【3】
大聖堂の敷地は広い。敷地の中に森と小川、果樹林や畑、薬草園を抱え、住み込みで働く人々はこの中で自給自足している。
建物のある一角は四隅に見張り塔を備えた高い塀に囲まれ、まるで砦のような様相だ。これは、聖堂騎士団の前身が、かつてここを拠点としていたためだ。
塀の中には三つの建物が中庭を囲うように建っている。中央が大聖堂。右は使用人たちの宿舎に、厨房や裁縫室。左は製薬所、紡績所、光錘工房などの作業場だ。
正門は街の中央広場に直結していて、人の往来が盛んだ。毎日街人のみならず、海を渡った先の大陸からも、お祈りやお浄めを求めて大勢の人々がひっきりなしにやってくる。
裏手の庭園へと続く小径沿いが、子供たちの遊び場だ。街から行き来しやすく、小川に小魚や水鳥たちが遊び、傍らの茂みには鈴なりの野苺が実る。人に慣れた兎や栗鼠も集まってくる。立派な木の枝からぶら下がっている大きなブランコも子供たちのお目当てだ。
幼い子供たちが、無邪気な笑い声をあげて野苺の茂みを駆け回っている。
あの子たちはいいな、何の悩みもなさそうで。 そんなことを思いながら、ツェルは重たい足をのろのろ進めた。
「ほんと嫌になっちゃう」
面倒な子に会う予感しかしない。溜め息をつくと、テュナは別の意味に捕らえたようだった。
「さっきのことなら、気にしないでください。覚えなくてはならないお作法がたっくさんあるんですもの。全部間違えずにできるようになるまで、リラ姉さまでも七年かかったのですって。ツェル様はほとんど失敗しないではないですか。逆にそれって、すごいですよ」
軌道修正するほどのことでもないので、ツェルは流れのまま、テュナの言葉に返した。
「そんなことない。ツェル、昨日は迷子になったの。しかも、それを放……大声でみんなにばらされて。すっごく恥ずかしかった」
「でもツェルさま、昨日までずうっと眠っていたのに……あ、御魂が天の世に行っていたときのことですね」
ハフラムではサジュナにツェルのことを共有しているように、テュナにだけはハフラムの話を聞かせている。テュナは何を言っても、いつも真剣に聞いてくれるたった一人の友達だ。
天の世とは女神の住まう世界のこと。こちらでは人間界の頭上、雲の上にあると信じられている。
「彼女」がハフラムのリァンとして活動している間、ツェルの方は眠っていて、二、三日の間一度も起きることがない。その逆もまた然りだ。
そして、深い眠りにつく御子の様子を、教会は「御子の魂は母たる女神に会いに行っているのだ」と説明している。そのせいでテュナもまた、この世界の他の誰もがそうであるように、リァンが生きるもう一つの世界のことを「女神さまの住まう天上の国」だと思い込んでいる。
もちろんツェルは、ショッピング・モールが空に浮かんでいるわけではないことを知っている。ハフラムは――リァンの知る限りでは――一つの惑星であり、宇宙の数多の星の一つなのだ。
ツェルのいるこのカナンだって、技術的にまだ明かされていないだけで、きっとどこかの惑星の一半島に過ぎないはず。
でも、それを人に説明するのは、ツェルにはまだ難しかった。こちらの世界は文明的にハフラムほど発達していない。宇宙も惑星も知らないこの世界の人たちに、雲の上には神様の国なんてない――なんて、仮にも女神の御子といわれているツェルが口にしたら、どうなることか。
もっと小さい頃は、子供の妄想で済んでいた。でも近頃は、へたなことを口にすれば、すぐに本国へ連絡が飛び、聖皇さまからお叱りを受ける。だから、テュナにも迂闊なことは話せない。
さて、どう話したものかと考えているうちに、テュナは次の話題に繋げてくれた。
「そういえば、神さまの世界は迷ってしまうくらい広いのですか」
ツェルはほっとして答えた。
「けっこう広い方だと思うわ。でも大人たちはせまいって言うの。昔はもっとずっと広かったんですって」
テュナはショックを受けた顔をしている。
「神さまの国はだんだん小さくなっているのでしょうか……。わたしたちのお祈りが足りないから?」
