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ツェルト・リァン-二つ世と未来の女神-  作者: Ari
§11 生命の挿し木 Side-H
34/59

【2】

「もしかして、『種の保存』のため?」

 惑星法で動物のクローンは原則禁止されているが、例外はいくつかある。そのうちの一つが「種の保存の目的のために星議会が許可した場合」だ。

 イヴはこくりと頷いた。

「私たちが思っている以上に、クローンはたくさん作られているのかもね。前にゼノンと二人でここに来たときは、もう一頭、大人のヨクサスがいたの。それも全く同じだった。目の色、それから白い羽毛の位置と形。少し抉れている蹄まで」

『抉れているって、怪我の痕?』

「まさか、後天性生体情報調整ミラーリングまでやっているの?」

「うーん、そこまではしていないと思うけど」

 イヴの言葉にゼノンが同意した。

「さすがにね、それは例外なく禁じられているから。もし本当にやったとしたら、生体認証が主流のハフラムは大混乱に陥るよ。観察対象としてマーキングでもしているんじゃないか」

『だよねえ。びっくりした』

 イヴ、ゼノン、メイアのやりとりを背後にリァンは二頭のヨクサスを改めて観察しながら、歴史のテキストを思い出していた。

 千年前の戦争の後、ハフラムからは次々と生物が失われていった。すべての動植物が失われゆく中、人々はこのセントラルドームを建造した。だが、その完成を待たずに絶滅してゆく生物も多かった。当時の人々は種の保存を試みた。しかし草や虫、微生物など、生命の多様性はとても人の管理しきれる量ではない。絶滅までのリミットと、保存に要する時間との戦いになった。そんな中、人にとって重要性の高い生物が優先された。

 大昔には人を乗せて飛ぶことができる動物として重用されたヨクサスも、すでに飛行技術の発達した当時では、食料や薬剤の材料になる生物より重要性は低かっただろう。

 クローンであっても、体毛の色を変えるなどして、多少見た目を調整することは簡単にできる。そうしないのはあまり意味がないからだろうか。見た目を少しばかり変えても、個体の持つ先天的な特徴は大きく変わらない。番がいなければ新たなヨクサスが誕生することはない。雌雄転換されたクローンは奇形や短命が多いし、クローン同士の近親婚となればなおさらだ。そうして最後の一体になってしまった。

 保存。クローン。最後の一体。ニセモノ。

「時の流れに置き去りにされた哀れな造物……」

 ぽつりと意図しないフレーズがリァンの口から漏れた。どこで聞いたフレーズだろう。テキスト。授業。VRゲーム。動画。ううん、違う。もっと直接……誰かの口から……。

「いきなりどうしたの。何かの引用?」

 イヴは不思議そうにリァンを見ている。

 リァンは掴んでいた柵が細かく振動していることに気付き、両手をそこから離して握りしめた。

『リァン、大丈夫? もしかして寒い?』

 首のチョーカーからメイアの声が聞こえてくる。メイアに届く映像も揺れていたのだろう。

「いいえ。大丈夫。ちょっと歩き疲れたみたい」

 イヴとゼノンが両側からリァンの腕をとった。

「よし、休も。薬は持ってきてる?」

「ううん、二日に一回飲むものだから。ごめんなさい、本当に大丈夫よ」

「だーめ。休憩しなさい」

「ちょうど昼だ。そこでランチにしようか」

 三人はヨクサスの檻から離れた。

 赤いパラソル付きのテーブルにリァンを座らせ、体調に問題ないか何度も繰り返し確認してから、イヴとゼノンは無人売店に向かった。

 リァンは水の入った保冷ボトルを両手で包み込んで、広い通路を挟んだ向こう側にいる二頭のヨクサスをぼうっと眺めた。

 クローンって一体、何なのかしら。

 コピーされた肉体はオリジナルの記憶を持たない。別の生を歩む。それは一卵性双生児と同じように、別の存在だといえるはず。でも肉体の観点からいえば、クローンの生とは、オリジナルが歩むはずだったもう一つの生とも呼べるかもしれない。クローンだけの本当の生なんてものが存在するのかしら。

 怪我で失った腕を本人の細胞から復元し、元通りにくっつけることと、どこがどう違うの? 複製された肉体に脳があるかどうか? 心臓があるかどうか? では、心臓移植を受けたら、それは他人? 首から下はそのままでも、頭をすげ替えたら他人になるの?

