【2】
リァンを公園のベンチに下ろすと、エルは最初にこう提案した。
「僕からは話せないことが多い。最初にきみの話を聞かせてくれないか」
「改めて話すことはないですよ。私の日記を読まれたんですよね」
「さすがにそこまではしていないよ。サジュナ博士から概要を聞いたくらいだ。だから、きみの口から直接聞きたい。今さら虫がいいと思うだろうけど、きみの力になりたいんだ」
「でも……どうせ話せないではありませんか」
「直接話せないことは確かに多いよ。それでも、何かしらできることはあると思う。僕のこと、信じてもらえないかな」
エルの真摯な目を見ているうち、八つ当たりのように腹を立てていたことが、段々むなしく思えてきた。
そもそも日記は、サジュナや医師が読むことを前提に書いていたから、他人に読まれて困るようなことは書いていない。それにアスラ移住計画に関することなら、人類の存亡に関わる話だ。たとえ秘密保持装置がなかったとしても、そう易々と話せる話ではなかっただろう。
理解はできても、感情は追いつかない。勝手に被験体にされていたことよりも、ツェルやソーが実在しない可能性を突きつけられたことが――半生を否定されたようでたまらなかった。
「先輩が悪いとは思っていません。でも……どうしてこんなことをしたんですか。いえ、話せないということはもちろんわかっています。だけど、あんまりです。人の人生を弄ぶようなことをして……いくら移住計画の為だとはいっても……私一人犠牲になるくらい、どうってことないって思っていたのですか」
話しているうちに涙がぱたりと落ちてきた。慌てて腕でそれを拭う。エルが差し出してくれたハンカチを握りしめ、リァンはしばらく黙っていた。
「今は、話すことさえ辛いんです。でも……話せば、何かが変わると思いますか」
そう訊ねたリァンに、エルは静かに応じた。
「どうだろう。それは聞いてみないとわからない。でも何もしなければ、絶対に何も変わらないし、変えることはできないよ。僕たちのことが赦せないなら、それでもいい。ただ、きみのために、僕を利用してみてくれないか」
確かに先輩だったら、話せないなりにうまく伝えてくれるのかもしれない。二つ世の秘密に、迫ることができるのかもしれない。
淡い期待を抱いて、リァンは話しはじめた。
ハフラムと、カナン。
リァンと、ツェル。
セントラルタワーと、元老院塔。
二人のリァンが知る二つの世界のことを。
長い話を聞き終えたエルは、ふうっと息を吐き出して公園の椅子に凭れた。砂埃を被ったブランコや滑り台が街灯に照らされ寂しく光っている。ここを最後に子供が使ったのは、もう十年も前だ。最後にあの滑り台を滑りおりた子供は、今こうして、エルの反応を待っている。
落ち着かない気分のままエルと同じように椅子に凭れる。リクライニングする、つるりとした白い椅子に背を預けると、視界が上がり、夜空一面の星々とリング状の月、それに少し離れた場所に浮かぶ三分の一ほど欠けた月が目に入ってくる。月が二つ多いことを除けば、ツェルが見上げていた夜空と遜色ない。映像だと教えられなければ、本物だと思い込んだままだったはずだ。
「この実験は……」
「うん?」
エルは前のバーに長い足を引き上げながら、顔を横に倒してリァンを見た。
「……いえ、何でもないです。お話、できないんですものね」
エルは「うーん」と唸って、夜空に目を戻した。
「ラボも広いんだよ。僕たちは何チームかに分かれて仕事していてさ。所内でもチーム外への情報提供は許可がなければできない。部外者にできないのと同じさ。エレベータは各部署フロアに直通だし、用がなければ互いに顔を合わせることもない。きみも知っての通り、僕は『生物』チーム所属だ。スゥラエネルギーを農作物の改良や医療分野に役立てようというのが目的。義務教育でも習っただろう? ほら、きみもよく知っている『細胞活性装置』の改良なんかも手がけている」
惑星機密であるスゥラ研究所については、漏らしてはならない情報の範囲というものが厳格に定められている。文字であろうと、言葉であろうと、所員は情報を外に出すという行為を脳に埋め込まれたチップで常時監視されている。エルは問題ない範囲を選んで話してくれてはいるが、うっかり、ということもある。所員にとっては人に話すという行為自体がタブーなはずだ。
