【5】
大聖堂の鐘楼よりも高い位置まで昇ってきたと思ったとき、桃色の海鳥たちがツェルの脇を掠めてあっという間に飛びすぎていった。生まれたばかりのヒナに餌をやろうというのだろう。いつもより忙しなく水面に急降下しては、獲物を咥えて舞い戻ってくる。
長い髪がツェルの顔を打つ。ツェルは手で顔を庇い、目を細めた。地上とは違って風が強い。潮風に引っ張られて服が身体に張り付き、ツェルの脚に絡まる。
先ほどの少年の背をツェルは探した。
いた。ちょうど同じくらいの高さだ。黒いローブを靡かせた後ろ姿が海の方めがけて走ってゆく。
普段は聖堂騎士の同伴がなければ、空に上がることを禁じられている。ツェルは背後を気にしながら、なるべく建物の上空を選んで少年の後を追った。
カナンの街は山の斜面に張り付くように造られている。下り階段のような段々に、赤い屋根が続いている。その上を駆けていると、まるで空の階段を駆け下りているような不思議な気分になってくる。
大聖堂の方から飛んできた御神木の青い花びらがツェルの髪や服に貼りついた。
あの子はどこまで行くのだろう?
少し辺りに意識を向けるだけで、世界中、虹色の糸に包まれて眩しいくらいなのに、あの子から伸びる糸は全然視えない。ただ一本きり、くっきりと太い銀色の糸だけが視えている。
行く手には背の高い建物が並ぶ商業区と、倉庫街、波止場がある。その先は海だ。春霞にけぶる青灰色の海と、ぽつぽつ浮かぶ白いマストの帆船や漁師たちの小舟が陽光に輝いている。
少年は少しずつ海の方から逸れ、右手に向かっている。ふと、少年がローブを脱ぎ捨てた。黒い布地は大きく風を孕んで舞い上がり、海鳥の群れを飛び越え、山脈の方へ飛んでゆく。少年の走る速度が上がった。ツェルとの距離がみるみるうちに開いてゆく。
「待って、ねえ、待ってったら」
ツェルは追いかけながら何度も声を張り上げた。風に声が阻まれるのか、それとも海鳥の鳴き声が掻き消すのか。少年はこちらを振り返ろうともしない。そして、枯れ草色の屋根が並ぶ一角で地上に飛び降り、姿を消した。
ツェルは息をきらし、手近な赤い屋根に降り立った。目がずきずきする。気がつけば一般居住区の外れまで来ていた。普段こんなに走ることはないし、瞳をこんなに長いこと開きっぱなしにすることもない。膝が震えて立っていられない。ツェルは棟に縋るようにしてしゃがみ込んだ。
「子供、なのに、どうして……」
鍛錬次第で瞳を使える時間は少しずつ延ばしていくことができる。が、ツェルくらいの年なら普通、水の中で息を止めているのと同じくらいの時間しか保たない。
ツェルは同世代の中では別格だ。大人相手だって、空での駆けっこならそうそう負けはしない。ツェルに勝てるのは、聖堂騎士や速翔の選手たちくらいだ。そのツェルが敵わないなんて。
生まれつきの才能が優れていたとしても、相当過酷な訓練を受けてきたはずだ。一体、何者だろう。そういえば名前も聞いていない。それに、まだツェルと同じくらいの子供なのに、あんなに絆の糸が少ないなんて。もしかして、戦災孤児の子かしら。かわいそう。お父さまに話したら、あの子を孤児院に受け入れてくれるかしら。でも、その前に、盗んだ光錘を返してもらわないと。もしも盗んだことがわかったら、いくら子供でも、ひどい処罰がくだされるかもしれない。
そこで、ツェルははっとした。
(そういえば、咎人を殺した犯人は子供だって、さっきあの人たちが。ツェルくらいの瞳の持ち主だって)
ツェルはどきどきしながら、少年の消えた屋根の合間を見つめた。
どうして光錘を盗んだんだろう。
もともと持っていた普及光錘を殺人に使ってしまったから? もっと強い光錘を手に入れて、さらにもっと怖いことに使うつもりだったりしたら……。
ツェルは振り返った。そして赤い屋根の市街地とその先の焦げ茶色の屋根瓦を乗せた上層市民街との間を見た。そこには中央広場と、隣接する灰色の大聖堂がある。
まだ間に合う。そうだ、帰ろう。
膝を両手で押して立とうとしたツェルはその場で立ち眩んだ。目が痛い。瞳を使い過ぎたらしい。