「うーん、たぶんそういうことではないわ。せまくなったのは、だいぶ昔のことで、それからずっと変わっていないから」
「それなら良かったです。今はカナンとどちらが大きいのでしょう?」
「たぶん向こうじゃないかしら。カナンは山と海を越えたらすぐ外国だけれど、あちらには国なんてないから」
向こうではそう教わった。今のハフラムに「国」は存在しない。昔はあったが、千年前に無くなったと。
一方、こちらでは家庭教師からこう教わった。
「南大陸と北大陸には、大小様々な国があります。ツェル様の暮らすこのカナンの街は、南大陸から中央海に向かって突き出た半島、つまりここです」
と、そのとき先生は、地図を指先で突きながら説明してくれた。
「ちょうど中央海の真ん中にあるのがわかると思います。ですから、カナンは世界の中心と呼ばれるわけですね。カナンは独立自治都市、すなわちカナンの領主様が治めておられます。でも何十年か前までは、カナンはここ、西の『ザンダストラ聖皇国』の一部だったのですよ。なぜカナンが独立することになったか、おわかりになりますか。ヒントは先ほどお話しした『戦争』と『世界の中心』という言葉にあります」
ツェルはうんうん唸りながら考えた。北と南の二大陸に分かれ、中央海を挟んでにらみ合う七つの大国。彼らは百年も二百年も戦争を繰り返してきたのだと習った。それとカナンの独立がどう関係あるのだろう。
「真ん中に関係のない街があれば、ケンカしづらくなるからでしょうか」
「なるほど、それはどうしてでしょうか」
ツェルはほとんどケンカなどしたことないが、親友のテュナはよく姉とケンカをする。あまりに言い争いが激しくなると、ツェルが間に入って止めることもある。他の人だとだめだけれど、ツェルを巻き込んではいけないと思うのか、ふたりとも必ず大人しくなる。それはたぶん、ツェルが御子だからだ。テュナもその姉も聖職者なので、ツェルの言うことは絶対だ。ということは、間に入る人には力がないといけないのか。カナンにある力ってなんだろう。
「カナンに聖堂騎士団があるから?」
「さすが、よく気付かれましたね」
先生は満足げに頷いた。
「聖堂騎士団は、カナンがまだザンダストラの一部だった頃に設立されました。ザンダストラはレイェス教会の総本山です。教会を統率される聖皇猊下は、ザンダストラの皇であると同時に、レイェス教会の最高聖職者でもあらせられます。猊下は戦争が激化していた当時、女神様からご神託を授かりました。こちらについてはツェル様の方がよくご存じでしょうね」
「はい。古文書に戦争を終わらせる力が眠っている、と女神さまは仰られました。そしてその古文書には、長い間失われていた、光錘を造る方法が記されていました」
「その通りです。ご神託に従い光錘を造り出された猊下は、光錘を操る兵を育てました。教会は各地にたくさんありますが、中でもこのカナン大聖堂にはその力に秀でた者が多かったので、彼らは聖堂騎士と呼ばれるようになりました。光錘の力は圧倒的で、戦の様相をあっという間に塗り替えてしまいました。六国はたちまちザンダストラに屈服しました。しかし猊下は、制圧した六国の自治を認められたのです。猊下の目指されるところは戦争の終結と人々の平和な暮らしであり、巨大な帝国をつくることにはなかったからです。猊下はもう二度と戦争を繰り返すことのないよう『七国連合』を作られました。それぞれの国から代表を集め、互いに道を踏み外すことのないよう話し合いをさせるためです。七国連合は今も続いていますが、さて、集められた彼らは何と呼ばれているでしょうか。連合議会はどこに置かれているでしょうか」
ツェルは自信たっぷりに海の方角を指差した。窓の向こうには、遠くに港と内海、その奥の真っ白な双子の塔が霞んで見えている。
「彼らは元老議員と呼ばれます。そして、あそこに見える塔で元老会議は行われています」
