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ツェルト・リァン-二つ世と未来の女神-  作者: Ari
§15 クィラスの末裔 Side-S
43/59

【1】

 しばらく闇雲に通路を進んだ。レイは不安そうな顔をしながらも黙って後をついてくる。

 おかしな場所から入った上に、緊張と不安も相まって焦りばかり募る。そもそも、ここはどこだろか。階層は? 何度も来たことがある場所だけど、いつもは昇降機を使って用のある場所に直行するし、大勢の司祭たちに囲まれて、何も考えずに彼らの後をついていくだけ。客間の多い下層のことは全然わからない。しかも塔の構造上、下の階ほど面積が広く、その分、部屋数も多い。その上、侵入者対策として通路が狭く複雑に入り組んでいるときている。まるで迷路だ。

 通路が正面と左右に分かれている。それぞれの道を見比べている間にも、鞘鳴りと軍靴の音が迫ってくる。石造りの内壁に音が反響しているせいか、どの通路からやってくるのか、よくわからない。見えている限りでは、どの通路も等間隔に同じような扉が並んでいるだけだ。

「ど、どうしよう。道がわからない」

「とりあえず隠れよう。このままじゃ鉢合わせる」

 レイは小走りに左の通路に出た。片っ端から等間隔に並ぶ扉を押してゆく。しかし、下層は客間のはずだ。簡単に扉が開いては困るわけで、錠が引っ掛かる無機質な音ばかり返ってくる。

 何個目かの部屋の前で、レイはとうとう腰の光錘リューゲルを引き抜いて鍵穴に差し込んだ。錠の回る音は差し迫る靴音に掻き消され聞こえなかったが、扉は開いた。レイはツェルの手首を掴んで引っ張り込むと、音を立てないよう慎重に扉を閉めた。ツェルは急いで錠を回し、あたふたと脱出口を探した。

 窓はあったが、人が通れる大きさではない。入ってきたところ以外に扉はなかった。ベッドの傍に大きめのクロゼットがある。あそこに身を隠せば、追っ手をやりすごせるだろうか。まさか、そんなに甘くはないだろう。ここに敵が入ってきたら、逃げ場がない!

 レイはもう覚悟を決めたのか、光錘リューゲルを構えて扉を睨んでいる。足音はもうすぐそこだ。ツェルは震えながら光錘リューゲルを握りしめた。

 幸い、最初に駆けつけた足音は扉の前を通り過ぎていった。反対側から集まってきた足音と廊下の先で合流したようだ。ブラムドワ語の会話が聞こえてくる。

 上官らしき男が塔の外と、室内の捜索を命じた。幸い、兵から疑問の声が上がっている。この辺り一帯は、自国ブラムドワの王侯貴族に宛がわれた客間なので、勝手に踏み込んで後で問題にならないか――と上官に確認している。

 どうか、どうか入室の許可を与えないで――。

 御子として、これまでの人生で、こんなに真摯に祈ったことはなかったかもしれない。

レイが思いついたように天井を見上げた。

 音を立てれば見つかってしまう、と慌てて止めようとするツェルの手をすり抜け、そろそろと部屋の奥に進んでゆく。ツェルがはらはらと見守る中、レイはサンダルのままベッドに上がった。光錘リューゲルを天井まで伸ばして、そこに円を描くようにする。すると、切り取られた天井の破片が落ちてきて、柔らかな羽毛布団の上にふかりと沈み込んだ。

 レイは光糸リーリエに足を掛け、空いた天井の穴から上階に上がった。ひょいと顔だけ穴から覗かせ「ツェル、早く」と囁く。

 そうか、こんな方法もあったのだわ。

 ツェルはリィを開いて、狭い天井の穴を潜り抜けた。ツェルが両腕を床に突っ張り、腰を上の階に引っ張り上げようとしていると、足元で何かが弾け飛ぶような大きな音がした。レイはツェルの両脇を抱えて穴から引きずり出した。下の部屋には兵士たちが大勢雪崩れ込んできていた。室内を見渡した彼らは、すぐ切り取られた天井に気がついた。