影に助けを求めようと屋根の下を覗き込んだが、どこにも見当たらない。
いくら木陰から一気に空に上がったからって、全員でツェルを見失うなんて。
「しっかりしてよ」
ツェルはへたりと屋根に座り込んだ。
もう、肝心なときに役に立たないんだから。いつもだったら、どんなにこっそり抜け出しても、すぐに気付いて追いかけてくるのに。
ツェルはぼんやり海を見遣った。指輪のような円形の湾は、陽光の下でまぶしく輝いている。その湾の突端を塞ぐように、元老院塔が両岸を跨いで建っている。盃型をした塔の先端。昨日までの雨で盃に溜まった雨水が、少しずつそこから流れ落ち、外壁に吊り下げられた銀珠を揺らし、水琴のような美しい音色を奏でている。
穏やかな波音。桃色の海鳥たちの尾を引く鳴き声。暖かい風が、ツェルの汗を乾かしてくれる。
うっとりと目を閉じているうち、次第に不安は消え、入れ替わりに大司教の渋面が浮かんできた。
謎の少年の登場で忘れていた怒りがむくむくと頭をもたげる。
お父さまったら、いつもああなんだから。子供だといって、肝心なことは何も教えてくれない。話も聞いてくれない。御子、御子って、そればっかり。お父さまは、娘が大事だなんてこれっぽっちも思っていない。ただ教会の御子が大事なだけなのよ。あんな分からず屋、もう顔も見たくない! あんな人のために急いで帰ってあげることないわ。
それにやっぱり、いくら瞳が強いからって、あの子が殺人犯だなんて考えられないわよね。瞳が強くたって、力じゃ大人には敵わないもの。あの子一人で、あの強い聖堂騎士たちをやっつけられるはずないわ。悪い言葉は確かに使っていたけれど、そもそも男の子って、格好つけてすぐああいう言葉を使いたがるじゃない? あれくらい普通だわ。
それに――それに!
ツェルは目の痛みも忘れて、屋根の上に立ち上がった。
もしもあの子が、ツェルの半双だったら? もしも片翼だったら、すごい瞳を持っていることだって頷ける。年だってツェルと同じくらいだったし。あの子に半双の糸が視えなかった理由だって、それなら説明がつく。ツェルに繋がる糸なら、片一方の持ち主であるツェルには視えないのよ!
いても立ってもいられなくなったツェルは少年が消えた一角を見下ろした。
あの子がツェルの半双なのかどうか、しっかり確かめなくちゃ。それにお父さまだって、ちょっとくらい心配させればいいのよ。
少年が消えた一角、目印に覚えておいた斜めに傾いた建物の手前で、ツェルは思いきって糸を飛び降りた。酷使した瞳はすでに限界で、もう開いているのがやっとだった。
じんと痺れる足首と痛む瞼を擦りながらツェルは立ち上がった。
「ここって、たぶん貧民街よね」
護衛さえつけば外出は許されているが、禁じられている場所はいくつかある。そのうちの一つが貧民街だ。危ない場所だと教わった。
ツェルはこわごわ辺りを見回した。
目の前にあるのはゴミ山だった。二階の屋根くらいの高さに積み上がっている。割れた車輪、割れた板きれ、干からびた果実の皮に魚の骨、排泄物……。そこからは腐ったような強烈な臭いが漂ってくる。
鼻にポケットから出したレースのハンカチを押し当てツェルは急いでそこを離れようとした。が、最初の一歩で無数の羽虫たちの群れに顔から突っ込んだ。ツェルは悲鳴を上げて飛び退いた。
早くあの子を探して帰ろう。
一体どこに行ったのだろう。本当にここに住んでいるの? それともツェルから逃げようとしただけ? 確かにここなら、隠れる場所が山ほどある。
不格好に曲がりくねる路をツェルは何度もつまずきながら歩いた。廃材を貼り合わせた家が折り重なるように続く。計画なんて一切なく、思いつきと行き合わせのままに、辛うじて町としての様相をなしたこの区画。路でさえも路というよりは家の隙間、瓦礫の隙間だ。おまけに家の棟から向かいの家の棟へと無秩序に紐が渡されては、上空で立体交差し、そこからぼろ布みたいな洗濯物たちがぶら下がって光を遮っている。