 ずきずきする頭を押さえる。目の前にトレイが置かれて、リァンは慌てて頭から手を離した。

「どうしたの? 頭でも痛む?」

 両手に一つずつ保冷ボトルを持ったイヴがリァンを覗き込んだ。

「温かい飲み物の方が良かったかしら」

「ううん、ちょっと陽射しが眩しかっただけ。冷たくて助かるわ。お昼ありがとう、ゼノン。いくらだったかしら」

「どういたしまして。別にこれくらい良いのに」

 ゼノンは手の中のトレイをテーブルに置いてから、軽く手首を振った。宙に文字が描き出される。お会計情報だ。リァンは首に着けた装身情報端末スピオに指示を出した。

「即時送金、三ハイリー。ゼノン宛てで」

 ゼノンはちらと腕の装身情報端末スピオを確かめた。

「うん、着金したよ。メイアごめんな。後で土産を持っていくから」

『そうだよー、ずるいよ。私にもちゃんと食レポして。あたかも同じものを食べたかのように感じられるように』

「マジで?」

「ファイトー、ゼノン」

 イヴはにやにやしながらこぶしを握ってみせる。ゼノンはそれを見て嬉しそうに笑うと、リァンの斜向かいの椅子を引いて軽く咳払いしてみせた。

「えー、こちら、動物園のおすすめ商品、ヨクサスバーガーです。バンズの表面は見た目よりパリッとしていますね。色が黒いのは炭を混ぜているからだそうです。デトックス効果があるらしいですよ」

「ちょっと、途中から健康食品の宣伝になってるよ」

 イヴが冷静に突っ込む。リァンは堪えきれず吹き出した。三人は一口毎に食レポを続けた。メイアからは途切れなく笑い声が送られてきた。スマイルボタンを連打しているとみえた。

 珍妙な食レポ大会が終わると、三人は背もたれに寄りかかり、笑いで引き攣れた腹筋を休ませた。

 気がつけばがら空きだった五十席ほどの丸テーブルは三割ほど埋まっている。来客の多くは二人連れだ。一人で来ている人もかなりいる。リァンたちのような三人以上のグループは他に二組しかいない。人のまばらな動物園に無人売店の天井に取り付けられた小さなスピーカーから陽気なポップスが流れる。ヴォーカルも作曲もAIだ。歌詞だけは二百年ほど前に実在した詩人が創った有名な唄だった。拾い上げる人もほとんどないまま、アップテンポの曲は広い園内に消えてゆく。

「本当に天井があるんだなあ」

 しばらく無言で椅子に凭れていたゼノンがふいに呟いた。両手を頭の後ろで組んだままゼノンは光の溢れる空を見上げている。イヴとリァンはサンドイッチの包み紙を畳む手を同時に止めて同じ場所を見上げた。

「知ってた? ほら、あそこ。ちょうどドームの継ぎ目があるんだ」

 ゼノンが右手を頭から外して空の一点を差す。ヨクサスの檻から少し右手の方だ。よくよく目を凝らした先には、うっすらと切れ目のようなものが見えた。

「うわ、ほんとだ」

 イヴが呟く。リァンは椅子に凭れ、上体を少し後ろに倒した。ヘアピンのカメラからメイアに映像を共有しているからだ。

『おお、ほんとだ』

「すごい」

 三人で切れ目をまじまじと観察していると、ゼノンが続けた。

「これを見るために、わざわざここに来るやつも多いんだよ」

 ここは閉鎖されたドームの内側だ。いつも目にしている空はドームの天井に投影された映像に過ぎないということは、知識として知っている。でも、普段そうと意識することは全くない。ツェルの空を知っていてもなお違和感がないほど、リァンが目にするのは自然な空だ。白い雲がゆっくりと流れ、陽は季節毎に少しずつ時刻をずらしながら毎日同じ方角から登って、決まった方角へと沈んでゆく。そして夜には三つの月と星々が輝く。大昔ハフラムの空に見えた光景と同じものを再現している。雨がないことだけがツェルの知る空と違う点だ。その空に、切れ目がある。

「あそこだけ神様が破りとったみたい。創ってはみたものの、この世界が気に入らなかったのかしら」

 リァンが呟けば、ゼノンがうへえと呻いた。

「乱暴な神様だなあ」

『怖いこと言わないでえ』

 メイアの打ち込んだメッセージをAIは笑い声として送ってきた。でも、もしかしたら実際は怖がらせてしまったのかもしれない。AIは文字情報だけでは感情を読み取れない。VRシートで神経を接続しているわけではないのだから。