「エレス(あそこか)」

 兵のひとりが今しがたツェルが潜り抜けた穴を指差している。

 ツェルは叫びだしそうな口を手で覆い、穴からそろりと距離を取った。

 この高さなら光糸認識力ハルファ・リィがなくとも、足場を作れば物理的に追ってこられるだろう。

 上官らしき男が次々指示を飛ばす。兵の一部は部屋を走り去り、一部はベッドの傍に集まってきて、慎重に穴の様子を窺っている。穴から後を追う者と階段から追う者、二手に分かれたようだ。

「このまま上に行こう」

 レイはこの部屋の天井も切り取り始めた。

 二人は次々と天井を破り上層に上がっていった。その間も階段を駆け上がる兵士たちのバラバラとした足音、「リツ・フォルク(探せ)!」「オン・エレス(いません)!」の大声が聞こえてくる。穴からは追っ手の声や物音が長いこと聞こえていたが、どうやら彼らが通るには狭すぎるらしく、怒鳴り声や焦り声、それから鎧を脱ぎ捨てるような音が聞こえてくるばかりで、追いつかれることはなかった。

 また一つ上の階に上がりながら、振り返ったレイが得意げに笑んだ。

「うまくいったみたい。私たちが通れるぎりぎりの大きさにしておいたから」

「そ、そうだったの。助かったわ」

 そうして、どれくらい上まで来ただろうか。

 やっと見覚えのある部屋が現れた。大会議室――十三階だ。中央には二十人がけの流しテーブルが三列据えられ、それぞれにシュナ特産の青磁の壺に入った生花が飾られている。

 会議室に上がったレイはふらりと立ちくらみ、瞼を手で押さえた。立て続けに光錘リューゲルを使ったせいだろう。ツェルはレイを支えながら天井を見上げた。これまでの階と違い、かなり高い位置にある。ツェルはレイに囁いた。

「ここは任せて」

「うん……」

 レイの言葉に重ねるように、軍靴がこちらに迫ってくる。

「ったく、休む暇もないね」

 レイは大きく息を吐くと、扉の前に走った。

「時間を稼ぐ! ツェルは天井をお願い!」

「ええ!」

 ツェルはリィを開いて天井に目を凝らした。部屋が広いからか、これまでとは違い大きな梁が通っている。梁を切ったら上の階層を支えきれず、崩れてくるかもしれない。梁を避けて、床板だけをうまく切り取らないと。

 十字に交差する梁の隙間に光錘リューゲルを差し込んだとき、とうとう足音が止まった。ドンッ、と激しい音を立てて扉が揺れる。

 焦りで手が汗に濡れ、光錘リューゲルが滑り落ちそうになる。すっと梁に薄い切れ目が入ってしまった。ひやりとして光錘リューゲルを引き戻す。

「ツェル、急いでっ! 扉がもたない!」

「わかってる!」

 レイの声に叫び返し、ツェルはもう一度光錘リューゲルを伸ばした。梁を避けて突き刺した光錘リューゲルの抵抗が弱くなる。上の階まで突き抜けたのだ。ツェルは板の継ぎ目に沿って光錘リューゲルを動かし、叫んだ。

切断フッツェ!」

 急いで後ろに飛び退く。

 板の間から、さあっと軽い音が聞こえた。繋ぎ目からさらさらと砂が零れ、会議室の椅子の上に降り注ぐ。次の瞬間、板は破片となって次々と落下し、会議室のテーブルや椅子にぶつかって大きな音を立てた。机が欠ける。椅子が倒れ、肘掛けが弾け飛び、脚が真っ二つに折れる。ツェルは思わず両耳を塞いだ。