そこかしこから排泄物が垂れ流され、積み上がったゴミや泥と混ざって、茶色い水溜まりを作っている。涎を垂らした痩せた犬たちがその中をたむろしている。ツェルは両手で口を押さえ、急いでその場を離れた。幸い犬たちは落ちているゴミ山を漁るのに夢中でこちらには気付かなかった。
物色するような鋭い視線がツェルを射貫いた。路ゆく人も屋根の上で槌を振っている人も洗濯物を干している人も、一斉に手を止め、ツェルをじろじろ見回す。ツェルよりずっと小さな子供たちもがその調子で、道ばたで壊れた車輪を転がして遊んでいたのに、ツェルに気がつくや否やその手を止めてじいと観察しだす。
ツェルは自分の姿を見下ろしてみた。質素だが身ぎれいな格好は、この町では異質に見えた。袖の刺繍は上着に隠れているし、額飾りは外してきた。聖職者とはわからないだろう。裕福な商家の子とでも思われただろうか。
ツェルは急に自分が恥ずかしくなって俯いた。この街に貧しい人たちが大勢いることは知っていた。彼らの救済のために行われる炊き出しの手伝いをしたことも何度かある。
「どうしてあの人たちは貧しいの。お金が足りないのなら、たくさん持っている人たちから分けてあげればいいのに」
そう父に聞いてみたのは、二年くらい前のことだったと思う。そのとき父は静かな顔で逆にツェルに問い返した。
「きみは今、教会の仕事をしていますね。式典の準備に、聖典のお勉強。そしてお作法の授業に、祈祷文の暗記。さて、例えばですが、明日は一日自由にして良いですよといったら、あなたは遊びますか。それともいつも通り聖堂で過ごしますか」
ツェルはもじもじと指を組み合わせた。
「え、ええと」
もちろん遊びたいに決まっている。ちら、と上目遣いに父を見上げると、父は窓越しに見える庭園を指差した。そこでは街の子供たちが駆け回り、笑い声をあげていた。
「あの子たちは毎日ああして自由に過ごしていますね。仮に、彼らが貧しく、満足な食事も摂れていなかったとしましょう。さて、きみは彼らのために何をしますか」
「もちろん、ツェルのご飯を分けてあげます」
「それでも足りなかったら?」
「少しだけ我慢してもらって、次の日も順番に来てもらうようにして……」
「その噂を聞いて、十人、二十人、百人とどんどん人が集まってきたら?」
「そうしたら、お仕事を一緒に探してあげます」
「あなたはあの子たちのために、今よりもっと働けるのですか。遊ぶ時間はますます少なくなりますよ」
「それは仕方ないです。そうしないと、お金が足りないのですもの。あの子たちも、ツェルも、みんなでがんばって働けば、みんな幸せになれます。ツェルだけおいしいものを食べるのはおかしいです」
「しかし、そう思うのはあなたの考えにすぎません。あの子たち全員があなたと同じように考え、あなたの探してきた仕事につきたいと思うかどうかはわかりませんし、誰しも適性というものがあります」
「そんな、選んでいる場合じゃ」
「では、あなたに聖堂騎士が務まるのですか」
ツェルはむっとして口を閉じた。どうしてこんな意地悪をいうのかしら。
「それに、お腹が空いても構わないから、今まで通り遊んでいたいという子が出てくるかもしれませんよ。きちんと話を聞かない子だっているかもしれません。いえ、たとえがんばる気持ちはあっても、手足が不自由だったり、物覚えがゆっくりだったりして、逆にがんばって働いている人たちの足を引っ張るようなことになってしまったら、どうしますか」
ツェルは返答に詰まった。言うことをきかない子はどこにでもいるものだ。それに、もし両手が使えなかったり、足が悪くて歩けなかったりしたら、本人のせいではなくても、やっぱりできる仕事は限られてしまうかもしれない。
「本人の努力ではどうにもならない不平等はこの世にたくさんあります。たとえあなたの持ち物や、この聖堂の蓄えをすべて街の子供たちに配ったとしても、全員の飢えを凌げるのはほんの一時のことにすぎません。あなたが彼らを救いたいと思うのなら、もっと別の方法を考えなくてはなりませんよ」
ツェルはしばらく真面目に考えてみた。けれども、これといって考えは浮かばず、そうこうしているうちにハフラムで定期試験があったり、こちらでも船の沈没で亡くなった方々の慰霊祭の準備があったりして忙しくなり、その問題は頭の隅に追いやられたきりになってしまった。
