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ツェルト・リァン-二つ世と未来の女神-  作者: Ari
§07 シュナの遣い Side-S
23/59

【3】

§07は2つに分けていましたが、長かったので3つに分け直しました。

話は増えていません。

「飛べ!」

 ワジの普及光錘モデン・リューゲルが粉々に砕けるのと同時に、空に固定されていた幹の破片が勢いよく飛んできた。咄嗟に横に跳んだものの、避けきれなかった破片が頬や防具の継ぎ目に当たり、ソーの肌を切り裂き、飛びすぎる。流れ弾が向かう先を見て、ソーの背筋はひやりと凍った。

「先生っ」

 ぐったりしたネスを背負ったエゼが湖面すれすれを歩き対岸に向かっているところだった。

 エゼはソーの声に振り返り、飛来する破片に気付いた。エゼは片手でネスを支えたまま、もう一方の手で頭上の光糸リーリエを掴み、上空に逃れようとした。その腕を飛来してきた木片が次々に切り裂く。エゼの悲鳴は大きな水しぶきに飲み込まれ、負ぶわれていたネスは宙に投げ出された。その先には湖から突き出た大岩がある。

 頭から叩き付けられるか、と息を飲んだ瞬間、ネスは辛うじて空中の光糸リーリエを掴んでいた。けれども力が入らないのか、ずるずると滑り落ちてゆく。

「ネス、耐えろ! 今行く!」

 リィを開いたソーは、湖上を駆けた。途中、水面に浮かぶ細い棒きれに気がついた。光錘リューゲルだ。誰かが落としたのか。良かった!

 ソーは水面から光錘リューゲルをかっさらい、ネスから伸びる光糸リーリエを探した。ほとんどはこちらと逆の、対岸の学生たちや、街や学校がある方に向かって伸びている。ただ一本だけ、はっきりと視える糸がこちら側に伸びていた。ソーは駆けぬけざまにその糸を光錘リューゲルに絡め、思いきり引き寄せた。

 後ろで誰かの悲鳴が聞こえたように思ったが、気にする余裕はなかった。糸に引かれたネスの身体が勢いよく飛び込んでくる。ソーはネスを両腕に受け留め、肩当てから岩の上に落ちた。岩の上を転げてようやく身体が止まる。

 落ちた衝撃で息が詰まる。心臓が早鐘を打っている。

 痛む肘に顔をしかめつつ、半身を起こしてネスを確認する。口元や目元には青痣、唇からは血が出ているが、意識はあるようだ。防具を付けていたのが幸いした。

「ネス、平気か」

 声をかけると、ネスは腫れた目をのろのろと押し上げ、弱々しく訴えた。

「ほう……、はんとかは」

「あいつに歯向かうなんて、らしくないぞ。いつもみたいに慎重にしてれば良かったのに」

「おまへに、言わへたふは、ねーや」

 話しづらそうだが、軽口を叩く元気があるなら大丈夫か。

 と、すぐ近くの水面がざばりと跳ね、ワジが水面に顔を出した。びくりと震えるネスを背後に回し、ソーはワジを睨んだ。ワジもまた、ソーと目が合うと、顔を真っ赤にして口元を戦慄かせた。こめかみの血管がピクピク震えている。激昂のあまり言葉が出ないらしい。

 ワジは獣のように吠え、光糸リーリエを掴んで勢いよく水面に上がった。

 咄嗟に身構えようとしたソーの右半身に、電撃のような痺れが走った。光錘リューゲルを取り落とし、膝をつく。落ちたときの衝撃で力が入らない。

 飛び掛かってくるワジの一撃をまともに食らう覚悟をしたとき、ひゅうと空を切って蔓のようなものが飛びすぎ、勢いよくワジの手足に巻き付いた。四肢を四方から拘束されたワジは中空で身動きがとれない。ワジを拘束したものは光錘リューゲルだった。聖堂騎士たちが応援に駆けつけてくれたのだ。騎士たちはあっという間にワジを取り囲み、取り押さえた。ワジの喚き声が、木漏れ日を受けてきらきら光る甲冑の中に飲み込まれる。

