【3】
先導する聖皇の後にソーが続く。
「せ、聖皇様っ……待ってっ、ソー!」
慌ててソーの腕を掴んだツェルを、ソーが訝しげに見返す。
「どうしたんだ、ツェル」
言葉に詰まるツェルを残し、ふたりは廊下に出てしまった。呆然とそれを見送るツェルの肩に大司教が手を置いた。
「ツェル……気持ちはわかりますが、いつまでも隠しておけるものではありません。ソーが心配です。後を追いましょう」
廊下の先で兵が北向きの壁に設けられた窓を大きく開け放った。重い木が擦れる音がして、いくらか涼しくなった夕刻の風が吹き込んでくる。ひゅうひゅうと唸る風の向こうで、晩夏の残照が半壊した街を淡い紫色に染め上げていた。
対岸のカナン港は、桟橋がすべて押し流され跡形もなくなっている。
学生たちが速翔大会のために飾り付けた万国旗は千切れ、焼け焦げ、壊れた灯台の瓦礫や波止場の隅に引っ掛かっている。
波止場に近い倉庫群、そしてその対面に大店が軒を連ねていた商業区は今や瓦礫の山だ。
海を離れるにつれ被害を免れた建物がちらほらと見受けられるようになるが、広範囲に火事が広がったらしく、木製の柵や植樹、扉などが焼け落ち、黒い破片がそこかしこに散らばっている。
ひときわ目立つ大きな大聖堂は正面の礼拝室がある辺りを中心に屋根が崩れ落ち、中が剥き出しだ。庭園には折れた鐘楼が突き刺さっている。
養児院と施療院は外壁がまばらに残され、そこに積み木のような建物のなれの果てが積み重なっている。
騎士団長の館は本館の屋根の中央に大きな穴が見えた。四つあるはずの塔は二つしか見えない。レイェス教会付属学校の校舎も同じような有様だ。
街を取り囲む山は何事もないようだが、麓の「帰らずの森」の一部も燃えたらしく、ぽっかりと黒い穴が空いている。
いずれの痕跡も、ブラムドワ兵の襲撃によるものでないことは明らかだった。人災であれば石作りの城館が屋根から最初に崩れ落ちたりしない。
「なん、だ……これ…………」
ソーはしばらく瞬き一つせずにその光景を見つめていた。やがて、軋み音を立てそうなほどぎこちなくツェルの方を振り返った。
「俺が……やったのか?」
ツェルは大きく見開かれたソーの深い青の目を見つめ返すことができなかった。手をきつく握りしめて、発すべき言葉を必死に探した。
「そうだ……あのとき……ルゥが、フィーが殺されたとき……青い光が爆発した……。レイの言った通りに……その後、天の火の落ちる音が聞こえて……」
聖皇が満足げに頷く。
「察しが良いですね。そう、きみがあの紫電を引き起こしたのです。怖ろしい破壊力でした。幸い、この塔は難を免れましたがね」
「やっぱり、おまえがあの黒い騎士をっ」
ソーが震える。その身体が青い光を帯び始める。それと同時に耳鳴りのような細い音が空気を震わせ始める。
兵士二人がすかさず聖皇の前に立ち塞がり、ソーに光錘を突きつけた。と同時に、大司教とツェルの二人は両側からソーの腕を食い止めた。
「ソー、落ち着きなさいっ」
「ソー、だめっ! これ以上被害を増やしてはだめよ!」
再びオル・クルスを起こして被害が出れば、傷つくのはソー自身だ。ソーはツェルを見ようともしない。両腕に抱きかかえたソーの腕は激昂に震えている。
教会兵の壁の後ろで聖皇は別の兵に告げた。
「あの二人を呼んできなさい」
「答えろ! あれはおまえがやらせたのか! あの黒い騎士はおまえの配下かっ」
「まさか。彼らはブラムドワ兵、我々と繋がりがあると考えられては困ります。私の目的は人々の救済と、女神によって定められたきみたちの結婚を祝福することにある。それなのに、大事な今この時期に災害をもたらし、大事なきみの反意を煽ることに何の意味があると?」
「だったら、一体誰が何のために、こんなことを!」
「まあ、落ち着きなさい。『レイェス』に会いたくはないのですか」
ソーの身体を包んでいた青い光が、うちに吸い込まれるようにして消えていく。同時にあの耳鳴りのような音がやんだ。
「レイは無事なのか!」