今、粗末な家々から突き刺さる視線は、そんなツェルを責めているみたいだ。ツェルは俯き加減のままとぼとぼ足を進めた。
ある家の前を通りがかったとき、ばしゃりと音を立てて桶の水がぶちまけられた。避けきれなかったツェルの足は、ぬるぬるした汚水をまともに浴びてしまった。一歩足を踏み出すたび、どろりとした水が靴の中で泡を立て、指の間を埋めてゆく。ぎりぎりで保っていたツェルの心をぽきりと折るには十分だった。
もういや。おうちに帰りたい。
ツェルは空を仰いで涙ぐんだ。
瞳が開かない。ずきずき痛んで、普通に目を開けているだけで精一杯だ。こうなると半日以上は瞳を休ませないとだめだ。長距離を歩き慣れない足はすでにくたくただし、喉だってカラカラだ。
「あの、お水を分けてもらえませんか」
勇気を振り絞って何人かに声をかけてみた。しかし大人も、子供も、まるで聞こえなかったかのように通り過ぎて行く。八人目に無視されたとき、とうとう涙が溢れてきた。
これは罰なのかしら。困っている人たちが大勢いることを知りながら、見て見ぬふりをしてきたことへの。でも、そんなのツェルのせいじゃないのに。カナンを治めているのは騎士団長夫婦だし、教会の慈善活動を決めるのは大司教であるお父さまや、聖皇さまだもの。
……本当に?
ツェルは御子だもの。一人では何にもできない御子だけれど、きちんと考えてお父さまに相談していれば、もしかしたらここの暮らしは変わっていたのかもしれない。
でも、どうしてツェルばかり、やりたいことを我慢して、がんばらなければならないの?
ハフラムの道徳の先生も、聖典の中の女神さまも、人間はみんな平等ですと言っていた。それなのにツェルはいつも我慢して、一方的に人助けをしなければならない。
それはどうして? 御子の魂は人間ではないから? だけどツェルだって辛い。どうして誰もわかってくれないの。ツェルを助けてくれないの……。
ぐるぐる考えながらツェルは歩いた。歩いても歩いても、誰も助けてくれやしない。井戸水は分けてもらえないし、ちょっと軒先で足を休めていくように声を掛けてくれる人さえいない。
陽が傾きはじめる頃には、すっかり泣く元気もなくしていた。
このままでは夜になってしまう。夜通しこんな場所で過ごすなんて耐えられない。誰も助けてくれないのなら、自分でどうにかするしかない。暮れてゆく空を見て、ようやくツェルはそれを悟った。
そこからは、どうしたらここを出て市街地に戻れるのか、ただそれだけを考えて歩いた。どこを見ても同じような景色が続く。袋小路があちらこちらにあって複雑な迷路を作り上げている。はじめは闇雲に同じところをぐるぐる回り続けているばかりだったが、次第にここの構造が見えてきた。
貧民街の外周は高い壁に囲われていた。家々の間に見えるその壁は、分厚い漆喰で塗り固められていて、ここの人たちが作ったものではなさそうだ。そのしっかりした造りのせいで山の方角も海の位置も確かめることができない。
けれども、遠くから大聖堂の鐘の音が聞こえてくる。耳を澄ませれば、どちらが帰るべき方角かはわかる。
ここが壁に囲まれているのなら、どこかに出入りするための門があるはずだ。壁に沿って歩けば迷わない。いつかは出口にたどり着けるはずだ。
合間合間に建物や瓦礫が積み重なっているせいで、時おり壁を見失いそうになりながら、破れた塀の隙間を潜り、瓦礫の山を登って落ちて、ツェルは歩いた。ローブは裂け、膝も肘も頬もあちらこちらを擦りむいた。しばらく行くと、路の先を横切る賑やかな大通りが見えてきた。使い古した屋台が見える。傾いだ台車をがたがたと引き摺る姿や、大声を張り上げる売り子たちの姿もある。商店は普通、人の行き来が多いところにできると教わった。壁に囲まれた区画を出入りする場所はその一つだろう。この通りの先には、市街地に通じる門があるかもしれない。
軽い駆け足でそちらに向かおうとしたとき、何かがその行く手を塞いだ。大柄な大人の男が三人、にやにや笑いながら、足を止めたツェルを物色するように見回している。
