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【3】

 どうせ付いてこられやしないだろう、とエルは思っていた。ところが、赤ん坊は四つん這いのまま元気よくエルの後をついてきた。

 廊下を出ると、同じような金属製の扉が並んでいる。エルは三つ目の扉の前に座り、手提げから引っ張り出した端末を膝の上で開いた。ここは所員の生体認証がなければ開かない。でも、何度かここにきて暇を持て余している間に、エルはここを開ける方法を探りあてていた。

 壁の小さなパネルを持ち上げて、端末とケーブルで繋ぐ。認証機構に入り込み、サーバから盗み出した所員の生体情報を復号化して送り込んでやると、扉は何の抵抗もなく開いた。エルは端末を閉じて、開いた扉に入った。

 金属パネルに覆われたその部屋は、ステップ二段分低い位置に作られている。操作の間に追いついてきた赤ん坊は段差の前で座り込み、ぷくぷくと膨れた両手を大きく広げてみせた。

「自分で降りられないの?」

 エルは出入り口に戻り、赤ん坊を抱き下ろした。けっこう重い。腕が震える。落とさないようにするので精一杯だ。

 照明の灯らない部屋には壁一面にずらりと保存槽が並んでいた。ここは創異獣オメガサンプルの一時保管所だ。いずれはドーム外の施設に移送されるが、創り出されてしばらくの間はここで観察される。

 中に満たされた生体保存液のエメラルドグリーンの水が仄かな灯りを床に落としている。

 水槽の合間に端末が一つあり、その正面に大きなディスプレイが一つ填め込まれている。最後に立ち上がった誰かが引いたときのまま、斜めを向いた椅子が放置されている。

 赤ん坊は保存槽の一つまで這っていき、水槽に手を当てて立ち上がった。

 エルは不思議そうに光る水を見つめている赤ん坊の後ろに立ち、口の端を持ち上げた。

「すごいよね。ここの化け物は、全部きみの親が作ったんだよ。『外』の環境に順応する生物を創り出しちゃうなんて、きみの親は本当に天才だよ」

 「プロジェクト=ツェルト・リァン」がうまくいけば――つまりこの赤ん坊がリァン・クローンへの接続ツェルに成功すれば、無事にクィラス・クローンは再びクィラを生成できるようになるのではないかと推測されている。でも、その計画が必ず実を結ぶかどうかはわからない。メトワが目覚めたからといって、クィラスの力が戻る保証はないのだ。だからフィエラとアルセルの創異獣計画《プロジェクト=オメガ》は今も続けられている。有害物質オルに耐えうる生物を創り出すこと。そこから、有害物質オルに耐える条件を探し、人類生き残りの術を見つけることが目的だと聞いた。

「だけど、見た目をもうちょっと工夫すればいいのにね」

 水槽の中には人間のような生物が眠っている。ただし、大きさはエルの肘先ほどしかない。薄い瞼の下に、黒い眼球がうっすら透けて見える。背からは背骨から分岐した骨が二本大きく突き出して、半ばから指のように三つに分岐している。その表面をごく薄い皮膚が覆っている。皮膚の内側を通る赤や青の血管もはっきり見える。

「こいつは『妖精』って名前らしいよ。そんなにかわいくないけど」

 エルは隣の水槽を指差した。

「これはアスラから持ってきた生き物の遺伝子をこっちの気候に合うように調整して創ったんだって」

 頭部から背中にかけては羽毛に覆われ、側面にかけては鱗に覆われている。瞼はないらしく、眠っていても眼球が見えている。金の瞳の中に見える瞳孔は糸のように細い。天井いっぱいまである水槽の中に窮屈そうに収まっている。

「こいつは食った動物の死骸を体内で発酵させて、喉袋にガスを溜め込む。喉の内側に突起があって、それを火打ち石みたいに擦って、ガスに引火する。わかる? つまり火を噴く、てことだよ。かっこいいだろ」

 赤ん坊の反応はない。見ているようで、何も見ていないのだとエルは気付いた。そういえば、赤ん坊って視界が狭いし、視力が悪いんだっけ。なんだか肩透かしを食らったような気分だった。ちょっと驚かせてやりたかったのに、まだ何にも理解できないみたいだ。仕方がない。フィエラたちがびっくりするといけないし、一つくらいまともなやつを見せてやって戻ろう。