「あの、大丈夫なのでしょうか」
エルは微笑んだ。
「気を付けるよ。ところで、移住先の『アスラ』はハフラムとは別の惑星だ。いくら星の組成や環境が似ていたとしても、重力も違えば、質量もまるで違う。そこで進化してきた生物たちも当然異なる。だけど知っているかい? アスラにはハフラムの人類によく似た生物がいるってこと」
「はい。もう何万年か待てば、私たちと交流を持てるほどに進化するだろうと言われているそうですね」
「それが定説だね。でも、『彼ら』は今や絶滅寸前なんだよ。これは機密でも何でもないから、気になるならネットで調べてごらん」
「アスラの人類が絶滅? どうしてですか」
「諸説あるけれどね。確実なことは、まだわかっていない」
では、アスラは移住先として適していなかったのだろうか。その詳細を調べるのもエルたち生物チームの仕事のはずだ。
もし今さら移住できないとなれば、どうなるだろう。そこまで考えて、リァンは深追いを諦めた。どちらにせよ、自分の寿命はあと数年あるかないかなのだ。
「アスラが移住先候補から外れるとしたら大事ですね。それで最近、先輩もおじいさまもお忙しそうにされていたのですね」
エルはしかし、指先を交差させてみせた。
「この間、全惑星放送があっただろう」
エルは軽く首を傾けてみせた。わかるかい? 僕の言いたいこと。そう訊かれているらしい。
リァンは考えてみた。
ラボが忙しかったのには、全惑星放送が影響している――つまり、あの放送がスゥラ研究所の軸先を変えた。そのせいで所員は忙しくしていた、ということか。
もちろん宇宙船を動かすためにはスゥラ・エネルギーが必要だろうし、移住先のアスラの安全性を確認するのにも生物チームの力が必要だろう。けれどもエルが今伝えたいのはそういうことではないような気がする。
「きみは確か、プラテスタ節生まれだったね」
「はい、そうです。私の誕生日を知っていたのですね」
「まあね。きみは覚えていないんだ」
ゼミで初合わせの自己紹介をしたときに話したのかもしれない。でも、どうして誕生日の話を?
「今度の誕生日にはプレゼントと一緒にケーキを贈るよ。きみは甘い物が好きだから、ケーキは好きだろう。フルーツは何が好きかい」
突然エルがこんなことを言い出したのには、何か理由がありそうだ。
いま話していたのは、アスラ移住計画の話。そのためにスゥラ研究員が忙殺されているという話だった。
きっと先輩はケーキを何かの喩えにして、本来話せないスゥラに関する何かを伝えたいのに違いない。
リァンは当たり障りなく話を広げてみることにした。
「ヨーグルト・クリームとシェロのケーキが一番好きです」
「わかった、覚えておくよ。ところで、ケーキを自分で作ってみたことは?」
「いえ、料理とは相性が悪くて。でも、手作りって美味しいですよね。前にメイアが作るのを手伝ったことならあります。端のこんがり焼けた部分とか、均一な出来になる機械とはまた違ってすごく美味しいんですよね。びっくりしました」
……こんな返しで良かったのだろうか?
エルは口の端を持ち上げ、微かに息を漏らすような笑みを返してくれた。
「そうだったんだ。ところで、ケーキの完成形はひとつの大きな塊だが、どうやってあれを作るか、きみは知ってる?」
「ええと……確か、スポンジ、クリーム、トッピングをパーツ毎に準備して、最後に組み立てるのですよね」
「そう。スポンジはスポンジで焼く。クリームはクリームで泡立てる。フルーツはフルーツで皮を剥いたり、シロップに漬け込んだりする。そうして別々に作り上げた部品を組み立てて、ひとつのケーキに仕立てるんだ。ただ、全部の工程を人任せにして、それぞれが好き勝手に作っていったらどうなると思う?」
「全体のバランスが取れないかもしれませんね。誰かが全工程を把握して指揮をとっていかないと、見当違いの組み合わせになってしまうかも」
「そう。僕はせいぜいフルーツのブランデー漬けをやるくらいだが、きみのおじいさまはそういうのがとても得意な人だ。一度彼にケーキを作ってもらうといいよ」
「おじいさまが――はい。そうですね、今度お願いしてみます」
祖父は料理などしない。いつでも忙しく、食事は家電任せだ。ということは、これは何かの喩えに違いない。