どうしよう。
ツェルはおろおろと左右に目を遣った。脇道がない。しばらく一本路が続いていた。ここを避けようと思ったら、かなり後ろまで引き返さなければならない。もう少しで大通りに出られるのに。
思いきって彼らの脇を通り抜けようとした。路の端ぎりぎりまで寄ったのに、その三人組もツェルと同じ動きをした。それではと反対に寄れば、彼らも同じように反対側に寄ってくる。ツェルは顔を合わせないよう気を付けながら、もごもごと訴えた。
「あのう、そこを通していただけませんか」
「きみ、一人かい。どこ行くの」
動く壁が問う。ツェルはやむなく顔を上げた。
三人のうち中央に立つ男は、両腕に大きな蛇の刺青があった。左の男は髪が生えていないし、右の男は片目が潰れている。刺青の男と目が合ってしまった。男は身を屈め、ツェルの顔を覗き込んできた。
ツェルは慌てて来た道を引き返そうとした。すると左右の二人が素早く回り込み、ツェルの退路を断ってしまった。
「きれいなお嬢ちゃん、そんなに急がなくてもいいでしょ。ちょっと僕たちに付き合ってよ」
目の前の男にいきなり手首を掴まれて、ツェルは短く息を飲んだ。赤ら顔が迫ってくる。息が顔にかかる。臭い。さっきのゴミ山みたい。思わず顔を背けようとすれば、男のもう一方の手が伸びてきて顎を掴まれた。
「すげえ、こいつ宝石みてえな目してるぜ」
「へー、ほんとだ。玉虫みてぇ。あれ、こいつまさか、例の御子ってやつじゃねえのか」
「み、ミコってなんだい、アニキ」
「てめえは黙ってろ。お偉い御子様が、こんなところひとりで来るもんか。お金持ちのお嬢ちゃんだろ。なっ」
「お金持ちー、お金持ちー」
げらげらと笑い合う男たちの間で、ツェルは掴まれた腕を引き抜こうともがいた。
「は、離してっ」
大声で助けを呼びたいのに声がでない。干上がった喉からは、震え、掠れたものを絞り出すのが精一杯だった。こんな風に乱暴にされたことなんてこれまでない。掴まれた手首も顎も折れてしまいそうだ。足が震える。声が上げられない。
「こりゃあ高く売れるぜ。今日はツイてんなあ」
どこに連れてくよ。とりあえず酒場に行こうぜ。あそこの親父ならカネに変えてくれるだろ。まだガキだぜ。てめえはバカだな。ガキだから、どうにかしようがあんじゃねえか。どんな風でも使いようがあんだろ。
震えて思うように足が動がないツェルの口を手で覆い、後ろから抱きかかえるようにして、男たちが大通りとは逆の方に向かって歩きはじめる。
やだ、やだ。
どうしよう。声が出ない。助けを呼ばないといけないのに。でも、もし声が出せたとしたって、ここの人たちはきっと誰も助けてくれない……。
そのとき、ツェルを抱えていた男が悲鳴を上げて倒れた。地面にぶつかる、と固く目を瞑ったツェルの上体を誰かの手が引き上げた。細い腕。黒い髪。ツェルが追いかけてきたあの男の子だ。その子の前で、倒れた男が呻きながら悶えている。その身体の下にじわじわと広がってゆく血、血。
ひっと息を飲み込むツェルの前で、少年が無造作に腕を振りあげた。ひゅっと空を切る音がすると共に、また赤い飛沫が地面に飛び散り、男が悲鳴をあげた。少年は盗んだ光錘を握っていた。形を自在に変える光錘は、今は刺突剣のように伸びている。その先端から鮮血が滴り落ちている。
禿頭の男と片目の男が悲鳴を上げた。我先にと逃げ出そうとしてぶつかり、お互いを罵り、押し合いへし合いしている。
「リァン、離れていろ」
少年はツェルを傍らに押しやった。光糸を足場に空を蹴り、矢のように男たちに飛び掛かる。背を切り裂かれた男が転び、隣の男ともつれ合うようにして倒れる。少年は片目の男の背を蹴ってくるりと宙返りを打ち、すとんと地に降り立った。
「許してくれ! 許してくれ、頼むから!」
片目の男が頭を抱え、震えながら叫ぶ。光錘を構える少年の背中は微動だにしなかった。
「死んで詫びろ」
「や、やめてぇっ」
ツェルは思わず叫んでいた。少年は溜め息をついてツェルを振り返った。
「なぜ止める。おまえを拐かそうとした者だぞ」