「もちろん無事です。きみは勘違いしているようだが、私はきみを不幸にしようなどと企んでいるわけではない。大人しくさっきの部屋に戻ってくれるのならば、会わせてあげましょう」
聖皇に続いてツェルたちは先ほどの会議室に戻った。ソーには教会兵が四人も張り付いている。大司教が珍しく不安そうな目をツェルに向けてくる。ツェルは安堵させるような表情を作ることもできず、俯きがちになって兵に囲まれたソーの後に続いた。
冷めた食事はすでに下げられ、果実の盛り合わせと葡萄酒の入った杯が用意されていた。手で示されるがまま、落ち着かない心持ちで椅子に掛ける。
「お食事をお持ちしましょうか」
隅に控えていた仕女が一人、聖皇に声をかけた。
「いや、いい。飲み物だけもらう。それが済んだら下がっていたまえ」
「畏まりました」
それぞれの杯に白葡萄酒を注ぐと、仕女は部屋を出て行った。入れ替わりに金属の打ち鳴らす微かな音が廊下の向こうから近づいてくる。
ツェルたちが注目するなか姿を見せたのは、ザンダストラ兵六名に、両手と腰に縄を打たれ、猿ぐつわを噛まされたレイ。そしてカイアだった。
「レイっ! レイ、大丈夫か!」
すかさず椅子から立ち上がろうとしたソーに、兵たちが普及光錘を突きつける。聖皇は子供をあやすようにソーを宥めた。
「お行儀が悪いですね。食事の席は最後まで座っているものですよ。カイア、おまえたちも座りなさい」
「はい」
ソー、ツェルと向かい合わせの位置にレイ、カイアが着席した。猿ぐつわをされているとはいえ、レイは声を出す仕草も見せなければ、反抗する様子も見えない。
しかし、それ以上に理解できないのはカイアがここに現れたことだ。目が合うとカイアはいつもの落ち着いた様子でツェルに微笑みを向けてきた。
「カイア……」
カイアは席についたまま、いつものように丁寧に絆の挨拶を寄越してみせた。
「こんばんは、ツェルさん、ソーさん。お元気そうで良かったです」
「どういうこと? どうしてあなたが……」
「それは、あの方に呼ばれたので」
カイアは不躾に聖皇を手で指し示した。
「僕に拒否権はないんですよ」
いくら父親がザンダストラの高官だからといっても、普通であればその子であるカイアまでが良いように使われる謂われはない。教会には聖職者間の階位はあるが、それは貴族制のような家としての縛りではないのだ。
「もしかしてあなた、神官見習いなの」
カイアは面白そうに一方の口の端を上げた。
「いいえ。違いますよ」
それなら聖皇の小姓として仕えているのか。でもとてもそんな態度ではなかった。ツェルは恐る恐る、もう一つの可能性を口にした。
「それではあなたはまさか、聖皇様の……?」
カイアと聖皇を見比べてみる。透けるような青白い肌に、淡泊な顔立ち。ぱっちりと大きな目のカイアと切れ長の細い眼をした聖皇とで目元はあまり似ていないけれど、全体的な雰囲気は似ているように思えた。
「すみません。ツェルさんたちを騙すつもりはなかったんです。でも、教会と女神にすべての愛を捧げると公言している『聖皇猊下』に息子がいるなんて、あまりおおっぴらにはできない話じゃないですか。それに、あながち嘘ではないですよね? 僕の親はこの通り、ザンダストラの上に立つ人ですので」
ソーは戸惑った表情をしている。
「まさか……きみが聖皇の息子だっていうのか? だったら今までのことは」
「そんなことより、ソーさん。レイェスさんのことはいいんですか? 僕も彼女を自由にしてもらえるよう猊下に頼んでみたのですけどね。そう簡単に解放とはいかないようです。あなたから直々にお願いしたほうが良いかもしれませんよ」
「情でも移したか、カイア。おまえに『レイェス』の管理を任せたのは間違いだったようだな。特殊な能力を持つが故に保管はしているが、これは化け物なのだぞ。美しいのは外見だけ。人々に害為す危険な存在を野放しにできようか」
「ふざけるな! レイが化け物なものか!」
聖皇の蔑むような視線に食ってかかろうとしたソーは、背後に控えていた教会兵たちにあっというまに取り押さえられた。