「ごめんなさい。縁起でもなかったわね」

「誰も気にしてないってば。どうせ本当のことだし」

 イヴの放った言葉が氷塊のように足下に落ちてきた。ひやりと漂う冷気に気付いたイヴは身を竦めた。

「ご、めん。やだな、私。自分の気持ちだけじゃなくって、人の気持ちまで思いやれなくなってる」

 イヴは目を上げてゼノンを見た。

「ねえ、やっぱりさっきの話、なかったことにしない?」

「しない」

 何の話かわからないが、穏やかなゼノンにしては珍しく斬り捨てている。

「どうせ最後かもしれないんだ。俺だって、明日がどう転ぶかもわからないってときくらい好きに生きるよ。三節の間、ずっと後悔してたんだ。もう間違えない」

 スピーカーの向こうのメイアが小さく息を飲んだのがわかった。機械を通さないメイアの息づかいだった。リァンは恐る恐るゼノンとイヴを見比べた。

「もしかして、二人は?」

『お、おお?』

 ゼノンがへらりと笑い、親指を立ててみせる。イヴはぷいと横を向いた。

「この物好き、どうにかしてよ。リァン。私、もう誰のことも好きじゃないって、はっきり言ってやったのよ。おまけにテランだって言ってるのに」

『えっ、イヴがテランっ? ゼノン、なんでそんなに落ち着いてるの』

 メイアの責めるような声が響く。ゼノンは特に焦る様子もなくそれに応えた。

「薄々気付いてたからさ。それに今じゃ罹ってないやつの方がレアなくらいだろ。幸い俺は今のところレア側にいるけど、いつどう転ぶかわからないからねえ」

「ほんと、呆れるほどの物好きね」

「今さらだよ。俺は変わり者だって言いながら付き合ってくれたイヴだって、やっぱり物好きだと思うよ」

「そんなに珍しくもないわ。今どきVRに夢中な人なんて、他にもたくさんいるでしょ」

 とフォローすると、ゼノンは困った顔をして後頭部を手で掻いた。

「いや、オタクって話じゃなくてさ。俺って地味な顔立ちしてるだろ。背もそこまで高くないし。正直、そんなモテる方じゃない」

「ええっ、そんなこと」

 リァンは返しに困った。確かに、美形揃いのハフラム人にしては、ゼノンは地味な方かもしれない。でもハフラム人にしては、というだけだ。背だって特別小さいわけでもなく中肉中背だし、髪型に気を遣っているし、ファッションセンスも良い。何より優しくて気が利く。イヴだってそういうところを好きになったのだろうに。

「だからイヴも、もっと良いやつ見つけたんじゃないかって、へこんでいたんだ。けど、そうじゃなかった。テランのせいだった」

「何度も違うって、言ったじゃない。本当に後悔するよ。一緒にいてもいいって言ったのは……そうすれば、あんたも私の言いたいことがわかると思ったから……」

「いいんだよ。それでも」

 ゼノンはふと真顔になった。

「三節前にみたいに、何の説明もなく放り投げられるよりかはさ。覚悟しとく。理由話してくれて、会ってくれるってだけで、今はいいんだ」

 イヴは下を向いたまま小さく呟いた。

「私の嬉しいと悲しいは、本当、どこ行っちゃったんだろ」

 今は二人の会話だ。割り込むべきではない、そう思っていたリァンだったが、堪えきれずゼノンに疑問をぶつけた。

「ねえ、ゼノン。相手が自分を好きでなくても、一緒にいることに意味はあると思う? 離れているときよりも、辛いかもしれないわよね?」

 ゼノンは息を零すように笑った。

「だって会わなくなったら、それっきりじゃん。傷つく覚悟くらいはするよ。それだけの価値があると思えばさ」

「ええいっ、もうやめんか皆の前で。あんたちょっと、頭のねじ飛んじゃってるんじゃない」

「お、なになに。恥ずかしいと思う気持ちはまだあるんだ」

『相変わらずのバカップル』

 ゼノンは笑いながらテーブルにつっぷしたイヴを宥めるように頭の上に軽く手を乗せ、それからリァンを見た。

「ところで今のって、前に言ってた片思いの相手のこと?」

「違うわ。それは、ただのVRの……」

 いくら憧れても、目を覚ませば消えてしまう、うたかたの夢。忘れようと決めた。ツェル・ト=リァンはVRのアバターで、現実の私はリァン=エーゲル。

 リァンは耳に手をやった。翼型のイヤーカフ。お礼に返したメッセージは未読のままだ。エル先輩を大事にしたい、今日の帰りにコールして、直接お礼を言おうと決めて、身に着けてきた。

