【3】
握った手首の細さに戸惑いながらも、ソーは自分が何を望んでいるのかはっきりと自覚した。いや、本当はあの時からわかっていた。空と海の狭間に放り出されたときに。苦痛も、不安も、悩みも、すべて一瞬にして押し流してしまえるほど強く、自分の奥底から湧き出してきた望みを知ったときに。
でも、それを今すぐに告げて良いのか、わからなかった。
見せかけだけとはいえ、ツェルと婚約している自分。それに、レイと言葉を交わしたのはまだ、たったの三度目だ。外の世界をレイは知らない。ごく限られた人間のことしか知らない。同世代の異性の知人は、自分と、カイアくらいしかいないはずだ。その彼女に、この気持ちをぶつけて良いのか。たった一人だけに抱く、この特別な感情を何と呼ぶのか、それすらレイは知らないかもしれない。
戸惑いと、怖れ――、だけど、それらすべて飲み込んでなお行き場のないほどの熱が目の前の少女を欲している。ソーの目に絡め取られたレイの顔は、ぱっと朱に染まった。熱を持った亜麻色の瞳は微かに潤んで、ソーを見つめ返している。ふたり分の瞳が互いの眼の中の熱を探り合う。レイはもう一方の手でソーの腕に触れた。微かに肌を撫でる指先は、レイが求めているものをはっきりと伝えてくれた。それ以上の言葉は必要なかった。
自分が手を引いたからなのか、そうでなかったのか、よくわからなかった。気がつけば倒れ込んできた温かな身体をソーは抱きしめていた。
小さく身震いしたレイの手が、そろそろと背に回される。父も、母も、養育者もなく、冷徹な監視の下で育ってきたレイ。誰かに抱きしめられた記憶などないことは知っていた。不器用な手つきで縋り付いてくるレイが愛しかった。今まで与えられなかった分まで、今この瞬間の記憶で塗り替えてしまいたい。足りないものは、すべて与えてあげたい。そして、この先もずっと――。
「どこにも行かないで……」
レイの掠れ声が胸を締め付ける。ずっと触れられなかった人。またすぐに離れなければならない人。でも。
「離れるのはこれが最後だ」
ソーの声もまた掠れていた。必ず助けに戻ってくる。必ず自由にしてみせる。そのためなら何だってしてみせる。もう二度と、この温もりを離さなくて済むように。
「一緒に、広い世界を見に行こう」
レイの顔がある首筋にぱたぱたと温かい雫が落ちてきた。
「うん……っ」
二人の乱れがちの呼吸と、いつもより速い心臓の音が木漏れ日の中に溶け合って、一つになる。まるで二人が一人になったように。
梢で翼を休ませていた小鳥たちが一斉に飛び立ち、羽ばたいてゆく。狭く閉じられた空間の中を、それでも生を与えられたとき共に与えられたはずの自由を取り戻そうとするかのように鳥たちは飛んでゆく。軽やかな羽ばたきの音に乗せて、ソーは夢想した。
かつて心を込めて世話した騎士団長の愛馬。今は亡き月毛の駿馬。その背に跨がったレイが青い草原を駆けてゆく。ソー自身もまた、力強い黒馬に跨がって、追い越したり、追い抜かれたりしながら、草原に笑い声を響かせる。
遙かな地平線に、明るい陽射し。魂を繋ぐ糸も、半双も、この身を縛り続けた運命はどこにもない。ただ、境界のない拓けた世界がそこにあるだけだ。旅の道中ではふらりと街にも立ち寄るだろう。初めて見る土産物。初めて耳にする異国の音楽。それらを眺めて、あるいは耳を澄ませながら、レイと二人好き勝手を言い、ときに喧嘩したり、感動したり、どこまでも一緒に歩いてゆく。そんな光景を。
ソーの手は離れがたくレイの髪を梳いていた。
いっそのこと今すぐレイを縛るすべての糸を切り離して、攫ってしまえたらいいのに。
本当はそうする方法だってあるのに、そうせず一人ここに残していっていると知ったら、レイは自分を恨むだろうか。
ソーは身を切るような思いでレイの肩を押し離し、その目をじっと見つめた。
「出航は日の出と共になる。それまでに必ずきみを自由にする。最悪、計画通りにいかなかった場合はどうにかして連絡するから、信じて待っていてほしい」
「わかった。ロメイ月二十八日の夜半過ぎだよね。日にちは毎朝、おばあさんが教えてくれるから大丈夫だよ」
「約束だ」
「うん。約束」
