【3】
*
誰かに呼ばれたような気がして、ツェルは浅い眠りから目を覚ました。
熱がこもり、息苦しい。頭から布団を被っていたせいだ。瞬きすると、目の際に残っていた涙が一粒、流れ落ちていった。
身体の上の布団を押しのけ、ツェルはのろのろ身体を起こした。真っ暗だ。まだ夜明け前らしい。ひどく頭が痛い。
締め付けるような痛みに顔を顰めつつ、ツェルはソファを確認した。二人掛のソファの上ではレイが身体を丸めている。そのすぐ下の床ではソーが仰向けで目を閉じている。二人とも熟睡しているようだ。
ツェルはそこから視線を逸らせて、ベッドを降りた。明日は偽の、とはいえ結婚式だ。腫れ上がった顔のまま大勢の前に出て、みっともない思いはしたくない。洗面所に向かおうとしたツェルは室内履きを探す足を止めた。やはり、誰かに呼ばれたような気がする。
息を潜め耳を澄ませるツェルの中に、その声は再び響いた。
(――リァン)
「えっ、エル先輩?」
ツェルはどきどきする胸を両手で抑えて、そんなまさか、と周囲を見回した。エルがここにいるはずがない。でも、聞こえてきたのは紛れもなくエルの声だった。
(当たり。そう、僕だよ)
その声はハフラムの言葉を使ってツェルの頭の中に直接語りかけてきた。
(こんな時間にごめん。見張りの目を掻い潜るには今しかなくてね。大丈夫? きみにとっては辛い状況じゃないかと心配で、つい接続に介入してしまった。サジュナ博士から、この世界のなりたちはすべて聞いたんだろう?)
優しい声を聞くと、一度は止まったはずの涙は次から次へまた溢れ出してきた。胸のうちはかっかと焼け、喉の奥がひきつれる。あまりに苦しく、辛すぎて、心が壊れてしまいそうだ。泣くつもりもないのに頬は濡れ、薄手の寝衣の胸元に染みができてゆく。
「エル、先輩……っ」
(辛かっただろう。可哀想に)
ツェルは嗚咽を漏らしてその場にしゃがみこんだ。苦しい。苦しい。大丈夫なんて、嘘。ソーが行ってしまう。手の届かない場所に去ってしまう。自分が持っているものすべて捧げればソーが戻ってきてくれるというなら、迷わずそうするのに。こんな気持ちのままで、結婚式になんてとても立てない。自分でない他の人を見ているソーの隣に立って、なんでもない顔をして式を挙げるなんて、できっこない。
「どう……しよう……。わ、私…………どうしたら…………」
スゥラを救う、そう決意したはずなのに。今はそうしなければならない理由も、もうわからない。こんなに苦しいのに、誰かのために、ソーが他の人と築く未来のためにがんばるなんて、どうしたらできるだろう。
(泣かないで、リァン)
エルの声は限りなく優しい。
(僕に一つ提案があるんだが。聞いてもらえるだろうか)
「提、案?」
(そう)
ツェルは這うようにしてベッドに上がり、縁に腰掛けた。
「なん、でしょう……」
(ありがとう)
微かな吐息が聞こえた。エルが微笑んだようだった。ツェルは腫れぼったい瞼を伏せて、エルの微笑みを思い出そうとした。あの手の感触を思い出そうとした。ソーの囁き、それに応えるように動くレイの気配。その記憶を掻き消すために。
(そもそもこんなひどい状況になったのは、あの黒い騎士が現れてからだと思わないかい。僕も正体を追跡しているところだが、巧妙にアクセス履歴が隠蔽されていて未だに特定には至っていない)
「先輩が特定できない、なんて。よほど凄腕のハッカーを引き入れたのでしょうか」
ツェルはサイドテーブルに手を伸ばし、手布を一枚とって静かに顔を拭いた。
(さあ、どうだろう。それよりも、僕に提案がある。父さんよりも先にアイリスを手に入れるのはどうだろうか)
「アイリスを?」
(そう、アイリス。膨大なエネルギーを秘め、その力は時空をねじ曲げるほどだったという。初代リァンがクィラスに会いに行ったとするカナンの記録はあながち間違いではなかったということだね)
「時空を、ねじ曲げる……」
(それが本当だとすれば、ソーの弟妹たちが死ぬ前の時間から、僕らはやり直せるのではないだろうか。あくまで可能性の話にはすぎないが、試してみる価値は十二分にあると思わないかい)
夢物語のような話だ。けれども、もしも本当だったなら?
