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ツェルト・リァン-二つ世と未来の女神-  作者: Ari
§06 スゥラ研究所 Side-H
18/50

【1】

 まどろみから覚めたとき、目の前を黒っぽい影が通り過ぎていった――ような気がした。虫にしては大きく、驚きで目が覚めた。どきどきしたまま視線を動かす。

 暗闇の中、星図を描くダウンライトが仄かに光り、明かりを灯さないペンダントライトを背後から照らしている。ハフラムの自室だ。

「ドローン……?」

 呟いた自身の声で頭が覚醒する。仰向けのまま首を回して確認したが、それらしいものは何も見当たらない。寝ぼけただけかもしれない。

 どこからか涼しい風が吹き込んでくる。ヘッドボードのパネルを操作して二重窓の一方を開く。上下にスライドしてゆく遮光窓の先には、光り輝く塔とその周囲を取り巻く摩天楼、そして足元に散らされた金貨のような街明かりが見えた。

 リァンは痛む頭を押さえ、ベッドの柵を掴んでのろのろと身を起こした。

 ついさっきまで、ソーと一緒に施療院の中庭にいたのに。どうしてここに?

 階段を上がりきる前から、意識が遠のきそうな危うい感じがあった。危ない、今眠るわけにはいかないと、腕に爪を立てていた。

 リァンは左腕をそっと撫でた。ここにくっきりと爪痕が残っていたはずだ。

 ソーが心配そうに何度も振り返ったのは覚えている。でも、そこから先の記憶がない。

 脱出前だったのに、ハフラムに戻ってきてしまったのか。

 ソーはあの後どうしただろう。無事に逃げてくれていればいいけれど。万が一潜入に気づかれてしまったら、きっとソーは、自分が泥を被るようなことを話してしまうだろう。いっそツェルのせいにしてくれたら、その方が軟禁程度で済みそうなのに。ソーはそういうことができない人だから……。

 リァンは呻くように声を出した。

「おは……こんばんは」

 あたりの暗さを思い出して言い直すと、AIスピーカーが反応した。

「こんばんは、リァン様。間もなくヒトク時です。ヒトハチ時に栄養剤が投与されていますので、夕食をとる場合は軽めにしてください。続けてお休みになる場合は、寝付きのよくなるお薬をおすすめします。なお、本日、明日の予定はありません。大学は当面の間、休講です。また、課題の予定もありません」

 ヒトク時。仕事を持つ人々ならとっくに帰宅し、夕飯をとる頃合いだ。

 サジュナはもう帰宅しているだろうか。夕飯前には毎日必ずメッセージを送ってくれるから、AIに聞いて――

 そこでふと、レイの泣き顔が思い浮かんだ。手が震え、冷や汗が手に滲む。

 リァンはベッドカバーを引き上げ、ぶるぶると震えた。

 ――あんなつもりじゃなかった。もっと落ち着いて、ただ相談するつもりだっただけだ。無謀なことをしかねないソーを引き留めるため、レイに協力を仰ごうとしただけ。でも、あまりにも仲の良い二人の様子に制御しきれない熱がこみ上げてきて――言うつもりのなかった言葉が迸り出てしまった。

「ソーと私はもうじき結婚して、ザンダストラ宮殿に行くことになっているの。しばらくカナンには戻れないと思うわ」

 そう告げたとき、しばらくレイの大きな瞳はぱちりと見開かれたままだった。やがて、レイは震え声で訊ねた。

「ソーの特別は、ツェル……?」

 言葉に詰まったツェルは話をそこからずらした。

「教会という組織は、あなたが思っている以上に巨大よ。そこから逃げ続けるなんてとても難しいことだわ――」

 断崖監獄のこと、犯罪者への厳しい取り締まり、上層部の苛烈さ。彼らから、ソーは扱いにくい厄介者と思われていること。もしも見つかったら、手足の一本は斬り落とされる覚悟をしなければならないこと。たとえ逃げ出したとて、狭いカナンの中で隠れ住むのは不可能であること。地理的に、隠れてカナンを脱出するのは非常に困難であること。そうしたことを、ツェルは次々に挙げ連ねていった。

