【4】
「あなた、それは一体どういうことなの」
「ですから、えぇと、うちの主人がその目で見たというの。真犯人らしき人物を。例の咎人を殺した犯人は捕まったそうですが、どうもそれは主人の目撃した犯人像とは全く違っていたそうで」
テュナがツェルを見る。二人はこくりと頷きあうと、少し先の灌木の傍に座り込んだ。ここならダンたちの目に留まりにくいし、木の陰になって婦人たちからも気付かれにくい。二人はどちらからともなく手近な野花を摘んで編みはじめた。これならもし誰かに見咎められても、花輪を作って遊んでいたと言い訳ができる。
「どうして誤認だとわかるの。ご主人は逮捕された人のことも見たの」
「いいえ、そういうわけでは」
ツェルは座ったまま茂みの向こうを覗き込んだ。
気まずげに口ごもった黄色いドレスの女性が、遊んでいる子供たちを落ち着きなく見やっている。
なかなか続きを口にしない婦人に、ダンの母親がじれったそうに口を挟む。
「なあに、はっきりしないわねえ」
他の婦人たちも加勢に入る。
「ご主人の勘違いでしょ」
「他の事件ならともかく、この件に関してはそうそう間違いなんて起こらないわよ」
「あら、どうしてそう思われるの」
「だって、あそこの警備を破れるような人が何人もいるはずないもの。あの岸壁収容所は固い岸壁をくり抜いて作られていて、掘って脱獄することは不可能。警備に当たるのも選りすぐりの聖堂騎士たちの交代制。脱獄者を一人も出したことがないので有名なのよ」
と、やたら鍔の広い帽子を被った婦人が、聖堂の裏手に見える山麓を指差した。
「連合国の重犯罪者がわざわざあそこに送られてくるくらいだもの。あそこには、大司教様自ら索敵線を敷かれているのよ」
「大司教様が。それじゃあ気付かれずに襲撃するなんて絶対に無理ね。犯人は一人だったのでしょう。どうやって逃げたのかしら」
「それが見張りも全員殺されてしまったそうよ」
「全員ですって」
婦人たちは興奮気味だ。
「ツェルさま、大司教さまが糸を敷かれたって本当?」
テュナが耳元でツェルに囁く。ツェルはこくんと頷き返した。
「うん。そうらしいわ」
父から直接聞いたわけではない。神官たちが話しているのを小耳に挟んだだけだ。何しろ父が仕事のことを話してくれることはほとんどない。
黄色いドレスの婦人が何か話している。ごく小声なので聞き取りづらい。ツェルたちは口を噤み、慎重に耳をそばだてた。
「もちろん、犯人像が違うというのにはちゃんと理由があります。捕まった犯人は大人の男だったそうですが、夫が目撃したのは子供、それも、うちのララと変わらないくらいの年の子だというの」
「えっ。ララちゃんって、まだ十歳でしょう」
顔を寄せていた四人が同時に息を飲み、大仰に背を反らせた。
「まさか」
「あり得ない」
「私も最初はそう思ったわ。でも、同行したうちの雇い人も見たと言うから」
「事件が起きたのは明け方だったと聞いたわ。ご主人はどうしてそんな時間に山へ?」
「前の晩からご宿泊のお客様がどうしてもカナンの山雉を召し上がりたいと仰ったの。市場には入荷がなくて、でもご贔屓様のお願いは無下にもできないし。それで、夜明けと同時に主人が直接出向いたんです。たまにあることなんですよ。それで獲物を見つけて、狙い澄ませているときに突然、山雉が空を気にして逃げ出したそうです。山雉が見上げた空を主人も確認してみたところ、そこには黒いローブで頭から足元まですっぽり隠した人影があったのだとか。目撃したことを騎士団に伝えるかどうか迷っているうちに、犯人が逮捕されたと聞いて、私たちは安心していたんです。でも、よくよく話を聞けば捕まった犯人は大人だというではありませんか。心配した夫は、見たことを伝えるため聖堂へ向かいました。だけど、全然取り合ってもらえなかったそうです。犯人については確かに裏が取れているから問題ない、とかで」