そう言って二人は手を重ねあった。滑らせるように手を離そうとするも、レイは縋るように服を掴み、頭を凭せかけてきた。過ぎてゆく時間に焦る気持ちと、離れがたい気持ちとがせめぎあう。
せっかく離れようとしたのにな。
ソーは肩に乗せられたレイの頬を軽く抓った。
「レイ。約束と言ったら約束だからな。俺は約束を破ったことはないぞ」
レイは顔を上げて、抓られた頬を抑えながら唇を尖らせた。
「わ、わかってるよ。今度はちゃんと信じてるから」
それからまたふっと力を抜いて、体重をソーに預けた。
「ううん、ずっと信じてたよ。他の誰も信じられなかったけど、ソーのことを疑ったことなんて一度もなかった。でも、不安なんだよ。だってソーをなくしたら、私の生きる意味はなくなるから。どんなに不安になっても、心配しても、私からは会いにいけない。探しに行けない。ソーがどんなに危ない目にあっていても、私はソーを助けてあげられない。だから会えないと怖くてたまらないんだよ。ツェルやソーの弟たちが羨ましい……」
迸るように訴えたレイは、打って変わったように静かに呟いた。
「もし今度生まれ変われることがあれば、もっとずっと小さい頃に出会いたい。そうしたらずっと隣にいられるよね。それに、私もソーみたいに丈夫だったら良かったな。こんな棒きれみたいな腕じゃ冒険するには頼りないよね。私も男だった方が良かったのかな。ねえソー。もしそうだったら、ソーはどうしていたかな」
「唐突だな」
ソーは少しの間考えた。どうしてこんなことをレイは訊くのだろう。そういえば、最近イア先輩からも同じようなことを訊かれたな。みんな、けっこうそういうことで悩むものなのだろうか。
頬に手を添えてレイの顔をこちらに向けて正面から確認してみる。華奢だが、意外にしっかりと張った肩。少し低い伸びやかな声。中性的といえばそうかもしれない。浮き世離れした性差に囚われない美しさだ。
でも何しろレイの美貌を初めて目にしたとき自分はたったの九歳だったし、レイも六歳の子供だった。もう少し成長するまでは見た目の美醜なんて意識したことはなくて、ただ一緒にいて楽しかったからレイの元に通うようになったのだ。
「実をいうと」
「うん」
「最初の何年かはレイが男か女か確信が持てなかったんだ。白いローブにサンダル姿で、子供の頃は髪も切りっぱなしだっただろ」
「まあ、そうだよね」
レイはほつれた自分の髪を摘まみあげた。
「そんな気はしてたよ。それで伸ばすことにしたんだけどね。何しろ名前が伝わってなかったくらいだし」
胸を拳で小突かれる。弱り顔をするソーを見て、レイはくすりと笑う。
「それで?」
「……どうしてもその質問に答えないとだめか」
「どうしてもっていうわけじゃないけど……いや?」
ソーは胸に置かれたレイの手を握って、少し考えてから続けた。
「どちらにしても、俺にとっての一番はレイだったと思う。絶対に助けにきたし、やっぱり一緒に旅したいと思ったはずだ。レイは男になりたかったのか?」
レイは頭を振った。
「どうしてかわからないけど、私はずっと、ソーの特別になりたかった。番の鳥みたいに……」
「それなら……特別だった。何年も前から、ずっと」
「…………っ」
レイは顔を覆ってソーの首筋に顔を伏せた。耳まで赤く染まっているのがソーはたまらなく嬉しかった。
「そういえば、あれ以来、体調は問題ないのか」
「うん。いつも通りだよ」
東屋に戻りながらそう問えば、レイは軽く握った拳を振り回して笑顔を向けた。
「ああやって具合が悪くなることは、今までも時々あったんだ。でも、いつもは食事を摂ると症状が治まるから、あまり気にしたことがなかった。あんな風になったのはあのときが初めてだったから、びっくりしたよ」
「食事を摂らなかったせいか?」
「ううん、動けなくなるぎりぎりまでちゃんと食べていたよ。でも、なんだかいつもと違って食欲が湧かなくて。最後の食事を受け取った後は、ここまで戻ってくるので精一杯だった」
「そうか……。次は出航の日までここには来られないと思うが、一人で大丈夫か」
「当然」
レイは両腕を振り上げてみせた。
