな緋色の空が広がっていた。さっきまでの腐臭、どんよりした空気が嘘のようだ。
透き通りそうな明るい夕陽がツェルの手を引っ張って走る細い後ろ姿をまばゆく照らし出す。少年の暗い髪は夕陽に染まり、鮮やかな紫水晶色に縁取られている。
すぐ手の届きそうなところを真っ白な小鳥たちの群れが行きすぎ、そのまま山に向かって飛んで行く。
光糸を視るのに、いつものように必死に集中する必要などなかった。糸は世界に溢れていて、ツェルは、ツェルの手を引くその子を介して世界と一つだった。
二人は空を翔け続けた。走って、走って、走って、肺が潰れるのではないかというほど苦しくなり、前後左右の感覚すらもなくなった頃、足裏に固い感触が触れた。
波止場で呑気に鳴き交わす海鳥たちの声が聞こえる。ツェルは大きく肩で息をしながら、繋がった手に縋ってどうにか頭を上げた。
港外れにある公園だ。市街地の中だ。何度か散歩で訪れたことがある。
ほっとすると同時に、全身の力が抜けた。はあはあと息を弾ませながら、その場にへたり込んだ。膝が震えて立っていられない。
ツェルを引っ張ってきた少年もまた、あーと大きな声を漏らして隣に足を投げ出した。
息が苦しい。気持ち悪い。
ツェルは空気を求めるように喘ぎ、地面にすがりつくように膝をついた。吸っても吸っても喉の奥が痛むばかりで、ちっとも空気を吸えている気がしない。指先が痺れ、地面が揺れている。
気がついたときには体が傾いでいた。
「大丈夫か」
ツェルは支えを求め、涙目で、支えてくれる少年にしがみついた。頭がぐらぐらして気持ちが悪い。吐きそうだ。
「血がついてる。怪我したのか」
「ちが、う。怪我、ツェルのじゃ」
ない、と呟くなり、ツェルは両手で口を覆った。
少年はツェルの腕を自身の肩に回した。公園を囲う樹の傍に下ろされるなり、ツェルは木の根の間に覆い被さるようにして何度も嘔吐いた。少年はツェルの背を擦ってくれたが、空っぽの胃からはほとんど何も出てこなかった。やがてそれが収まると、少年はツェルを助け起こして場所を移し、ツェルを樹の幹に凭せかけた。そのまま「すぐ戻る」と言葉を残してどこかへ消えた。
ツェルは動く元気もなく、樹に寄りかかった。荒い呼吸が収まるのと同時に目眩も落ち着いてくる。
ほっと息をついて目を閉じれば、額を涼しい風が撫でていった。汚水で湿った靴がつま先から体温を奪ってゆく。ツェルは編み紐を解いて汚れた靴を脱ぎ捨てた。
夕陽に照らされた海は砂金をまぶしたようで、空は薄い青から紫、そして緋色へと少しずつ色を変えながら複雑で神秘的な色に染まっている。その下では空の色を映した波頭が寄せては引いて、そのたびに波止場に舫われた小舟がぎいぎいと軋み音を立てる。ツェルはしばらく絵画のようなその光景にみとれた。
ツェルは座り心地の良い場所を探して立ち上がり、少し先の草地に腰を落ち着けた。疲れ切った足を前に投げ出し、足の裏に刺さった砂利をぽいぽいと投げ捨てる。
今日一日で色々なことがあった。今朝までのツェルだったら、きっと小石が足に刺さっただけで涙ぐんでいただろう。でも、今は違う。無事に見知った街に出られただけで十分すぎるくらい幸せだ。それに、一番怖かったときに助けてくれた人がいた。お礼も言えないままいなくなってしまったけれど、本当に嬉しかった。誰かに助けてもらえるって、すごく特別なことだったんだ。……ツェルが今までお仕事でやってきたことって、本当に良いことだったんだ。
不思議に凪いだ頭で穏やかな水平線を見つめているうち、ふと疑問が浮かんできた。
そういえば、どうして急に光糸が視えるようになったのかな。貧民街を歩いている間、何度も確認したけれど、目から脳天にかけて激痛が走ってとても瞳を開いていられなかったのに。