 ぽかんとそれを見送っていると、聖堂騎士のひとりがソーに気が付き、寄ってきた。

「ソーじゃないか。学校では大人しくしているって聞いてたんだが」

 ソーは力の入らない右手を振った。

「先輩。俺が騒ぎを起こしたわけではありません」

「そっちの彼は」

 聖堂騎士に指を指されたネスは、頬を紅潮させて起き上がろうとし――そのまま額から岩に激突しかけた。ソーは慌ててネスの肩を支えた。

「無理するな」

「彼か、被害にあったのは」

「はい。ワジに殴られていたんです。俺はそれを止めに来ました」

「一般人相手に怪我をさせていないだろうな――と言いたいところだが、相手がワジ選手じゃそうも言っていられないか。向こう岸まで少しある。良かったら手を貸そう」

「いえ、俺はたいしたことありません。こいつも俺が運びます」

 といいつつ、ソーは暴れるワジを取り押さえるのに難航している騎士たちを見遣った。救助されたエゼ先生もワジの取り巻きをひとり連行している。先輩騎士は頷いた。

「そうか。では、任せたよ」

 騎士はワジを連行する集団に加わりに向かった。

 ソーはネスを引っ張り上げようとした。その途端、ぎゃっと悲鳴が上がる。慌てて手を止めた。

「どうした。どこが痛い」

「はた……たふん、はしゅれてる……」

 ネスは左肩に手をやって冷や汗をかいている。ソーは慎重にネスから防具を外し、服を緩めて怪我の具合を確認した。露出していた顔や腕、脚、それから背中脇腹に点々と痣がある。胸や腹、骨には異常なさそうだ。ソーはネスの手を退け、左腕付け根を指先で確認した。負担をかけないよう慎重に上体を起こし、すうっと息を吸うと、ネスが逃げるより速く、思いきり左肩を押し込んだ。

「いっでえっ!」

「嵌まったか」

「へっ……あ、ほんとら……ひらくない。しゅげ」

 ソーは動いているネスの口を強引に手で覆った。掌の下でもごもご文句を言っているようだが、有無を言わさず押さえつける。しばらくそのままにしてから手を離した。

「おいっ、さっきから何なんだよ!」

「口の腫れ、引いたな」

「えっ……あ、ほんとだすげえ。ごめんな、治してくれてんのに文句とか」

「しゃべり方が妙に腹立たしかったからな」

「前言撤回。やっぱおまえ、ひでえわ」

「それだけ無駄口きけるなら応急処置はいいな。戻るか」

 ネスを負ぶって立ち上がると、妙に視線が気になった。

 対岸の学生たちが、先生や騎士に伴われて戻ってきたワジたちや、なかなか戻ってこないこちらに注目している。

「うわあ。俺たちすっかり有名人ですね」

速翔セハが終わったら、すぐ卒業だ。あまり気にするな」

「じゃなくてよう。もっと前に注目されたかったわあ」

「ワジに絡まれる学生生活をもっと早くから愉しみたかったのか」

「やっぱり結構です」

 軽口をたたき合いながらリィを開き、湖面すれすれへと降りる。こうして接触していればネスの怪我も多少は良くなるだろう。集まってきた銀色の魚たちが足元で飛び跳ねている。