つまり、組織を横断する大きなプロジェクトチームが星議会の指導のもとで作られた、ということだろうか。そして、その中心、統括にサジュナが据えられている。
エルは軽い掛け声と共に身体を起こすと、リァンの方に向き直った。
「最近流行のケーキに欠かせないルヴィというフルーツがあってね。それがなければあの味は絶対に作れない。ただ、ルヴィを育てるのはかなり難しいし、収穫後は日持ちしないとあって、どうにかして手に入れたい連中がしのぎを削っている状況だ。ところが、農園主のこだわりが強く、なかなか卸してくれない。それで痺れを切らして、奴らは農園主のところに乗り込んできたのさ」
この場合でいうと、そのルヴィというフルーツが私のことで、農園主はおじいさま。乗り込んできた人たちというのが、さっきおじいさまと会議していた人たちのことかしら。
リァンは、エルに向けていた顔を空に向けて、腕で顔を覆った。
やはり私は、実験に使われていた、ということで間違いないみたい――それも、代替の効かない重要なパーツとして。
エルが動く気配がしたので、リァンは腕を下ろした。エルは足を下ろし、両膝に肘を乗せてリァンを見ていた。
「きみは、さっき話してくれたことについて、自分ではどう考えているんだい。どちらが真実だと感じている?」
リァンもまた起き上がり、自分の中に答えを探した。
「今まではどちらも真実だと思っていました。でも、今はこちらが現実なのだと思います」
「それはなぜだろう」
「農園主が管理しているのなら、あれはスゥラ・エネルギーを利用した架空世界。バーチャル・リアリティ・ゲームの進化形のようなものではないかと思ったのですが」
「うーん、やっぱり中退は惜しいね。もし大学に再開見込みが立たなかったら、うちのチームにおいで」
エルは意味深に微笑んでいる。正解か、あるいは正解にある程度近い、ということだろうか。
「話せることは限られるけど、見せてあげられるものもあるかな。ほら、この間話したろう。見せたい場所があるって。それも、そのうちのひとつ。でも目下のところは、そうだな」
エルは手首の端末を操作し、それから再びリァンを見た。
「どうせ今晩は眠れないだろう。これからスゥラ研究所の中を見学してみる? この時間なら人も少ないし、見学にはちょうど良い」
「そんなことできるんですか?」
「当然、機密に関するデータは見せてあげられないけど、帰宅前のクリアデスクは徹底されているし、インターン生が入るくらいだからね。きみもこんな状況でなければ、来年あたり来ることになっていたと思うよ。実際見てみることで、何かしら感じとれるものはあるかもしれないよ」
「それでしたら、ぜひお願いしたいです。でも大丈夫ですか? 夜遅くまでお仕事されていたのに。先輩の休む時間がなくなってしまいます」
「幸い、明日は振替休暇なんだ。こんな時くらいしか使い道がない父のコネを使わせてもらうさ。そうと決まれば、きみは一度家に戻って着替えてこないとね」
結局エルは、自宅までリァンを負ぶってくれた。
家に着くなり博士は玄関まで飛んできて、リァンの無事な姿を見て涙ぐんだ。しかし、その鼻先をエルは笑顔でへし折った。
「博士。今からリァンをラボに連れて行きます」
「な、なんだと?」
サジュナの涙は一瞬で引っ込んだ。
「リァンは傷ついています。僕たちが何も話してあげられなかったために。ちょっとした気分転換ですよ。これくらい良いでしょう」
「エル、何をいうのだ。個人が好き勝手にできる場所ではないのだぞ。部外者を中に入れるなんて――」
エルはサジュナの言葉に立ち塞がり、後ろ手でそっとリァンの背を押した。エルとサジュナの口論を遠くに聞きながら、急いで着替えを済ませる。
「リァン!」
「おじいさま、止めないでください。でないと私、あなたを赦せなくなりそうです」
サジュナが怯んだ隙にリァンとエルは外に出た。
エルの車は静かな車道を軽快に飛びすぎ、二十分ほどで所員専用カーポートに降り立った。二人が車を降りると、正面から青いレーザー光が差し、車体IDを読み取った。カーポートの床が開き、車が沈み込んでゆく。エルの後について建物へ向かう間、足下から車を移動させてゆく機械の駆動音が聞こえていた。