「やっと自由になれるっていうのに、へばってなんかいられないね。今度具合が悪くなりそうになったら、全力で誰かに訴えるよ。そうだ、ソー。私も一つ伝えておきたいことがあったんだ。少し前におかしなことがあったんだよ」
「うん、どうしたんだ?」
「さっきソーが速翔の打ち上げのときに雷が落ちたって言っていたよね。私もちょうど、そんな夢をみたんだ。ううん、夢かどうかも曖昧で、願望みたいでもあったし、目が覚めていたような気もするし、うまく言えないんだけど」
ソーははっとしてレイを見下ろした。
「こいつではない」「ならばあちらか」聖皇が零した言葉だ。それがずっと引っ掛かっていた。
レイはソーの表情の変化には気付かない。頭の中を整理することに集中しているようだ。
「すごく眠かったんだ。ぼうっとしていたけど、誰か知っている人に呼ばれたような気がした。それで目を開けたような気もするし、そうではなくて単に夢を見ただけかもしれない。とにかく、不思議な光景が見えたんだ。青いローブを着たソーくらいの歳の人たちが大勢集まっている、広くて大きな建物の中。少し離れた空の上から、その場所を見下ろしているような感じだった。中には聖職者や、聖堂騎士も少し混ざっていた。その中にきみとツェルもいて、身分の高そうな女性と話をしていた。黒髪を肩の上で切り揃えた青白い肌の人だよ。その人がひどいんだ。わざときみたちが傷つくようなことばかり言うんだよ。きみはすごく怒っていたし、私だってそう。その人のことが我慢できなかった。何て言ってたのか今は思い出せないけど……。そのときは確かに聞こえたんだ」
「それで、何が起こったんだ?」
ソーの僅かに震えた声に不安を感じたのか、レイは心配そうにソーを見上げた後で、記憶を辿るように続けた。
「赦せない、と思った途端、身体がすごく熱くなったんだ。熱くて、熱くて、体中が燃えてしまうかと思った。心臓からどんどん熱が溢れてきて、全身が溶けてしまいそうで怖かった。もう限界って思ったとき、突然身体が楽になったんだ。全身から溜まった熱が外に溢れたんだ。熱は蒼い光に変わって私の周りに広がった。お願い、そのまま出ていって、って必死に願ったら、光はそのまままっすぐ空に昇って、どんどん生まれてくる黒い雲にぶつかったの。蒼い光がぶつかった雲からは天の火が生まれて、その火は、あの黒髪の女性めがけて落ちていったんだよ。そのうちの一つは近くの樹に落ちて、樹は燃えてしまった」
打ち上げのときの様子に酷似しているじゃないか。まさか、本当にレイが? ソーはくらりとした頭に手をやり汗を拭うふりをした。
「雷か、気になるな」
「うん。夢って片付けるには妙に現実味があって、ずっと気になっていたんだ。あの壁の焦げ痕が実は天の火の跡じゃないかって、ツェルから聞いた後だったし」
「今までもそんな夢を見たことがあるのか」
「ううん、今回が初めてだよ。さっきソーから聞いた速翔の後の宴会の様子にちょっと似ていない? でも、遠く離れた場所の光景が私に見えるはずないよね。やっぱり夢か、寝ぼけて誰かの光糸を読んでいたのかな。でも、あのとき、確かに知っている誰かに起こされたような気がしたんだ。誰だったんだろう。あれも気のせいだったのかな」
そのときレイが突然身を強張らせ、応えようとしていたソーの口を手で塞いだ。
「誰か来る!」
まさか、もう日が昇ったのか。
ソーはレイの手を掴んで口元から外し、一度深く息を吐くと、瞳を開いた。
「俺は向こうの梢に隠れている。落ち着いたら合図をくれ」
「わかった」
ソーは光糸の上を走った。一番手近な木立に飛び込み、枝の上に降りて身を隠した。
少しして、いつも食事が運ばれてくるという方角から一人の人物が姿を現した。背は曲がり、痩せている。白い布を入れた桶を両手に抱え、草の中に自然にできた小径を歩み寄ってくる。
レイは素早く寝台に腰を下ろして本を開いていた。老婆が東屋の前で立ち止まった。レイはそこで初めて気がついた風を装い、本を置いてゆっくりと立ち上がった。老婆から桶を受け取り、水瓶の水を汲み入れ、桶を抱えたまま東屋を出る。
老婆が結い上げていたレイの髪を解いてゆく。レイは腰に巻いている帯紐を解き、自身の着衣に手をかけた。レイの肩からするりと布が落ちる。ソーは慌てて顔を背け、枝に背をつけた。しばらく微かな水音が続いた。