「ソー」
大司教はゆるゆると首を横に振り、落ち着くよう視線で促している。ソーは唇を引き結んで椅子に戻った。
その間も、レイは俯いたままぴくりとも動かなかった。
「聖皇様。せめてその子とお話をさせてください」
ツェルは訴えた。
十五歳の少女にあんなにきつく縄をうち、おまけに異物を噛ませるなんてあんまりだ。見ているこちらが辛くなる。
聖皇は二人の訴えなど意にも介さなかった。
「それはできません。彼女の声は脅威です。ソー、座りなさい。大人しくできないならば、レイェスとの対面は金輪際させませんよ」
ソーは顔を手で覆い、苦悩した様子だったが、やがて腕の力を抜いて、レイを案ずるように見つめた。
「……大丈夫か、レイ……。すまない。俺に力がないばかりに……きみにまた辛い思いをさせてしまった……」
レイの肩が小さく跳ねた。初めて顔を上げてこちらを見たレイの瞼は、赤く腫れあがっていた。
「泣いていたの?」
ツェルの言葉にレイは顔を背けた。ソーはそんなレイを見ながら口を開きかけ、けれど何も言わずにテーブルの上に置いた手をきつく握りしめた。
聖皇は三人のやりとりを興味深そうに眺めた。
「きみたちの仲が非常に良いという報告はどうやら真のようですね。共に船で逃亡しようとしていたくらいですからね。どうやってあの地下の存在を知ったかなど気になる点はいくつかありますが、まあ、今は置いておきましょう。ふむ」
聖皇は興味深げにソーとレイとを見ている。
「よろしい。ソーにツェル、きみたちの希望を叶えるとしましょう。二人に結婚式までの間、葬送の儀の準備を進める自由を与えます。ただしその間、この二人の身柄は私が預かっておきます」
聖皇の目配せを受け、壁際のザンダストラ教会兵がすかさずレイと大司教の腕を掴んで引っ立てた。聖皇の後ろで、ふたりの喉元に鋭い光錘の先が向けられる。
「レイッ」
「お父様っ!」
「きみたちの晴れの式が大いに盛り上がるよう、我々も期待していますよ」
レイと大司教を人質にとった聖皇は、ツェルとソーに向かってにやりと笑ってみせた。
とにかく時間が惜しい。二人は聖皇から解放されるなり、部屋着のまま手を繋いで真夜中の空に飛び出した。人質をとる代わりに二人を自由にするという言葉は嘘ではなかったらしい。見張りたちは素知らぬ顔を決め込み、誰も追ってこようとはしなかった。
一月前は、対岸に見えるあの港に大勢の観客たちがいた。彼らの前でツェルはソーに祝福を送った。あのときの恥ずかしさとソーの体温はまだツェルの中に鮮やかに残っている。青空を弾むように翔けていくソーの姿も、観客の大歓声と拍手がカナンの街を震わせていたことも、まだそう遠くない過去のはずなのに、もうずいぶん昔のことみたいだ。
あのとき選手たちが翔けた空を、今度はソーと二人手を取り合って、ゴールからスタート地点に向かって逆走しながら、ツェルはこみ上げる涙を飲み込んだ。
月明かりが真っ黒な海と壊れた街を微かに照らしている。街に近づくにつれ、ソーの表情が強張っていった。
街を破壊したのはソーの意志ではない。ソーにオル・クルスを引き起こさせたのは、ブラムドワ兵に扮したハフラム人の陰謀だ。それでも案じていた通り、やはりソーは罪の意識に苛まれている。
「あなたのせいじゃないわ」
夜風に掻き消されそうなツェルの言葉は届かなかったのか。それとも返すべき言葉が見つからなかったからなのか。
少しの間を置いて、ソーは別の話題を切り出した。
「なあ、ツェル。レイはどうしたんだろう。今日は結局、一度も目が合わなかった」
「ええ、そうね。何となく……わかる気はするけれど」
「えっ」
心底驚いた様子のソーにツェルは驚き、それから嘆息した。
「えって……まさかあなた、全然わからないの? 私たちはずっと一緒にいたでしょう。善し悪しはさておき、聖皇様の計らいで……ある目的のために」
「アイリスのことか。それがどうレイに関係するんだ?」
まさか、本当にわからないの?
