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ツェルト・リァン-二つ世と未来の女神-  作者: Ari
§06 スゥラ研究所 Side-H
20/59

【3】

 フラップを持ち上げて慎重に虹彩認証しているエルを、リァンは緊張気味に待った。

 扉が開くと、エルは腕を伸ばしてリァンを制した。

「注意。通り抜ける前にここのパネルで静脈認証をしておいて。これをしないと、ここから出る時に扉にロックがかかって警報が鳴るから」

 と、エルが示したのは扉が引っ込んだところだ。よく見れば下方にスキャンパネルが付いている。ドアが開く前には見えないし、知らなければ開いた扉だけに目が行って見落とすだろう。

「これは完全に罠ですね」

「その通り、よくこれに引っ掛かる奴がいるんだよ。きちんとセキュリティ研修を受けた所員の中にもね。たとえば、シャで始まってジャで終わるような名前の奴とかだけど。その度に警報が鳴って警備員がすっ飛んでくるし、ロックがかかって仕事ができなくなるしで大騒ぎさ。おまけにロック解除のため、いちいち博士かクォダか僕のうち誰かが呼び出されるんだ。そのたび会議も外出も全部キャンセルだよ。この認証だけはさっさと外してくれとずっと交渉しているんだけどね。なかなか上がウンと言ってくれないんだ」

「それは大変ですね」

 うんざりした顔のエルに、リァンはくすくす笑った。

 ふたりは認証を済ませて戸口を潜った。

 短い廊下を抜け、その先の銀色の扉が開くと、ひやりとした空気が流れ込んできた。扉が残した微かな擦れ音が暗い空間に吸い込まれてゆく。この先はかなり広い空間のようだ。

 エルに続いて廊下の外に出る。

 真っ暗でよく見えないが、どうやらずいぶん高い場所に出たらしい。靴底が金属を打つ澄んだ音がどこまでも広がってゆく。

 足元の通路は、ベランダのように宙に固定されているらしい。先をゆくエルがリァンを手招きする。手すりを掴み、なるべく足元以外を見ないようにしながら、そろそろとエルの隣に並ぶ。恐る恐る顔を上げたリァンは、あっと声を上げた。

 音が吸い込まれてゆく感じから広いだろうとは思っていたが、想像を遙かに超えていた。大型星間航行船が丸ごと入るかもしれない。セントラルドームを地下に移設するために掘った穴なのだと言われても納得できる。足下を照らす僅かなセンサーライトの光はどこまでも続く闇に飲み込まれている。天井もまたセントラルタワーの全長くらいあるのではないかというほど遠い。ここからでは底が見えない。あまりの高さに足下が震えて、手すりを掴む手に汗が滲む。

「すごい高さ」

 呟いたリァンの声は風穴をくぐる風の音のように唸りながら響いた。

 少しずつ目が闇に慣れてくる。よく見ると先の方、ここより少し高い位置の壁にも、ここと同じようなベランダが付いている。その少し先には、ここより低い位置に同じベランダが付いている。どのベランダにも、その突端には円盤状の浮遊盤テンピュリスが浮いている。

 リァンは手元の黒い柵を目で辿った。突き当たり部分は開閉できそうだ。あの先にも浮遊盤テンピュリスがあるのだろう。でも、確かめる勇気が出ない。呼吸が干上がりそうだ。

「もしかして、高いところが苦手?」

「は、はい」

「大丈夫、落ちないよ。怖ければ、僕に捕まっていて」

 と、腕を差し出される。

 普段ならとても恥ずかしくてできないことだけど、今はそんなことを言っている余裕はない。リァンはこくこく頷き、目の前の腕に両腕でしがみついた。人肌の温もりと、捕まるところがある安心感に、ようやく一息がつけた。リァンは顔を上げ、改めて壁面を見遣った。