「この状況で逃げ出そうなんて、あまりに危険すぎる。でも、ソーはああいう人でしょう。放って置いたら無茶をしかねない。今は焦ってことを起こすべきときではないのよ。それを、あなたも理解しておいてほしくて。このまま大人しくしていれば、私たちは十分な立場を手にすることができるの。そうすれば、危険を冒さずに教会を制御できるようになる。実は、私たち――」

「ツェルは『御子様』なんだね」

「知っていたの?」

 驚いたツェルに向かって、レイは続けた。

「ううん、そうじゃないけど。千年ぶりに生まれた御子様の話は、先生から聞いたことあったから。私より三つ年上の女の子だって。名前を聞いたときから、もしかしてって思ってた」

「……その通りよ」

 糸切りの能力について何か言われるだろうかと覚悟したが、レイはそこには触れなかった。

「ツェルが御子で、ソーがその半双メトワ――つまりソーも、新章にあった『片翼』ってことだよね」

「ええ」

 降ってきた大義名分に縋り付くようにしてツェルは続けた。

「今までは形ばかりの両翼だった。でも、もうじき大人として扱ってもらえるようになる。一日も早く人々から認めてもらえるように努力するわ。何年かかるかわからないけれど、民衆を味方につければ、聖皇様も私たちの声を無視できなくなる。そのときは必ず、あなたをここから出してあげると約束する。だから、お願い。あなたからもソーに言ってほしいの。ソーはきっと、同じように外から連れてこられたあなたを自分の境遇に重ね合わせて、同情しているのよ。私も、あなたのことは可哀想に思うわ。早く助け出してあげたいって思ってる。でもそのせいでもし、ソーに何かあったら……。お願い、レイ。どうかソーに無茶をさせないで」

 卑怯なことをしていると、自分でもわかっていた。外のことを何も知らないレイに、こんな話をするなんて。

 でも、お願い。どうか邪魔しないで。

 冷静に見下ろす自分の目の前で、なりふり構わない自分がわめき立てている。

 他のことなら譲ってあげるし、どんな対価を払っても助けてあげると約束する。でも、ソーだけはだめ。ソーは渡せない。あなたはこれまで会話もしたことなかったでしょう。あなたはソーのことを何も知らないじゃない。自由になれたら、あなたは広い世界に出て行ける。そこでいくらでも、あなたの相手を見つけられるはずよ。今のあなたはソーしか知らないだけ。でも、私にはソーしかいない。ソーだけなのよ――。

 ソーが知ったらなんて思うだろう。リァンは両腕を抱いてベッドの上で震えた。

「最低」

 リァンは瞼を膝頭に押しつけた。私に泣く資格なんてない。

 あんなのは偽善だ。後ろめたい気持ちがあったから、わざわざソーのいないところでレイに伝えた。あの子を牽制した。私はあの子を助けたいなんて思っていなかったんだ。あの子の境遇を哀れに思うより、ソーを取られる心配をしていたんだ。

 ヘッドボードに取り付けたフレームの中では両親が微笑んでいる。ふたりに会わせる顔がない。罪悪感に押し潰されそうだ。

 まとわりつくレイの泣き顔から逃げるように、リァンはベッドから降りた。冷えた空気に咳が止まらなくなる。リァンはよろよろと窓へ向かった。薄く開いていた透過金属の窓を下ろし、肩で息をしながら窓にもたれ掛かる。

 窓フレームに切り取られた街灯りが床に落ちている。光に腕を翳すと、まだらに広がる赤黒い痣が、肘より上にも拡がっているのがはっきりと見える。ここ数ヶ月で目に見えて増えた斑紋、進むテランの症状。いつまでこの身体は保つのだろう。