しかもそれを、私に訊くの?
内心もやもやしたが、ここで黙っているのは、何度も助けてくれたレイに対してフェアではないと思い直し、ツェルはしぶしぶ口を開いた。
「周囲はきっと、延期された私たちの結婚の話でもちきりだったでしょうね。捕縛された後、同じ部屋に監禁されていたことも、塔の中では噂になっていたかもしれない。それがレイの耳に入った可能性は? あるいは……私たちの部屋は監視されていたでしょう。それをレイが見た可能性もあるかもしれない。つまり、ほら……聖皇様は、私とあなたとの仲をどうにかしたいわけだから……その点からいえば、レイの存在は邪魔になるでしょう。だから、あなたたちの仲を裂こうとして、そういうことをする可能性はあると思うの。機械の目に映したものは、遠く離れた場所からでも見ることができるから。あの子の目が腫れていたのは、きっとそういうことよ」
そこまで言って、ようやくソーも盗聴を怖れてとった作戦が裏目に出たことに気がついたらしい。
「ご、誤解しているのか」
「さあ」
わかりやすく狼狽するソーに腹が立って、ツェルはぷいと横を向いた。
誤解なら助け出した後に解けば良いだけだ。結局、傷つくのはツェル一人だ。やっぱり言わなければ良かった。
港湾公園を超えると、やがて山麓と市街を隔てる二重の壁が崩れているのが見えた。もともと脆い貧民街は広範囲に燃え広がってしまったらしく、ほとんど灰になってしまって建物の影は残っていなかった。
吹きさらしの荒野の中で、ぽつぽつと火を焚いている生存者の姿が見える。炎に照らされた空の中を灰が静かに舞っている。
ツェルはソーの様子を窺った。ソーは表情を消し、口を引き結んで眼下を見下ろしていた。
「きっと、他にも助かった人たちがいるわ。大聖堂の庭園に大勢集まっていると聞いたから」
「やつらは……きっと俺たちを、おもちゃのように思っているんだろうな」
「…………ごめんなさい。止めることができなくて」
ソーは眉根を寄せ、顔を正面に戻した。
「きみが謝ることじゃない。ツェルの言った意味がよくわかった。こんなばかげた所業は絶対に赦さない。相手が聖皇でも神々でも同じことだ。まずは効率よく大勢を動かせる人の協力から取り付けていこう。これ以上犠牲を増やさないために」
「ええ。もちろんだわ」
市街地の中心を貫く大通りの上を翔けて、カナンの街のちょうど中心にある中央広場に辿り着いた。ここから右手に進めば大聖堂、左手に進めば領主の城館だ。
「お館に灯りが見えるわね。おじさまたちは、お城に戻られたのかしら」
「建物が半分残っている……そうだな。騎士達を集めたのなら、館に戻ったのかもしれない」
ソーは幾分ほっとしたように息をついた。
「それじゃあ、おじさまにはあなたから伝えてきてもらえる? 私は大聖堂に戻るわ。お父様がしばらく拘留されてしまうことを伝えて、当面の代理も決めておかないと」
「後でカームたちや学校のやつらの無事を確認してくるよ。山手の富裕層は義姉の嫁ぎ先に任せるとして、カームなら一般市外と貧民街にも顔が利くからな」
「ええ、お願い。早く戻れた方から塔に戻って、炊き出しの準備を始めましょう」
「そうだな」
二人は月を間に挟んで絆の挨拶を結びあうと、それぞれの家に向かって翔けた。
*
ソーが城の正門前に降り立つと、門を守っていた騎士たちはただちに団長を呼びに走った。それから半時も経たないうちに深夜まで街の巡回にあたっていた騎士団長が飛んで帰ってきた。
「ソーっ、おまえ!」
騎士団長は手近な応接室にソーをひっぱりこみ、ソーの短くなった髪に驚き、他が五体満足であることを確認すると、嗚咽を飲み込み背を向けた。
「こいつっ、ツェルちゃんにあんな、この世の終わりみたいな顔させやがって」
「すまない、心配をかけた」
「だぁれが心配なんかするかよ。俺には可愛い五人の娘ちゃんたちがいるんだぞ! そうだ、ソー。おまえテュナに会わなかったか。あいつもおまえを助けに行くと言って出て行ったきり、戻ってきてねえんだ」