「あっちと――それからあっちにも、ここと同じような手すりがありますね。もしかして全部、他のチームのエリアに繋がっているのですか」

「半分正解」

「半分ですか」

「コンシューマ向け製品を作っている部門は、ここと関わる必要はないからね。ここに出入りできるのは、所内でもコアな研究チームとメンテナンスチームだけだよ。残りの扉はセントラルタワーや、市街地に繋がっている」

「市街地」

 そんなところからここへ出入りできていいのだろうか? リァンが驚いた原因を察知したのか、エルは付け加えた。

「もちろん、出入り口の場所は秘密にされているし、普段は厳重にロックされている。たとえ見つけたところで出入りすることはできないよ」

「そうなのですか」

 でも、それなら、どうしてそんなにあちらこちらに出入り口を設ける必要が? そこまで考えたとき、その疑問は霧散した。もっと驚くべきものを目にしたからだ。

 今まで暗くて気付かなかったが、この広大な空間の中心部を埋めるように、巨大な漆黒の球体が浮かんでいたのだ。

「お、大きい……! あれは一体」

 エルは胸ポケットからペンライトを取り出して球体の正面に当ててみせた。

「これが『スゥラ』の本体だよ」

 それではこの広大な空間は、この巨大な黒い球体を収めるための空間だったのか。

 エルのペンライトが球体の表面をなぞり、ゆっくりと下へ向けられてゆく。小さな光が闇の中に隠れていた姿を明らかにしてゆく。

 はじめ浮かんでいるように見えたその球体は、棘のように突き出したいくつもの太い支柱によって、中空に固定されていた。

 球体の下からは無数のコードが垂れ下がっている。そのコードのうち一本を、エルのライトが辿ってゆく。コードが繋がる先は、無数の点が並んだ金属版のようなものに繋がっているように見えたが、ここからでは遠すぎて、はっきりとはわからない。

 エルが腕の装身情報端末スピオを操作する。どうやらペンライトとリンクしているらしい。ペンライトの光が読み取った映像が目の前に立体投影された。

 コードが繋がった先は、どうやら透明なカプセル状の容器のようだ。中身は空っぽらしい。同じ容器が等間隔を開けて、その前後左右にずらりと整列している。エルはさらに映像を拡大した。カプセルの表面が鮮明に映し出される。見慣れたラボのロゴ、表面の操作盤――

 そこまで確認して、リァンははっとした。

「もしかしてこれは、細胞活性装置ですか?」

 ハフラム人が一年に一度は利用するカプセル型の医療器具にそっくりだった。

 カプセルの中は体温と同じ温さの保存液が入っていて、血管から直接酸素を送り込んでもらいながら、一晩あの中で眠るのだ。その間に細胞は活性化され、活力に満ちた肉体が維持される。リァンはまだカプセルの推奨年齢に達していないが、免疫力を上げるために利用している。

 それにしても、すごい数のカプセルだ。リァンはエルの腕を掴む手に力を込め、もう一度鉄柵の下を見下ろした。びっしり並んでいるあの無数の点一つ一つが、すべてカプセルだったなんて。生理現象で粟だった腕を服の上から擦りながら、リァンは隣のエルを見上げた。

「細胞活性装置にスゥラ本体から直接チャージしているのでしょうか。これも異星移住計画の準備のひとつですか」

 星間航行船に細胞活性装置は積み込めないという話だったと思うが、惑星外に持ち出せるよう、機器にエネルギーを蓄える実験をしているのだろうか?