 思ったよりも大惨事だ。ごめんなさい。年代物の素敵な椅子なのに。

 扉の向こうで兵士たちが叫んだ。扉が傾き、軋んでいる。

「レイ、行けるわ!」

 ツェルは叫び、レイが振り返ったのを確認してから天井の穴を潜り抜けた。

「エッレー(いたぞ)!」

 扉が砕ける音と男たちの叫び声が聞こえる。

「レイっ?」

 ツェルは床の穴から下に顔を突き出し、レイを探した。

 レイは、床に飛び降りたところだった。飛んでくる矢を光錘リューゲルで次々弾くと、兵らは弓を投げ捨て、剣を振りかざして一斉にレイに襲いかかった。レイは光錘リューゲルをしならせて水平に振るった。足を打たれた先頭の兵が転び、後続がその上にもつれ合うように倒れてゆく。

「イーリョス、エシモー・パ・ダッヒ。ビブ(ごめん、今日は先約があるの。またね)」

 レイは流暢なブラムドワ語で告げると、ツェルの待つ天井の隙間に飛びついた。

 天井をじろりと睨んだ一部の兵は扉の外に走り出てゆく。しかし、一部の兵はそこに残り、壁際の大きな書棚を穴の下まで動かそうとしている。

 レイは顔を歪め、肩で息をしていた。

「少し休んで」

 ツェルは室内を見渡した。大会議室より上の階のことなら知っている。

 青い絨毯に描かれた女神の杖の紋章。書き物机の上には、見慣れた聖典。書棚にびっしりと並んだ書物。ベッドは薄いレースの天蓋に覆われ、高所に設けられた横長の小さな明かり取りから不吉な暗雲が垣間見える。

 聖皇やその側近たちが泊まるための特別室か。ならば、ここは。

 ツェルは光錘リューゲルを天井に伸ばしてみた。思った通り、天井に触れる直前で押し戻される感触があった。ツェルは光錘リューゲルを引き戻した。レイは怪訝な顔をしている。

「ツェル、どうかした?」

「やっぱり。ここは通れないわ。だとしたら……」

「あっ、あの人たち」

 レイが穴を見て叫んだ。穴の下では、下階の兵士たちが三段肩車していた。書棚を動かすより、こちらの方が早いと気付いたらしい。肩当て、胸当てを外した小柄な兵士が上に乗っている。もうすぐ穴に指先がかかりそうだ。

「仕方ないな」

「待って、レイ!」

 また無闇に命を奪うおうとするかもしれない。

 穴の淵に跪いたレイは、振り返って、一瞬ツェルに悪戯っぽく笑いかけた。不意を突かれたツェルが固まっていると、レイは続いて服の首元を緩め、穴から身を乗り出すようにして、兵士に向かって微笑みかけた。

 穴から顔を突き出そうとしていた兵は顔を赤らめ、うっとりとレイを見上げた。その手が穴から外れた。兵は肩車の上からバランスを崩して落ちていった。下敷きになった兵士たちが次々に押し潰されて悲鳴を上げている。

「うわ、痛そう。色仕掛けっていうの、本当に効くんだね」

「一体どこでそんなことを覚えたの」

「カイアに借りた――ええと、演劇の台本かな」

「悪い子ね。それはともかく、急いで」

「どこに行くの?」

 通路に引っ張り出されたレイは、困惑ぎみに天井を見ている。

「ここから上は光錘リューゲルが使えないの。階段を探して」

「どういうこと?」

「説明は後よ」

 ふたりは通路を駆けた。昇降機の場所はわかるが、侵入者がいれば真っ先に塞ぐはずだ。また、分かれ道にぶつかった。登り階段は左右どちらだったろうか。間違えれば兵士たちと正面衝突することになる。

 足を止めたツェルの前にレイが走りでた。

「上りはこっちだよ」

「え、わかるの?」

「音が違うからね」

 狭い石廊を壁伝いに走る。やがて螺旋状の階段が見えてきた。良かった、本当に上り階段だ。

 階段まであと一歩、というところで、レイは突然ツェルを突き飛ばした。何かが空を切って、ツェルの脇ぎりぎりを掠め過ぎた。壁にぶつかって、かつんと音を立てて落ちたものは、矢だ。通路の先から兵士たちが駆け寄ってくる。