「これは簡単すぎる問題でしたね。はい、その通りです。左岸の星の塔、右岸の海の塔、そしてその二つの塔が一つになった上部の月の塔。三つの部位からなるあの大きな塔は、普段は元老院塔と呼ばれ親しまれていますね。さて、はじめのうち六国は互いに揉め合ったのですよ。それぞれが自分の領土内に議会を置くといって聞かなかったのです。なぜなら、その方が議員たちを操作しやすく、自国にとって有利になると考えたわけですね。そこで聖皇猊下は悩まれた末、この聖地カナンを提供することになさいました。この時に猊下が宣言されたお言葉は有名ですので、ぜひ知っておいてください――『七大国の中心、七国のいずれにも属さぬ土地に、連合議会を置きましょう。議会を置くこの地は、元老議員の知、教会の心、聖堂騎士団の武、の三つの調和で、どの国にも傾かず、中立の立場を貫く連合の象徴としましょう』」
先生はすらすらと諳んじた。
「そうしてできたのが、この独立自治都市カナンというわけです」
顔は海に、背は山脈に守られたカナンは天然の要塞都市と呼ばれるほど堅牢だが、地図で見てもそう広い土地ではない。
とはいえ、ハフラムも無条件に広いわけではない。国も国境もないことはないが、普段暮らしている街は、別の「境」に囲まれているのだ。
「難しいのよね。天の世は広いけれど、実際には行けない所がたくさんあるから」
「あれに乗っても行けないのですか。ほら、前に教えてくださった、あの、てんぴ……何とかとかいう馬車」
ツェルは立てた二本指を左右に振った。
「飛行車のこと? あれは馬車ではないわ。馬が引かなくても、車が自分で空を飛ぶのよ」
「馬が引かなくても」
テュナはほうっと息をついた。
「すごいわ、神々の奇跡で車が鳥のように空を飛ぶのですね。わたしもいつか乗ってみたいですわ。きっと速いのでしょうね。それに路だってすごくきれいそうです。馬糞なんて落ちていないでしょうし」
「もちろんよ。路はきらきら光っていてとってもきれいなのよ。お空に通る光の筋みたいなの。地面にも歩くための道があるけれど、そこも白く光っていて、夜は特にきれい。ずっと見ていても飽きないわ。それにどっちも臭くない」
ツェルとテュナはくすくす笑い合ったが、少し先で水遊びをしている少女たちの姿を目にするなり、ほぼ同時に顔をしかめた。
「どうしよう。混ぜてもらう、テュナ?」
「まさか。話が合いませんわ」
さばさばとテュナは応じた。
「商家の子って、流行っている服や誰が好きかなんて話ばかりしたがるんですもの」
「それじゃあ、あっちにいるファナたちは?」
「船工場の子だって、だいたい同じですよ。外国の唄や、珍しいお土産物の自慢ばっかりするんですもの。それに何より、あの子たちには信心が足りませんわ」
テュナは次第に早口になってゆく。
「女神さまがおられるから、わたしたちは食べ物に恵まれ、安心して暮らせているのよ。それなのに一体、なに? おしゃれや、珍しいものを持ってることが、そんなに大事? そもそも、あっちから何が好きかって訊いてきたから、初代御子さまの伝説だって正直に答えたのよ。それを、みんなして笑うなんてひどすぎる! なあにが生真面目で面白くない、よ。わたしたちの一日は聖典のお勉強とお祈りで終わるのよ。おしゃれなんてしようがありませんわ!」
テュナは身に着けた生成りのローブをひっぱり、反対の手で背に流した長い髪を無造作に掴んだ。
「お務め中は白のローブと革のサンダル。髪は結わえてはだめ。宝飾品はラツィニク製の銀と青。ださいわけじゃないの、選べないの! それに、好きな男の子が何だっていうのよ。わたしたちは、結婚相手を勝手に決められないようにするだけで精一杯なんですからね」
ツェルはうんうんと頷いた。
「本当よ。御子さまはいいですね、なんて皆言うけれど、本当、なにもわかってないわ。ツェルは自分のしたいことなんて何もできやしないんだから」
「本当ですよ。わたしでさえ、お出かけのときに護衛がつくだけでうんざりなのに、ツェルさまは朝から晩まで見張りがつくんですものね」
テュナは来た道をちらと振り返った。全身黒い服を身に着けた男がさりげなく樹の幹に背を預けて立っている。見える範囲には一人しかいないが、少なくともでも五、六人はこの辺りのどこかに潜んでいるのは知っている。『影』と呼ばれるツェル専属の護衛だ。
顔を戻したテュナは疑問を付け足した。