婦人たちは互いに目を見合わせた。困惑しているらしい。
「大聖堂がそういうなら、そうなのでは」
「私もそう思いますが、夫はひどく気にしていまして。ただの子供があんなに長い時間空を翔けられるはずがないし、確かにあの子は返り血で染まっていたって言い張るんですよ」
「血で汚れた子供だなんて」
「空を翔ける子供、という点だけでいえば、思いつくのは御子様くらいですよね」
「えっ、それじゃあ、まさか」
「まっ、まさか、御子様が犯人だなんて、そんなこと私も主人も思っていませんよ!」
黄色いドレスの夫人が必死に否定するのを見て、ツェルは心底ほっとした。ツェルが殺人犯だなんて、冗談じゃないわ。
「とにかく、もし誤認逮捕だったのなら、真犯人はまだその辺りをうろついているということですよね」
婦人たちは恐る恐る辺りを見遣り、身を寄せ合っている。
「まさか、そんな。別にあなたを疑うわけじゃないけど、断崖牢獄を破って何人も殺した犯人が子供だなんて、ありえるかしら……」
そのとき、ツェルの後頭部を何かが強かに打った。
「だ、大丈夫ですかっ」
テュナがツェルの背を助け起こした。助け起こされてはじめて、ツェルは自分が前のめりに倒れていたことを知った。目の前に火花が散り、後頭部に焼けるような痛みがある。
ツェルは涙目で辺りを見回した。すぐ傍を転げているボールがある。手を伸ばして拾い上げてみると、詰め物をされた固い革張りのボールだった。ずしりと重い。これがぶつかったのか。痛いはずだ。
「わりーわりー」
ボール遊びをしていた子供の一人が駆け寄ってきた。いじめっこのダンだ。彼はにやにやしながらツェルを見下ろした。
「なんだ、おまえら。外まできて草取りかよ。うける」
ツェルたちが何をして遊ぼうと、この子たちに関係あるだろうか。ツェルが睨むと、ダンは片手でボールを取り返し、もう一方の手でツェルの頭から帽子を奪った。
「おまえ、いいもの持ってるじゃん。ちょうどゴールが欲しかったんだよな」
「そっ、それはツェルさまの」
テュナの声は今にもかき消えそうだ。
「あぁん?」
ダンがテュナの首元を乱暴に掴む。ダンがその手を乱暴に払いのけると、テュナはよろけて震えたが、白い顔を真っ赤にしてダンを睨んだ。
「お返しして。それは御子さまのものです」
「うっせえな。おまえになんの関係があんだよ」
「わ、わたしは神官だもの。もちろん関係あるわ。ツェルさまは何も悪いことなんて……」
「してただろ。さっきからおれたちの方を見て、こそこそばかにしてたじゃねぇか」
「そ、そんなことしていないわ!」
テュナはぶるぶる震えている。
ツェルはずきずき痛む頭を抑えながら、声を上げるべきかどうか迷った。大きな声を上げればたぶん影は駆けつけてきてくれる。今も出るべきかどうか、そわそわとこちらを窺っているから。でも父からは子供同士の問題で容易に大人を頼ってはいけないときつく言われている。それに、ツェルが声を上げればダンはますます調子に乗る。
きゅっと下唇を噛むツェルの前で、テュナは震えながらダンに立ち向かっている。
「帽子をお返しして」
「御子は女神さまの子ですから、欲しがってはいけませーん」
後ろから追いついてきたそばかすの少女ララがそう言うと、後ろの一団のうち幾人かの子供が吹き出した。
帽子に手を伸ばしたテュナをダンは乱暴に押しやった。すかさず他の子供たちがテュナの両腕を抑えにかかる。
「てめえは引っ込んでろ」
少年は指先でくるくる帽子を回しながら、ツェルの顔を覗き込んだ。
「よお、ツェル。今日はこないだみたいに暴力振るわないのか。『あたしのリボン返してえ』ってさ」
「神官さまあ、ぼく、さっき転んで、ここ怪我しちゃったんです。それで手当しなきゃって、ダンが落ちてたのを拾ってきてくれたんですう」