そのうちに少年が戻ってきた。少年の上向けた両手には澄んだ水が半分ほど溜まって揺れている。ここに来るまでの間にかなり零れてしまったらしい。少年は片膝をつき、その手をツェルの前に突き出した。
「飲みな」
「わ、わたし、今、汚いわ」
「いいから」
棒きれのように細く荒れた手が顎下に差し込まれた。指の隙間から垂れた水が、少年のすり切れた裾を濡らしている。
ツェルは大人しく水を啜った。胃液で焼けた喉に冷たい水が駆け下りてゆく。一口啜った途端、喉がからからだったことを思い出した。ツェルはその僅かな水を夢中で飲み干した。
「ありがとう」
人心地つくと、徐々に恥ずかしさがこみ上げてきた。人の手から直接水を飲んでしまった。それも、知らない男の子の。
ちら、と顔を見遣る。袖も裾も泥まみれで、少し匂う。貧民街の臭いだ。でも、不思議と不快ではない。ぼさぼさの黒髪の下に隠れがちな意志の強そうな青い瞳が、心配そうな色を浮かべてツェルを覗き込んでいる。また倒れると思っているのか、腕をツェルの背に添えてくれている。
光錘を盗んだ子と、年も同じくらいみたい。顔は全然違うけど、あの子にそっくりな深い青の瞳。あの子は少し冷たい感じがしたけど、この子はすごく暖かい感じがする。
どきどきしながらハンカチで口を拭ったツェルは、少年の頬に黒い汗のようなものが垂れているのに気がついた。
「頭が濡れてるわ」
「ああ、さっき井戸を汲むときにちょっと被っちまって」
「待って、汚れてる」
手の中のハンカチでそれを拭うと、少年は驚いたようにツェルの手を払った。ぱさりと音を立ててハンカチが落ちる。ハンカチには黒い汚れがべったりと付いていた。
ぱっとツェルが目を上げるのと、少年が頭を庇うように両手を上げるのとは、ほぼ同時だったが、ツェルにはばっちり見えてしまった。
少年の黒髪は、部分的に色が落ちていた。濡れた上に擦ったから、そこだけ染料が落ちたらしい。庭園で出会ったあの光錘泥棒に続き、まさかこの子まで。
「蒼い髪……」
少年はポケットから帽子を取り出し、髪を中に押し込んで、ツェルをじろりと睨んだ。
「誰にも言うなよ。目立つんだよ」
「うっ、うん」
「絶対だかんな」
「女神さまにかけて約束するわ」
こくこくと頷くと、少年はツェルの裸足を見て何か言いたそうにしたが、そのまま少し離れたところに腰を下ろした。もう少し一緒にいてくれる気らしい。
またひとりにされてしまうのかと思っていたツェルは、ほっとして少年に微笑みかけた。
「嬉しい。ひとりで怖かったの。でも、ごめんね。もう夕方だけど、お家に帰らなくて大丈夫?」
「へーき。親父、帰ってくるの遅えから」
「それなら良かった。そういえば、さっきのワンちゃん無事かしら。あなたが飼っているの?」
「イオタか。いや、飼ってるんじゃないよ。友達だ。いい連携だったろ」
少年の表情が緩む。
「あの野郎は怪我してたし、ナイフは奪って捨ててきた。それにイオタは貧民街のボスで、子分が大勢いるんだぜ。あんなヤツに負けるわけないだろ」
と、得意げに笑ってみせる。
笑うとなんとも柔らかい雰囲気になって、見ているツェルの心までふわりと軽くなる。ツェルはくすくす笑った。
少年はふと真顔に戻って、腕を立てた膝の上に乗せると、じろりとツェルを睨んだ。
「おまえさ。今日でわかったと思うけど、あそこはおまえみたいな金持ちの子が面白半分に来るところじゃないんだ。さっきみたいな目に遭いたくなかったら、もう二度と来るなよ。どうなっても知らないぞ」
ツェルは勢いよく抗議した。
「面白半分なわけないでしょ。大事な用があったんだから」
「用ぉ? おまえが、貧民街に?」