(そしてそのためには、ソーと結ばれるのはきみでなくてはならない。形而上の婚姻関係によってアイリスは生まれるだろうか。少し考えればわかることだ。光糸はスゥラたちの精神エネルギーの交流。それはきみの方がよく知っていることだろう)
「ええ。『想いあう力』こそが光糸の源です」
ツェルは呟いた。
光糸は魂の絆。心の繋がり。その感情が愛であろうと、憎しみであろうと、糸は生まれる。
(おそらく、初代リァンとクィラスの絆がアイリスに変わったのは、二人の間に特別な絆が生まれたからなのだろう)
ツェルだってそう思う。深い愛情によって結ばれなければ、アイリスは生まれないだろう。ツェルは絶望的な気持ちになって視線を膝に落とした。
「でしたらなおのこと、そんな奇跡は起きません。だって、ソーが大切に想っているのは私ではなくて……」
ツェルは頭を振った。こんなこと、よりによって先輩に言うなんて、どうかしている。
「すみません、先輩。私、今、おかしいんです。いえ、そもそも最初から間違っていました。先輩が優しくしてくれるからといって、他の人を想いながら先輩に甘えるなんて。その結果、エル先輩がどんな気持ちになるかも考えないで……」
(きみは何も悪くない。最初から全部わかっていたことだ。僕はきみに幸せになってほしいんだよ)
「そんな、そんなこと」
そんな愛情があるだろうか。それとも私のこの暴れ狂う感情、憎しみにも似た執着こそがおかしいのだろうか。今の私は到底ソーとレイの幸せなんて願えない。どうしてエル先輩は平気なのだろう。いっそ、別の目的があって一緒にいただけだと言ってもらえた方が良かった。ますます自分がみじめになる。
(悪く思う必要はないよ。きみはきみの気持ちに素直になればいい。きみがソーを想っているのなら……)
エルの優しさはかえって心の中に巣くう醜さを浮き彫りにする。ツェルは自己嫌悪に向かって噛みつくように叫んだ。
「今さら何ができるって言うんですか! ソーは一度こうと決めたら、とても真っ直ぐな人なんです。一度大切にすると決めた人を、全力で大切にする人なんです」
そんな人にツェルは惹かれた。だからこそ、ソーは揺らがないとツェルは知っている。ソーはこの先ぶれることなく、レイだけを大事にしていくだろう。
(だけど、やらなければソーの弟妹たちはこのままだ。彼らが戻ってきてくれるなら、それはソーにとっても幸せなことだと思わないかい)
ルゥ、フィー、キィ。
三人は小さい頃からツェルには風当たりが強かった。ツェルはいつも兄の傍にいて、いつか兄を奪っていく人。そんな風に敵愾心を持たれていたような気がする。
仲の良い兄弟だった。ソーは三人を心から大事にしていた。三人を喪ったことは、ソーにとってどれほどの苦しみだろう。
唇を震わせるツェルに、エルは静かに続ける。
(リァン。僕の部下をこれからそちらに向かわせる。ザンダストラ兵の格好をしているが、スゥラ研究員の一人だ。彼が来たら扉の鍵を開けてほしい。かなり複雑な鍵のようだが、きみの力があれば開けることができるだろう)
「鍵を?」
ツェルはぎくりと身を強張らせた。
(ソーが落とした「リューゲル」を拾って、隠し持ってきただろう。とても良い判断だったよ。さっきはよく我慢したね。力を使えるのは一度きり。明日の有事の際に使おうと取っておいたのだね)
まさか見られていたなんて。
でも、その通りだ。本当は出て行こうと思えば出て行けた。だけど、部屋から出たところで、巡回の兵に見つかって連れ戻されるのが目に見えている。だから使わずに隠しておいた。ツェルはベッドの枕を横目で確認した。枕カバーの中に仕込んでおいたのだ。
(扉さえ開けてもらえたら、彼がレイェスを引き取り、安全な場所に保護する。代わりにレイェスが書いたと思わせるような置き手紙を残す。レイェスが自主的に出て行ったことにすれば、ソーもレイェスのことを諦めざるを得なくなる。そしていずれは婚姻関係にあるきみに心を向けるようになるだろう)