「片思いだなんて、気のせいよ。私、今エル先輩とお付き合いしているから」

「えっ、マジで? エル先輩って、あのエル=ドナト先輩? すげえじゃん! へえぇ、まさかエル先輩がリァンとなあ。そう言われてみれば確かに、うん、お似合いじゃん。あちこちにセンセーショナル巻き起こしそうだけど……良かった、良かっ――むぐっ」

 大騒ぎするゼノンの口を手で塞いで、イヴは心配そうにリァンの肩を掴んだ。

「良かった、って顔じゃないね。あなた、まだソーくんのことが気になっているんじゃないの」

 イヴの手を外して、ゼノンはぷはっと息を継いだ。

「ソー? って誰?」

「イヴ、子供じゃないのよ。私だって、現実と夢の区別くらい、ちゃんとついているから」

 スピーカーからメイアの声が届く。

『……ねえ、リァン。全然大丈夫そうじゃないよ。そんな必死で、泣きそうな声で、説得力皆無。ね、良かったら話してみなよ。せっかく久しぶりに皆集まったんだし』

 イヴとゼノンも頷く。

「私もメイアに賛成」

「なんだかわかんないけど、俺も賛成。リァンは、俺たちのために動いてくれたじゃないか。力になれることがあるなら協力させて」

「そういえば、惑星放送の後から『ツェルちゃん』の話をしてくれていないわね。あの後も何度も眠っているんでしょ。改めて言葉にしてみることで、頭の中が整理されるかもよ。というか、私もその後のツェルちゃんのことがずっと気になってたし」

『そうだよー。話してよ』

 三人の友人がじっと注目しているのを感じる。その視線がリァンの背中を押した。現実に踏みとどまろうとして、必死に築いてきた堤を崩した。心の中に溜め込んできたカナンの記憶が、壊れた堰から溢れ出す。

 途切れなく流れてゆく記憶を、リァンは拾い上げ、繋ぎ合わせながら言葉に変えていった。

 ツェルのこと。ソーのこと。レイのこと。聖誕祭のこと。速翔セハのこと。ソーとツェルは結婚間近であること。ソーとレイの国外逃亡計画のこと。その手伝いをしていること。教会への疑惑。盗み聞いたサジュナの何らかの実験のこと。ツェルとしての体験のすべては、サジュナが構築したVRの中で起きたことだと思われること。真実を知ろうと動きはじめてから、ずっとエルが支えになってくれていること。でも、エルに頼るのもまた、ひどい罪悪感を伴うこと――。

「現実だけを見るって決めたのよ。だけど現実には、全然できていないの。こっちにいればソーの声が聞こえたような気がするし、向こうではお祈りしながら移住計画への調査票をどうしようか考えている。それにいくら余裕がないからって、レイに嫉妬してひどいことを言ったわ。きっとすごく傷つけたと思う。ソーとレイがぎくしゃくしていたのは私のせいかもしれない。でも、私はそれを見てほっとしているの。これでソーは外国に行かないで済むかもしれないって。それなのに、現実の私はエル先輩の優しさに頼り切っている。エル先輩とご飯を食べながら、今ごろソーはどうしているかしら、なんて考えているの。最悪だわ。先輩は優しいから気にしなくていいと言ってくれるけど、結局、それに甘えているのよ。だって、先輩に協力してもらえなくなったら、真実を調べるという目的が果たせなくなるから。それが不安で、やっぱり別れましょうって切り出すのを、先送りにしているの。本当、ひどいわよね」