 窓の向こうで夜風がひゅうひゅう吹き渡っている。ハフラムの夜はとても静かだ。人が屋内に閉じこもっているせいだけではない。カナンと違い、自然界に虫や動物がほとんどいないからだ。

 ドーム上空に投影された満天の星の下、美しく静謐な街が眠っている。

 ハフラムの夜はまるで霊廟のようだ。抱えていた不安が怖れと混ざり、リァンの心を締め上げる。

 レイを傷付けてしまった。ソーはどう思っただろう。せっかく距離を縮められたと思ったのに、軽蔑されたかもしれない。怖い。こんな気持ちで、次にカナンに行ったら、私はどうしたらいいの。自分にこんな醜い面があるなんて思わなかった。ソーを引きずり下ろそうと躍起になっていた人たちと、これでは何も変わらない。

 窓に額を押し当て息を吐く。透過金属が白く曇る。

 霞んだ窓の向こうに、放射状に拡がる五筋の星道と白銀のセントラルタワーが見える。タワーの足元に向かって、高度ごとに色の異なる空路が、リボンのように空にかかっている。その中をいくつかの飛行車テンピェンドが疾駆してゆく様が見える。

(不安なときこそ、考えたり、実際に動いたりした方がいいんだ)

 ふと、飛行車テンピェンドの中で聞いたエルの言葉を思い出した。

 でも、先輩。次にカナンに戻ったときのことなんて、今はとても考えられません。先輩だったら、こんな時どうするのでしょうか……。

 考えてみても、エルがこういう感情に振り回されて、思い悩む姿はまったく想像がつかなかった。エルはいつも理性的だ。きっと、もっと建設的なこと、解き明かせていないこの世の不思議を紐解くことに、あの優れた頭脳を使うに違いない。

 私も冷静になりたい。こんなことで感情的にならずに、素直にソーの幸せを願えるようになりたい。婚約解消に協力すると言ったのは私だもの。それを今さら嫉妬なんて。もう、やめたい。

 そうだ、もっと他のことに意識を向けるべきよ。これ以上ソーに固執しなくて済むように。私と、ツェルの存在とを、切り離して考えることができるように。

 たとえば、そう――解き明かせていない謎について、今は考えるべきだわ。その一つは、今目の前に見えている。

「天辺の盃、二つの脚を持つ塔……」

 セントラルタワーはふたつの脚に支えられている。

 中央街道を挟んで東西に別れた二つの司法行政設備群、そのそれぞれの中央から銀色の脚部が伸び、二重螺旋を描いて中央に大きな塔を構築しているのだ。

 そしてタワー天辺には、大きなスゥラ波の受信体がとりつけられている。受信体は天を向いたボウル型をしている。低い場所から見上げるとわからないが、ドローン映像で見た真横からの映像では、横倒しにした三日月のように見えた。

 二つ脚。天辺の三日月型。どちらもカナンの「元老院塔」そっくりだ。

 でも、それだけじゃない。リァンの思いつく限りでは、二つの世界には、他にも二つ共通点がある。

 リァンは壁の作り付けの棚に飾ってある、ぬいぐるみに目を移した。白銀の馬、レミエフ。ハフラムに伝わる伝承上の架空生物――だけど、同じ名前、同じ見た目の生き物がツェルの世界には実在しているのだ。

 ルブラの仲間で見た目もよく似ているが、明確にルブラと区別されている。それは、白銀馬レミエフが水の光糸リーリエを補足する能力を持ち、水面を駆けることができるからだ。銀色のたてがみを靡かせた真っ白な身体は森の中で目立ち、猛獣アギラのような天敵に狙われやすい。だから彼らは、無敵の逃げ場である湖の周辺に群れで暮らしている。