「テュナはブラムドワの残党に捕まっている可能性が高い」
「なんだと」
ソーは塔で見たことを簡潔に説明した。ルゥたちが死んだこと。テュナとワジとが黒い騎士に捕まったこと。黒い騎士とザンダストラには何らかの繋がりがありそうなこと。嘘か本当かはわからないが、聖皇は「知らない」と答えたことを。
「すぐ目の前にいたのに……テュナを連れて帰れなかった。ツェルたちが助けてくれなければ、きっと俺も、あそこで」
騎士団長はソーの胸を拳で叩いた。
「一人で何でも背負い込むんじゃねえ。俺たちが手をこまねいていたあの状況の中、おまえらだけで脱出してこられたってのが奇跡なんだぜ。女神様の采配に、ちゃんと感謝しとけよ。テュナのことはこっちに任せておけ。街を侵略したブラムドワ兵が相手なら遠慮することもねえ。この俺が全力でぶちのめしてやる!」
「父さん。実は問題はそれだけじゃない。信じられないかもしれないが、最後まで黙って聞いてくれないか」
「おっ、おう?」
「これから話すのは、ツェルが教えてくれた天の世の真実だ。まず、俺たちの創造主は俺たちの知る『女神レイェス』じゃない。ハフラム人という想像を絶する巨き存在で――そいつらが俺たちを脅かそうとしているというんだ。そして、神々の企てからこの世界に生きる人々を守るためには、一刻も早くすべての民を元老院塔に集めなければならない。刻限は三日後、結婚式の日までだ」
ソーはここに来た当初の目的をかいつまんで話した。とはいえ、どうやって超未来文明社会ハフラムの話を理解させればいいのか。ソー自身消化不良を起こしているくらいだ。試行錯誤しながら話しているうち、騎士団長は何やら誤解してしまったらしい。
「つまりそのハフラム人ってのが、天の世に住まう神々なんだな。それで、ツェルちゃんは神々と人間との橋渡しとして遣わされた人で、カナンで眠っている間は巨き女神の一人として生きているってわけか」
「いや、それは――」
間違ってはいない、か?
どこから訂正するか悩んでいるうちに騎士団長は唸りだした。
「そりゃ、ツェルちゃんは『御子』ってなくらいだからよ。まあ、そんな話があってもおかしかないかもしれねえが。ソー、おまえまで特別な力を授けられちまってるっていうのか? それで、その力がカナンをこんなめちゃくちゃにした、あの天の火を呼び起こしたってのか。いや、確かにおまえも『片翼』なんだが」
さすがの信心篤き養父も頭を抱えている。
これはもう訂正するより、その条件で話を進めてしまった方が早そうだ。それに自分の力について説明するのは簡単だ。
ソーはふっと短く息を吐ききると、あの黒い騎士の残忍な姿を瞼の裏に思い浮かべた。四肢を繋ぐ鎖のたてる金属の音を思い出した。そして、あいつの手が振り下ろす血に濡れた刃を――。赦せない。あいつだけは、絶対に。
喉の奥が引き攣れ、心臓が重い音をたてて揺れ始める。空気の振動が微かな高い音を生み出し、ソーの全身が蒼い光に包まれる。
勇猛果敢ぶりを謳われる騎士団長だが、怯んだように数歩後ずさった。
「ソ、ソー?」
今まではどんなに腹が立っても、この蒼い光が生まれたことはなかった。
だが、あの塔の中で聖皇を前にしたとき、ソーは理解してしまった。感情を高ぶらせるとき、自分の中に生まれる何かがあることを。瞳から取り込んだ力が身体を駆け巡ってゆくのはまた違う。誰かを癒やそうとするときに、いつも胸の中から生じて、ゆっくりとにじみ出してきた不思議な感触――森の木々の呼気に似て、ごく静かで清浄な、大気の揺らぎのようなもの――それが一気に高ぶり、熱を帯びたエネルギーの塊となって、ソーの外へと弾けてゆく、その感覚を。
耳鳴りのような音を発しながら、蒼い光の縁が弾ける。すると、バチッと音を立てて紫色の閃光が空を裂いた。それが壁の角灯にぶつかると、玻璃が砕け、灯が消えた。床に甲高い音を立てて落ちた台座は真っ黒に焼けていた。ろうそくは跡形もない。