「エル先輩のことは、全然好きじゃないの?」

 リァンは大きく頭を左右に振った。

「そうじゃない! エル先輩のことは間違いなく大切なの。一緒にいるとほっとするし、ドキドキするし、先輩がいてくれたからこそ、私はここでもどうにかやっていけているの。ツェルの記憶がなかったら、これが恋なんだって確信していたわ。でも、その気持ちはソーに対するものとは全然違うの。天と地がごったになった、嵐みたいな気持ち――目が合っただけで、その日の夜は眠れなくなるような、制御できない気持ち――。あれがVRだっていうなら、現実って一体何なの? 苦しくて、怖い。どうしていいのかわからない。ツェルの正体を突き止めないと、あれは現実じゃないんだって証拠を突き止めないと、私、ここでの人生なんて、もう一歩も進めない気がして……」

 リァンは滲んだ涙を乱暴に手の甲で擦った。

「ああ、もう嫌。世界も自分も一つでたくさん。こんな中途半端な状態、早く終わらせてしまいたい」

「もう一度、サジュナ博士に相談してみたら?」

「無理だよ。スゥラに関することは話せないって」

 イヴの言葉にゼノンがこめかみを指先で突いて見せると、メイアの声が届いた。

『それって、本当にどうにかならないのかな』

「せめて、どういう方法でツェルと私を行き来しているのかわかればいいのだけど……」

「うーん。全然違う自分を体験できるなんて、めちゃくちゃ面白そうだと思ったけど、そう簡単なものじゃないんだな。そういや話聞きながら思ったんだけど、そのツェルって子の体験がもし本当にVR上のものなら、なんのトリガーもなくいきなり接続されることはなさそうだ。今までに気になることがなかったのなら、生活スペースのどこかにスイッチでも仕込まれているんじゃないかな。例えば、ベッドで脳波に干渉するとか。もしくは、食事にナノカプセルを仕込むとかさ」

 VRに詳しいゼノンが考え込みながらそう言うと、すぐにイヴが応じた。

「自宅ベッドでない場所で寝るとか、家で出される食事を避けるとかは、もう一通り試したんだって。ね、リァン」

「ええ、実はそうなの。エル先輩からアドバイスをもらって、色々試してみたんだけど、どれもうまくいかなかった。幸いこれまで、危険な状況で切り替わったことはなかったけれど、自宅の外でも講義中や診察中にスイッチが入ったことはあったし」

「そうなんだ」

 しばらく考えていたゼノンは、ぽんと膝を打った。

「そうだ、リァン。うちのVRゲーム試してみる?」

 リァンはきょとんとしてゼノンを見返した。突然、どういうことだろう?

「このメンバーの中で、VRゲームをプレイしたことのないやつはさすがにいないよな」

「もちろん。音ゲーと育成系、めっちゃはまった時期ある」と、メイア。

「そういえば、イヴとは入学式の日に同じゲームの話で気が合って、よく話すようになったのよね」

「そうそう、恋愛モノね。流行ってたから手を出してみたけど、こんなのどこが面白いんだって意見で一致して、妙に盛り上がったよね」

 恋愛相手は自分の好みからAIが創り上げたアバター。もちろん、容姿から声、性格まで細かくカスタマイズできる。けれども、リァンはその相手キャラクターがどうしても好きになれなかった。性格や、声。話し方。抑揚の付け方。いくら細かく調整してみても気に入らなかった。とってつけたような偽物感に嫌悪を抱いてしまったのだった。

 ゼノンは話を引き戻した。

「別世界の記憶が確かにVRだって確証があるわけじゃないんだよな。だったら試す価値ありだよ。実際に最新のVRで再現してみて、リァン――っていうか、『ツェル』の記憶と比べてみるんだよ」

「ソーやツェルを、アバターで再現してみるということ?」

「それに近いけど、アバターよりもっとずっと忠実に再現するのさ。その『ツェル』って名前が、偶然にも俺にとっちゃ天啓みたいに感じてさ。『ツェル』ときたら『テム』だ。皆は知らないよな。まあ、ざっくり言うと今のVRゲームの走りなんだけど」