スゥラ研究所の正面入り口までは、実は子供の頃に一度だけ来たことがある。当時から十年前に、所内で起きた事故の、追悼式典に参加するためだ。その時は表の芝広場に行っただけだった。建物の中に入るのは今回が初めてだ。
左右対称にきれいに刈り込まれた植樹に囲まれた円い車寄せを通り過ぎ、正面口に立つ。
広大な建物の割に、入り口はこぢんまりとした片開きの扉になっており、大理石のタイルには靴型の絵が填め込まれている。絵の上にエルが両足を合わせ、扉の脇の窪みに手首を乗せると、扉のスピーカーが反応した。
『虹彩と静脈をスキャンします。そのまま動かないでください』
扉の正面のカメラが微かに赤く光る。エルは瞬きせずカメラを見つめた。スキャンは一瞬で終了した。
『お帰りなさい、エル=ドナト所員。今回はゲスト様をお連れですね。続けてゲスト様のご本人確認をしますので、スキャン台へお手を入れてください』
「はい、次はきみの番だよ」
エルが脇に退いて、場所をリァンに譲る。リァンはさっきエルがしたのと同じようにスキャナに右手を伏せて置いた。指位置のガイドのため、杭が数カ所飛び出ている。そこに指を沿わせるように開いて置く。
正面のカメラがリァンの身長に合わせて下方にスライドしてきた。瞬きしないようにカメラを見つめると、エルのとき同様、スキャンはすぐに済んだ。
『ご本人確認が終わりました。それでは、いってらっしゃいませ』
スピーカーの女性の声に続けて、扉が横にスライドして開いた。エルが足を踏み入れると、足下には青いセンサーライトが光り出した。
「行こうか」
リァンは頷いて、銀色の建物の中へと入っていった。
廊下というより、黒いパイプの内側を歩いているようだった。天井は低く、中は薄暗い。頭上に一直線、足下の両側に一本ずつ、一直線に伸びる青いライトが光っている。足音がかなり大きく響いた。
「反響がすごいですね」
「ああ、防犯のためらしいよ。無理矢理、入り口をこじ開ければレーザー銃が迎撃するような仕組みになっているけど、先頭の何人かを犠牲にして突破しようと企む輩がいるかもしれないから、とか聞いたね」
リァンは身震いした。何も知らず、あそこでうっかり本人確認を怠っていれば、今ごろレーザー銃に打ち抜かれていたわけだ。他にどんな防犯システムが潜んでいるかしれない。
「余計なところにはくれぐれも手を触れないでね」
リァンは神妙に頷いた。そこからは両手を前で組み、なるべくエルの背中だけを見てまっすぐ歩くことにした。
廊下は途中いくつも枝分かれしていた。いくつかの角を曲がり、辿り着いた先には黒鉄色で筒型をしたエレベータがあった。エルが掌全体を押し当てるようにエレベータ脇の黒いパネルに触れると、扉は側方に回転するようにして開いた。
乗り込んだその筒には、行き先の指定ボタンはなかった。向かうエリアごとにエレベータ自体が異なるらしい。ここも天井と足下の壁に沿うように、ライン状の青い照明が光っている。
「けっこう深くまで行くから、耳が痛くなるかもしれない」
「わかりました」
エルは装身情報端末を確認している。緊張して話題が見つからなかったリァンは、足下の青い光をじっと見ていた。この色は瞳を開いたソーの瞳を思い出させる。
ずいぶん長いこと身体が浮き上がったような感覚があった。やがてポン、と軽い音がしてエレベータの扉が開いた。
「執務エリアには夜勤がいると思う。少々うるさいかもしれないけど、実害はないから適当にいなしておいて」
「実害って。どんな人なんですか」
「会えばわかるよ」
いたずらっぽく笑うエルにリァンも少し緊張を解して笑った。
またしてもパイプのような廊下を進んだが、今度はあっさり終点に辿り着いた。エルがさっきの要領で脇のスキャンパネルに手を押し当てると、銀色の扉は軽いスライド音と共に開いた。中から眩しい光が溢れてくる。リァンは咄嗟に闇に慣れた眼を閉じ、手で庇った。
室内から男性の声が飛んできた。
「あれ? なんだ、エル=ドナトか。おまえ、今日は訪問先から直帰じゃなかったか」
円形の室内。壁に沿って設えられた高いカフェテーブル。そこに置かれた赤色、黄色、それぞれのハイチェアに二人の青年が座り、半身を捻ってこちらを驚いたように見ている。二人ともジャケットは着ておらず、シャツの袖を折上げて砕けた様子だ。彼らのテーブルには湯気の立ったトレイが置かれている。どうやら夜食をとっているところだったらしい。