ツェルは窓際のティーテーブルに飾られた花をぼんやり見つめた。月明かりに季節外れの紅巻花が縁取られている。
紅巻花はツェルの思い出の花だ。
雨上がりの庭園で満開に開いていた紅い花弁の瑞々しい輝きを、ツェルは片時も忘れたことはない――。
それは雨上がりの、よく晴れた朝だった。
九歳のツェルは大聖堂の庭園にある紅巻花の灌木の裏に隠れ、声を押し殺して泣いていた。
兎のぬいぐるみを礼拝に来ていた見知らぬ子供に取られたからだ。
ただのぬいぐるみではなかった。姉のように慕っていた神官が亡くなる直前まで、ツェルのために一針一針、心を込めて縫ってくれたものだった。病に倒れ、不自由になった指で、ゆっくりと時間をかけて作ってくれたのをツェルは知っていた。その子を抱っこして眠ると、優しかったその神官が傍にいてくれるみたいだった。なのに、その子が見知らぬ子供に奪われた。
「だって、ツェル様はなんでも持ってるじゃない」
孤児だというその子は胸を反らせて言った。
「あたしは親も、兄弟も、お家も、お金も、何にもないんだもん。一つくらい、分けてくれたっていいじゃない!」
返して、といきり立ってその子に掴みかかったツェルを、大人たちは一斉に取り押さえた。泣いても叫んでもだめだった。兎はその見知らぬ子に抱かれて、どこかへ連れて行かれてしまった。もう二度と帰ってこないと、ツェルは知っていた。いつもいつもそうだった。
突然後ろの灌木が揺れて、ツェルはびくりと震えて固まった。見つかった。途中で礼拝を逃げ出してきたから、絶対に叱られる。
「見つけた」
子供の声だ。そろりと振り返ると、少し前に貧民街で知り合ったあの男の子――ソーが立っていた。ソーは最近、騎士団長と一緒に休息日の礼拝にやってくるようになった。隙を見ては礼拝を抜け出し、その度に騎士団長の拳骨を喰らい、首根っこを掴まれ引きずるようにして連れ戻される。なぜ怒られるようなことをわざわざやるのだろう、とツェルはいつも呆れながらに思っていた。初めて会った日は格好良く見えたのに、今の印象は単に面倒で手間の掛かる子だ。今日も今日とて礼拝を抜け出したついでに、逃げ出したツェルを面白半分に探していたのだろうか。
「おい」
「やだ。帰らないもん」
ツェルは抱えた膝に顔を埋めた。
「あっち行って!」
ソーが困っているのがわかった。しばらくすると隣にやってきて、そこに腰を下ろした。
「たかがぬいぐるみごときのために泣いてんのか」なんて馬鹿にしてくるだろうか。男の子ってだいたいそうだ。子供っぽくて、人の気持ちなんて考えもしない。
頑なに膝を抱きしめるツェルの背中に、しばらくしてそっと温かい手が触れた。あれこれ言ってくるに違いない、そう思っていたのに、ただ黙って背中を撫でるだけだ。
一体どれくらいそうしていただろう。時折、ツェルの名を呼びながら大人たちが庭園を駆けずり回る音が聞こえてきたが、そのうちに静かになった。ここにはいない、と判断されたらしい。
静かな庭園に、木の葉擦れの音、隣のソーの微かな呼吸の音だけが聞こえる。雨上がりの庭はむっと蒸し暑く、草と土の匂い、満開に咲き誇る紅巻花の甘い香りが立ちこめている。地べたに付けたローブの裾はじっとり湿って肌に張り付いていたはずなのに、体温と外気のせいで早くも乾きかけている。
いつの間にかツェルの涙と怒りは引っ込んでいた。でも悲しみだけは消えない。
ツェルは唇を噛みしめた。御子になんて、なりたくてなったわけじゃない。生まれたときには、もう勝手に御子だったの。御子なんてやめたい。ツェルだって、子供なのに。どうしてツェルだけ我慢しないといけないの。どうしてツェルだけいつも笑っていないといけないの。ツェルだって悲しい。大事なものを取られたら怒る。ツェルだって――