「ストップ、ゼノン。『ツェル』から、どうやって『テム』が出てきたのよ」

「順に説明するよ。えーっと、まず『テム』っていうのはだいぶ昔のゲームの名前だ。そのゲームの中じゃ、アバターに接続することを『ツェル』と呼ぶんだよ」

「すごい偶然ね。どんなジャンルのゲームなの? 初期のものならシミュレーション系かしら」

「おっ、正解。ただし普通のシミュレーションとはだいぶ違うよ。世界が白紙なんだ。世界構築そのものを楽しむっていう自由度の高いゲームなんだよ。シナリオも音楽も、本当に何にもなくて、ただ真っ白なワールドだけがそこにある。プレイヤーは物理法則から生態系まで、すべて思い通りに構築していける。それぞれの命令は文章や音声で指示していけばいいんだけど、まともにやってたらとてつもなく時間がかかるんで、基本的にはテンプレートを使ったり、身のまわりにあるものを四次元スキャンするか、ネットから商品データや映像データを引っ張ってきたりして、ベースを構築することになる。もちろんカスタマイズは無限だ。一番面白いのは経年劣化の表現だよ。使用人数、その人たちの年齢、ペットの有無、設置場所、年間気象データなどの情報に応じて、絶妙なシミュレーション結果が返ってくるんだ。リバーストレーシングもお手の物さ。例えば、ある人が十歳だったときの姿、なんてのもほぼ正確に表現できる。そうやってワールドが構築されると、アバターが触れたときに、その手触りや重さをプレイヤーが体感できる。がんばって作り込めば、味覚や匂いまでかなり思い通りに創造できるんだ」

「最近のVRは大体そうなっているわよね。『テム』がその走りだったってわけ?」

「そっ。ただ昨今のゲームメーカーは、AIに作らせたシナリオを、テムをベースにしたソフトウェアにぶちこんでいるだけさ。そうすればシナリオに応じた四次元データをAIが勝手に収集、構築していってくれる。人の手が入るのは、最終確認と微調整くらいさ。その意味じゃあ、千年以上経った今でも『テム』はVRの最高峰に君臨し続けてるってわけ。ちなみに『テム』そのものはあまりに面倒くさすぎて全然売れなかったんだけど、一部のコアな凝り性たちにはすごい人気があった。一族で代々データを受け継いで、五百年同じワールドを創り続けてるって猛者も未だにいるくらいだ」

「うわあ、それはまた」

 イヴが肩を竦めて呆れたようにリァンに視線を送ってきた。イヴの呆れはどちらかというと、その猛者に向けてではなく、目をきらきらさせて夢中で語っているゼノンに向けられているようだ。

「で、その何でもできるが面倒くさいゲームを、今の最新技術でもっと簡単便利に遊べるようリメイクしてみようってのが、俺のいたVR研究室の卒業制作だったってわけ」

「好きなものの話になると止まらなくなるところ、ちっとも変わらないわねえ。つまりは、あんたの作りかけの卒業制作をリァンに試遊させてみようってことでしょ。なんだか不安ね。リァンが眠ったまま目覚めなくなるなんて、死んでもごめんよ」

「安全性のテストは当然、真っ先にクリアしているよ。惑星法管理機関の認証も取得済み。開発は最後のユーザーテストの段階で、フィードバックからの微調整をやってた。なんたって、そいつの評価が良かったおかげで、スゥラ研究所の内定をもらえたわけだしね」

「えーっ、すごい!」

 女子三人の声が被さる。一拍遅れたメイアの声の余韻が消えると、ゼノンはにかっと笑ってリァンを見た。

「乗り気になった? それなら今から全員で大学に行こうか」

「えっ」

 リァンは驚いてゼノンを見た。まさか、こんな急に?

「一刻も早く不安解消したいでしょ。また次の切り替わりが起きる前に、やることやっておいたらいいんじゃない。休講中だけど、研究室の鍵は教授のところに寄れば貸してもらえるよ。こいつの研究にかなり入れこんでたからね」