「そういえばあの人たち、ツェルさまが寝るときはどうしているのですか」
「窓の外と扉の外に立っているわ。外の扉と、隣の部屋に続く扉、全部によ。お手洗いに立つときは必ず声をかけないといけないの。もちろん、お手洗いの間も扉の前と、窓のところに立って待っているし」
「うえぇ。それなら、禊ぎのときは?」
「当然、いるわよ。中には入ってこないけれど、壁のすぐ向こうに立っているの。身体を洗っているときに話し声が聞こえることもあって、すっごくそわそわしちゃう」
「うわあ」
テュナは母親似の淡泊な顔立ちいっぱいに同情の色を浮かべている。
ツェルの行くところ、いちいち誰かに命じられなくとも常に彼らはついてくる。護衛に徹するため、ツェルは彼らに話しかけることを禁じられている。顔はわかるが名前は知らない。今そこに立っている「影」にもテュナの声は聞こえているかもしれないが、彼は表情一つ変えなかった。
テュナは灌木に手のひらを滑らせながら視線をツェルに戻した。
「とにかく、わたしたちがつまらないのは、わたしたちのせいではありませんわ。自由もなく、朝から晩まであの子たちの幸せまで祈らされているせいです。そう考えるとシャクですわね。いっそご祈祷文を変えてしまおうかしら。ツェルさまと家族の幸せだけ、たーっぷりお祈りできるように」
「テュナったら!」
「別に聞かれたって構いませんわ。鐘一つ分しかない自由時間なのに、誰とどこで遊ぶかまで全部決めてしまう、お父さまたちが悪いのです」
テュナは人見知りだけれど、気心の知れた相手には何でもあけすけに口にする。大勢と関わるのは気疲れするといって、ツェルや家族と一緒にいるときの他は大抵一人で本を読んで過ごしているが、それを気にする風でもない。つい周囲の顔色を窺ってしまうツェルは、そんなテュナが羨ましい。
ツェルは木立から飛び立ってゆく鳥を見送りながら囁くように言った。
「でも、それもそうね。あーあ、はやく半双が見つからないかしら。半双なら絶対ツェルの気持ちをわかってくれるはずなのに」
「またツェル様ってば。本当に半双がお好きですね。でも、もしわたしみたいに、外れな人だったらどうするのですか」
「テュナがそう思うのも仕方ないけれど、それを言っては罰当たりよ。聖典にもあるじゃない。『御子は言った。半双を知り半双と支えあうことは、女神の願いであると。我々人は女神の子として、本能的に半双を欲するのである』って。初代さまの言うように、わたしだって早く半双に会いたいの」
「確かに、片翼がどんな方なのかは気になりますけどね。聖典本篇には出てこないですし、深海文書にも、御子と結ばれ世界を平和にするとしか書いていませんし。初代の御子さまは片翼さまに会えなかったのでしょうね」
深海文書は、十数年ほど前にカナン近郊の海底遺跡から引き上げられたいくつもの石版だ。そこには古くから教会に伝わる「聖典」を補完するような内容や預言がいくつも記されていた。預言の一つには、近々御子が再び生まれ落ちることも書かれていた。そしてその預言通りにツェルが生まれたのである。だから、深海文書のお告げはきっと正しい。ツェルはそう確信していた。
「えっと、誰にも言わないでね」
ツェルはきょろりと辺りを見回し、それからテュナの耳元に手を当てて声を潜めた。
「秘文書って知っている?」
「はい。深海文書の一部ですよね。ときがくるまでは知らない方がいいこともあるって、秘密にされている。中身、すごく気になりますけれど」
「うん、それよ。実はツェルね、ちょっとだけそれを読ませてもらったの」
「ええっ、本当ですか」
テュナが驚いたようにツェルを見る。ツェルはさらに声をひそめた。
「絶対の絶対、誰にも言わないって約束できる?」
「もちろんです」
テュナが真面目な顔をして頷くのを確認すると、ツェルは続けた。
「深海文書に書いてあったの。女神さまは生みだした人間たちを正しい方向へ導くため、ご自分の魂を切り分けて、この世に下ろされた……」
「初代御子さまのことですね。あ、片翼様もそうですね」