「大事なものを取られたら、悲しいよな。許せないよな」
今まさに考えていたことが言葉になって届いたから、ツェルはびっくりして顔を上げた。
ソーはツェルと同じように膝を抱えて、隣からツェルの顔を覗き込んでいた。
「話くらい、聞いてくれたっていいのにな」
どうして、この子は私の気持ちがわかるのだろう。
「ぬいぐるみなんて子供っぽいって、思わない?」
「だって子供じゃん」
ソーはにっと笑った。
「好きならいいだろ。何歳までって決まってるもんじゃないし。それにおまえ、あれすっごい大事にしてたじゃないか。礼拝のときいつも持ってたし、この間転んだときも、自分の怪我より、すっ飛んでったぬいぐるみの心配してたし」
そこまで見られていたなんて知らなかった。
ツェルは両手で熱くなった顔を隠した。恥ずかしい。
「なんで、そんなこと知ってるの……。いっつも礼拝さぼって、すぐどこか行っちゃうのに」
「だって俺、教会なんか大嫌いなんだよ」
ふん、と鼻を鳴らしてソーは顎を逸らすと、その顔をツェルに戻して、笑顔を向けた。
「でも、おまえは良い奴だ」
頭を撫でる手が優しくて嬉しくて、ツェルは声をあげてわんわん泣いた。泣きながら、思いつくままに訴えた。
ツェルは御子だから我慢しなさいとみんな言うの。大事なものを取られても、微笑んで差し上げなさいって。怒鳴られても、にっこり笑って相手の話を聞きなさいって。足が痛くても、怪我している人がいたら、支えてあげなさいって。御子は女神様の子だから。女神様の子は、皆の前で、怒ったり、泣いたり、欲しがったりしてはいけないというの。でも、御子になんてなりたくなかった。ツェルがしてって頼んだわけじゃないのに。どうして皆と同じようにしちゃいけないの。どうしてツェルだけ皆と違うの。どうして、どうして、どうして。
整わず、散らかり放題のツェルの言葉を、ソーはうん、うんと頷きながら最後まで全部聞いてくれた。同じことを堂々巡りで喚き、とうとう愚痴の種も尽きて、疲れ果てたツェルがようやく口を閉じたとき、ソーは神妙に考えるような表情をして言った。
「よし。じゃあ、これから辛いことがあったら全部俺に言え。俺は教会が嫌いだし、絶対誰にも言わないってわかるだろ」
「う、うん」
ツェルは頬を紅潮させて頷いた。
「じゃあ、ソーも嫌なことがあったら、ツェルに言ってね」
「わかった。でもさ、その代わり、時々蜂蜜かジャムを分けてくれよ。弟たちが好きでさ」
「なにそれ。お代がいるの」
ツェルはくすくす笑った。ソーも声をあげて笑った。二人は互いに手を差し伸べ、結びあった。
「約束だよ……」
ツェルはベッドを降り、枕の中に手を入れて、光錘を手に取った。
手が、震える。足も震えている。
ソファまで進むと、その足元で寝息を立てるソーの寝顔には、あの頃の面影が少しだけ残っている。
「ソー。私、今が、一番、辛い…………」
ツェルの涙が落ちて、ソーの頬の上で弾けた。ソーは目覚める気配もなく、こんこんと眠り続けている。
聞いてくれるって、言ったのに。
涙がはらはらと零れる。ツェルはふらりと扉に近づき、瞳を開いた。震える手が、光錘を鍵穴に差し込む。光錘は鍵穴の中で冷たい音を立てて震えている。
(回して、リァン)
エルが囁く。
ツェルが手首を捻ると、音を立てて錠が開いた。光錘は手の中で砂に変わり、さらさらと零れ落ちていった。
(ありがとう、リァン。あとは僕がやっておく。さあ、顔を洗っておいで。お休み。良い夢を)
エルの声が遠ざかる。すると、世界に唯一人きり取り残されたような不安が押し寄せてくる。
足音が近づいてくる。身じろぎ一つできないツェルの前で扉が開いた。入ってきた兵士はツェルをちらりと見遣り、軽く会釈すると、無造作に室内に踏み込んだ。そして、ソファでぐっすりと眠っているレイの顔を確かめると、ソファ前のローテーブルに小さな封書を置いた。彼は軽々とレイの身体を抱き上げ、あっさりと部屋から出て行った。鍵は掛けられなかった。持っていないのだ。だから、ツェルに開けさせた。