 レイはツェルを庇うように前に出た。レイが光錘リューゲルを振ると、鋭い音と共に兵士たちの剣がいくつか弾き飛ばされた。丸腰になった兵の後ろから、また別の兵が駆けつけてきて、レイに向かって刃を振り下ろす。レイは側方に転がってそれを避け、起き上がりざま長剣ほどの長さに伸ばした光錘リューゲルで兵の脇腹を斬り裂いた。兵が悲鳴を上げて倒れ込む。ほっとしたのもつかの間、その後ろの兵らが矢を番える。ツェルは咄嗟に周囲に張り巡らされた糸を両手に絡げ、思い切り引いた。レイに向けて放たれた矢は、光の糸に絡げられ、バラバラと音を立てて散乱した。兵士たちがどよめく。

 糸束を掴んだまま荒い息をついているツェルの手を、駆け戻ってきたレイが引っ張った。

「今のうちにっ!」

 二人は転げるように階段を駆け上がった。レイの手がなければ、ツェル一人だったなら、動揺したままそんな速さで駆け上がるなんてできなかった。あっさり捕まっていたに違いない。

「わわっ」

 先をゆくレイが叫んで、まるで上から押し戻されたかのようによろけた。

「な、何ここ。何かある」

 見た目には何もない空間だ。階段は湾曲しながら続き、少しさきで暗がりへ飲み込まれている。ツェルはその闇に手を突っ込みながら叫んだ。

「レイ、リィを開いて!」

 ここは天井を包むようにして無数の光糸リーリエが張り巡らされている。さっき天井が破れなかった理由はこれだ。この複雑な編み目の中に一つだけ正しい糸がある。正しい糸を引けば糸は解け、それ以外の糸を無理に引き千切ろうとすると、糸はよりきつく窄まり、侵入者の身体に絡みつく。

 この上には「月の儀」のたびに籠もっていた「祈りの間」がある。

 月が実際に見えているかどうかに関わらず、満月の出から月没の時刻まで休まず祈りを捧げ続けるという、かなり辛い儀式。そこでは罪人の糸を断ち切る「切断フッツェ」も執り行ってきた。

 すなわち通いなれたツェルは正解を知っている。光錘リューゲルを当てて糸を読みながら丁寧に確認すれば良いだけだ。でも今はそんな時間はない。幸いここに使われている糸は人同士の絆ではないこともわかっている。それに、この先はリィ持ちしか進めない。となれば。

 ツェルは光錘リューゲルを伸ばし、その編み目をかき混ぜるように大きく動かした。

切断フッツェ!」

 糸が焼け落ちるように切れると、今度は真っ黒なゴム製の蓋のようなものが現れた。

「レイ、行きましょう。ここはリィを開いたまま――」

 レイが表情を変えて後方を振り向いた。どうしたの、とツェルが口を開きかけたとき、廊下の角がきらりと光った。何が起きたか理解するよりも早く、レイが光錘リューゲルを振った。カンッと鋭い音を立てて、矢がツェルの足元に転がってきた。追いつかれた、と理解したときには、もうレイは兵たちに向かって跳躍していた。階段下では、剣の切っ先がレイを待ち受けている。串刺しになる、とツェルは竦み上がったが、レイは宙を舞いながら光錘リューゲルを振るった。兜を強打された兵士たちが次々昏倒する。着地したレイは階段とツェルとを守るように立ち塞がり、後続の兵士四人と打ち合い始めた。

 レイの光錘リューゲルが兵士の大腿を貫き、兵がひとり倒れる。血に濡れた光錘リューゲルを飜し、すかさずその隣の兵の肩を切り裂く。甲高い音を立てて剣が落ち、兵が頽れる。背後から迫る白刃を潜り、蹴り飛ばし、残ったひとりは飛んできた仲間の身体にまともにぶつかってひっくり返った。はあっ、はあっ、とレイの荒い息づかいだけが残る。ほっとしたのもつかの間、廊下の先からは新手が次々追いついてくる。二人、五人、十人。十五人。じりじりとレイが後退する。キリがない。