心底疑わしい、といった風に少年の目が細まる。ツェルは頷き返した。
「さっきあそこに、わたしたちくらいの男の子がもうひとりいたでしょ。あの子を探していたの」
「えっ、もう一人いたのか? 気付かなかった。てっきりおまえ一人変なのに囲まれてんのかと思ったのに。やばいな、そいつ。どうするかな」
「たぶん平気じゃないかしら。すっごく強かったから。逆に、あの悪い人たちの方が心配。やりすぎていないと良いけれど……」
「友達じゃないのか」
「全然。ツェルのこと助けてくれたけど、すごく変な子なの。初めて会ったのに、ツェルのこと、だいぶ前から知ってたって言うし。リュ――大事なものも勝手に盗っていっちゃうし。それに、ひとりで三人相手にしていても余裕そうで。どこかでちゃんとした光錘の訓練を受けてるみたいだった。帝国から来た傭兵の子かしら。大陸の人で瞳持ちって、だいぶ珍しいけれど」
「そっか。まあ、それなら大丈夫そうだな」
少年がほっとしたように頷く。無関係の他人のはずなのに当たり前のように心配して、しかも実際助けるために動くなんて。
「優しいのね」
ツェルがにこにこ笑ってそう言うと、少年は頬を赤らめてぷいと横を向いた。
「それはそうと、なんでそいつを追いかけてたんだ。鬼ごっこってわけじゃないんだろ」
「もちろん。その子がツェルの半双かもしれないと思ったからよ。そういえば、あの子はあなたの親戚じゃないの? あの子も、あなたと同じような髪と目の色をしていたもの」
「さあ……。親戚は知らないな。うちでこういう色なのは、おれだけ」
少年は帽子の上からとんとんと指先で叩いてみせた。
「そう。それじゃ、あの子のこと、また探しにこないといけないのね。せっかく見つけたのに」
次はどうやって抜けだそう。今頃、大聖堂はツェルがいないことに気付いて大騒ぎになっているだろう。当分、監視が厳しくなるはずだ。
「懲りないやつだな。そんなに半双に会いたいか?」
「当たり前よ! ツェ――わたしね、他の人からは糸が視えない体質なの。もしかしたら無いのかもしれないって、ずっと言われてた。糸がなければ、半双も確かめられないし、もしかしたら一生会えないかもしれないじゃない。でも、あの子に会って初めて思ったの。もしかしたら、この子かもしれないって」
少年は不思議そうに顔を傾けた。
「糸がない? 糸って、光糸のことだよな」
「そうよ。誰にでもあるものなのに、わたしだけないかもしれないなんて。わたし、それがすごく嫌で。半双がいないのもすごく嫌で」
「ふうん。おれも糸が視えないって言われたことあるけど、別に気にならないけどな」
突然の告白にツェルはびっくりした。
「そうなの?」
さっき空を駆けてきたときは余裕がなかったけれど、別に違和感も感じなかった。念の為ツェルは瞳を開いて少年を改めて観察してみた。少年からは光糸が無数に伸びていて、しっかりと太く、暖かい色を持つ糸もたくさんあった。
「あなたにはあるわよ。太い糸も細い糸もたくさん。今まで糸が視えなかったってことは、あなたの瞳もきっと強いのね」
この世には視えない光糸がふたつある。ひとつは、自分自身と繋がる糸、もうひとつは自分よりも強い瞳を持つ者の糸だ。
ツェルは一呼吸置いて、そういえばと首を傾げた。
「ねえ、どうしてツェルが光糸認識力持ちだって知っていたの」
「そりゃ、昼間……」
「えっ、昼間?」
「なんでもねえ! それより、おまえさ」
少年は突然そう言うと、息を吐いて目を見開いた。少年の紺碧色の目が明るくなり、瞳の中心が蒼く輝く。少年は輝く瞳でじっとツェルを見つめた。
「やっぱりな。おまえの『糸』、普通に視えるぞ」
ツェルは大きく目を見開いた。
「まさか、ツェルの糸が視えるの」