(誰か昔の人で、私のようにカナンとこちらを行き来できる人がいたのかもしれない。その人がレミエフを伝承の生き物として、こちらで語り継いだ――それなら理解できる。その人も、私と同じように二重生活を送っていたのかしら。その人がもし、タワーの設計にも関わっていたとしたら……)

 以前にも調べたことはあるが、そのような人がいたという記録は見つけられなかった。でも、誰もが記録を残しているとは限らない。こちらで真面目にカナンの話をしても、脳検査を勧められるのがオチだ。だからこそ、おとぎ話として伝えるに留めたのかもしれない。タワーの設計者についてはもう少し調べてみる価値がありそうだ。

 三つの目の類似点は、リァン自身の存在だ。

 リァンは肩から一房髪を掴みあげ、まじまじそれを眺めた。

 ツェルそっくりの髪質だ。緩やかに波打つ黄金色。同じ造作をした顔に、同じような背格好。鏡に映る自分の瞳は、ツェル同様の虹色だ。遠目には薄黄色に見えるが、近くで覗き込むと、橙や桃色、緑、紫など複数の色が散って見える。ただ、ふたりは完全に同じわけではない。こちらの自分にはテランの斑紋があるが、ツェルにはない。ツェルの胸元にはほくろがあるが、こちらの自分にはそれがない。

 名前も一部同じだが、どうしてだろう。

 こちらでの「リァン」は両親が付けた個人名、「エーゲル」は亡き母から受け継いだ家名だ。

 一方、ツェルの名付け親は聖皇だと聞いている。「ツェル・ト」までが個人名。普段呼ばれることのない「ト」の部分は魂名と呼ばれ、子に望む性質が宿るよう願って、七十二あるザンダス文字の中から一つを選ぶ。例えば「ト」は「絆」、「ル」は「意志」といった具合だ。

 最後には家名か聖名のいずれか、またはその両方がくる。カナンにおいて家名のパターンはさほど多くないから聞けばそれとわかる。他方で、聖名は洗礼の際に教会が与える名である。「リァン」も聖名だ。多額の寄付金と引き換えに希望した名をもらうこともできるが、正式には、神託にしたがうものとされている。とはいっても、実際はご神託がくだることは非常に稀で、なければ占いのような形をとる。ザンダス文字が彫られた小石を御神木の樹皮で編んだ網に載せてゆすり、最初に落ちてきたいくつかの文字を組み合わせて名を作るのだ。何か意味のある言葉になる場合もあるが、そうでない場合もある。

 ツェルの場合は、実際に神託がくだったそうだ。

 前に「リァン」という音の持つ意味を調べてみたことがある。が、ハフラムで気になるものは見つけられなかった。ちょっと風変わりな名だというくらいだ。カナンではもちろん、御子特有の名前として他の者に付けることは許されていない。

(教会が付けた名前……。ご神託のくだった、初代御子様と同じ名前……)

 引っ掛かりはするが、こちらで名を付けてくれた両親は、どちらも普通の家庭に生まれたごく普通の市民にすぎず、子供の名付けについて大それた恣意性があったとは思えない。

 一つ一つの共通点を追求するより、その三つの関連性を追った方が良いのだろうか。

「塔、レミエフ、それに私」

 だめだ。何も思い当たることがない。

 リァンは痛む額を抑えながらベッドまで行き、ヘッドボードのパネルに触れた。ベッド脇の壁が開いて、その中から小さなトレイに載った水が出てくる。水を一気に飲み干すと少し噎せた。

 水の冷たさも、気管の痛みも、間違いなく本物だ。でもそれはツェルだって同じこと。ワジに掴まれた肩は痛かったし、レイの部屋では青々した草の匂いを確かに嗅いだ。繋いだソーの手は温かかった。どっちも彼女にとっては「本物」だ。

(もう一度、おじいさまに相談してみようかしら。塔の設計者のこともあるし)