 風を切る音を聴き取ったレイは、反射的に光錘リューゲルを横に薙いだ。飛んできた矢のほとんどはバラバラと飛散したが、払いきれなかった矢はレイの左腕を切り裂いた。

 腕から血を流しながらも、レイは歯を食いしばり、どうにか踏みとどまった。軍馬の行進さながら、兵士たちが無言で突撃してくる。その後ろからは矢の雨が降ってくる。レイは頭上の光糸リーリエを弾いて矢を防ぎ、目前に迫る白刃に応戦している。多勢に無勢だ。一歩、また一歩、階段へ追い詰められてゆく。

 何人かの兵が頷きあって、ツェルを指差した。レイと打ち合っている数名を残し、他の者たちは手すりのない階段を、側面からよじ登り始めた。やっかいなレイを回り込み、ツェルを先に捕らえるつもりだ。

 剣に応戦するレイは、振り返らないまま叫んだ。

「ツェル、行って! 早くっ!」

 ツェルはしかし、金縛りにあったように動けなかった。

 怖い。言われた通り、一人で逃げ出してしまいたい。でも、レイを置いていって本当に良いの? 何かあったらどうするの? 私に何ができるというの。

 そのとき、大司教のやや冗談めいた声がツェルの脳裏に蘇った。

(ただ、そうですね。危険が差し迫っているときに敵兵の記憶を奪う程度であれば、我らが女神レイェス様も目を瞑ってくださることでしょう)

 ツェルは敵を見据えて光錘リューゲルを上げかけたが、その手を宙で止めた。

 でも、お父様。切る糸を選んでいる暇なんてないんです。助かるためには、全ての糸を根こそぎ切ってしまうしかありません。そうすれば、彼らは赤子に戻ってしまいます。彼らから、彼らたらしめていた記憶を、すべて消し去ってしまうことは、命を奪うことと比べて、一体どちらがより残酷でしょうか――。

 動けないツェルを見て、レイは素早く目の前の相手の足を払い、昏倒させた。相手が起き上がるより早く、剣に応戦していた光錘リューゲルを引き戻し、逆手に持ち替え、後方に向かってぐんと伸ばした。

 光錘リューゲルは鞭のようにしなり、間一髪、今にもツェルを取り押さえようとしていた兵士らの足を強打した。彼らは喚きながら階段を転げ落ちていった。

 しかし、ツェルを救うためのその行動が仇となった。

 元の長さに戻ろうしていた光錘リューゲルを、起き上がっていた兵がすかさず踏みつけたのだ。折らずに引き抜こうと格闘するレイに、ふたりの男たちが同時に体当たりした。受け身を取る間もないまま、レイの上に次々と兵士たちがのし掛かる。レイが大声を上げて、男たちと格闘しようとする様が見えたが、間もなくその団塊の中から光錘リューゲルが転がり出てきて、通路の先で止まった。

 やがて男たちは立ち上がった。レイは髪を鷲掴みにされ、床に膝をつかされ、腰の後ろで両腕を取り押さえられている。顔は石畳にすり切れ、目が腫れている。

 兵士らの視線がツェルに集中した。じりじりと包囲の壁が狭まってくる。無機質な兜の下から漏れる、にやにやした笑みがツェルに迫ってくる。

(切るしか、ない)