「わたしもそう思っていたけど、実はそれが少しだけ違ったの。御子は女神様の魂の一部を切り分けて創られたけど、片翼の方は、女神様の魂に宿る『生命力』から創り出されたのですって。だから片翼には、病気や怪我を治せる特別な力があるみたい」
「うそっ。魔法みたい。そんな人ならすぐわかりそう。なのに、どうしてなかなか見つからないのでしょう」
「それは、『厄災のとき』に空の裂け目から現れた悪魔たちに、おふたりが殺そうになったせいなの。片翼は悪魔たちから御子を助けたときに、ひとり空の裂け目に落ちてしまったのですって」
「聖典本篇の『厄災』の章にはそんな話ありませんでしたけれど……」
本篇には、御子の祈りが天に届き、悪魔から人々を護った、としか書かれていない。
「それも理由があるの。初代さまは大切な片翼を失った悲しみで、何日も食事をとらずに岩屋にこもってしまったそうよ。それを心配なさった女神さまが、御子さまと人間たちから、片翼に関する記憶をすべて取り上げてしまわれたの。いつか悲しみが薄れた頃に、御子が片翼を探し出せるように、片翼の記録を封じた石版を人々に授けてね。でも、大きな地震が起きて神殿が海の底に沈んだときに、その石版も一緒に沈んでしまった」
「だから、片翼についての記録が全然残っていなかったのですね」
「石版が無事に見つかって、十年くらいでツェルが生まれたでしょ。すごい運命的だと思わない? ツェルにはきっと、初代さまの代わりに、片翼を探す使命があるのよ」
「それでツェル様は、半双のことを、ずうっと気にされていたわけですね。でも、どうしてそんな大事なことを、聖皇さまは秘文書にしてしまったのでしょう」
「だって、考えてもみて。もし片翼が見つかったとき、皆が片翼の力を知っていたらどうなると思う?」
「大騒ぎになるでしょうね。具合の悪い人たちが大勢集まってきて」
「誰が最初に治してもらうかって、けんかになりそうでしょ」
「ひょっとしたら、戦争になるかもしれないですね」
「お父さまもそう仰っていたわ。だから、秘密にされたのですって」
「なるほど」
そうして詳細は伏せられたものの、教会は深海文書が見つかって以降、片翼の存在を知らしめるべく積極的に活動している。しかし歴史が浅い分、熱心に教会に通っている信者や学のある貴族たちはともかく、市井には片翼について知らない者や、知っていても懐疑的な者が多い。それがツェルには歯がゆかった。
ツェルはテュナから顔を離し、夢み心地に春の青空を見上げた。
「半双って素敵ね。生まれたときに魂を分けあった、自分だけの特別な人なんて」
テュナはおよそ領主家の子女とは思えない呻き声をあげた。
「片翼さまのことはわかりましたけれど、期待しすぎない方がいいですよ。初代さまの代からもう千年も経っていますし、たとえ見つかったとしたって、ツェルさまが素晴らしい分、片翼さまはがっかりな人かもしれません。いっそいない方が良かったって思うかも」
「テュナったら。『人という種は、二人で一つの魂として生まれてくる』のよ。もし半双がいなかったら大変なことよ。魂が半分足りなくて、悪魔に憑かれやすい、不完全な自分のままってことだもの。半双同士が揃って、初めて本当の自分がわかるのよ。お互いにお互いが必要なんて、とっても素敵じゃない。そうだわ、せっかくだから、テュナももう少しあの人と話してみたら? だってテュナの半双なんだもの。きっと……たぶん、良いところだって見つかるはずよ」
「ええ、あいつとですか?」
テュナは憮然としている。
「聖誕祭」と呼ばれるツェルの誕生日パーティーの日に、テュナの半双は毎年必ずやってくる。七国連合をまとめ上げる元老議員の孫なのだ。口が悪くて大人にも偉そうな態度で応じ、自分より小さな子を力尽くで押さえつけ、菓子を取ってこいだの、席を譲れだのと命令する。背丈だけは大人にも届きそうな立派な体格の少年だ。どうやらツェルのことを気に入っているらしく、会うたび馴れ馴れしく話しかけてくるわりに、テュナとはお互い知らんぷりだ。
それでも、あの彼が生まれる前に分かたれてしまったテュナの魂の一片だというのなら、やはりテュナにとって必要な相手のはずだ。