室内には静寂が戻った。ソファの下で横たわるソーの寝息だけが微かに聞こえる。
ツェルはたった今、目の前で起きたことが理解できず、ふらふらとベッドに向かい、そのまま倒れ込んだ。
ぼんやり虚空を見つめる。眠れない暗い夜は、それでもいつしか静かに明けていった。
四日目の朝。
目覚めたソーはレイの姿がないことに気付くなり、さっと青ざめた。狭い室内だ。限られた場所を探して回り、テーブルの上の封を手に取った。
しばらくしてソーがくしゃりと握りつぶして放った手紙をツェルは拾い上げて読んだ。
「ソー
黙って出て行って、ごめんなさい。
きみに別れを告げるつもりで会いにいったのに、とうとうそれを伝えることができませんでした。
実は私を保護してくれる人が現れました。
聖皇に敵対するその人は、私を安全な場所に連れて行ってくれると、幸せにしてくれると、約束してくれました。
私はその人と一緒に生きていくことにしました。
きみと一緒に生きることを夢みた日もありました。
でも、一生教会に追われ続けて、隠れ住むしかないなんて、どうしても私には耐えられそうにありません。私は自由になりたいのです。
今までありがとう。
卑怯な私をどうか赦してください。きみと一緒に逃げ続ける未来に幸せを思い描けなかった私を赦してください。
私を忘れてください。探さないでください。
私は穏やかに生きていきます。
ツェルとどうかお幸せに。
さようなら。
レイェス」
署名の傍には精緻な鳥の絵が描かれている。大きく広がった五枚の羽は五本の指のようにも見える。
ツェルは蒼白な顔をしているソーを呆然と見上げた。昨夜のあのできごとは夢なんかではなかった。
でもこれで、最悪の過去をやり直せる。皆が幸せを取り戻せる。オル・クルスはなかったことになって、ルゥたちが戻ってきて。レイだって、エル先輩が安全に保護してくれているはず。レイは念願の自由を手に入れたのよ。だから、だから私は間違ってなんかいないはず。
ツェルは必死に自分に言い聞かせながら、震える両腕を抱きしめた。
それなのに、どうして私は震えてしまうの? 取り返しのつかない罪を犯してしまったような罪悪感があるのは、なぜ?
ソーが、ひどく傷ついた顔をしているから? 今にも泣き出しそうな顔をして、苦しげに喘いでいるから?
「嘘だ……こんな、手紙……っ。だって、昨夜、レイは」
ソーは首を振り、扉を見た。
「でも、鍵は確かに掛かっていた。内側から開けられたはずがない。そうか、聖皇か。あいつが、こんな茶番をしてレイを!」
ソーは扉に駆け寄るなり、勢いよく扉を引き明けた。
突然開いた扉に、見張りに立っていた兵が飛び上がった。そのまま荒々しく出て行こうとするソーに慌てて飛びつき、左右から同時に光錘を突きつける。
ツェルは慌ててソーの後を追った。
ソーは一方の手首に手刀を叩き込み、他方の兵士の腹を蹴りつけた。骨がぶつかりあう鈍い音に、ツェルは息を飲んで固まった。ソーは悶絶する二人の兵の間をすり抜け、騒ぎを聞いて次々と駆けつけてくる兵士を殴り飛ばし、ひらりと飛び越えてゆく。
「ソー!」
ツェルは叫んだ。追えばいいのか、止めたら良いのか。どうしたらいいのかわからない。起き上がった兵のひとりがツェルの腕を掴んで拘束した。
廊下を曲がろうとしたソーがじりじりと後ずさった。廊下の先から集まってきた十数人の兵士がソーを取り囲もうとしている。ソーは雄叫びを上げて兵士の集団に掴みかかった。たちまち乱闘になり、鋼鉄製の甲冑の中にソーの姿は飲み込まれた。ソーが喚き、兵士の怒鳴り声が聞こえてくる。乱闘になっている。やがて、殴り飛ばされたソーが廊下に倒れ臥し、その上に兵士たちが次々と乗り上げた。ツェルは声にならない悲鳴をあげ、震えて見ていることしかできなかった。