「ありがとうな。ネス」

 背の上でネスは首を傾げたようだ。

「そいつは俺の台詞じゃね?」

「ワジに脅されても、言わなかったんだってな。ナルから聞いた」

 ネスを負ぶった背から、こそばゆそうな息が聞こえた。

「そういうのよせよ、恥ずい。しかしよう、これでおまえ、本格的にワジの怒りを買ったな」

「その方がいいだろ。おまえから注意が逸れて」

「そういうとこよ、ソーちゃん」

 ネスは力なく笑ってから呻いた。

「う、笑うと痛え」

「無理するな。岸に着くまでには多少良くなるだろうから」

「うう。ほんと御使い様だわ、ソーちゃんたら。いってえ!」

「だから大人しくしてろって。ネス、俺なら大丈夫だ。慣れてるから、次からは適当にワジに合わせてろ。俺を犯罪者にしたくなかったらな」

「おまえさあ、さっきも言ったろ。そういうとこだよ。そのうち惚れた腫れたで刺されても知らねえかんな」

 ネスは力を抜いてソーの背に凭れた。

「冗談でも言えねえよ。おまえの悪口なんかさ。おまえはさ、恩人だからよ」

「なんだ、それ」

「俺たちが初めて会ったときのこと、覚えてるか」

「ああ」

「俺、かなり荒れてただろ」

 ソーは頷いた。

 十四歳の頃だ。当時ネスの母は床に臥せったきり起き上がれなくなっていた。ネスの学用品を揃えるために、母一人子一人の家庭で無理をしたせいだと聞いている。

「恥ずかしいけどよ、俺は小せえ頃に父ちゃんも姉ちゃんも事故で亡くして、母ちゃんっ子だったからさ。母ちゃんが死んだらこの世の終わりだって心底思ってたんだ。だけど、栄養のあるもんを食わしてやりたくても、俺のできる仕事なんてほとんどなくって。まあ、手っ取り早く稼ごうとして、大人しくて言うこと聞きそうな奴らから金品巻き上げたのは今となっちゃ反省してる」

「つまりおまえにカモられそうになった俺は、大人しくて言うこと聞きそうだったのか」

「いやあ、ははは。おまえ、学校じゃあんま目立たなかったからな。見た目もひょろっこかったし、ちょっと脅せばちょろいかと」

「捨ててやる」

 ソーが身体を傾けると、ぐらりと揺れたネスの身体が湖面に影を作った。ネスは慌ててソーの首に腕を巻き付けた。

「ぎゃあ、すんませんソー様っ。俺が悪うございました」

 ソーの背中で身体が安定すると、ネスはほうっと安堵の息をついた。ソーは首を絞めるネスの腕を顎で押した。

「苦しい」

「わりい、わりい」

 ネスは腕を緩めると話を続けた。

「ところがどっこい、眼光は鋭いわ。このほっそい身体のどこにそんな力があんのかってくらい力強いわで。まさかいきなり投げ飛ばされるとは思ってなかったぜ」

「路地裏にひっぱり込んで金品要求してくる輩がいれば誰だってそうする」

「いや、誰だってはしないな」

 ネスは一瞬真顔になったらしく真剣な声を出した。

「それなのにおまえとくりゃ、わざわざ、俺がこんなことをする理由を訊いてきてよ……。ったく、変な奴だよな」

 そういうネスの声が涙ぐんでいる。

 当時の状況をソーは思いだした。学校で供される昼食をこっそり包み込み、午後の授業が終わるやいなや真っ先に校門を走り出ていく奴だと気がつき、訳ありなんじゃないかと思っただけだ。なかなか素直に吐かないから、多少叩きのめしてやると、ネスは泣きながら事情を語り始めた。

 事情がわかった後は、無理やりネスの自宅までついていった。

「一睡もせず母ちゃんの手を握っていてよ……。やべえ奴を連れ込んだものだと思ったよ」

「『やべえ奴』が目の前にいるのに、寝ていた誰かさんもいたけどな」

「カモ探しで疲れてたんだよ。話聞いてもらえて、ほっとしたのもあったしさ」

 ネスはふ、と軽く笑った。

「朝んなって、頭はたかれて目え開けたら、寝たきりだった母ちゃんが目の前に立ってんだもんなあ。びびったよ。医者にもどうにもできなくて、保ってあと数日、なんて言われてたのにさ。おはよう、ネスって笑ってくれてさ。あんときのことは一生忘れねえよ」

「らしくなく感傷的だな」

「茶化すなよ。おまえがツェル様の半双メトワで良かったって俺は心底思ってるんだよ。おまえはさ、なんでか人を安心させる才能があんだよな。こいつと一緒にいればきっとどうにかなる、みたいなさ。おまえがザンダストラに行って、ツェル様と一緒に教会を引っ張っていってくれるなら、ここはきっと、もっと住みやすくて良い場所になるよ。ツェル様が結婚すんのは気に食わねえけど、おまえが相手なら、しゃあないな」