ツェルの相手はどんな人だろう。
互いの不足を補いあう相手。魂が惹かれあう人。一体どんな人かしらと夢は膨らむ。テュナはああいうが、きっとがっかりな人ではないはずだ。何しろ片翼は、女神さまの一番大切なお力を分けてもらった特別な子なのだもの。
「ねえテュナ、普通のお友達と半双とでは、どんな風に違うの? もちろん、生まれる日が大体同じだってことは知っているけれど」
「そうですねえ」
テュナは空を斜に見上げて唸った。
「会えばなんとなくわかるんですよねえ。初めて会ったときに、久しぶりに会ったような、懐かしいような感じがして。向こうもそう言っていました。でもそれって、なんだか運命に操られているみたいで嫌じゃありません?」
「そう? 運命の繋がりなんて素敵じゃない」
「ツェルさまはそう思われるでしょうね。でも、わたしもあいつも運命反対派なのですわ。あいつとも決めているのです。できるだけ会わないようにして、無関係に生きようって。だってそうでもしないと、いつかはあいつと結婚なんてことになりかねません! そんなの絶対に嫌ですわ」
「あの人とそんな話をしたの。やっぱり、半双は気が合うのね」
「そんな、気は合わないですよ、もちろん」
そうは言うが、テュナは戸惑っているように見える。言われてみて初めて喧嘩をしたことがなかったことに気がついたらしい。
テュナは目の前の少し大きめの石を蹴飛ばした。小石は白い花を咲かせている灌木の小枝をへし折り、ころりと転がって止まった。
「というわけで、半双のことでしたら、わたしより大司教さまに訊いてみた方が良いですよ。大司教さまはわたしのお父さまと半双同士ですし、子供の頃から仲良し同士ですから」
「もう訊いたわ。ずいぶん前のことよ。でもテュナと同じように言うの。会えばわかる、ですって。それでは何もわからないわ」
ツェルはそのときの父の言葉を思い出した。
『会えばわかります。心が自然と理解するのです。半双は他の誰とも違います。共にいればどこかに取りこぼした大事な欠片を取り戻したかのような安堵を覚えるのです。自分にはこの人が必要だったのだと実感するのです。何より嬉しいのは、自分にとって必要だと思ったその相手が、同じように自分を必要としてくれることですね。大昔に所在のわからなくなってしまった御子の半双がいつ見つかるかはわかりません。もしかしたら、きみの代には見つけられないことだって考えられます。しかし案ずることはありません。たとえ半身を欠いた状態とはいえ、きみの魂は女神様のもの。それだけで他とは比べようのない存在なのですから』
父は案ずることはないと言った。けれどもツェルにはそう思えない。
御子は特別な存在だ。
女神の力の一部を持って生まれ、女神のように生きることを強いられる。人々を助けることが御子の使命で、そのために私情は殺さなければならない。
ツェルの気持ちは、たとえテュナにだってわかるわけないわ、とツェルは思う。だって女神さまの力を持っているのは、この世でツェルと片翼だけだから。ツェルの辛さを本当の意味で理解できるのは、世界中でも片翼だけ。だから、会いたくてたまらない。どうしても半双に会いたい。
ブランコの吊されている一角に近づいたとき、ツェルとテュナはとっさに近くの木の陰に身を隠した。
ブランコの向こうで玉蹴りに熱中しているのは、よりにもよって二人にとって一番やっかいな子供たちだ。中でも町一番の漁師の子で、あの集団のリーダー格の子がツェルは苦手だ。何かにつけツェルに突っかかってくる。
「ダンたちがいる」
「最悪。中に戻りませんか」
「外で遊びなさいって追い出されるわよ。こっちはやめて、泉の星行鴨のヒナを見に行かない?」
「いいですね」
そそくさと引き返すとき、遊び場の一角に並んだテーブルに女性たちが集まっているのが見えた。
「誤認逮捕ですって」
ツェルは思わず足を止めた。テーブルを囲む何人かの婦人たちが、深刻な顔をして黄色いドレスの女性を見つめている。隣のグレーのドレスを纏っているのはダンの母親。ということは、あの人たちはたぶん、庭園で遊んでいる子の母親たちだ。