 何より、少しでも休めば、また塞ぎ込んでしまいそうだ。レイの涙と、戸惑うソーの表情に責め立てられ、ロアのように身動きが取れなくなってしまう気がする。

 サイドテーブルから装身情報端末スピオを取り上げ、サジュナからの連絡が来ていないか確認するが、メッセージはなかった。まだ帰っていないのだろうか。スケジュール上は日勤だ。残業かもしれない。あるいは単に、持ち帰った仕事に気を取られて連絡を忘れているだけかもしれない。

 執務室を見に行ってみよう。

 リァンは重い足を引きずるようにして部屋を出た。


 半螺旋を降りている途中で、廊下の奥から複数人の話し声が聞こえてきた。その先にはサジュナの執務室しかない。オンライン会議ならイヤフォンを付けるはずだから、きっと来客だ。稀にあることだが、こんな遅い時間に来るのは初めてだ。

 リァンが目覚めるとサジュナの装身情報端末スピオにはアラートが飛ぶようになっているらしく、いつもなら目覚めた後しばらく顔を出さないと、心配そうに様子を見に来る。今回は駆けつけてこなかったのを不思議に思ったが、来客のせいだったのか。それなら、邪魔することはできない。

 そっと引き返そうとしたとき、室内からサジュナの声が聞こえてきた。

「リァンの症状も悪化している。急がねばならない」

 私?

 リァンの足が止まる。

 相手は病院の先生? わざわざ家を訪ねてくるなんて。何か深刻な問題が見つかったの?

 リァンはそっと壁に近づき、耳を押し当てた。

 中からは複数人の気配がする。聞き覚えのない男性の声が苛々した様子で言った。

「アイリスはまだか」

「確かに反応はあるがまだ弱いですね」

 これは女性だ。また別の男性が舌打ちしている。

「くそっ。アイリスが移住計画の要だぞ。あれさえあれば、すべて解決するのに」

「クノタ・ト=トロン単体は使えそうかね」

 サジュナの声が訊ねると、誰かの声がそれに応じた。

「サジュナ博士、そちらはほぼ確実です。ただ、いかんせん扱いづらく」

「ふうむ」

 サジュナが唸る。かつかつとペンでパネルに触れている音が続いた。何か資料を確認しているようだ。

 黙ってしまったサジュナの代わりに、また別の声がやや興奮ぎみに話し始めた。

「人類の今後がかかっているのです。最悪の場合はアレを装置に繋ぐしかないでしょう」

「そうですよ。しのごの言っている場合じゃありません」

「無論。今さら文明レベルを下げられんからな」

「しかしトロンはあくまでテラン対策に過ぎない。最良策はアイリスですよ」

「どうにかならんのか。なんのためテランに耐えながら九年もかけて準備してきたんだ」

「肝心のリァンさんの症状も問題です。これ以上は待てませんよ」

「クノタ・ハルは問題ないのだ。問題はトロンにある。メトワ反応があるのに、なぜアイリスが生成されない」

「あのトロンがオリジナルではないからか? この実験は失敗では」

「何も当初の目的に固執することはあるまい。もっとドラスティックに行くべきだ。いっそ、オル・クルス実験に舵切りしては」

「オル・クルスだと! リスクが大きすぎる」

「大げさすぎるぞ。強力とはいえ、あくまで装置の中での問題にすぎん」

「何を言うのです。トロンより低出力のスナの実験でさえ、装置が破壊されかけたのですよ。トロンの出力でやれば、外部にも影響が出る可能性は高いです」

「ちょっと、みんな落ち着いて。そもそも人権問題はどうなったの。議会が異星移住計画を一度封印したのは何のためだったと思うのですか」

「あの頃と今とでは状況が違う。今は議会も我々に賛同している。彼がここにいるのがその証拠だ」

「その通り。我々が生き残る術はもうこれしかない。何を躊躇う必要がある」

「そうだ。もうこれ以上、人類はテランに耐えられん」

「そうだ、背に腹は代えられない」

「このままではハフラムは滅亡するぞ!」

 メトワ反応、ですって?