「御子さまのリボンだなんて知らなかったんですう」
三人の子供らが一月前の再現劇を始め、子供たちは一斉に笑いだした。
もう我慢できない。ツェルは立ち上がりざま、少年に奪われた白い帽子を掴んだ。
「うわっ」
突然のことにふらついた少年は背中からひっくり返ったが、あいにく帽子から手は離さなかった。掴んだ帽子に引っ張られる形で、ツェルはダンの上に倒れ込んだ。
ツェルは無言で帽子にしがみついた。一言でも何か言おうものなら、またさっきのように笑いの種にされるだけだ。
「はなせっ、な、なんだよおまえっ。大人に言いつけるぞ」
力尽くの取り合いだ。
「おまえ、女神の子供なんだろ。笑ってなきゃいけないんだろ。持ってるモノは何でも分けてやれって神官さまたちに言われてただろ。こんな帽子ごとき、なんだよ。やい、ニセ御子!」
何人かの少年たちが加勢に飛び込んできた。頬を、腕をひっかかれる。後ろから誰かに髪を引っ張られる。それでもツェルは帽子から手を離さない。
御子なんて知らない、知るものですか。ツェルは何もしていなかったじゃない。それなのにどうして、ツェルのものを取り上げられなければならないの。
揉み合っているうち、ふいに誰かの腕がツェルをそこから引き離した。いつの間にか影が駆けつけていた。もう一人別の影がダンを羽交い締めにしている。
「御子様っ」
「あんたたち、一体何してるの!」
騒ぎに気付いた母親たち、聖堂騎士らが駆けつけてくると、影は何事もなかったかのようにツェルとダンから離れた。
母親たちは青ざめ、一斉に頭を下げた。
「申し訳ございません。一度ならず二度までも、うちのドラ息子が御子様を」
「こいつが先におれを付き飛ばしたんだ」
ダンが叫ぶ。
ツェルは怒りで顔を真っ赤にしながら肩で息をした。何か叫び返してやりたい。でも、でも。
聖堂騎士たちが困り顔を見合わせていると、その後ろから、影たちに先導された大司教がやってきた。ちょうど支度を終えて元老院塔へ出かけるところだった彼は、外出用のローブを羽織り、後ろに司祭、聖堂騎士たちを従えていた。
「どうぞ頭をお上げください」
大司教は婦人と目の前の少年たちに柔和な笑みを向けた。
「まずは状況を整理しましょう。どうしてこのようなことになったのか」
「ちょっと帽子を貸してくれって頼んだだけだ。そうしたら御子さまが取ったとか何とか勝手に勘違いして、おれを突き飛ばしたんだ」
「嘘よっ」
ツェルは叫んだ。
「ツェルは何もしていなかったわ。あなたがいきなり帽子を取ったんじゃない」
「ちゃんと断っただろ。なんだよ、帽子ぐらいでムキになって。女神さまの子って、こんな乱暴なのか。聖典に書いてあるのと全然違うじゃん」
「ダン、なんてことを」
悲鳴のように叫んだ母親は今にも卒倒しそうだ。
「すみません、御子様、大司教様。この子は別に悪気があるわけでも、信仰心がないわけでもないのです。ただ少しばかり、元気があり余っているだけでして」
「いえ、こちらにも非があるようでしたから。ツェル、怪我はありませんね」
大司教はツェルの全身をざっと眺めた。後頭部がずきずきと熱を持っているが、大司教は気付かなかった。そのままツェルの両肩に手を置き、厳しい眼差しで見下ろした。
「今のきみを見て母なる女神はどう思われるでしょう。子供の喧嘩はよくあることです。しかし、女神が俗世のものに執着するでしょうか。自分のものだといって暴力を振るうでしょうか」
「でも、大司教さま」
テュナが泣きだしそうな声を振り絞るが、大司教は手でそれを制した。ツェルが何というのかを待っている。
ツェルは唇を噛みしめて震えた。
「あなたがすべきことはわかりますね、ツェル」
悔しい。悔しい。どうしてツェルが謝らなくてはならないの。でも、絶対泣いたらだめ。泣いたら負け。泣いたって、どうせ誰もツェルを可哀想だなんて思ってくれないのだから。だって、みんなが思っている。ツェルは女神さまの子だから。すべてを赦し、与えるのが当然だって思っている。