 エルは黙って首を横に振った。違う、という意味よりは答えられない、と言いたいようだ。リァンは自分の浅はかさを恥じた。そういえば、さっきクォダという男性が、制限はかかっていると言っていた。それなのに、うっかりこんな質問をするなんて。

 エルはところで、と中央の球体を指差した。

「あの黒い球体を見てみて、どう?」

「驚きました。とてつもなく大きいですね。星間航行船のコロニー部分を作っているのだと言われても納得してしまいそうです。中がどうなっているのか気になります」

「見せてあげたいところだけど、外装を剥がしたらスゥラが壊れてしまうからなあ」

 エルは冗談めかして笑った。

「ちょっと触ってみる? 不思議な感じがすると思うよ」

 リァンは驚いた。

「そんな近くまで行っても大丈夫なのですか」

「もちろん。議長の許可をとっているからね」

 当然、気になるに決まっている。こんな機会、一生に二度もないはずだ。ただ、問題はここがとんでもなく高い場所にあるということだ。

 震えつつも、結局リァンは「お願いします」と口にした。ここで尻込みしたら、祖父に歯向かってまでここに来た意味がない。

 頷いたエルは、腕にリァンをぶら下げたままベランダの突き当たりへと進んだ。突き当たりの錠を外し、鉄柵を押し開く。その奥にぽかりと浮かぶ円形の足場が浮遊盤テンピュリスだ。ふたりが中央に乗ると、浮遊盤テンピュリスの輪郭が淡緑色に発光した。

 リァンの身体の震えが止まらない。

 浮遊盤テンピュリスは四人乗ればいっぱいになりそうなくらいの、薄っぺらな円盤だ。しかもこれは、ちょっと二階や三階に上がるために使うものとはわけが違う。手すりも壁も付いていない上に、落下防止のためのセーフティネットも設置されていないのだ。

 高所恐怖症の人はスゥラ研究員になれないなんて聞いていない。

 リァンは泣きそうになりながら、必死に、ツェルである自分を思い浮かべた。ツェルだったら光糸リーリエを軽やかに駆け下りていける。空中であっても無数の光糸リーリエが、自分を支えてくれる。そこから落ちる心配なんてする必要はないのだ。

 ずるりとへたりこみかけたリァンの腕をエルは引き寄せ、足下の円盤に向かって声をかけた。

「レメンダ」

「えっ――」

 どこかで聞いたことがあるような。

 一瞬、恐怖を忘れてエルを見上げると、円盤が微かに揺れた。悲鳴を上げてエルの胴にしがみ付く。

 円盤の中央部分から、棒状のものがするりと飛び出してきた。ちょうどリァンの胸の高さで止まったそれには、突端に握りやすそうなグリップが付いている。手すりだ。

 エルは縋り付くリァンの手を外し、しっかりと手すりを握らせた。それでもなお震えが止まらずにいると、エルは背中からリァンを抱き抱えるようにして、手すりを握るリァンの手にその手を添えてくれた。前には手すり、背にはエルという支えができたことで、リァンはようやく止めていた呼吸を再開することができた。先の見えない深淵のさなかに進もうとしているのだ。掴むところは心の支えに等しい。

「準備はいい?」

「は、はい。大丈夫です」

 エルは頷き、足元の円盤に向かって声をかけた。

「ザグ・ト・スゥラ」

 円盤の外周が淡く光り、ゆっくりと降下を始めた。黒い球体にどんどん近づいてゆく。

 でもリァンはそれどころではなかった。さっきエルが使った言葉について、思い当たったのだ。あれは普段ツェルが話しているザンダス語だ。ザグ・ト・スゥラは「スゥラに向かって進め」、レメンダは「起きる、動き始める」という意味だ。

「エル先輩……っ」

 首だけ捻ってエルを見ようとすると、エルは片手を放し、リァンの口元にその指を宛がった。

「ごめん、色々聞きたいだろうけどね。それより、ほら、スゥラだ。触ってごらん」

 エルが手すりを固く握りしめていたリァンの右手を解き、そっと目の前の黒い球体に触れさせた。

 スゥラの表面はごく普通の真っ黒な金属のようだった。しかも氷のように冷たい。最初の一瞬は思わず手を離してしまったほどだ。けれど、慣れた様子で表面を撫でているエルを見て、改めて掌全体を押し当ててみた。この金属の塊の、一体どこが「不思議」なのだろう。