水浴びをしながら、老婆とレイは小声で話しているようだった。水音がしなくなった後、十分に間を置いてから、ソーはそっと東屋の方へ視線を戻してみた。レイの水浴びはとっくに終わっていたらしく、老婆はレイの腰の下まで届く長い髪を梳っていた。
レイの身支度が済むと、老婆は再び桶を抱え、来た道を引き返していった。
やがて、レイがこちらに向けて大きく手を振ってみせた。ソーは瞳を開いてレイの元へと駆けおりた。髪が解かれているのは久しぶりに見た。湿ったままレイの細い首筋に張り付いている。なんだか良い匂いまでする。ソーは赤くなって一歩後ろに退いた。
「えっと、大丈夫そうだったか」
「うん。おばあさんは何も気付かなかったみたい」
「あの人が来ると言うことは、もう朝だってことだよな」
「さっきより暗くなってきたしね。さっきソーが言っていた通りなら、ここが夜になるとき、外は朝なんだよね」
「ああ。確かに光が弱くなったな。いつもの出口側からならまだ間に合うだろうか」
「ちょっと待って」
レイは目を閉じてじっとしていた。どうやら呼吸も止めているようだ。やがて目を開けたレイは、ソーの背の向こうを見遣った。
「向こう側からも物音がするよ。誰かいるんだと思う」
「どうしてそんなことがわかるんだ?」
ソーが耳を澄ませてみても、そよ風が草原を揺らす音が聞こえるばかりだ。
「これだよ」
レイは己の首を指差した。
「私を縛っている糸。見られたら困るようなときは、時々読むようにしていたんだ。それより、ソー、外に出られないなら、夜までここで隠れている?」
レイは嬉しそうに言う。そうしたいのは山々だったが、そうできない事情があった。
「昼過ぎから騎士団の離団式があるんだ。朝は一人にしておいてくれと言ってきたが、昼までには戻らないと怪しまれる」
「そう……」
レイは顎に折り曲げた指の背を当てて考えていたが、こくんと頷いた。
「もう少ししたら見張りの交代があるんだ。新しい夜番の人は早めに上がるせいで、次の見張りが来るまで少し間が空く。その隙に出るのがいいと思う」
「新しい人が来たって、なぜ知っているんだ? 誰かにそう聞いたのか」
「ううん。足音を聞いてわかったんだ。ひとりずつ音が違うからね」
「音は水の光糸で遮られていると思うが……」
「普段はね。でも食事が運ばれてくるときに、岩壁の隙間が開くでしょ。それに、身体に巻き付いている糸の何本かは、この上の人たちに繋がっているみたい。コツはいるけど、うまくやれば音くらいは拾えるんだよね」
レイはなんでもないことのように言うが、光錘も使わずに糸から伝わる音を聞き分けるのは相当難しい芸当だ。
「とにかく、見張り番の格好をしていれば、もし誰かに見られても仕事上がりの夜番だと思ってもらえるはずだよ」
「見張りの格好?」
そんなもの持っていないが、と言いかけたソーの前でレイは目を軽く瞑って息を吸い込んだ。
私を閉じ込める 杖のきみ
私を連れ出す 月のきみ
牢獄と自由
剣と盾
二人の姿は似ても似つかぬけれど
どうか ひととき あの月の姿を隠して
にくけれど あの杖の姿を借りて
その歌声に合わせて踊るように、ソーの羽織っているローブがするすると解けてゆく。部屋の隅に立つ木々から伸びる光糸がそこに次々絡み、金色に輝く細い小川が宙に流れてゆく。
歌の終わりと共に光の小川は途切れた。ソーは見覚えのある鎧兜を身に纏っていた。ここの番兵たちが身に着けている鎧だ。手で触ってみると、なめし革ではなく、植物の繊維で編んだ籠のような感触だったが、見た目は革製の防具そのものだ。
「うん、完璧」
レイはソーの姿を上から下まで眺めて、満足げに頷いた。
「相変わらず、すごいな。そういえば、見張りもここまで来るのか」
「新しい先生が来るときは付き添ってくるよ。カイアは最初から一人で来たからびっくりしたけど」
出入り口の近くの梢に潜んで、二人は機を窺った。しばらく待つと、階上の音を読んでいたレイが囁いた。
「見張りが離れていくよ。今だ」