 ネスの声は優しい。初めて出会った日の荒んだ少年とは別人みたいだ。

 ネスが抱いてくれている期待を、自分はきっと裏切ることになる。そのときはネスも――騎士団長はじめ今の家族も――いずれ自分を恨むのかもしれない。

 ソーは重くなりそうな足をどうにか前へと進めた。

 無事、対岸についてネスを救護班に預けた。駆け寄ってきたナルはさっそくネスを怒鳴りつけている。不服そうに口を尖らせているネスもまた、ナルが心配してくれたことが嬉しいらしく、まんざらでもなさそうだ。あの二人はきっと、いい夫婦になるだろう。

 救護班のひとりがソーの元へ駆けつけてきた。

「ソーさん、お疲れ様でした。お怪我は大丈夫ですか」

 彼女は泥と血にまみれた顔や腕を心配そうに見ている。

「ありがとう。大丈夫だ」

「ですが、血の跡がありますよ。失礼しますね」

 少女は絞った布でソーの顔や腕を丁寧に拭いた。

「あら。本当ですね。お怪我はないみたい」

 少女は不思議そうにしつつ、救護箱を提げて引き返していった。

 そこへツェルが近づいてきた。

「ソー、大丈夫?」

「ああ。俺の丈夫さは知っているだろ」

 ツェルはほっとしたように表情を緩めかけ、けれどすぐに表情を引き締めた。睨むようにソーの後ろを見据えている。エゼ先生や騎士たちに付き添われたワジがそこにいた。ワジの取り巻きたちは一人ずつ騎士たちに引っ張られている。

「本試合で徹底的にぶちのめしてやる。覚えとけ」

 通りすがりにワジが言葉を投げつけてきた。去りゆく背中を見送るソーに、別の見知らぬ声がかかった。

「すみません、少しだけお話をよろしいですか」

 振り返ると、前合わせの風変わりな衣装を身に着けた初老の男性が立っていた。丸い顔に細い目。背丈は低く、肌は小麦色をしている。鼻の下と顎下に垂れる長い髭は伸ばしっぱなしというのではなく、丁寧に整えられている。

 練習試合が始まる前に湖岸に集まっていた群衆の中で見た覚えのある顔だった。

「あなたは」

 ソーが警戒気味に問うと、男はたっぷりした袖の中に手を互い違いに収めて、直角に腰を折り曲げた。

「失礼、シュナ国から参りました。偉大なる帝の右四つ指、トゥルフと申します」

 やや訛りはあるが、トゥルフはザンダス語ではっきりと挨拶した。ツェルは戸惑うソーの耳に顔を寄せて囁いた。

「シュナのエンク帝の側近は十人いて、階位の順に十本指の名が与えられるの。右四つ指は、上から八階位目よ」

 そういえばそうだったか。七大国のことは一通り頭に入れたはずだが、普段使わない情報なだけに、一息置いて考えないと出てこない。どんなときでもすらすらと諸国の情報が出てくるツェルはさすが主席なだけある。

 トゥルフは続けた。

「世に名高い速翔セハに非常に興味がありまして、こちらで見学しておりました。こうして見ているだけで力が漲るようですよ。特に先ほどのあなたの動きには目を奪われました。失礼ですが、お名前を拝聴しても」

 一瞬戸惑ったが、どうせ本試合になればわかることだとソーは口を開いた。

「ソー・ル=イスタです」

 トゥルフは胸に当てた右手をソーに差し出しかけたが、ソーが胡乱げにそれを見下ろしているのに気付いたのか、直前にその手を引っ込めた。

「不躾で失礼。素晴らしいものを見せていただいたお礼を一言申し上げたかっただけにございます。よろしければこちらを受け取ってはもらえませんか。先ほどいただいた興奮に比べれば何てことのないものでございますが、カナンでは珍しいものかと。我が国の工芸品でございます」

 と、トゥルフが腰の袋から取り出したのは、小さな巾着袋だ。ありふれた形だが、表に施された紋様は見たこともないほど色鮮やかで細かい。中央に明るい金色の陽が輝き、その周囲に鮮やかな黄色い花と覚めるような色の青い葉が折り重なるように咲いている。