 幸い、視界はスゥラに塞がれている。

 リァンは今度は左手も添えて、耳をスゥラの表面にくっつけてみた。

 スゥラの中からは、気泡が弾けるような音が聞こえてきた。樹の幹が水を吸い上げるような仄かな音。スゥラはまるで呼吸するように小さく、微かに震えている。

「不思議……。静かだけどかすかに動いていますね。どうしてかしら。エネルギー発生装置なのに冷たいなんて。もっと近づけないほど熱いものだと思っていました。……スゥラは今も稼働しているのですよね?」

「もちろん。スゥラが止まることはないよ」

 スゥラは呼吸するように静かに動いていた。この巨大な球体が惑星ハフラムの高度な文明を支えているのだ。

 リァンはしばらくその不思議な呼吸に耳を澄ませ、それからゆっくりと身体を離した。

「ありがとうございます、先輩。もう大丈夫です」

 エルは頷き、浮遊盤テンピュリスの手すりを握った。リァンもまた両手で手すりを握りなおす。浮遊盤テンピュリスは来た道を辿って静かに上昇してゆく。

 足下に光る無数のカプセルたちはまるで棺のようだ――そんな風に感じたのは、レイから聞いた、音楽の先生が蘇ったときの怖ろしい話が、頭にしつこく残り続けていたせいかもしれない。


 執務室に戻ったが、相変わらず人の姿はなかった。休憩室で会った二人組はまだ戻っていないようだ。ずいぶん長い時間、あの空間にいたように感じたけれど、実際はそこまでではなかったようだ。

 エルは部屋に入ってすぐリァンに振り返ると、申し訳なさそうに言った。

「ごめん。今はこんなことしかできなくて」

「そ、そんな。ありがとうございます。貴重なものを見せていただいて、おかげで頭が冷えました。あの空間はまるで小さな宇宙みたい。あんなにも大がかりな装置を支えるために、先輩も、おじいさまも、力を尽くしてくださっているのですね。ハフラムに生きる私たちのために」

 リァンは深く息を吐き出した。

「折を見ておじいさまと話し合ってみたいと思います。おじいさまが私をただの実験道具として使うはずはないもの。きっと何か理由があるのですよね」

 エルはもちろん、と頷いた。

「しかし、博士がきみに事実を話すとは思えないな。もちろん博士がきみを大切に思っていることは間違いない。でも、だからこそ、ということもある」

 リァンはサジュナの頑なな表情を思った。そうかもしれない。事実を知れば、リァンが傷つく――そんな風に考えるかもしれない。

「それでも、私は真実を知りたいのです」

 どうせ長くない命なら、悔いのないように生きたい。ツェルは、ただの憶測で「VRだ」と割り切ってしまえるような存在ではない。ツェルの感じたこと、記憶、想いは、ときにリァンよりもずっと色鮮やかで、深く、強く、この心の中に根付いているのだから。

「わからないことは僕も知りたいと思う方だから、気持ちはわかるよ。大したことは話せないけど、できる限りの協力はするよ。今日みたいに、見せてあげられるものもあるからね」

「私が興味ありそうだと仰っていた場所ですね」

「うん」

 そういえばあれ以降、まともなデートはしていない。エルの仕事が忙しくなってしまい、ことごとく休日が潰れていた。最後に顔を合わせたのは惑星放送のあった日だ。それでも二度と会えなくなる心配なんてしなかった。それはエルが生きているから。また会えるはずだと、心のどこかで確信していられたからだ。

「あの、エル先輩」

「うん?」

 もしツェルとしての体験がすべてVRに過ぎないのだとしたら、現実世界はここ、ハフラムにしかない、ということになる。

 でも、ソーやテュナや父が実は生きていないなんて、そしてあの世界を彩る光糸リーリエ、すべてが虚構だなんて、今でも到底信じられない。自分の半生は、確かにあの世界と、彼らとの絆の中にある。それらを虚構だというのは、目の前の大切な人たちが、一瞬で消えてしまうのと同じことだ。