二人は同時に梢を飛び降りた。レイが扉から小さな岩の欠片を取り外すと、鍵穴が現れた。ソーはそこに光錘を差し込んだ。指先から伝わる感触を頼りに、穴いっぱいに光錘を広げて回す。すると鍵の外れる音と感触が伝わってきた。両手で押すと、扉はゆっくりと向こう側に向かって開いた。
開いた隙間を潜ったソーは後ろを名残惜しく振り返った。扉の目前辺りでレイは寂しげに佇んでいる。そこまでがレイの動ける範囲なのだろう。ソーは少し戻って手を伸ばし、レイのまだ濡れた頭をそっと撫でた。
「またな、レイ」
レイはソーの手に自らの手を重ねて微笑んでみせた。
「うん。待ってる。今度こそちゃんと信じて待っているからね」
ソーは名残惜しさを押し殺すように扉を押して閉ざすと、鍵を回した。どこかの宝物庫のように精巧な錠の機構が内側で複雑に噛み合う音が聞こえた。レイを自分の手で閉じ込めることになるなんて。
壁にはランプが一つ灯されている。揺らめく灯りを頼りに階段をそうっと上がってゆくと、出口のすぐ手前で右手にもう一つ、鉄製の扉があることに気がついた。
扉は半分ほど開きっぱなしになっていて、奥に通路が続いている。急いで出ないといけないのはわかっていたが、なぜかその通路の奥が無性に気になった。
開いた扉の奥から複雑な匂いが漂ってくる。土と、鉄と、それから油と炭の匂い。中は真っ暗だ。
ソーは瞳を開き、服のうちから光錘を取り出した。先ほどのランプから伸びる糸を絡めとり、思いきってその扉の中に身体を滑り込ませた。
右手に大きな竈と水瓶が見える。竈の上の鍋の蓋をとってみると、シチューのようなものが半分くらい中に残っていた。壁にも大きな鉄鍋が三つ並んでぶら下がっている。壁の掘り込み棚には調味料と思しき容器。その下に、大きな鉈や斧が無造作に立てかけられている。厨房だ。大きな家畜をここで解体しているようだ。
「レイ用の厨房、か?」
てっきり上の入院患者たちと同じ厨房で調理されたものをここへ運び入れているものだと思っていた。
ただの厨房なら特段気にすることもない。
引き返そうとしたソーは、厨房の向かい側、左手の壁を見てその動きを止めた。
奥の方に鉄格子の扉が並んで見えたからだ。厨房の前に牢? 家畜の檻だろうか。でも、わざわざここまで生かして連れてくる必要があるだろうか? 普通、解体は外でやるだろう。
心臓が大きく鼓動を打ちはじめる。ソーは我知らず喉を鳴らし、緋色に輝く光錘を握る手に力を込めると、足音を忍ばせてそっと壁に沿って歩を進めた。
壁に背をつけ、顔だけ覗かせて最初の鉄格子の中を確かめた。
やはり、ここは家畜の檻じゃない。ソーの不安が膨れ上がった。
小さな簡易ベッドが一つあり、端には毛布が丸まっている。部屋の隅には用便のための瓶と、飲用の水瓶。そして対面側の壁には机が一つ。机の上には羊皮紙が数枚折り重なり、その上に筆記用と思われる小さな黒炭が転がっている。少し前まで誰かがここにいた痕跡がありありと残っている。
鉄格子に手をかけると、あっさり開いた。
少しためらったものの、胸のうちを占める正体不明の不安には勝てなかった。ソーは牢の中に足を踏み入れた。
卓の上で身を屈めて、散らばった紙を確かめる。見たこともないような複雑な数式がびっしりと書き込まれていた。細かくて整った文字だ。ここに閉じ込められていた人物は、数学に悉知していたらしい。
「数学」で思い出したのは、数学科のモートン教授のことだった。彼はちょうど一年ほど前に退任した。研究のため、数学と占星術に特化したレムネア国に向かうと聞いた。神学科のソーとはほとんど接点のない人だったが、離任式は学校総出で行われた。
モートン教授かどうかはともかくとして、学のある人物が施療院の秘密の地下牢に閉じ込められているなんて、一体どういうことだろう。あの厨房ではレイの食事を作っていたのではなく、囚人の食事を作っていたのだろうか。レイはここのことを知らないのだろう。知っていれば、そうと話したはずだ。
ソーは最初の鉄格子を出て二番目の鉄格子も覗いてみた。こちらは最近使われた様子はなかった。
最後の鉄格子を覗いた。やはり人はいない。だが壁の鉄釘にかけられた上着が気に掛かって、ソーはこの鉄格子も押し開けた。