 ツェルはこくりと喉を鳴らした。

 人数が多い。チャンスは一度だけ。取り漏らせば、光錘リューゲルを取り上げられてしまうだろう。もっと彼らに近づいてから……。

 ツェルは両手を顔の横に上げ、そろそろと階段を下りた。

「それ以上動くな。武器をこっちに寄越せ」

 一番手前の兵がたどたどしいザンダス語で告げた。兵士たちがさらに距離を詰めてくる。

 レイはツェルに視線を送ってきた。いたずらっぽい笑みを痛々しい顔に浮かべたレイは、弾むように歌いだした。

「剣よ 鎧よ 解けよ 回れ

 回って 愉しめ

 野原に跳ねる パニウのダンス」

 場違いに明るく透明な歌声が響き渡る。

 呆気にとられた兵たちは、次の瞬間、悲鳴を上げて剣を手放した。剣が、鎧が、兜が薄く削がれた果実の皮のように解け、螺旋を描きながら、兵たちに絡みついてゆく。彼らの鉄製の武具は鋼のロープに姿を変え、兵士たちの身体に踊るように巻き付いてゆく。

 兵たちは身体をくねらせ、助けを求めて喚いている。巻き付くロープに四肢を操られているのか、腕を回し、片足で飛び跳ねながら、くるくるとその場を回っている。

 立ち上がったレイは両手を払い、その様をおかしそうに眺めた。

「案外、お似合いだね。しばらくダンスを楽しんでいて――」

 レイは笑みを止めて固まった。

 釣られて動きを止めたツェルにも、その理由がわかった。通路の角を曲がった先からいくつもの軍靴の音が近づいてくる。

 ツェルはレイの手首を掴み、今しがた下りた階段に急いで戻った。

「レイ、リィをできる限り開いて! 力をうちに蓄えないと、ここは通れないのっ」

 ツェルは息を止めて、上り階段を塞ぐ黒い塊に頭から突っ込んだ。弾力のある糸束が押し寄せ、身体に擦れる。擦れた部分はカッと燃えるように熱くなる。侵入者を押し戻そうと蠢く塊を、光錘リューゲルで掻き分け、腕で押し、蹴り飛ばして、無理やり隙間を広げる。全身ぎゅうぎゅうと締め上げられ、息が詰まりそうだ。どうにか顔が向こう側に出た。肩が出た。ツェルは両手で糸を押し、最後に足裏で思いきり蹴った。すると、すぽんっと勢いよく反対側に通り抜けた。

 放り出されたツェルは慌てて近場の糸を掴んだ。振り子のように大きく揺らいだ足が遠心力で周り、鉄棒競技のように半周する。そこで手が滑ってしまい、ツェルは宙に放り投げられた。

「痛ったあ!」

 床に落ちたツェルは涙ぐみながら腰を擦った。弾力のある糸で編まれた床はかなりの衝撃を和らげてくれたが、痛いものは痛い。こんな通り方をしたのは始めてだった。今までは付き添いの神官たちが隙間を押し広げてくれていた。

「はっ、レイっ?」

 そういえば、しっかりと手を掴んだはずなのにレイがいない。

 焦るツェルの足元から、一拍遅れてレイが飛び上がってきた。

「わぁあっ」

 ツェルと同じように宙に放り出されたレイは、手近な糸を蹴ってくるりと回り、きれいに着地を決めて見せた。すりむけた両膝を庇うように手を宛がい、大きく息を吐いている。その手には落としたはずの光錘リューゲルが握られていた。

「はあ、びっくりしたよ。ツェルってばいきなり得体の知れない糸束の中に突っ込むんだから。おまけに光錘リューゲルを拾いに戻っている間に姿が消えているし」

「ご、ごめんなさい。つい焦ってしまって」

「それより、ここは? どうなっているの」

「さっきのは対侵入者の防護壁よ。バネの樹の糸と水の糸とで編まれているの。つまり、ある程度の光糸認識力ハルファ・リィを備えていなければ、ここには入ってこられない。ひとまず追っ手は振り切ったと思っていいわ。ここから上は滅多なことでは入れない特別な場所なの」

 バネは大聖堂を守る一対の御神木のうち、リィを阻害する力を持つ樹木で、「最遠いやとおの樹」とも呼ばれている。バネの糸に打ち勝てるのは、カナンでもほんの一握りだけだ。リィ持ちはザンダス人に多い。さっきの追っ手の中にはいないようだった。