「見事な品ですね。シュナ国特産の織物、ウイナナですね」

「はい、御子様。然様にございます」

 ツェルの感心したような声にトゥルフは頷き、ソーに向かって差し出した。

「ぜひ、お手にとってお確かめください」

 押しつけられたその小袋をソーは仕方なく受け取った。鮮やかな色使いは、キィなら喜ぶだろうか。そう思いながら小袋の表面を撫でると、かさりと中で何かが擦れた。紙が入っているようだ。

 小柄なトゥルフは愛想の良い笑顔を浮かべたまま、ソーをじっと見上げている。

「お気持ちありがたく頂戴します」

 ソーはシィカやツェルたちに怪しまれないうちにと、その袋を腰のポーチにしまいこんだ。

 トゥルフは再び深々と頭を下げた。

「邪魔立てしてすみませんでした。本試合も楽しみにしております。ではまたお会いしましょう。イスタ殿、御子様」

 木々の中を去って行くトゥルフを見送ると、それと入れ替わりのようにエゼ先生が戻ってきた。先生は湖畔で落ち着きなく佇んでいた学生たちに向かって声を張り上げた。

「本日の練習はここまでとし、学校へ戻ります。しかし、本試合は近い。練習は近々再開する予定なので、各々自主練を怠らぬように。では、荷をまとめ終わった班から移動しなさい。以上、解散!」

 湖畔の学生たちの間から不平不満、喜び、様々な声が上がる。

 学生たちは光錘リューゲルを腰の後ろに収め、救護用天幕や目印のポールなどを片付け始めた。ツェルの周囲にはさっそく取り巻きの娘たちが集まり始める。

 さりげなくそこから離れて樹の後ろに入ったソーは、トゥルフから受け取った袋を開けて中の紙片を取り出した。小さく折りたたまれたその紙には、ややぎこちないザンダス文字でこう書かれていた。

「日没前に遣いを送ります」


 夕刻、ソーは自宅前の演習場にいた。毎日欠かさず行っている光錘リューゲルの訓練だ。そろそろ上がろうかと汗を拭いているところへ、シュナの民族衣装を纏った女がふらりと入ってきた。肘にバスケットをぶら下げている。

「ソーさん、お元気ですか」

 逆光で見えづらかった顔を識別すると、ソーはぎくりとした。三年ほど前から養児院ようごいんの厨房で働いている先生の一人だと気付いたからだ。

「エイリン先生」

「キィちゃんたちと一緒に、私の郷里のお菓子を作ったんです。どうしてもお兄さんに渡したいというのですが、ソーさんはしばらくいらっしゃる予定がありませんでしたから、私が代わりに」

 彼女がかごに掛かった布を持ち上げると、チーズのような塊が中に見え、独特の酸っぱい香りが鼻をついた。

 まさかこの人が、トゥルフの遣い? 身を強張らせるソーの肩にエイリンは親しげに手を載せた。

「疲れによく効きますよ。日持ちはしますが、せっかくですから風味の良いうちに召し上がってください」

 表の庭に移動してテラスの椅子に腰を落ち着ける。勧められた菓子を持て余していると、エイリンはちらりとソーの背後を確認した。シィカの存在を気にしているのだろう。

「おいしいですか?」

「はい。乳製品は苦手ですが、これは癖がなくて食べやすいです。もしかしてコーロの乳ですか」

 大型なコーロは開けた土地のないカナンでは飼育が難しい。牛乳は高級品だ。この菓子はチーズに似ているが酸味が強い。中に練り込まれた干しカレムの甘みが酸味を和らげている。

「ええ、コーロの乳を発酵させて干した、ファボカという食べ物です。郷里では甘くない簡素なものが好まれるのですが、子供たちが食べやすいよう多めに干しカレムを混ぜてみました。ほらこれ、キィちゃんがこさえたものですよ。お兄さんの顔だって言っていました」

 エイリンが示した菓子には、干しカレムの欠片が目と口のように貼り付けられている。少し離れた目と、口角の上がった口。キィが描く顔だ。ソーはその欠片を手に載せて、そっと撫でた。