「もし――自分にとって一番大切な人たちが突然消えてしまったら。先輩だったら、どうしますか」

「それは、きみのもう一つの世界のことかな」

 すんなりと理解してくれたエルにリァンは頷く。エルは即答した。

「消さなければ良い」

「消さない?」

「そう。消さない。彼らの生きた証しを残すんだ。その人の言葉を、その人の成し遂げようとしていたことを……。その人の命の証しが自分の記憶の中に残されている限り。その命の意味を形にできるのは、今、ここに生きている自分だけだからね」

 リァンは真摯に答えてくれたエルの言葉を噛みしめた。

 VRに過ぎないとしても、この記憶の中のソーは確かに本物で、生きている。ソーのように生きれば、ソーを意味ある存在に変えられるのだろうか。

「アルフェ・ロア・ハル・ザァム・ロア・ハリス(だったら私は、やれることをやる)」

 ソーを真似てザンダス語で呟いてみる。泣き笑いのような吐息がそれに続いた。

 口に出したとき、その言葉は確かに本物に変わった気がした。

 リァンはエルを見上げた。

 疲れているだろうに、こんな夜中まで付き合ってくれた。私が真実を知りたいと言ったから。できるだけのことをしてくれた。

「……そうですね。ありがとうございます。色々あって辛かったけれど、少しだけ楽になったような気がします。どちらが現実かわかったのは、この先のことを考えたら、ある意味良かったのかもしれません」

「きみの力になれたなら良かった。そう言ってもらえると僕も嬉しいよ」

 エルは両手でリァンの両手を取った。ソーの傷だらけの手とは違う、白くきれいで、ひやりと冷たい手。その手は、半身を失ってぐらつくリァンを確かに支えてくれている。

「予定がわかったら、また連絡するよ。さて、そろそろ戻ろうか。博士がやきもきしているだろうからね」

「はい、ありがとうございます。……あの、エル先輩」

 前をゆくエルの足が止まる。首だけ振りむいた視線を受け止め損ねて、リァンは指を突き合わせた。

「実は……以前お話した彼は、ツェルの幼馴染みなんです」

「そうだったんだ。うん、なんとなくそんな気はしていたよ」

「はい。ただ、彼がVRの人だとわかった今でも、そう簡単には割り切れなくて……。これまで私は、ツェルという人生と、リァンという人生とを、それぞれに交わることのない、別人としての人生として受け止めていました。記憶だけを互いに共有し合っているように感じていたのです。でも、今はこちらが現実だということを知りました。私は、VRに溺れるような生き方を望んでいません。せっかく両親に授かった大切な命なんですもの。たとえ苦しくても、最後まで現実を生き抜いていきたい。だから、とても虫の良い話だとは思うのですけれど……もし良ければ、これからも一緒に居ていただけないでしょうか」

 エルは身体ごとリァンに向き直った。

「僕がきみの側にいたいと言ったんだ。もちろん、良いに決まってるよ」

 エルの指が耳元の髪を梳く。どきどきしながら俯いたそのとき、休憩室に続くドアの向こうから誰かがひょいと顔を覗かせた。さっき休憩室で見た二人組とは違う、また別の人だ。