「うん、それがいいわ」

 イヴは乗り気だ。ゼノンはリァンに、正確にはリァンを介してメイアに声をかけた。

「メイアはどう? 体調が問題ないなら、学外にも時間制限つきの招待IDとパスを送れるよ。VRシートくらい病院にもあるだろ?」

 数秒おいてメイアの声が届いた。

『ラウンジに行けばシートはあるよ。でも、少し休憩したいな。合流できそうならするけど、遅れていたら待たずに始めちゃって』

「わかった。それじゃ大学に着いたら連絡するよ。無理はしないで」

『ありがと。じゃあ、いったん抜けるね』

 メイアがセッションからログアウトする。とんとん拍子に決まった話に決心が追いつかず、リァンは戸惑った。

 実証できる? カナンがVRだって証明されてしまうの? ソーが、ツェルが、偽物だって。

 装身情報端末スピオを操作していたゼノンはふと顔を上げた。

「そういやさ、さっき話した今の最新技術ってやつ。もともとはエル先輩が子供の頃に趣味で作ったプログラムが基になってるんだよ。リァンは知ってた?」

「えっ、先輩が?」

 子供が作ったプログラム? でもあのエル先輩のことだ。何でもありな気はする。

「そう。『深神経接続及び非認知記憶領域再現プログラム』っていうの。イヴには前に少し話したことあると思うけど」

 イヴは頷いた。

「ああ、あれ。ほんと先輩はすごいよね」

 リァンは首を傾げた。

「先輩の専攻は遺伝子工学ではないの?」

「そうだけど、あの人、基本何でもできるよ。先輩の技術があったから『テム』でやってたちょこまかした膨大な作業が、一瞬で終わるようになったんだ。音声による命令も四次元データのインポートも一切必要ない。ただ頭の中で思い浮かべるだけで再現できて、しかもそれを保存したり、他人に共有したり自由自在にできるんだ。たった一度見ただけの景色や、その背後で響いていた環境音なんて、普通、明確に思い出すことなんてできないだろ? けど先輩のプログラムは、記憶の深層領域にアクセスしてそいつを引き出してくれる。他の人たちの深層記憶や、ネット上の記録と合わせて、足りない部分をシミュレートし、完璧に補完して、精巧でリアルな仮想現実を秒で構築してくれるんだ。本当に画期的だよ」

「よくわからないけど、よっぽど高度なことができるのね。それを活用できるゼノンもすごいわ」

「いいや、中は完全なブラックボックスになってる。使う側はただ神経接続して、脳波からインプットを与えてやるだけさ。それだけでVR空間に読み取った結果が再現される。俺たちの研究で力を入れたのは、インプットのところなんだ。ただ、そこもかなり先輩の世話になってるよ。教授がかなり入れ込んでて、研究室のセッションにしょっちゅう呼び出していたからさ。先輩にしたら、せっかくの休日や仕事終わりに、さぞかし迷惑だったろうけど」

「へえ。そういうことなら、エル先輩にもぜひ来てもらいたいわね。ねえリァン。連絡とってみたら?」

「でも、先輩は仕事中よ。ここのところ特に忙しそうなの。残業続きで、お休みもことごとく潰れてるのよ」

 だからエルの「見せたいもの」を見に行くデートもまだ実現していないのだ。

「だからこそ、よ。あなたの誕生日だって、自宅宛てにプレゼントを送ってきただけで、結局会えなかったんでしょ」

「仕方ないわ。おじいさまもそうだけど、ラボの人はこのところ大変そうなの」

「もう、そんなこと言って。せっかく用もあるんだし、たまにならいいじゃない。あなたから連絡もらって、嬉しくないってことはないわよ。ダメ元でかけてみなさいよ」

「コール、コール」

 ゼノンとイヴの、息の合った二重奏が囃し立てる。散々ためらってから、リァンはしぶしぶ翼型のイヤーカフに触れた。エルは自身の連絡先を登録した状態でこれを送ってくれていた。

「コール、エル=ドナト先輩へ」

 リァンの指紋、声紋を感知したイヤーカフから呼び出し音が鳴りはじめる。

「出ないみたい」

 仕事中に私用で呼び出すなんて、いい迷惑だ。それも異星移住計画という重大プロジェクトが動いているこのときに。いそいそと通信を切ろうとするリァンの指をイヴが止めた。

「早いわよ! もうちょっと待ってみて」

「えええ」

 そんなことを言われても困る。イヴたちはエルの仕事内容を知らないから簡単に言うのだ。

『はい。どちら様でしょうか』

 発信を止め損ねた指の先でコール音が止まり、女性の声が返ってきた。リァンはぎくりとして椅子から腰を浮かせた。

「あの、私、間違えてしまったみたいです。どうもすみません」

 慌てて通信を切ろうとしたその耳に、落ち着いた女性の声が呼びかけた。

『いえ、お待ちください。リァン=エーゲル様ですね。こちらドナト議長の自宅でお受けしております。エル様はしばらくご多忙につき、こちら宛ての通信はすべて自宅へ転送してご用件を伺っておりました』

「えっ、ええっ、そうだったんですか」

『お嬢様、どうかそのまま少々お待ちください』

 スピーカーから保留音が流れる。

 自宅へ転送だなんて、そんな話は聞いていなかった。先輩ったら、一言教えておいてくれたら良かったのに。うっかり先日のデートの約束を探るようなメッセージを送っていなくて良かった。……待って、少し落ち着こう。自分からかけておいて、いきなり切るなんて失礼だわ。

 どきどきする心臓を押さえている間に保留音は切れた。次に聞こえてきた声は最初の声とはまた別の女性のものだった。

『通話替わりました。わたくしはノラン=ドナトの妻、マリューでございます。リァン=エーゲルさんですよね。初めまして』

 議長の奥様。ということは、エル先輩のお母様?