 エルは入口側に並ぶ水槽に目を走らせた。確か低い位置にあって、小さい子が喜びそうな創異獣オメガが一段目の端にいたはずだ。

 ああ、いたいた。ぬいぐるみみたいなやつ。真っ白な毛皮に覆われていて、リァンの半分くらいの背丈。一番下の水槽にぷかぷか浮かんでいる。これならリァンも喜ぶんじゃないか。

「リァン、こっちに来なよ」

 そのとき足に飛沫がかかった。水の流れる音。エルはぎょっとして片足を上げ、辺りを見回した。水槽の壁が一斉に下がってゆく! 開いた隙間から保存液が溢れ出し、床で渦を巻いている。

 どうして。なんでこんなことに。

 部屋の奥で、金属が擦れる音がした。いつの間にかリァンが椅子によじ登っていた。リァンは座面の上に立ち、端末のちかちか光るボタンに両手を叩き付けている。あの子が水槽の開閉操作をしてしまったのだ。

 エルはみるみるうちに上がってくる水の中に呆然と立ち尽くしながら、目まぐるしく考えた。

 所員の認証がなければ端末は反応しないはずだ。そうか、ぼくがロックを解除したんだ。扉を開けた後、閉じ込められないよう、その認証情報を有効なままにしておいた。扉だけ解除できれば良かったんだけど、それがうまくできなくて、この部屋のセキュリティを丸ごと解除していた。つまり、今は誰でも端末を操作できる状態になっていた――

 エルはショックのあまり停止しそうになる頭を無理やり働かせ、どうすべきかを必死に考えた。

 まず、あの赤ん坊を連れてこないと。この化け物たちが目を覚ます前にここを出て、扉を閉めて、急いでアルセルたちに知らせなきゃ。大声を出しちゃだめだ。こいつらが目を覚ますかもしれない。

 エルはせり上がってくる水の中を足で探りながら、リァンめがけて歩き出した。でも、思ったように進めない。膝丈まで上がってきた水が身体を押す。水を吸った服や靴が重い。

 そうだ、先に助けを呼んだ方がいいかもしれない。肘にかけていたバッグを見下ろして、エルはさあっと青ざめた。しまった、端末が水浸しだ。あり合わせのパーツで組み立てたから、防水になっていないのに。でも、さっきもらったばかりの装身情報端末スピオがあるじゃないか。

「アルセルにコール!」

『エル!』

 最初のコールでアルセルは出た。

『ちょうど今コールしようとしていたところだ。一体どこにいるんだ。リァンの姿も見えないが』

「アルセル、アルセル助けて! 創異獣オメガサンプル保管室だ! リァンが水槽を」

 開いた水槽の隙間から、流出する保存液に押し出されるようにして、中にいた創異獣オメガたちが次々と床の上に飛び出してきて、水しぶきを上げた。

「わ、わあぁっ」

 エルは思わず悲鳴をあげて、バッグを放り出してしまった。水の中にバッグが沈んでいく。バッグとエルとの間に真っ黒な化け物が流れてくる。足が竦んで動かない。

 エルの大声に驚いたリァンが座面に尻餅をついた。リァンの指先が保存液に浸った。その腕を、巨大な火を噴く創異獣オメガの身体が掠めていった。水に押されて流れてきたそいつは、椅子にぶつかった衝撃で目を覚ました。金色の瞳がぎろりと動き、目の前の赤ん坊を見据えた。

 ぱちくりと瞬きした、赤ん坊の顔がゆっくりと歪み、真っ赤になった。リァンは割れんばかりの大声で泣き始めた。

「リァンッ!」

 廊下の先から誰かが駆け寄ってくる声が聞こえる。すかさず飛び込んできた二人を見て、エルは震えた。アルセル、フィエラ。こんなとんでもないことになるなんて、思わなかった。ただ、ちょっとリァンに創異獣オメガを見せてやろうと思っただけなんだ。ほんの少し驚かせてやろうと思っただけなんだ。

 息せき切らせて駆け寄ってくるアルセルの前で、エルは身を竦めて、両腕で頭を庇った。その険しい表情が父の顔に重なって見えた。

 殴られる。怖い。ごめんなさい、ごめんなさい。ぼく、こんなことするつもりじゃなかった――

「フィエラ、エルを頼む!」

「ええ!」

 が、アルセルはエルの前を通り過ぎると一目散に奥の端末に向かった。水面から顔を出し、大きな牙を剥き出しにする創異獣オメガをものともせずに、彼はリァンを抱き上げた。

 その間に駆け寄ってきたフィエラは、エルの手を掴み、階段に押し上げようとした。だが、階段の前には巨大な魚のような生き物がいた。エルの身体をひと飲みできそうなほどの巨体で、岩のようなごつごつした皮膚に覆われている。そいつは身体の半分ほどもある顎を大きく開けた。顎の内側にびっしりと鋭い牙が並んでいるのが見えた。短い手足からは想像できないほどの素早さで、そいつはエルに向かって跳躍した。