 リァンははっと壁から頭を離した。

 それは、ツェルの世界にしか存在しない言葉ではないか!

 驚いた拍子に足が滑り、リァンは肩を強かに壁に打ち付けた。会議の声がぴたりと止んだ。

「誰だ!」

 勢いよく内側に開いた扉から、暗い廊下に細い明かりが差し込んだ。一筋の光の中に佇むサジュナは、壁に凭れているリァンを見つけ、驚いたように目を見開いた。

「なぜ目覚めているのだ? きみは確かに明日まで」

 サジュナは眉間に皺を寄せると、今しがた出てきた扉を睨み付けるようにした。

 その行動のすべてが、リァンに理解をもたらした。

 そうか、サジュナが何らかの方法でカナンとの行き来をコントロールしていたのか。目覚めのアラートなんて最初から飛んでいなかったのだ。サジュナがコントロールしていたのなら必要ない。サジュナが、リァンの意識をカナンから呼び戻していたのなら。

「おじいさま」

 リァンは壁に縋った。胸が激しく脈打っている。その胸をもう一方の手で押さえて声を張り上げた。

「おじいさま、どういうことなの。今のは何? 仕事の会議ですか。どうしてそこに私が出てくるの。私が何か関係あるのですか。それに、それにさっき『メトワ』と」

 サジュナは一瞬痛みを堪えるような表情をすると、足早にリァンの元までやってきて、その肩を掴んだ。

「リァン、もう少し休んでいなさい。顔色がひどく悪い」

「誤魔化さないで」

 リァンはサジュナの手を乱雑に振り払った。

「メトワとはなんですか。私は移住計画に関係しているの? 私がツェルであることも、あの世界に行くことも、すべて管理されていたの? 何も知らないふりをしていたのに、本当はおじいさまがそうさせていたの? ねえ、おじいさま、答えて!」

 リァンは不安に駆られた。メトワという単語そのものなら、リァンの日記を読んできたサジュナは知っていて当然だ、と気付いたからだ。

 ――でも、さっきは確かに、サジュナではない誰かが「メトワ反応」と言っていた。偶然の一致? あるいは、日記を所員の間で共有している?

 いや、やっぱり違うはずだ。だって、リァンが肝心だと、さっき誰かがそう言っていた。外惑星移住計画、つまりアスラへの移住に、リァンは何らかの形で関わっているのだ。リァンが何も知らないうちに。

「おじいさま、お願い、何か言って。私を何かの実験に使っているの。私をわざと眠らせて、その間に何かしているの?」

 サジュナは口を開きかけ、両手を固く握りしめると、リァンから目をそらして言った。

「きみが気にすることではない」

「おじいさま!」

 リァンは叫んだ。

「ひどい、私のことなのに。ひどい、何も知らないまま研究に使うだなんて。私は道具じゃない。いくら私が役立たずだからって、どうせすぐ死ぬからって! ひどい、ひどい、ひどいわっ」