飛びついたツェルに少年が慌てる。
「ちょ、くっつくなよ」
「ねえ、視えるのならお願い。ツェルの糸を読んでみせて。どの糸でも良いから」
「なっ、なんで」
「だって今まで誰にも視えなかったのよ。ただあるって言われても、そんなの信じられない」
少年は軽く肩を竦めると、ツェルの耳元に手を伸ばした。何かを掴むような仕草をして目を細める。するとツェルの頭の中に何かをかき乱すような感触が入ってきた。その視えない手がツェルの記憶を探っている。その手に引きずり出されるようにしてツェルの脳裏に浮かんだのは、大聖堂の庭園でダンに謝るよう強制した父の厳めしい顔だった。
少年が眉を顰めた。
「ここって大聖堂だよな。お父さま……おまえ、教会のおエライさんの子か?」
「えっ、すごい。本当に視えるの! あなたの瞳もびっくりするくらい強いのね」
これは聖皇さまにお知らせした方がいいかもしれない、この子だったらきっと優秀な司祭になれる、ひょっとしたらお父さまよりすごいかも、なんて感動しているツェルを余所に、少年は眉根を寄せてツェルの服をじっと見ている。なんだか気に食わないものを確かめるかのように。
「どうしたの? この服、やっぱり短いかしら。でも外遊びするときに膝が隠れていると動きにくくて。お勤めの姉さまたちがせっかく作ってくださったものだし。ほら、すごくきれいな刺繍でしょ」
ツェルは上着の袖をつまんでみせた。でも、少年の目はそちらではなく、普段着ているつまらない礼拝用のローブの方に向いている。
少年は何か考え込み、やがて諦めたような表情になった。
「おまえさ、髪のこともだけど、おれと会ったってことは誰にも言うなよ。親父、死ぬほど教会嫌いなんだよ。知ったらたぶん、ぶん殴られる」
ツェルは慌てて頷いた。
「わ、わかったわ。誰にも言わない」
少年はようやく表情を和らげた。
「頼んだぜ。それよりおまえの父さん、厳しいな。おまえ、よくあんなヤツに謝ったな。おまえは何も悪くないのに」
……本当に「読んだ」んだ。
今になって実感したツェルは、思わず少年を見つめた。あまりじろじろ見すぎたせいか、少年はそわそわと視線を逃がしている。その横顔がじわりと滲んだ。ツェルは慌てて目を擦った。嬉しいのに涙が出るなんて初めてだ。でも、嬉しい。わかってくれた。悪くないって言ってくれた。
ツェルは離れてゆく少年の手を両手で掴んだ。
「……ありがとう。それでね、あの……わたしの半双の糸って視えたかしら?」
少年は首を横に振った。その目から光が消えて行く。元の色に戻っても少年の瞳は澄み切った青のままだ。
ツェルは自分でも驚くほど落胆していなかった。ただ息苦しいほど胸がどきどきしている。
握った少年の手はあちこち傷だらけで、ひどく荒れていた。触っただけでも痛そうだ。ツェルは手を緩め、そうっと包み込むようにした。
「わたし、名前はツェル。あなたのお名前も教えて」
「おれ? ソーだけど」
ソーはそっぽを向いて手を引っ込めた。
洗礼を受けていなければ聖名は当然ないし、それに代わる氏族名も親を知らない孤児たちは持たない、というのをツェルは聞いたことがある。だから『ソー』に続く名前を聞くことは、ぐっと堪えた。
「女神の至宝と同じ名前なのね」
「は?」
「知らないの? 女神さまが天地創造に用いた『天冥の杖』に付いている石の名前よ。星空と海から造られた、生命の力を秘めた神秘の石なのよ」
「そんなの知らねえよ。教会なんて行ったことないんだから」
少年は唇を尖らせてむくれている。
「それじゃあ、もうひとつ教えて。あなたのお誕生日だけど、もしかしてルフ月の七日?」