「…………………………ごめんなさい」
羽虫の鳴くような声で謝罪を絞り出すと、大人たちはあからさまにほっとした顔をし、和解しあった。
母親らに連れられて子供たちが庭園を出て行く。
大司教もまた時間に追われるように何か慰めのような、説教のような言葉をツェルにかけて、いそいそと庭園を出て行った。でもツェルは何と言われたのかもわからなかった。自分の中で嵐のように吹き荒れるものをぶるぶる震えながら押さえつけるので精一杯だった。
気がつけば庭園にはツェルとテュナと、影たちだけが残っていた。
「あの、ツェルさま。お怪我の手当をしましょう?」
テュナの言葉に、まだ嵐の収まらないツェルは背を向けた。
「ごめんね、テュナ。先に戻っていて」
テュナはしばらくためらったが、やがて振り返り振り返り聖堂の中に戻っていった。
しばらく、ふらふらと庭園内を歩き回った。かなり経ったように思ったが、自由時間の終わりを報せる鐘はまだ鳴らない。
気がつけば聖堂裏手の御神木のところまで来ていた。大聖堂の表と裏手、それぞれに聳える表裏一体、まるで半双のように一対の御神木。
この世の始まりと共に生まれた最初の樹コドに、この世の終わりまで寄り添う最遠の樹バネ。
ツェルは最遠の樹に頬を押し当て、目を閉じた。
いつもなら大勢の子たちが集まっている時間帯なのに、庭園には誰もいない。ダンたち以外にも集まっていたのに、みんな騒ぎを見て帰ってしまったらしい。
ツェルはふ、と笑った。
まるでツェルが追い出したみたい。出来損ないの、御子になりきれない御子だから。
でも、ツェルはそんなに悪いことをした? 自分のものを取られないようにすることは、そんなに悪いこと? もし他の子だったら、取った方が悪いって叱られるじゃない。それなのにツェルだけがいつも違う。いつだって悪いのはツェル。女神の子がこの世のものに執着するなんておかしいからって……。
こみ上げてくる涙を無理矢理飲み込んでいると、次第に空虚な気持ちになってくる。
――誰もツェルの気持ちなんてわかってくれない。御神木でさえ半双がいるのに、ツェルだけ、誰とも繋がっていない。半双が傍にいればツェルの気持ちだってきっとわかってくれただろうに。ツェルはひとりぼっちなんだ。ツェルは女神さまの子だから。皆とは違うから。
「消してやろうか、あいつを」
突然後ろから、不穏な子供の声が響いた。
びくりとして声のした右手を振り返ると、すぐ先の茂みが揺れた。
現れたのは目深にフードを被った見知らぬ子供だ。年はツェルと同じくらいだろうか。
「だれ?」
少年は僅かにショックを受けたような様子を見せて動きを止めた。じっとツェルを見つめている。木漏れ日が痩せた白い顔の上に落ちる。女神の蒼石のように蒼い瞳と、漆黒の髪がさらりと揺れる。
「私はきみをよく知っているよ、リァン」
ツェルは驚いて、少年の目をまじまじ見た。
カナンのツェル・ト=リァンが「リァン」と呼ばれることはあまりない。「リァン」は教会から授けられる「聖名」というもので、そこには天命が宿ると言われている。いわば称号のようなもので、格式張って呼ぶとき以外、口にすることはない。そのせいか、その名で呼ばれると、ハフラムのもう一人の自分、リァン=エーゲルが呼ばれたように感じる。
「約束を果たしにきた。遠い昔の」
少年が微笑む。切れ長の双眸の鋭さが和らぐと、なぜかツェルは息苦しいような気持ちになった。それを大人は「切ない」と呼ぶのだと、このときのツェルにはまだわからなかった。胸の奥深く、無意識の底の見えないところで何かが揺れている。その仄かな揺れは、ツェルの胸をとくとくと脈打たせた。
「約束?」
遠い昔? ずうっと前に会っていた?