 せっかく収まりつつあった冷や汗がまた吹き出してくる。リァンは震える声を励まして、どうにか挨拶を絞り出した。

「は、初めまして。リァン=エーゲルです。大学の研究室で、エル先輩のお世話になっています」

『ええ、ええ。よく存じ上げております。サジュナ=エーゲル博士の自慢のお孫さんね』

 女性は上品に笑い声を転がした。

『あなたはハフラムの宝。最後に生まれた子供ですもの。いえ、子供なんて申し上げては失礼ね。素敵な女性になられたと聞いております』

 一体、誰がそんなことを議長の奥様に。サジュナだろうか。それとも、エル先輩が? エル先輩だとしたらどうしよう。

 身体の熱と緊張の震えで卒倒しそうになっていると、イヴが素早くリァンの耳に囁いた。

「議長が偉いって言ったって、知名度も人気もエーゲル博士の方がずーっと上じゃない。下っ端とでも思いなさいよ」

 思わず吹き出しそうになる。リァンはイヴの額を突いて、ふうっと息を吐いた。

「ありがとうございます。実は、先日エル先輩から誕生日プレゼントをいただいたので、そのお礼を申し上げたくてコールしました。ご自宅に転送されているとは知らず、失礼しました。お忙しいときにお時間いただきありがとうざいます。また改めます」

『あらあら、お待ちになって。あの装身情報端末スピオのことなら、エルから聞いております。実を言いますとね、リァンさんからご連絡いただけるのを、わたくしたちアーミュのように首を長くして待っていたんですのよ。そういうわけで、リァンさん、この後お時間はありますか。今日はエルも早めに仕事を上がる予定ですの。せっかくですから、ぜひお夕食にご招待したいわ』

 エル先輩が、お母様に――星議長夫人に、私のことを話していた――その事実だけでお腹いっぱいだ。嬉しいけれど、心の準備が追いつかない。

「あの、お招きいただきありがとうございます。ですが、実はこの後、大学の友人たちと約束がありまして」

『まあ、どのようなお約束かしら』

 ぐいぐい来る。どこまで話したものだろうかと頭を巡らせたが、うまい話も思いつかず、下手に嘘をつくよりはとリァンは話せる範囲に絞って正直に話すことにした。

「友人の卒業研究を見せてもらうつもりです。VRゲームなのですが、スゥラ研究所からも高く評価されたとのことで、個人的に興味がありまして」

『ああ……』

 夫人の返答に妙な間が空いた。

『でしたら、なおのこといらっしゃいな。もちろんお友達もご一緒に。エルのVRルームをお貸ししますわ。あの子は一応、助教授の肩書きがありますもので、時々大学の仕事を手伝っておりますの。ですから、大学のプライベートネットワークにも繋がっています。これは当然ご存じでしょうね』

「はい」

『それで、お友達は何名いらっしゃるのかしら』

「三――いえ、あの……やっぱり、突然お邪魔するなんて」

『いいから、人数を教えてちょうだい』

「え、えぇと、二名です。別の場所からさらにもう一名参加で……」

『わかったわ。アクセスキーは四名分、お食事は三名分ご用意するわね。今はどちらに? 迎えをよこしましょうか』

「そんな、いえ! 友人の車がありますので」

『それは良かったわ。それではお会いできるのを楽しみにしていますね。またね、リァンさん』

「は、え、あの」

 有無をいわさず通信が切れる。リァンは耳元で浮いたままになっていた手を下ろして二人の友人を見た。

「ごめんなさい。断り損ねてしまって」

「すんごい話術ねえ。まるで魔法みたい」

「流れるようにVRルームを借りて、夕飯をごちそうになる流れが決まったね。一切の拒否権なく」

 三人はまだ解けきらない魔法の中にいるような気分で互いを見つめあった。

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