少年はまじまじとツェルを見た。疑うように。企みを探ろうとするかのように。まるで的外れなら、そんな態度は取らなかっただろう。ツェルはすぐにでも立ち上がりそうな少年の袖を慌てて掴んだ。ここで逃げられたら困る。
「待って。大事なことなの。だって、わたしたちどっちも、他の人からは糸が視えないのに、お互いの糸は視えるの。それって、二人の光糸認識力が同じくらい強いってことよね」
「それがなんだってんだ」
「特別なことなの。普通じゃあり得ないわ」
ツェルは必死に言い募った。ツェルが御子だって打ち明けてもいいだろうか。そうしたら話は早いのに。この子はすごく良い子だ。でも、まだ出会ったばかりだ。
「ルフの七日はツェルの誕生日なのよ。あなたもそうなら、ふたりとも誕生日が同じってことでしょう。それだけじゃないわ。さっき、あなたはツェルの半双の糸は視えないって言ったじゃない。ツェルもそうだったの。あなたの半双の糸は視えなかったの。わたしたち、お互いに糸は視えるのに、半双の糸だけは視えないのよ。どうしてだかわかる?」
「どうしてって言われてもな。誕生日が同じやつくらい、普通にいるだろ」
困っている少年を前に、ツェルは焦れったく身を捩った。ここまで言ったら答えは一つなのに。
「自分自身に繋がる糸は視えないからよ。つまり、ツェルとあなたは半双同士なのよ!」
「半双……おれたちが? だけどおまえ、さっきは、別のやつを追いかけてきたって言ってたじゃないか」
戸惑うソーの前で、ツェルはふるふると首を振った。
光錘を盗んだあの子とは全然違う。一目見たそのときから、不思議な安心感があった。
お父さまやテュナの言っていた「懐かしい」ってこんな感じかしら。嬉しい。頬が熱くて、胸が爆発しそう。
ソーも同じように感じていたらいいな。ああ、ソーに伝わればいいのに。今までどれだけ半双に会いたかったか。どんなに今、嬉しい気持ちか。そうだ、ソーに訊いてみようか。怪我をあっという間に治せてしまう、不思議な力は持っていないかって――
「ツェルさまぁっ」
遠くから名前を呼ぶ声が聞こえる。振り返った先には見知った姿があった。聖堂騎士、それに仕女たちだ。彼らは歓喜の声を上げながらツェルの元に駆け寄ってきた。
「ツェル様、ご無事ですか」
最初にやってきた青年騎士がツェルの全身を目で確かめ、青ざめている。
「血が付いているではありませんか。どこを怪我されたのです」
「これはツェルの血じゃないわ。別の人のが付いてしまったの」
「では、事件に巻き込まれたのですか」
騎士たちは目を白黒させて慌てふためいている。仕女もまたおろおろとツェルの足を見下ろした。
「お履物がないのですね。さぞかし痛かったでしょう」
「大丈夫よ、心配かけてごめんなさい。靴は汚れちゃったから、さっき自分で脱いだの」
「そうでしたか。何はともあれ、ご無事で良かった。聖皇猊下も大司教様も、大層心配なさっておいでです。今すぐ大聖堂に戻りましょう」
騎士はしゃがみ込んで背を向けた。負ぶってくれるということだろう。ツェルは恥ずかしくなった。街人たちもこっちを見ているし、何よりソーにも見られている。会ったばかりの半双と思われる人に、赤ちゃんみたいって思われないかしら。
ところが、振り返った先にソーの姿はなかった。
「ソー?」
ツェルは周りを囲む騎士たちの合間を見回した。
「ツェル様、どうなさいましたか」
ソーのことを訊ねようとしたツェルは、さっきの約束を思い出した。そうだ、誰にも言わないって約束したんだった。
誰かに見つかっていやしないか確認しようとしたら、手をしっかり掴まれてしまった。逃げ出すつもりなんてないのに。
仕方なく背伸びして市街や空を見渡したけれど、ソーの姿はどこにもなかった。ただ、ひび割れかさついた手の感触だけがツェルの手のひらに残っていた。