「ありがとうございます。キィにもおいしかったと伝えてください」

 エイリンはにこりと微笑んで、他愛ない雑談を続けた。今日の天気の話、最近の養児院ようごいんの様子。ソーが適当に相槌を打っていると、ふいにエイリンは声を潜めた。

「そのままの様子で聞いていてくださいね。あなたの護衛に怪しまれないように」

 ソーは強張りかけた手を緩めて頷いた。エイリンは世間話を続けるような様子で続けた。

「失礼ながら、ずっとあなたとあなたのご家族について調べておりました。近頃、キィちゃんたちが外国の暮らしに興味を持つようになったので、もしやと思いましてね。大樹の守護者として生まれ落ちたあなたが、その運命を負担に思っているという噂も小耳に挟んだことがあります。ソーさん、私たちはあなたのお力になれます。我が祖国シュナへ来ませんか」

 ソーは言葉に詰まった。

 教会から逃亡しようとしていることに気付かれている。だが、決定的な証拠はない。勘違いで押し切ってしまえばいい。でも、これはまさに待ち望んでいた機会かもしれない。もう少し探ってみようか。

「俺をシュナに連れて行きたい理由は?」

「そう警戒しないでください。私たちが調べたかったのはあなた個人というより教会だ、と申し上げておきましょう。育ちすぎたあの大樹は、今や海を越え各国にその根を伸ばし、その地の養分までをも吸い取っています。私たちの国もかつて戦場となりました。あの戦いで家畜たちは逃げ出し、多くの働き手が失われました。残された子供たちは今も安心して暮らせぬ日々を送っています。枝の一つであるあなたに、なぜこのような話をと思われることでしょう。実は、シュナの帝は先の聖堂騎士団との合戦で床から起き上がれぬ身になりました。幸い頭脳の方は変わりませんが、今は帝の一の媛が帝に代わり天幕の表に立たれ、どうにか大樹の搾取から祖国を守っておられます。しかしながら大樹は今、千年に一度の実りの季節。守護者たる番の鳥が生まれ、天をも突き破らん勢いです。七国連合とはなんでしょうか。実態は教会という心臓を持つザンダストラの隷属国なのです。先日もまた、一の媛の元へ、ザンダストラより招聘の文が届きました。宗教教育を題目とした五年間の留学、その間は聖皇の侍女として厚遇するとのことでした。この無礼をして、何が連合国でありましょうか。聖皇の元に集められた娘たちは姿を消すとの噂もあります。どうして帝の後継者をザンダストラへ差し出せましょう。シュナは誇り高き戦士の国。我々は今一度、ザンダストラと戦う機会が欲しいのです。自由を取り戻す機会が欲しいのです。ですから、ソーさん。あなたの持つ不思議なお力を、どうか我々にお貸しいただけませんか。帝を治療していただきたいのです」

「いや、しかし――」

「わかっています、誰にでも効くわけではないということは。しかし私は確信しているのです。この三年間、養児院ようごいんにいて、あなたの人柄を観察してきました。高潔で誇り高き戦士である我々の帝とあなたとは、きっと気が合うことでしょう。その上でもう一度言います。聖堂騎士団の内情を寄越せなどとは言いません。帝の傷を癒やしてください。もう一度立ち上がり、彼の敵と戦うために。あなたは教会から自由になれますし、互いの利害は一致しているはずです」