「大人しく部屋に戻れ!」
「鍵が開いていたのか? まさか、昨夜確かに掛けたはずだ」
「離せっ。くそっ、聖皇はどこだっ! レイ……レイを返せ――っ!」
暴れるソーは四人がかりで取り押さえられ、元いた部屋に連れ戻されてきた。両腕を掴まれたまま同じように連れ戻されたツェルは、次々に兵士たちが室内を荒らしてゆくのを呆然と見ていることしかできなかった。
「レイェスがいないぞ!」
「どこに消えた?」
「と、とにかく猊下に至急報告だっ」
間もなく聖皇が長いローブを翻して駆けつけてきた。取り押さえたソーと、身動きできずに佇むツェルと、荒れ果てた室内をさっと見渡すと、聖皇は二人の顔と、それから兵たちを順に見た。
「昨夜、鍵はどうしたのです」
「確かに施錠しました。レイェスを連れてきた兵と、我々、三名が確認しております」
「まさか、見張りをさぼっていたのではないでしょうね」
「とんでもございません。我々がここを離れたのは、厨房に小火騒ぎのあった、あの僅かな間だけです」
「ふん。ソーは様子をみる限り、この件には関与していないようだ。御子はどうです」
ツェルはびくっと身を強張らせ、そろそろと聖皇を見上げた。
「い、え。私も、何も……」
「む。それはなんだ?」
聖皇はツェルが持ったままだった置き手紙を奪い、さっと目を走らせた。聖皇のこめかみが震えた。
「なるほど、あの者たちの仕業か。おまえたち、兵を集めて、直ちにレイェスを探しなさい。時間が経てば声が戻る。その前に必ず連れ戻せ。塔内、塔の外、くまなく探すのだ。傷はつけるな!」
式は予定よりも遅れて昼過ぎに始まった。暴れるソーが兵によって昏倒させられ、目覚めて体調が落ち着くまでに少し時間を要したからだ。
目を覚ましたソーは打って変わって大人しくなった。一言も発さず、言われるがままに控え室に連れて行かれた。
今もまだ兵士たちが塔内を走り回っている音が聞こえている。レイを捜索しているのだ。
その物々しい雰囲気を誤魔化すように厳かな巨大竪琴の音が塔内に響き渡った。その旋律は「約束の詩」。半双同士の結婚式でのみ奏でられる愛の詩。この結婚式には到底相応しくない詩だ。ツェルの蒼白な顔は水化粧と頬紅ですべて覆い隠された。
三日ぶりに会う大司教は心なしやつれたようだった。大広間に続く西側の大扉の脇に控えていた大司教は、ツェルの姿を見るなり目を潤ませた。
「とても綺麗ですよ、ツェル」
純白の婚礼衣装は最正装以上に長く裾を引く。高位神官の未婚の娘たちが十二人がかりでその長い裾を捧げ持った。短い髪にはごく細いリボンが編み込まれ、髪の代わりに背に垂らされた。宝石をちりばめたそのリボンはツェルが動く度に七色に煌めく。額に落ちかかる細い鎖からいくつもの青い宝石が揺れて、ちりちりと軽い音を立てる。
「本当なら私が祝詞を上げるはずだったのですがね。あの人に奪われてしまうとは、何とも口惜しいことです」
緊張しているようにも見えるツェルの気分を解そうとしているらしく、大司教は冗談めかして言った。ザンダストラ行きが先行き不透明になったため、カナンでの挙式が本番となり、進行役の務めは聖皇に移ってしまったのだ。ツェルは弱々しく微笑んだ。
「でも、おかげで大好きなお父様と一緒に入場できます。心強いわ」
「ツェル」
大司教は長い裾で涙を拭った。
塔の外周に沿って弧を描く廊下の奥から重い木の扉が軋む音が聞こえ、わあっと沸き起こる大歓声が響いてきた。東側の扉から新郎が先に入場したのだ。不安と緊張に揺れる心臓を抑えたい気持ちを堪えて、ツェルは左手に携えた長い天冥の杖を少し引き寄せると、右手を大司教の腕に添えた。
目の前の扉が軋み、ゆっくりと内側に向かって開いた。
「行きましょう、ツェル」
「はい」