少年の指が伸びてくる。ツェルは咄嗟に目を閉じた。目を突かれるのかと思ったが、少年はツェルの瞼に指先で触れ、それから頬を撫でてきた。ツェルは気恥ずかしいのを隠そうと、少年から顔を遠ざけ、強めに主張した。
「泣いてないわ」
「そのようだな」
少年はおかしそうに息を零す。
「懐かしい瞳だ。大人しそうに見えるのに存外気丈なところは変わらぬな」
子供なのに大人みたいな、そして古風な言い回しをする。ツェルは落ち着かない気分で少年を見つめた。深い青の双眸が目の前にある。吸い込まれそうな紺碧色だ。どうしてそんな目でこちらを見るのだろう。まるで長いこと探し回ったものをようやく見つけ出したかのような。なんとなく居心地が悪くて、ツェルはそこから目を逸らした。
「ねえ、人違いじゃない? わたし、あなたのこと、たぶん知らないと思うわ」
相手はツェルを知っているけれど、ツェルは相手のことを知らない。そんなのよくあることだ。何か勘違いしているのだろう。
「なるほど、この髪色のせいか。これは染めている。よく見ろ」
と、少年はフードを少しだけ持ち上げ、耳元の髪を掻きあげた。奥の方の根元が少し青みを帯びているように見えて、ツェルはびっくりした。ハフラムには青い髪の人はちらほらいる。でもツェルの世界で見たのは初めてだ。
フードを元通りに戻している少年にツェルはどきどきしながら尋ねた。
「髪が青いのね、めずらしい。どこから来たの?」
「私はずっとここにいた。きみが忘れているだけだ。思い出せぬのならそれで良い」
「でも、気になる。どんな約束だったの」
「話したところで意味はない。大事なのはきみがきみであるという事実だ。思い出をなくしただけなら、また作れる。そうだろう」
切羽詰まったような物言いだった。目はぎらぎらと熱を帯び、ツェルを飲み込もうとしているみたいだ。
ツェルはそこから目を逸らし、左手の大聖堂の方を見やった。誰か気付いて呼びに来てくれないかしら。そろそろ外遊びの時間は終わりですって。この子、なんだかちょっと変よ。
「わ、わたしもう行かなくちゃ」
「どこへ行きたいのだ」
「あのね、さっきも言ったけれど人違いよ。あなたとは初めて会ったもの」
何しろこの印象的な青い眼と古風な言い回しだ。一度でも会っていたら忘れるはずがない。
「人違い?」
ただでさえ切れ長の少年の目が細まり、より印象がきつくなる。ツェルが思わず首を竦めると、少年はふんと鼻を鳴らした。
「まあ、いい。それで、どいつから始末してやろうか」
「始末って」
「さっきの連中だ。あいつらがおまえを苦しめるのだろう。私が消してやる。どいつからがいい。あの子供か。それともあの大司教とやらか」
ツェルはどきりとした。
「ど、どういうこと」
少年が薄い唇を開きかける。そのとき、聖堂の方が騒がしくなった。外門が開き、いつもより多く配置された警備兵たちの間を縫って、伝令らしき人物が駆け込んでくる。
少年が舌打ちした。ツェルが振り返ると、少年はローブを翻して踵を返すところだった。ふわりと風に舞った黒いローブの下にベルトで結わえた細い腰が見えた。そしてそのベルトに差し込まれた、妙に見覚えのある物も。
「えっ……光錘?」
時間をかけ、苦心して造りあげたものだから、一目で真の光錘とわかった。何しろ伝承や古文書を頼りに試行錯誤するしかなかったのだ。失敗に失敗を重ねて、疲労のあまり目眩で倒れたりしながら何ヶ月も取り組んで、やっとの思いで完成させたのだ。それなのに完成と同時に大聖堂の宝物庫に収められ、作った当のツェルでさえ、ろくに触らせてもらえなかった。材料からして普通の光錘とは訳が違う、大きな力を秘めた特別な道具だ。誰かが使うという話は聞いていない。見ず知らずの子が、勝手に持ち出して良いはずがない。
少年はもうこちらを見向きもしない。ツェルの前で一目散に空を駆け上がっていく。
「待って!」
ツェルは咄嗟に瞳を開いた。ツンと刺すような痛みが瞳を貫く。
最初に感じた痛みは凍えるような冷気となり、瞳から目の奥、喉の奥、肩から腕、腹から足先へと駆け巡りはじめる。
たちまち中空に、張り巡らされた細かい網目のような光の糸が現れた。
これこそが光糸――女神がこの世に与えた、万物を繋ぐ絆の糸だ。糸はひとつひとつ異なる色を宿してきらめいている。淡い空色。秋風に揺れる麦の色。火を溶かしたような緋色。若葉の緑。それぞれがそれぞれの命の色を宿して鮮やかに輝いている。
ツェルは足元の一点だけに集中した。すると余分な糸が淡く霞み、小さな足場だけが鮮明に浮かんでいる状態になった。ツェルはその足場に片足を乗せてみた。瞳から流れ込む冷気はとくとく脈打ちながら身体を駆け巡っている。足場は安定している。
よーし、と意気込むと、ツェルは右、左、右、左、と次なる足場へリズミカルに意識を移しながら、そのまま空を駆け上がった。得体の知れない光錘泥棒を追いかけるために。