ソーはゆっくり深呼吸した。それと同時に光は消え、甲高い音が消える。
「今のが俺の力らしい。こうして操れるようになるのと同時にわかったんだ。この光が俺の治癒力の正体で、同時に天の火を呼び起こす力も持っている。俺はこの力を狙う連中に捕まっていたんだ」
「嘘だろ。まさか本当に、おまえが、あの天の火を?」
化け物と罵られるだろうか。顔を引き攣らせ、手が震えている騎士団長を見ると、ソーの中に押し殺してきた不安が膨れ上がった。
これまで十八年間、普通の人間として暮らしてきた。それなのに今になって突然、巨人たちの実験で偶然に生み出されたクィラスとかいう男の末裔だ、だからおまえには特別な力がある。そんなことを言われても、ソーには到底飲み込みきれない。
はっきりとわかるのは、自分に関わったせいで何の罪もない弟たちが惨い死に方をしたということ。そして目の前に広がっていた街の惨状が、自分のせいで引き起こされたという事実。ただそれだけだ。
施療院の地下に繰り返し連れて行かれたのは、この惨劇を起こすための下準備だったのだろうか。
でも、そうだとしたら、あるいは選ばれていたのはレイだったかもしれないのだ。そうでなかっただけ、マシだったと思うしかない。
「そうだ。俺がやったんだ」
「馬鹿野郎」
騎士団長はソーの頭を胸に抱え込んだ。一日中鋼鉄製の鎧を着込んでいた騎士団長は汗と灰、そして砂埃に塗れていた。
「神々だかなんだかしらねえが、そいつらがおまえをカナン制圧の武器として利用したってことじゃねえか。雨の中一晩中、野良の子猫を抱えて傍にいてやろうとするおまえが、自分の意志でこんなひでえことするものか。よっぽどひどい目に遭わされたんだろうが。どうしてそれを最初に言わねえんだ」
「言って何になる。すべては起きてしまったことだ。それも、俺が弱くて愚かだったせいで。父さんにも散々、敵には情けをかけるなって言われ続けてきたのに、俺はあいつらに襲われたとき、最後の最後までためらってしまったんだ。人を殺すことが怖くて、全力で戦わなかった。もしかしたら、全力を出しても敵わなかったかもしれない。でも、もしかしたらルゥたちは死なずに済んだかもしれない。何の罪もない無関係の人たちが死なずに済んだかもしれない。空から見たんだ。市街も、学校も、貧民街も、養児院も、滅茶苦茶だった。俺は犠牲者を等身大で見ることが怖くて、街に降りることもできなかった臆病者だ。俺一人が死んで済むなら、その方が良かった。ルゥたちを殺された怒りに我を忘れて、取り返しの付かないことをしてしまったんだ。俺は、どうやって償えばいいんだ……」
騎士団長は涙を流すソーの背をきつく抱きしめた。
「優しいおまえにこんなもの押しつけやがって。女神様も酷なことをしなさる。なあ、ソー。この館に来た当初のことを覚えているか。この俺も、母さんも、姉さんたちも、それからこの館の使用人や騎士たちも、最初はおまえのことを煙たがっていたんだよ。貧民街出身だってだけで俺たちには偏見があったのさ。聖皇命でなけりゃまず受け入れてなかっただろうな。それが今じゃ、姉さんたちが貧民救済基金なんてものを設立して積極的にあそこに向かうようになった。おかげであそこの環境も以前に比べりゃかなりマシになったんだぞ。もちろん、きっかけはおまえがあそこの労働環境向上に取り組んだことだった。それまでは、働きたくても働けねえ奴らがいるなんて、思いもしなかったんだな。おまえは教会から貧民街行きを禁じられていたから、全然知らなかっただろう。姉さんたちも変にいじっぱりで、おまえには話そうとしなかったからな。けど、おまえがいなくなったと聞いたとき、あいつら危険も顧みずおまえを助けに行ったんだぜ。俺の言うことなんざ聞きゃあしねえ。なんでわかるか、ソー。おまえが作ってきたんだ。おまえが今まで俺たちに与えてきてくれたものが、俺たちを変えたんだ。だから、安心してどっしり構えてろ。おまえには俺たち家族がついてる。批難も罵倒も恨みも、俺らが一緒に受けてやる。贖罪だってそうさ。まあ、ツェルちゃんの前じゃ泣けねぇだろうからなあ。辛いことがあったらいつでも戻ってこい」