「エルッ」

 自分の身体をふわりと包み込んだ柔らかで温かいものが何なのか、エルには理解できなかった。これまでこんな風に誰かに抱きしめてもらったことなんて、一度だってなかったからだ。その白い胸からはあの赤ん坊と同じミルクの甘い匂いがした。

 ぱっと目の前が深紅に染まった。頬に飛んできた真っ赤な飛沫。フィエラの喉から絶叫が迸り、その悲鳴がぶつりと途切れた。段差を転げて、ばしゃん、と大きな水しぶきをあげて落ちた上半身は、まるで壊れたマネキンのようだった。

 エルは押しやられたステップの上で呆然と尻餅をついた。ない。フィエラの、腰から下が丸ごとなくなっている。水の上に落ちたフィエラの顔は、大きく目を見開いたまま空を見つめている。

 アルセルが叫んだ。何を言ったのか、エルにはわからなかった。身体の震えが止まらない。何が起きているのかわからない。震えているエルの腕に何かが押しつけられた。それが、泣きじゃくる赤ん坊の身体だと気付くまでに、少し時間がかかった。

 アルセルの手には光線銃レーザーガンが握られていた。だが、撃っても、撃っても、創異獣オメガたちは次から次に押し寄せ、アルセルを取り囲む。

「行けっ、エル! 上にあがれ! 早く! リァンを頼む!」

 エルは震える腕を励まし、泣き叫ぶリァンを必死に抱え、腰でずり上がるようにして、一段、また一段と上がった。そのエルの前に、獰猛な唸り声が飛び込んで来たかと思うと、熱風が額を掠めた。エルの白金色の髪先がちりちりと燃え落ちた。闇の中で火噴き獣がエルを睨んだ。そいつが今にも飛び掛かろうと身を屈めたのがわかった。腰に力が入らない。立ち上がれない。エルは震えて竦み上がった。

 アルセルの光線銃が闇の中にいくつもの軌跡を描き、激しい火花を散らした。獣たちの咆哮が響き渡る。アルセルが化け物を蹴り、続けざまに発砲する。

「おい、こっちだ!」

 アルセルが叫ぶ。創異獣オメガたちの注意がアルセルに向いた。

 ようやく足が動いた。エルは急いで赤ん坊を扉の外に押しやり、自身も階段を這い上がった。そして振り返って叫んだ。

「ア、アルセル!」

 アルセルがコンピュータ端末に取り付けられた非常ボタンに手を叩き付ける様が一瞬見えた。

 けたたましいサイレンが鳴り響き、エルの目の前で銀のスライドドアが音を立てて閉まった。

「………………あ、アルセル……、アルセルッ」

 エルは大声で泣き叫ぶ赤ん坊を廊下の隅に置き、扉まで這っていった。必死に扉を叩いた。扉の向こうから幾度か光線銃の炸裂音がした。アルセルと、獣たちの叫びが聞こえた。激しい水音がした。扉越しにアルセルの悲鳴が聞こえた。


 エルは叫び声をあげて、その場で跳ね起きた。心臓が激しく脈打っている。全身冷たい汗で濡れている。

 夢か。

 そうだ、夢だ。あれはもう、二十年近く前に起きたことだ。エルはカプセルの内側にもたれ掛かった。身体がひどく冷えている。エルは震える指で開閉ボタンを押し、カプセルを出た。時計はあれからサン刻半経過したことを示していた。ノランはまだ大人しいが、じきに目覚めるだろう。

 エルは兵に見張られたまま着替えを取りに行き、手早くシャワーを浴びた。熱い湯を浴びたまま目を閉じる。

 あの日のことを忘れたことは一日もない。

 フィエラから嗅いだミルクの匂いのことも。リァンを託したアルセルの緊迫した表情も。

 あの日以来、エルはリァンとの接触を避けてきた。

 エルの指を力いっぱい掴んだ小さな指。一片の曇りもなく笑いかけてきた幸せいっぱいの顔。たどたどしくエルの名を呼ぶ稚い声。創異獣オメガたちを解き放った後ろ姿。どれをどう捉えればいいのか、エルにはわからなかった。どれ一つを思い出しても、エルの思考は停止し、吐き気を覚えた。