「そ、そうだけど。でも、でも」
だからって殺すだなんて。目の前で人が死ぬなんて。
震えるツェルの首に、ひたりと冷たい感触があった。
「動くな」
ぬるりと滑る指がツェルを後ろから押さえ込んだ。肋骨が押され、ツェルは呻いた。苦しい。今度こそ骨が折れてしまいそうだ。身体を押さえつけているのは蛇の刺青の入った太い腕だ。最初に倒れたから油断していた。男はツェルの頭の上で苦しげな荒い息をしている。
「少しでも動いたらこいつの首をかっきるぜ。わかったらてめえが持っているそいつを投げ捨てろ。さあ」
形勢逆転に気付いた残りの男たち二人もそろそろと立ち上がり、勝ち誇ったように笑いはじめる。
少年は眉根を寄せてツェルを見ていた。こんな危険な状況で止めようとするツェルのことが、さっぱり理解できないと言うかのように。
少年の手は光錘を離さない。ツェルを抑えこむ男の腕に緊張が走る。ナイフの切っ先が喉に押し当てられる。恐怖と混乱でツェルの頭は真っ白だ。
そのとき、ドサドサと音を立てて何かがツェルの目の前に落ちてきた。うわあっという悲鳴と共に、ナイフを持った男の腕がツェルから離れた。
空から降ってきたのは、見知らぬ少年がひとりに、大きな犬が一匹。
犬が男の足に噛みついた。ぎゃあっと声を上げる男の腕にすかさず空から降ってきた少年が飛びつき、ナイフを奪い取った。犬が男の足を引きずり、男が転倒する。
ツェルは咄嗟に後ずさり、こわごわ喉に手を宛がった。良かった。どこも切れていない。
「は、ハン!」
叫んで駆けつけた禿げ頭と片目は、犬に吠えられ怯んだ。犬は喉を仰け反らせ、空に向かって吠え声を響かせた。
男ふたりは、怖々とあたりを見回している。壁の隙間、屋根の向こう。あちらこちらから獣が喉を震わせる低い鳴動が近づいてくる。
足が竦んだツェルは身体がいうことをきかない。この隙に逃げたいのに、逃げられない。
ふと、震える手が温もりに包まれた。空から降ってきた少年がツェルの手を掴んでいた。
「走るぞ!」
ツェルは手を引かれて走りながら、振り返った。そこには光錘泥棒の少年が、やはり光錘を手にしたまま立っている。大きく目を見開いて、ツェルを驚いたように見つめている。
後ろからバラバラと足音が近づいてくる。
「あいつらだ。追え、追え!」
誰かが叫んでいる。複数の足音がどんどん近づいてくる。追われている。追いつかれる。
「も、もう無理」
息を切らしながら涙目になったツェルの足が鈍る。けれど、空から現れた少年は、ツェルの手を掴む手にいっそう力を込めて叫んだ。
「諦めるな。瞳を開け。早く!」
強い口調には、絶対に助けるという強い意志が宿っている。ツェルは考える間もなく言われた通りにしていた。瞳の中心が冷気を取り込み、つんと目の奥に痛みが差す。でも、いける。瞳が開く。
世界がぱっと明るく開けた。あまりのまばゆさにツェルは思わず瞬きした。
世界は色とりどりの光糸のカーテンに覆われていた。なんて膨大な数の糸だろう。ぐっすり眠って起きた朝よりも、ずっと濃くはっきりと視える。いつもなら相当集中しなければ視えないような微細な光糸までもが、意識せずとも克明に視える。
窓から様子を覗っている住民同士を繋ぐ糸。路傍のつる草と宿り木とを結ぶ糸。欠け落ちた破片と塀との間を結ぶ糸。それから、持ち主のみえない、どこか遠くの何かを結ぶ無数の糸たち――。
少年は空を上がり、ツェルの体を上に引っ張り上げた。二人はそのまま宙へと駆け上がった。
「リァン!」
下からの呼び声に、ツェルは思わず足を止めて声の主を探した。
光錘泥棒の少年はツェルをまっすぐ見上げていた。置いてけぼりの幼子のような、傷ついたような顔をして。無法者の男たちが少年を取り囲むが、まるでどうでも良いことのようだった。「行くな」と言われているようで、ツェルはつかの間、ためらった。
「おいっ」
ツェルの手を引く少年が、首だけ回してツェルを睨んだ。
「まだ巻き込まれたいのか」
ツェルは慌てて頭を振った。怖いのはもうたくさんだ。少年は真っ直ぐ前を見据え、斜陽の中を駆け上がる。海の方を目指して二人は走った。