「そうでしょうか。俺を捕らえ、教会との取り引き材料にする方がシュナにとって有利ではありませんか」

「そのような愚劣な真似は決してしません」

 エイリンの顔に一瞬、怒りのような表情が浮かんだ。エイリンはすぐに落ち着きを取り戻し、元の調子で淡々と続けた。

「失礼ながら――御子とは違い、あなたの知名度はそこまで高くありませんね。治癒の力も秘されていますし、あなたは牙を隠して生きている。教会が片翼はやはり間違いであったと言えば、いくらでも代わりが現れることでしょう。ですから、あなたを取り引き材料にする旨味はさほどないのです。帝が再び立ち上がること。そしてもう一つ、あなたが表舞台から欠けることの意義が大きいのです。先ほどと矛盾するようですが、御子様個人は大層あなたを頼りにしているようです。聖堂騎士団長殿も然り。この二人を精神的に揺さぶることに意味があります。それが教会への反意によるものとあればなおさらです。帝はそこに一縷の望みをかけています。治療がうまくいっても、いかなくても、あなたが最大の誠意を持って我々に協力してくれたならば、我々も十分な恩賞をお渡しします。その後は教会から離れ、あなたの心のまま自由に生きてください。戦に出たことがないとはいえ、あなたも教会の枝の一つ。我が国において恨みを持つ者は多い。しかし生い立ちを明かさず、どこか目立たぬ地でひっそりと暮らすのならば誰も何も言いますまい。あなたのお父上と刃を交えることはあるかもしれませんが、誓って裏を掻くような真似はしません。帝の意志により、正々堂々戦うとお約束します。どうでしょう。すぐに答えを出せとは言いません。トゥルフが港に宿をとっています。速翔セハと七国連合会議の間は滞在していますので、その間に考えてみてください。色良い返事をお待ちしています」

 ソーは微笑みを崩さないエイリンの顔を見た。今までなぜ気付かなかったのか。エイリンの菓子を二つに割って口に放り込む手は右手。利き手は右だ。それなのに袖から僅かに覗く左腕の二の腕の方が太い。射手独特の筋肉の付き方だ。三年も前から、シュナの戦士に見張られていただなんて。

 隣国のシュナは古くから草原の精霊たちを信仰してきた。信仰と国土を護るため、彼らは五十年もの間、教会勢力に抵抗してきた。しかし五年前の合戦でザンダストラに敗れ、レイェス教を受け入れることを条件にザンダストラと和平を結び、七国連合に加盟した。

 そのときの話は、実際にシュナのエンク帝を討った騎士団長から何度も聞かされた。騎士団長は国民を思うエンク帝の高潔さに心打たれ、命を奪えという聖皇命を無視し、彼を助けたそうだ。帝の意志というのが、このときの良き好敵手に向けたものなら、正々堂々という言葉に裏はなさそうだ。

 終戦後、シュナでは重鎮たちのほとんどがザンダストラの息がかかった者にすげ替えられたと聞く。トゥルフはうまく立ち回って十本指に残ることを許された、古参の側近だろうか。

 エイリンの話が本当なら、考える価値のある話だ。密航ではなくシュナの協力のもと匿ってもらうことができる。国外脱出の道のりが格段に楽になる。

 実質、シュナから出された要求は帝の治療だけだ。

 立ち上がれるようになった帝がシュナを率いてザンダストラに攻め込んだら、カナンの聖堂騎士団にも当然、招集がかかる。騎士団には裕福な家庭の子息が多く、平民出のソーにとっては居心地が良いばかりの場所ではなかった。それでも世話になった先輩はいるし、実力を認めてくれた同期もいた。危ないところを助け合った友人もいるし、何より世話になった養父が長を務めている。

 シュナの手を取れば、彼らを裏切ることになってしまう。

 では、ここで話を拒んだらどうなるだろう。

 それでもいずれシュナは、ザンダストラに戦いを挑むように思える。そうでなければ、敵に回るかも知れない相手にこんな話は持ちかけなかっただろう。エイリンは三年間、弟たちのすぐ傍に居た。彼女はいつでも弟たちに手を出せる状態だった。しかしそうはしなかった。こちらを見極め、覚悟を決めて打ち明けたのだとしたら、乗る価値のある話だ。しかし……。

 エイリンは即答できずに黙り込むソーから、山の端に掛かる陽に目を移し、少しの間じっと眺めてから、バスケットを手に席を立った。

「そろそろお暇します。楽しい時間をありがとうございました。速翔セハではぜひ優勝なさってくださいね。我が国では、敵味方なく強き者を尊ぶのですよ」

 立ち上がったソーに、すれちがいざまエイリンは囁いた。

「考える時間も必要でしょう。私たちにもあなたの価値を示してください。見送りはけっこうです。それでは、またお会いしましょう」

 きびきびとした足取りで去って行くエイリンを見送ったソーは思わず呟いた。

「『優勝しろ』か……」

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