「クォダさん、シャジャ、夜番お疲れさまです。ちょっと用がありまして」
エルはリァンの背に手を当てて、ふたりの前に押し出した。
「こちらはリァン=エーゲルさん。大学の研究室の後輩で、サジュナ=エーゲル所長のお孫さんです」
リァンの姿を目にした二人は目を丸くしている。リァンは身を竦めて二人の視線を受けた。
口を開きかけた赤毛の青年のことを、その隣の緑髪の青年が肘で突いた。二人は素早く視線を交わしあった。一体何だというのだろう。
「あの」
おずおずと口を開いたリァンに向かって、赤毛の青年がぱっと振り返った。
「いやあ、めっちゃ可愛いじゃないっすか。インターンってわけじゃないっすよね? きみ、彼氏いる?」
緑の髪の男が赤毛の肩を軽く叩いた。
「シャジャ、おまえちょっと黙ってろ。うるさい」
「はい。すんません」
ずいぶん賑やかだ。ここは「星のエリートたちが集う特殊機関」のはずだけど、リァンが抱いていたイメージとは少しばかり違うらしい。
好奇心に満ちた視線から逃げようと、リァンは室内に視線を巡らせてみた。この二人の他には誰もいないようだ。
さほど広くない部屋だ。壁に沿う白いテーブルの計三カ所あるテーブルの切れ目には観葉植物が飾られている。部屋の中央には鮮やかな赤に塗られた太い柱があり、そこに沿って小さなカウンターとドリンクサーバーが置かれ、軽食のオーダーパネルが柱の表面に埋め込まれている。
右手の壁には大きなディスプレイが付いていて、コメディアンたちが会場をドタドタと追いかけ、追いかけ回されては、笑いが巻き起こる様子を映している。ここはちょっとしたカフェ・スペースらしい。
ラボの二人は示し合わせたようにハイチェアを降り、リァンたちの前までやってきた。
「部外者は立ち入り禁止――と言いたいところだが、ここまで入ってこられたってことは、そういうことなんだろうな。どういうつもりなんだ?」
緑の髪の男はエルを胡乱げに見ている。
こんな時間に部外者を連れ込んだことに対し説明を求めているようだ。
「彼女がラボに興味があるというので、お忙しいサジュナ博士に代わって僕が案内することにしました」
エルの説明はいたってシンプルだ。
「それだけか」
「はい」
緑の髪は眉間に皺を寄せ、こめかみを揉んでいる。その間に赤毛の男は顔をくっつけんばかりに近づけて、リァンの顔を覗き込んできた。
「いやー、すっごい瞳の色だ。虹みたいにきらきらしてら。さっすがサジュナ博士」
緑の髪の青年がシャジャの首根っこを掴んで後ろに引き戻した。
「おい、近すぎだシャジャ。色々失礼だろ」
「すんません」
対して悪びれた様子もなく、シャジャがへらりと笑う。クォダは顎に手を当ててリァンをまた眺め、それから今気付いたかのように腰を折った。
「初めまして、リァンさん。スゥラ研究所へようこそ。あなたのおじいさまは大変ご立派な方で、我々ラボメンバーの憧れですよ」
「えぇと、リァン=エーゲルです。初めまして。お仕事中に突然お邪魔してすみません」
「いや、こちらこそ不躾ですみませんでした。星議員や大学生のインターンシップ以外で見学なんて初めてだったもので、少々驚いてね。おい、エル=ドナト。スケジュールにゃ入ってなかったよな。まあ許可はとってるんだろうが、一応ここのチーフとして言わせてもらう。こんな夜中に、しかもこの区画に、本気で部外者を入れる気か」
「スケジュールならさっき入れましたよ」
エルは気にした様子もなく微笑んで応えた。
「星議長の決裁印も入っていますので、よろしければご確認ください」
クォダは無言で腕の装身情報端末を突き始めた。それからおもむろに脇に退いて、大仰な仕草で奥の扉を示した。
「確かに承認はされているし……制限もかかっているな。まあ、ゆっくりしていきなよ。リァンさん、すまないね。悪気はなかったんだが、ここのルールでね。嫌な思いさせてしまっただろう」
「いえ、無理をいったのは私ですから。ご理解いただき、ありがとうございます」
リァンは微笑み返した。ぼうっとこちらを見ているシャジャの頭を、もう一度クォダが小突いた。