いつもやたらと構いたがり、からかってくる騎士団長のことを、これまでソーは面倒な男だと思っていた。
ソーは拳で顔を拭うと、騎士団長の分厚い胸を押して、微笑んでみせた。
「ありがとう、父さん」
「お、おお」
騎士団長は頭の後ろを掻きつつ苦笑いした。
「なるほど。リラたちを落としたのはこれか。ツェルちゃんも苦労してんだろうなあ」
「何がだ」
「おっと。のんびり喋ってる場合じゃねえな。なあ、ソー。気は逸るだろうが、おまえも疲れてるはずだ。今晩はゆっくり休んでいけ。夜明けと同時に行動開始だ。人集めは俺たちに任せろ。おまえはカームさんところと学校のダチに会って協力を取り付けたら、さっさと塔に戻って準備を進めてろよ。なにせせっかく人を集めても、まずい飯食わされたんじゃあ皆そのまま帰っちまうだろ」
「だが」
騎士団長は、柱の大きな機械式時計をちらりと見やるソーの額を掌で押した。ソーは踏みとどまれず、その場でよろけた。
「ほらな。体力も気力も落ちてるんだと気付け。ひどい傷がやっと癒えてきたところなんだろうが。いいか、ベッドに入ったら何も考えんじゃねえぞ。あれこれ思い悩むのはやること全部やってからだ。今は頭を空っぽにして寝る。明日起きたら儀式の準備にだけ頭を使う。今やるべきことを把握して、目の前の危機を乗り越えることだけに全力をかけろ」
ソーは目を軽く伏せた。この人の言葉は大抵へらへらと調子がいいが、稀にこうしてまともなことを言う。思えば、今の自分の行動指針は、知らず知らずのうちに、この人の言葉から作られていったのかもしれない。
「わかった。大人しく寝る」
「本館は使えねえ。西館の客間、好きな部屋を使え」
深夜に起こされた女中は文句一つ言わずに湯を張り、ソーの着替えを用意し、二階客間のベッドにシーツを掛けてくれた。汗を流し、清潔で柔らかいシルクを身に纏うと、頭の奥に痺れるような感覚があった。夕方休んだはずなのに。確かに気が張り詰めていたようだ。
ベッドに横たわり、キィのハンカチを眺める。得意げに刺繍を掲げてみせたキィの小さい姿が思い出された。後ろでからかっている弟たちのやんちゃな笑顔がソーの胸を締め付ける。いたたまれなくなったソーは、ハンカチを置き、首にかけた木彫りのアミュレットの感触を手で確かめながら目を閉じた。
その晩もやはりルゥたちの夢を見た。淡い色の空をあてどなく漂うソーの元に、最後まで瞳が開かなかったはずのルゥ、フィーが、キィと共に空を翔けおりてきて、ソーの顔を覗き込む夢だった。
「兄さんなら、きっと皆を助けられるよ。がんばって」
「そうだぜ。泣くなんてだせえぞ。しっかりしろよな」
「ちゃんと逃げられた養児院のお友達もいるんだよ。だから、ぜーったい助けてあげてね!」
掴もうとした三人の手は、ソーの手をすり抜けて空へと駆け上がってゆく。三人は金の光の中を笑いながらどんどん昇ってゆき、やがて暗い星空の中に出た。星空の中に淡い水色の惑星が現れると、三人はそこを指さしあって、ソーを振り返って叫んだ。
「兄さん!」
「ソー兄!」
「アスラで待ってるね!」
「きっとだぜ!」
三人が水色の星に降りてゆく。小さくなってゆく。三人の身体を吸い込んだ星は水面のような波紋を浮かべ、白い光を放った。
まばゆさから目を庇おうと手をあげたソーは、その動きで目を覚ました。微かに開いた木の窓から細く白い光が差し込んでソーの顔を照らしている。
二日目の朝がやってきた。
先週は更新できず、すみませんでした。
体力的に限界でした。
次回、「結婚式」です。