 それでも完全に関わりを絶つというわけにもいかなかった。スゥラの中で成長していくツェル・ト=リァンの姿をエルはずっと観察し続けなければならなかったからだ。

 健やかに育ちゆくツェル・ト=リァンは、父ノランがかつて心奪われたというその美しさを次第に花開かせていった。

 オリジナル・リァンの複写体であるばかりか、後天性生体情報まで調整されているカナン側の彼女は、フィエラやアルセルとは何の接点も生物学上の類似性もない。それなのに活き活きとカナンの空を翔ける彼女の生き様は、どこかあの二人を思わせた。

 その内に宿る精神が、あの二人の子として生を受けたリァン=エーゲルだからなのか? あり得ない推測が幾度もエルの脳裏を掠めた。

 やがてクィラスの末裔と出会った彼女は、運命のようにその少年に惹かれていった。幸せそうな彼女を見ると、エルの中には整理のつかない感情が入り乱れた。

 おまえがいなければ、フィエラも、アルセルも死ぬことはなかった。違う。僕があんな場所に連れて行かなければ、事件は起きなかった。そうだ、事件はきっと起きるべくして起きたに違いない。なぜなら、あの事件の後の二人の人生がそれをはっきりと示しているからだ。

 リァンは事件の記憶を持たず、何の憂いもないまま愛情に囲まれて美しく成長した。一方のエルには、ノランの奴隷のような生活が続く上、あの事件の記憶がその上にのし掛かった。

 神は不平等だ。僕には与えなかったこの世の幸いのすべてを、神は彼女に与えた。彼女は皆に愛されるべくして生まれた。だが、僕はなんだ? 僕は父の道具だ。僕の知識は、知恵は、ただあの人に利用されるためだけにある。僕が得るべき賞賛はすべてあの人に与えられる。僕とは何だ。何のために生かされる? そうだ、僕のこの屑のような生ですら、すべてリァンのためにあったのだ。父はリァン覚醒のために僕を生かしてきた。もしもリァンがいなければ、僕はもっと自由に生きられたのか。いや、それもまた違うだろう。リァンが存在しようとしまいと、父が僕に自由を与えることはなかっただろう。リァンが愛されるために生を与えられたように、僕は利用されるために生を与えられてきた。きみとソーとが魂の半双メトワだというのなら、きみと僕は、やはり運命の半双メトワだ。僕らは日向と日陰だ。陽と陰だ。幸いと災いだ。笑えるじゃないか。こんなあからさまな不平等が生まれたときから定められているだなんて。

 神がそんな不条理を、不平等を僕らに押しつけるというのなら。僕はそれに抗ってみせる。

 それはいつしかエルの中に芽生え、育ち、深く根を下ろした願望、生きがいとなった。

 僕はリァン、きみのすべてを奪ってやろう。きみの愛も、優しさも、幸せも、すべて。僕のいるこの地の底に引きずり落とす。僕を奴隷のように虐げてきたノラン=ドナトは、妄執と執着と狂気の末に育てあげてきたリァンと、奴隷同然の僕の立場が逆転するなどとは、思いもしないだろう。そしてリァン、神に与えられたきみのすべては、やがて僕の闇と同化する。これはノラン、そして天への僕の復讐だ。

 リァンを自宅に招いた夜の、ノラン=ドナトの表情を思い出したエルは、喉の奥で笑った。興味のない風を取り繕っていたが、あの目の奥に垣間見えたのは、確かに嫉妬だった。あいつが千年もかけて手に入れられなかったものを、僕はいとも簡単に手に入れてみせた。さぞ悔しかっただろう。

 エルはシャワーブースを出て服を身に着けると、手早く「下準備」を済ませた。

 ノランの入った睡眠カプセルを、冷めた銀色の双眸が見下ろす。

 すべては、ここから始まる。

 いよいよときは至った。エルの身体にもう一度身震いが起きた。今度のは怯えからではない。エルは笑みを引っ込め、ノランの入ったカプセルを開いた。

「父さん、起きてください」

 少し強めに肩を揺さぶってやる。議長は突然瞼に降りてきた光を遮るように手をやり、それから億劫そうに目を開けた。

「なん、だ?」

「覚えておられますか。僕たちは星議会に拘束されたのです。謂われのない嫌疑をかけられてね」

「貴様、エル! 私を裏切ったのか!」

 エルは咄嗟にその口を手で塞いだ。

「しっ、大声は控えてください。見張りの兵たちにまた眠らされますよ。それにどうして僕がたった一人の血縁である父さんを裏切ったりするでしょうか。それより、重要なご報告があります。どうぞこちらへ」