「そっか。それなら良かった。ソーはこの上みたいだね」

 レイの意識はすでに目的の場所に移っていた。さっきリィを開いたときに、ソーの糸を確認したのかもしれない。

「そうね。でも、どうしてこんなところに。この上には御神木の本体が祀られているだけで、他には何もないはずなのだけれど……」

「うわっ」

 レイが突然、飛び退いた。

「根っこが光った!」

「えっ、根っこ?」

 確かに、よく見ると壁の隙間を食い破り、木の根がはみ出していた。儀式のときは周りに月光を集めるための大きな鏡が立てかけられているから、まったく気付かなかった。

 その根の表面を、青い光が断続的に走り抜けていく。大昔のハフラムで使われていたという光ケーブルみたいだ。

「って、こんなことしている場合じゃなかった。ツェル、階段はどこ?」

「階段はないの。あそこから上がるしかないわ」

 ツェルは天井の一点を指した。建物三階分ほど上に見える天井の一部に、ぽかりと穴が空いている。

「この先は光糸認識力ハルファ・リィを持つ者だけの聖域だから」

 レイはさっそく光糸リーリエを昇りはじめながら、小ぶりな鼻をふんと鳴らした。

「七つの国と教会が協力しあって、上も下もなく平らかな世界を女神の御許に築きましょう、が七国連合と教会の謳い文句じゃなかったっけ。教会ってどうも信用ならないね。ブラムドワとも裏で繋がっているんじゃないかな。この場所って、元々は教会の施設だったんでしょ。本で読んだよ。何をする気か知らないけど、もしソーにひどいことをしていたら、絶対に赦さない!」

 上階に急ぐレイの後に続きながら、ツェルは悶々とした。

 レイが非情になれる理由に思い至ったからだ。

 世間から隔離されてきたレイは、命の尊さが想像できないのだ。たとえ敵であっても、彼の故郷にはきっと家族がいて、友人がいる。命を奪えば、戦とは無関係の誰かから大切なものを奪うことになるのだ。それをレイは想像できない。だから敵だと思えば容赦なく命を奪う。幼子が無邪気に虫を踏み潰して遊ぶのと同じことだ。

 でも、レイはツェルよりも年下の少女だ。拘束が解けた今、他人と関わる機会だって増えていくだろう。そのときはきっと、奪ってしまった命の重みに後悔するはずだ。――と同時に、世間にはソー以外にもたくさんの人間が存在することを知り、大切な人だってきっと増えていく。

 彼女にとって必要不可欠な人が、ソーだとは限らないのだ。

 きっと雛の刷り込みと同じだ。

 初めて外の世界からやって来て人間的な関わりを持ったのが、たまたまソーだっただけ。

 面倒見の良いソーは、きっとレイの境遇に同情しているだけ。だから、たったひとりの友人に縋り付くレイを振り払えないのだ。ずいぶん前から知り合いだったとはいえ、会話もできなかったふたりだ。互いについて知っている事なんてごく限られているはず。レイに残酷な面があるってことだって、きっとソーは知らないだろう。もし今日のレイを見れば、もしかしたら、ソーは――。

 ツェルは両手で自身の頬を打った。

 ああ、だめ。レイは良い子よ。賢く勇敢で、優しさもある。何度も私を助けてくれた。こんなことを考える私が嫌。そんなこと考えている場合じゃないのに。

「ツェル?」

 早くも天井の穴に手を掛けたレイがツェルを呼んでいる。

「怖いなら、ここで待ってる?」

「い、いいえ――」

 そのとき、二人は短い悲鳴のようなものを耳にした。今にも掻き消えてしまいそうな、か細く弱々しい、掠れるような声だった。でもそれは確かに、二人が探していた人の声だ。

「ソー!」

 ツェルとレイはほぼ同時に叫び、穴の中に飛び込んだ。

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