「どこかで見た気が……」
ソーは壁の黒い上着の袖を持ち上げてまじまじと見た。柔らかく、艶やかな光沢を放つ上物の外套だ。裕福な家の者でなければ一生手にすることはないだろう。
この暑い時期、外套は必要ない。ここに来るときソーがフード付きローブを羽織ったのは、髪や背格好を隠すためであって、防寒のためではない。
ここにいた人物は寒い時期にここに連れてこられたのだろうか。そうでなければここよりも寒い地域から来たか、あるいは、寒い地域に向かう船に乗ろうとしていたのか。
数学。高価なローブ。
なぜ、そんな人たちをこんな場所に閉じ込めたのか。通常の治療では手に余るような凶人をここに連れてきたのだろうか。でも、そんな人があんな端正な文字を書けるだろうか。
不安を抱えたまま引き返そうとしたとき、つま先が何かを弾いた。
ベッドの下を覗き込み、手を入れて、蹴り飛ばしてしまったものを摘まみ上げる。金属製の輪のようだ。ブレスレット、あるいはアンクレットだろうか。緋色の光を放つ光錘を近づけて、外側、内側と目を近づけて観察したソーは、次の瞬間、その輪を取り落とした。
石のついていないシンプルな白金の腕輪だった。表面に施されているのは、春に咲く蔓草植物、アルヴの花。そして腕輪の内側には持ち主の名が刻印されている。
イア・ロ=マーダ。
それは、ソー自らベイルの店で選び、速翔の後、イアに贈った送別の品だった。
「先生の胸には、ぽっかり大きな穴が空いていたのを覚えてる」
ふいにレイが以前語った言葉を思い出した。聞いたそのときには、前後の話から受けた衝撃で軽く聞き流した内容だったが、ずっと頭の隅に引っ掛かっていた。
ソーの血を吸って元気を取り戻したレイ。
いつもは食事を摂ると症状が落ち着くのだと言ったレイ。
そして、音楽の師シェス・テ=アムスの死後、突然、師の楽曲の続きが思い浮かんだというレイ。その師の死体の胸に空いた大きな穴。
それらの話と、目の前の腕輪がソーの中で一つに繋がった。
「まさか、レイが………………?」
食べたのか。人を。音楽家シェス・テ=アムスの心臓を。そして、イア・ロ=マーダ先輩を。ひょっとしたら、あのモートン教授も……?
全身の血の気が引いていく。そんなばかな。そんなことがあるはずない。あの、レイが。
ソーはふらふらと引き返し、一階に出る鉄扉を潜った。そこにはすでに交代の兵が立っていた。兵は気軽な様子で片手を上げた。
「よう、お疲れさま」
ソーは声音で疑われないよう、黙って頷き返した。
兵士は珍しいものを見るような目で、兜に覆われたソーの顔をじろじろと見た。もしかしたら交代前の兵はおしゃべりな奴なのかもしれない。
「なんだ、ずいぶん疲れてるな。とっくに帰ったかと思ってたぞ。中で何かあったのか?」
レイの話では、交代前の兵は幸い新任らしいとのことだった。ソーは声の違いに気付かれないよう、ぼそぼそと呟くように応えた。
「物音がしたんだが、ただの鼠だった」
幸い、交代の兵は声の違いが気にならなかったようだ。
「多いよな、鼠。ここで育ったラウ公が何を食ってるのか考えるとおぞましいぜ。うっかり触っちまったら祟りにでも遭いそうだ。もらえるものはもらえるのに辞めちまう奴が多い理由に納得だよ」
こいつは知っているのだ。中で何が行われているのか。厨房に立てかけてあった巨大な斧や鉈を思い出し、ソーは必死に吐き気を飲み込んだ。
「おい、平気か。足がふらついてるぞ。まさかほんとに鼠に触ったのか」
ソーは頭を振った。平気だから、これ以上構わないでくれ。
「お先に」
「おお、大事にな」
そのまま、なるべく平静を装ってゆっくりと正門から出て、しばらく進んでからソーは空を駆け上がった。早朝の明るみはじめたばかりの街はまだ静まりかえっている。
本当にあのイア先輩は死んだのか。
レイはその先輩を食べた、いや食べさせられたのか。
思い浮かぶ二人の笑顔がソーの胸を抉る。
窓から自分の寝室に飛び込んだとき、ソーはどこをどう翔けてきたのかもわからなかった。寝台に潜り込み、上掛けを頭から被った。吐き気はしばらく治まらなかった。
ここから後半に入っていきます。
次回から久々のハフラムです。