 エルはノランがいったん落ち着いたのを確認すると、静かに手を離した。ノランに手を貸し、立たせてやる。それから壁の絵を外して、その裏のパネルを持ち上げて、中からノート型コンピュータ端末を取りだした。

「ふん、そんなものをどうする気だ? すでにこの周辺にはたっぷりジャマーが仕掛けられている」

 エルはふと笑うと、その端末の後ろからケーブルを引っ張り出した。

「なんだ、それは」

「予備バッテリーと非常用通信回線に繋がるケーブルですよ。大昔に使われていた非常用の回線です。スゥラ波を通さないのでここでも使用できます。パワーも速度もありませんが、最低限の通信には事足ります。さて、ご覧いただきたいものがあります」

 エルは近くのソファの前に大理石調のサイドテーブルを引き寄せ、その上に端末を乗せた。隣に腰掛けたノランが画面を覗き込む。エルの指がキーボードを滑ると、ディスプレイは古びた石牢の様子を映し出した。牢に閉じ込められているのは、一組の親子だ。

 黒髪の女性と、同じく黒髪の少年。ザンダストラ聖皇宮を治めるファシムカ・レム・ナ=エル・カリオン、そしてカイア・バス=エンテだ。二人は簡易ベッドの上に仰向けに並べて寝かされている。牢の鉄格子は閉ざされ、その外側にはカナン聖堂騎士が二人並んで見張りに立っている様子が見えた。

 続けて画面を切り替える。

 今度は元老院塔一階の正面ホールだ。混乱するスゥラたちが大声で叫ぶ様子が映し出される。恐慌をきたし、怒り、叫ぶ人々の前で、御子ツェル・ト=リァンが声を張り上げている。彼女に詰め寄ろうとする市民たちを、クノタ・ト=トロン、スゥラ名ソー・ル=イスタが必死に止めている。

「な、なぜだ。なぜ、スゥラの方までこんな状況になっているのだ」

 愕然と呟いたノランは、しかし口を閉じて、思案する様子を見せた。

 腐っても議長、そして聖皇か。エルが皮肉な笑みを浮かべたのは心の中だけのことだ。表面上の沈痛な顔は決して崩さない。

「サジュナ博士をはじめとする移住計画反対派のしわざですよ。彼らは『女神の声』を利用して、御子たちを操作しているのです。元老院塔には、スゥラ本体に問題が起きたときのための、緊急分離機能があるでしょう。それを使って元老院塔を脱出艇にドッキングさせ、スゥラたちを異星アスラに逃がすつもりなのです。そのためにスゥラたちを塔に集めたのでしょう」

「そんなことをすれば、私は、ハフラム人はどうなると思っている! くそっ、こんなところに拘束されている場合ではない。すぐボーノックに連絡しろ」

「副議長でしたら、あなたの拘留と同時に自殺しましたよ。今はヴェンテス書記官を初めとする過激派ルカーブが議会を掌握しています」

「ば、馬鹿な」

 ノランは頭を抱えていたが、しばらくすると指の隙間からエルを睨んだ。

「オル・クルスの首謀者は、私の家からスゥラへ接続ツェルしたと言っていたな。人道主義だなんだと口うるさいサジュナ博士がオル・クルスを起こしたというのは奇妙なことだと思っていた。あれはおまえのしわざではないのか。おまえが私を裏切り、過激派ルカーブを先導したのだろう」

 立ち上がろうとした議長は、額を抑えてよろよろと椅子に戻った。判断力の低下する鎮静剤が抜けきらないうちに早めに起こしたのだから、そうなるだろう。議長の肉体は直接的攻撃手段にはめっぽう強いが、神経的な作用に対する抵抗力は一般人と変わらない。これは確認済みだ。

 エルは驚いた顔を作ってみせた。

「まさか! 過激派ルカーブの主導者はバンエル議員なんでしょう。それに、僕が今まで父さんの意に反したことがありますか。やり方については多少の相違もあったかもしれませんが、僕はいつだってあなたのために動いてきました」

「ふん。どうだかな」

「ところで、父さん。こちらをご覧ください」

 エルは画面にフィルターを掛けた。スゥラたちが発するエネルギー交流、すなわち「光糸リーリエ」を可視化するための機能だ。弱い糸までは捉えきれないが、強い反応であれば、スゥラの目で視たものと同様に観測することができる。