「エル様、こちらにいらっしゃいましたか。議長から至急のコールが入っています」

 エルは頷き、リァンに振り返った。

「ごめん、邪魔が入ったね。少しここで待っていてくれるかい。先に休憩室に戻っていても良いよ。こちら側からなら認証無しで通れるから」

 個人所有のスゥラ機器は使用できないよう制限がかかっているのかもしれない。廊下の仮眠室が並んでいた辺りに個室の通話室があった。あそこに行かないと使えないのだろう。

 休憩室に行けばあの賑やかな二人組がいるはずだ。クォダと呼ばれた上役らしき男性の鋭い目をリァンは思い出した。あの人のエルに向ける刺々しい視線は苦手だった。

「ここで待っています」

「わかった。適当にその辺りの椅子に座っていて。端末はロックがかかっているから、うっかり触っても大丈夫だよ」

「まさか、触りませんよ」

 エルは片手を挙げて廊下へと出て行った。

 ひとりきりになったリァンは、胸に両手を当てて大きく深呼吸した。

 まだ少しどきどきしている。高いところへも行ったし、スゥラには圧倒されたし、それに――エルの手の感触がまだ残っている気がする。

 気分を落ち着けようと、ぐるりと薄暗い室内を見渡した。

「本当に、すごいディスプレイ」

 ぐるりと一周、この円形の部屋の壁を埋め尽くしている。フレームを挟んで八つに分かれているが、その合間のフレーム部分にもキーが並んでいる。サジュナはこのアーム付きチェアに乗って、高い位置にあるキーを操作するのだろうか。

 それにしてもこんなに大きい必要はあるだろうか。一体、どんなものを投影しているのだろう。スゥラのあの真っ黒な外装の中身? スゥラは不思議な装置だった。エネルギーを絶えることなく生みだしているのに、あんなに冷たいなんて。一体どんな仕組みで動いているのだろう。

 リァンはアーム付きチェアに腰を下ろして、いつもサジュナが使っているだろうキーに指先を滑らせた。

 サジュナはいつも口癖のように言う。

 本当は与えられた寿命の通りに老いていきたいのだと。

 サジュナは妻、そしてリァンの母である娘を早くに亡くした。以来、リァンを守るためだけに青年の姿を維持している。おそらくリァンの面倒をみる必要がなくなったとき、サジュナは細胞活性装置の使用を止めるつもりだろう。

 せめてサジュナが天寿を全うするまで生きられたら良いのに。そうすれば家族に置いて行かれる苦しみを、これ以上与えずに済む……。

 リァンは思わず緩んだ涙腺に指を押し当てた。

 サジュナが自分に酷いことをするはずがないことはわかっている。それでも反発してしまったのは、サジュナとの間に初めて隔たりを感じたからだ。頑なに話そうとしない態度が、わかりあえないことが、辛くて――。

 リァンは強めに目元を擦り、溜め息をついた。操作端末の手前に両肘をつき、両手で顎を支えて、沈黙する黒い画面を見つめる。

「……エル先輩、まだかしら」

 その瞬間、巨大モニタの一角で、ほんの一瞬、小さな光が瞬いた。どきりとし、咄嗟に背もたれに背を押しつけて、端末から距離をとる。

 ロックがかかっていると聞いたのに、まさか、うっかり触ってはまずいキーに肘が触れてしまったのだろうか。ひやりとして見つめた先で、キーの隅にある、スリープ状態を示すライトがぱちりと光った。やはり気のせいではない。スリープが解けている。

 モニタを凝視するリァンに向かって、目の前の端末から女性の声が流れた。

『おかえりなさい、マザー。現在は通常操作モードです。先にロックを解除してください』

「え…………………………?」

 中途半端に腰を浮かせた姿勢のままリァンは固まった。ぱちぱちと瞬きして、それから辺りを見回した。室内は相変わらず薄暗く、モニタの光は消えたままだ。コンピュータたちは微かな稼働音を立てている。変化らしいものは何も見当たらない。

 ロックを解除といっていたから、やはりロック自体はきちんとかかっているようだ。休止中のコンピュータのスリープを解除してしまっただけだろう。それに、ここの端末を動かすには所員の生体認証が必要だと言っていた。だったらリァンには動かせない。放っておけばまたスリープに戻るだろう。

 額に滲んだ冷や汗を指先で拭って、リァンはほうっと息を吐いてチェアを離れた。やはり知らない端末に不用意に触れるものではない。

 そのときスライドドアが開いて、エルが戻ってきた。

「お待たせ、リァン。ずっとそこで待っていたの? 座っていて良かったのに」

 リァンは曖昧に笑い、先導するエルの後に続いて執務スペースを後にした。

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