「シャジャ、ぼんやりしてねえでとっとと飯食え、飯。食ったらさっさと席戻れよ」
「いや、クォダさん、俺らまだ休憩入ったばかりですって」
「おう、それは良かったな。予定よりたっぷり仕事できるじゃないか」
「クォダさーん!」
「行こうか、リァン」
まだ何か言い合いをしている二人に気を取られていると、その背にエルが手を添えた。
奥の扉は前に立っただけであっさり開いた。その先は薄暗い廊下だ。天井のダウンライトと、壁と床の隙間から漏れる間接照明だけが、どうにか視界を確保している。休憩室の扉が閉じた途端、コメディアンたちの笑い声が途絶え、辺りはしんと静まりかえった。
廊下にはトイレや仮眠室、通話室が並んでいた。人の気配はない。廊下の突き当たりの扉にもう一度エルが手を押し当てる。開いた扉の先は広々した執務スペースだった。先を歩くエルが入室するのと同時に部屋に照明が灯ったが、それでも薄暗い。光はやはりダウンライトと、足下の間接照明だけだ。
この部屋も円形をしていた。天井は建物二階か三階分くらいの高い位置にある。見渡す限りコンピュータや機械装置ばかりで、人の姿は見当たらない。
壁面いっぱいを巨大なモニタが覆っているが、真っ暗で何も映っていない。下の操作盤にはぎっしりとボタンが並び、不規則に明滅している。モニタはオフにされているが、コンピュータ自体は稼働しているようだ。
リァンは天井を見上げてみた。いくつものコードがあっちの端末からこっちの端末へと橋渡しされている。天井までコンピュータが埋め込まれている。照明はところどころにダウンライトが付いているのみだ。これでは、職務時間中も、そこまで明るくならないだろう。
作業部屋を暗くするのは普通、リラックスするためか、もしくは明るいと見づらいものをモニタに映すときだ。もちろん、節約という概念もある――ツェルの世界だったら、燃料の節約のため部屋を出るときは灯りを消す――だが、ハフラムではそんなことする必要はない。エネルギーは「スゥラ」が無限に供給する。休憩室がすぐそこにあるのだから、リラックスするためでもないだろう。だとしたら、モニタだろうか。一体何を映すのだろう。
ここも休憩室同様、部屋の外周に沿って椅子が配置されていた。そのうち中央の椅子だけは背面に長いアームが付いていて、高い位置まで移動できるようになっている。
その椅子に興味を持ったリァンに気付いたのか、エルは背もたれに触れて説明した。
「ここはサジュナ博士の特等席だよ」
「おじいさまの……そうなんですか」
リァンはその椅子の前に立ってみた。
椅子の正面にあるのは、ハフラム文字が刻印された普通のキーボードだ。ただ、その周囲には眺めているだけで目眩がしそうなほど多量のキーやコントロールスティック、コントロールボールが付いている。しかも、それらにはキー名の刻印がない。
「こちらのキーは徴がないんですね。どうやって区別するのですか?」
「ああ、これは権限者がスイッチを入れたときだけ、キーネームが光るようになっているんだよ。キーの配置も、スイッチを入れる度に数パターンの中からいずれか表示されるようになっている。むやみに操作されても困るものなのでね」
「ええっ……操作を覚えるだけで大変そう」
これほど膨大な量のキーの配置を、しかもパターン数だけ覚えなければならないなんて。配属された人がまともに仕事をできるようになるまで、どれくらい時間がかかるのだろう。考えただけで頭が痛くなる。
「まあ、普段は神経接続で操作するから。キー操作が必要になる操作は限られているよ」
「たまにしか使わないとなると、余計覚えられない気がします……」
「確かに」
エルは全然そう思っていなさそうな様子でにっこりしている。
「さて、この部屋の端末はすべてロックがかかっていて、所員の生体認証がなければアクセスできない。ここを見ていてもつまらないだろうから、奥も少しだけ覗いてみようか」
「まだ奥があるのですね。何があるのですか?」
「『スゥラ』の本体だよ。外装だけ眺めて面白いようなものではないけど、せっかく来たんだからね」
恒久エネルギー発生炉「スゥラ」。このハフラムの文明のすべてを支えるエネルギー源。その原理が秘された謎めいた機関。その本体をまさかこの目で見ることができるなんて。