大司教の歩みに合わせて、ツェルは一足毎に杖を突きながら、前に進んだ。左手には祭壇があり、最正装を身に纏った聖皇が微笑みながらこちらを見下ろしている。姿だけを見れば神々しいあの人こそは、虚構塗れのこの式の象徴に他ならない。
祭壇を下った先には左右に分かれて長椅子が並び、列席者が隙間なくその席を埋めている。彼らは立ち上がって、ツェルとソー、二人のために拍手を送った。
祭壇へと続く中央の通路には青い絨毯が敷かれている。
朝からほとんど言葉を交わすこともなかったソーがツェルの正面に立っている。青い絨毯の少し手前に立って、ツェルがやってくるのを待っている。ソーの後ろには騎士団長夫妻、そしてテュナを除く四人の娘たちが整列している。
この光景をどれほど夢みてきたことだろう。それなのに心は今、晴れないどころか、終わりの見えない雨期の露に湿っている。
大司教の腕をとったツェルがソーのやや後方に並ぶと、二人の後ろに付き従ってきた者たちが、二人に白いリボンを一本ずつかけ始めた。
騎士団長が、ソーの右肩に。夫人が、ソーの左肩に。四人の義姉たちが、それぞれ左右の腕に。
大司教が、ツェルの右肩に。十二人の裾を持つ娘たちが順に持ち場を離れ、ツェルの身体に次々リボンをかけていく。
「新郎新婦、前へお進みください」
聖皇の声が響く。ソーが先に前に進み、絨毯の中程で歩みを止めた。続いて大司教の腕を放したツェルが前に進み、ソーの隣に並んだ。ソーが差し出した左腕にツェルは右手を添え、二人はゆっくりと前に歩を進めた。一番後ろの長椅子前にはカームとカミラが立っていた。二人はルゥたちのことを知っているのだろうか。
「俺たちをこんな立派な席に呼んでくれるなんてなあ。ありがとうよ、ソー」
「一生の記念になるわあ。御子様のなんてお美しいこと!」
二人はソーに向けてリボンを放った。
後ろから二列目には見慣れない少年と少女が立っていた。
〈うへえー、接続先がどうにか見つかって良かったあ。リァンちゃん最高可愛いっすね!〉
と声を潜めた少女が身を乗り出すようにしてツェルを褒めれば、隣の少年がその足をかなり強めに踏んだ。
〈おまえはちょっと黙ってろ、シャジャ〉
〈クォダさーん!〉
小声のハフラム語で言葉を交わしあった二人は、ツェルに向かってリボンを放った。
その先はしばらく学校時代の友人たちの席が続いた。ワジの姿は見えない。ソー、ツェルの二人に次々リボンが投げかけられる。
「はあ、俺のツェル様がとうとうご結婚かあ。ちくしょう、泣けるぜ」
「あんたね、婚約者を前にいい加減になさいよ」
ナルがどついたせいで、ネスのリボンは軌道を逸れて、床に転がった。
「ご結婚おめでとうございます。サー・ツ兄さんも天国で喜んでいることと思います。身に余るご招待をありがとうございました」
「『ベイルの店』が再建できたら、ツェル様とソー様をイメージしたアクセサリを最初に創ります。出来あがったら必ずお届けしますね」
大手商家たちが居並ぶ席の中に、ロー・ツ=アルヴとその息子夫婦、そして養女の姿が見える。彼らが投げたリボンは、ソーの肩や腕にふわりと落ちかかった。
最前列は国賓並びに元老議員たちの席だ。次々投げられてくる祝辞とリボン。ほとんどはハフラム人なのだろう、と思うとツェルの心はさらに乱れた。中にはニュースやサジュナとの関係で見知った人もきっといるのだろう。トゥガ・ル=ウォルト議員の近くにもワジの姿は見当たらなかった。
祭壇の前に二人は立った。
「ご着席ください」
聖皇の手の合図で列席者たちが一斉に腰を下ろした。
聖皇の長い祝詞が朗々と響き、賛美歌の唱和、貴賓たちによる祝辞、また賛美歌の唱和、聖皇による聖典の朗読、そして祈りの言葉と続く。
延々と進行してゆく式典の間中、ツェルは不安に押し潰されそうだった。ソーの顔からはすべての表情が抜け落ちてしまったかのようだった。
私のしたことを、その目的を話したら、ソーはなんて言うかしら。ルゥたちのためだったといえば、また笑ってくれるようになる?