 だが、今見ているこの映像はリアルタイムのものではない。ほんの少し前に記録された映像を、ライブ中継のように見せているだけだ。そこに加工処理が施されていることなど、映像を見るだけではわかるはずもない。

 画面に無数の線が入り乱れた。光糸リーリエだ。これだけスゥラが大勢映っていれば当然そうなる。ノランは怪訝そうに目を眇めた。

 エルは映像の一点をズームインした。大声で叫ぶ御子と、御子を守ろうと、叫ぶ人々の前に立ちはだかるトロン。二人の間に、くっきりした虹色の光が映る。エルが着色したものだが、判断力が低下している上、アイリスに執着し、長年追い求めてきたノランには本物に見えただろう。大きく口を開けたノランが、ディスプレイを両手で掴んで、画面を食い入るように見た。そして、震え出した。声を押し殺して笑っているのだ。

「『アイリス』だ! そうか、とうとうやったのか!」

「ええ。すべては父さんの計画の通りに」

「そうか、そうか。でかしたな、エル。こいつさえあれば、どうとでもなるぞ。ここを抜け出し、しばらく身を隠せば良いのだ。『聖皇』より適合率は低いものの、予備の接続先も密かに隠してある。後は、トロンの子が生まれるのを待って、アイリスを使って、その肉体を奪うだけだ。いよいよオル・クルスを、あの力を私のものにできる! 過激派ルカーブの連中も小うるさいサジュナのやつも、移住先のアスラでまとめて片付けてくれよう!」

 喉の奥でくつくつと笑い続けるノランに、エルは控えめな笑みで追従した。

「それでは、最初にしなくてはならないことは決まりですね」

 ノランは機嫌よく頷いた。

「うむ。まずは、隠しておいた予備の身体を、塔内に移しておかなくてはな」

「急がないとなりませんね。サジュナ博士たちは塔を脱出艇に乗せるつもりのようですから」

「その様子だとすでに方法を考えたようだな」

「はい。あなたの部下も一通り捕縛されたようですから、頼るのは難しいでしょう。ですから、僕の部下を使います。僕の側はまだ表だっては知られていません」

 議長は驚いたようにエルを見返した。

「おまえの部下だと? ラボの中にまだ味方が残っているのか」

「いいえ。こうした事態も予め想定はできましたからね。ハフラム側で身動きできなくなる場合に備え、純正スゥラの中に僕の手足となる者を用意しておいたのです」

「被接続体以外の中に、ということか」

「はい」

 議長は再び声を殺して笑い出した。

「我が子ながら周到なやつだ。では、おまえに任せてみよう。『女神の声』は使えそうか」

「いえ、今は厳重に管理されていますし、ここの脆弱な設備ではハッキングも難しいですね。僕が直接向こうに出向き、指示を出すしかなさそうです。僕からのコンタクトが途絶えたときは、カイアの側で待機するよう指示してあります。ただ、父さん、あなたのご協力も必要です」

「なんだと」

「厳重に監視されている僕たちが塔から脱出するには、僕と僕の協力者だけでは心許ありません。『聖皇』ならば、部下はいなくとも、信奉者はいるでしょう。僕と共に、向こうに接続ツェルし、手伝っていただけませんか」

 ノランは少しの間、悩む様子を見せた。拘留されている今、余計な動きを見せれば、それを理由にさらに束縛が強められる怖れがある。

「幸いここは地下シェルターです。ここに複雑に張り巡らされた地下通路を詳しく知る者はほとんどいません。全貌を理解しているのは、千年前の情報をすべて握る、父さんくらいのものでしょう」

 そして、その情報を密かに盗んだ、僕と、サジュナ博士くらいのものでしょう。

「いざとなれば、いくらでも逃げ道があります。いずれクィラスの末裔が手に入るのですから、『聖皇』の方は手放しても構わないではありませんか。向こうで不利な状況になれば、切断してこちらに戻ってくれば良いだけです」

「ふむ。確かにそうだな」

 今は予備の肉体を塔に移す方が先か。ノランはそう決断を下したようだ。

「よろしい。おまえの言う通りにしようではないか」

「ありがとうございます。では、そこから行きましょう」

 議長の所有する椅子やベッドにはほぼすべてに深神経接続パネルが仕込まれている。いついかなるときでもスゥラ側の管理に走れるよう、議長は本邸や別荘、シェルターなど、あらゆる場所にこれを用意させている。

 エルは手早く二人分のカプセルに予備回線コードを繋いだ。二人は同時にカプセルに収まり、目を閉じた。

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