ひどい偽善だわ。
言えるわけがない。そんなこと。
私は本当にそんなことを思っていた? あのとき、エル先輩の話を聞いたときに。あの扉を開けたときに。
ツェルはいたたまれない気持ちでソーから目を逸らせ、計画のことに意識を向けようとあがいた。
いつ、ハフラムに呼ばれるのかしら。まさかシャジャさんやクォダさんが参席しているとは思わなかった。シャジャさんにはおじいさまが頼み事をしていたというし、二人は味方のはずよね? 敵対勢力に感づかれて、こちら側の動きまで監視にきたわけではないわよね。
そわそわするツェルをよそに、リァンへの切り替わりは起きないまま、式典は終盤にさしかかっていた。
隣に立っていたソーに肘を突かれて、ツェルははっと意識を戻した。ソーの無表情の中に初めて感情らしきものが浮かんでいた。心配だ。元気がないツェルを案じているのだ。ツェルが何をしたのかも知らずに。
祭壇を降りてきた聖皇が二人の前に立つ。
ソーは作法通りに片膝を床について跪いた。ツェルもまた膝を折り、深々と頭を下げた。聖皇は碧硝子の中の聖水を手に取り、二人の頭に順に振りかけた。
聖皇が短い祈りを詠み上げ、「立ちなさい」と声をかけた。
立ち上がったソーは左手を、ツェルは右手を差し出す。聖皇は金のリボンの先をソーとツェル、二人の手首に順に結わえつけた。
「分かたれた魂は、今ここに、再び縒り合わせられました。すべては女神の御心のままに」
ソーと向き合ったツェルは、ソーの蒼い瞳の中に疑惑の色を探した。
どうした、切り替わりが起きないじゃないか。きみの計画通りなら、ここでハフラムに呼ばれるはずだろう。やっぱり、あの話は嘘だったのか。――そんな風に疑われているのではないかと。
だけどソーの目は凪いでいた。落胆も疑惑もなく、透き通る冬の薄氷の中に悲しみを閉じ込めて、ただツェルを見下ろしているばかりだ。
ハフラムに呼ばれれば、使命がこの苦しさを奪い去ってくれると思っていたのに。大義のためにやったことだと、言い訳ができたのに。今は、ソーの澄んだ目に見つめられると、私の醜い心を見透かされてしまいそうで怖い。
アイリスなんて本当に存在するの? 実証もされていないのに? 時間をさかのぼって、起きてしまったことをなかったことにするなんて。そんな話を本当に信じるの? そんな雲を掴むような話に乗って、私はソーの大切なものを奪ったの? これほど深く傷つけたの? 違う。そうではない。だって、エル先輩がそう言ったんだもの。そうではないはずよ。
ソーの手が伸びてきて、ツェルの頭や髪に引っ掛かっていたリボンを肩に落とした。それからツェルの両肩をそっと掴んだ。ツェルの意識は目の前に引き戻された。
「今まですまなかった」
ソーは他の誰にも聞こえないような声でツェルに囁きかけた。
「今まで俺のしてきたことはすべて無駄だった。何の力もないくせに、無意味にあがいて、ただ周りを犠牲にしただけだった。ツェルを傷つけただけだった」
ツェルは大きく目を見開いて、贖罪を口にするソーを見上げた。
違う。
違うの。あなたの努力を水泡に帰したのは、私。私なの。レイをあなたから取り上げた。あなたを、奪われたくないというひどく身勝手な理由で。
全身の力が抜けて、足が震えて、天冥の杖が大きく揺れた。ツェルが取り落としかけた杖をソーの右手が支えた。
「ソー……っ」
本当は、私が。
「最初から、こうしていれば良かった。もう二度と傷つけない。一生、ツェルだけを大切にすると誓う。今まで傷つけてきた分まで」
喉まで出かかった罪の告白を、震える唇は告げてくれなかった。言葉が霧散していく。
息ができない。怖れと、幸福と、愛情と、後悔と、いくつもの感情が嵐のように吹き荒れ、ツェルは動けない。枯れ果てたはずの視界がまた滲んで、ぼやけていく。
身を屈めたソーの唇がツェルの唇に重なった。ツェルの大きく見開いた瞳から大きな雫が零れ落ちた。