「落ち着きなさい、リァン。どうせすぐ死ぬなんて、そんなことを軽々しく口にするのではない!」

 珍しく声を荒らげたサジュナを怒りに燃えた目で睨み付けた。リァンの宝玉のような瞳から熱い雫が溢れては床に落ちる。

 そのとき、会議の行われていたサジュナの執務室から誰かが出てきた。彼はサジュナの脇をすり抜けてリァンの前までやって来た。

 薄暗がりに浮かぶ白金色の髪――エル=ドナトだった。明るいグレーのスーツをまとったエルは、リァンの肩に手を乗せた。

「リァン、驚いただろうね。だけど博士をあまり責めないであげてくれないか。博士はきみを思って――」

 リァンはエルの手を払い、睨めつけた。

「先輩も、私を騙していたのですね」

 リァンは身を翻すと、裸足のまま玄関から外へと飛び出した。


 夢中で往来へ走り出た。裏切り者たちが大勢いる家にいることが、居たたまれなかった。

 サジュナのことも、エルのことも、心から信じていた。それなのに――まるで都合の良い道具のように扱われていただなんて。

 しかし、いくらもいかないうちに息が上がってしまった。街路は滑らかで、裸足でもさほど痛くはないが、目眩がして、リァンは街路の中央で膝をついてしまった。

 そこに、誰かが駆け寄ってくる。慌てて逃げようとしたリァンの手首を、あっさり追いついたその人物が掴んだ。

「捕まえた」

 エルだった。その声はどこか楽しげだ。

「鬼ごっこなんて二十年ぶりだ」

「わ、たし、わたしは」

 リァンは息も絶え絶えに抗議した。

「は、離して、ください。嫌い、です、こんな時に、そんな風に……」

「ごめんよ」

 エルは真面目な顔に戻り、少し屈んでリァンの顔を覗き込んだ。

「辛かっただろうね。でも、きみを騙したつもりはないよ。良ければ少し話をしよう。もちろんこれがあるから、制限はあるけど」

 エルは耳元にかかる長めの白金の髪を掻きあげ、秘密保持装置エイブを指差した。スゥラ研究員の証し。惑星機密であるスゥラに関する研究を安易に外部に漏らせないよう、所員の側頭部に埋め込まれるもの。これを付けたものは、許可された時間、場所以外で機密に関する特定の言葉を思考するだけで、神経が遮断されて昏倒してしまう。それと同時に星議会と研究所にも通報が飛ぶ。無理矢理取り外そうとすれば、すべての記憶が消去されるようになっているそうだ。

 けれど、リァンは納得できなかった。八つ当たりだとわかっていたが、エルを恨みがましく睨まずにはいられなかった。

「さっきは、話して、いた、では、ありませんか……」

「きみが目覚める予定はなかったからね。あの場所、あの時間は制限の解除が行われていたんだ。星議会の許可の元でね。予定外のことが起こった原因については、調べてみないとわからない――ただ、ひとまずは呼吸を落ち着かせないとね。ゆっくり息を吐いて、深呼吸するんだ」

 エルがゆっくりと息を吐いてみせる。

「ね――いい子だから」

 まさか、子供扱いされるなんて。

 しぶしぶエルの呼吸に合わせ、深呼吸を繰り返す。

 やがてリァンの呼吸が落ち着きを取り戻すと、エルはリァンの手首を離し、自らのジャケットを脱いでネグリジェ姿のリァンの肩に着せかけた。

「家には、まだ帰りたくないよね?」

 リァンが小さく頷くと、エルは微笑んだ。

「わかった。じゃあ夜の散歩だ」

 と、リァンの目の前で屈み込んだ。

「ほら乗って。あ、袖は通しておいて。落とすといけないから」

「い、いえ、それは」

「きみ、裸足だろう。素直に乗らない場合、博士に迎えにきてもらうか、抱っこの二択になるよ。僕はどっちでもいいけど、どうする?」

 そんなの選択肢とはいえない。

 リァンはぶすっとしたまま言われた通りジャケットに腕を通し、エルの肩に手を掛けた。エルはリァンの膝をするりと掬い上げて、ゆっくり立ち上がった。

「さて。どこに行きますか、お姫様」

「いえ……あの、やっぱり私、降ります。重いでしょうから」

「何言ってるの。ちょっと心配になるくらい軽いよ」

「でも」

「あんまり恐縮されちゃうとショックだなあ。これでも、ちゃんとトレーニングは受けているんだよ。研究も長丁場になると、なかなか体力仕事だからね」

「……はい」

 人目はなくとも、この年で負ぶわれるのはやはり恥ずかしい。リァンはためらいがちに近くの公園へ、と告げた。了承を返して、エルは淡い光を放つ白い歩道を歩き始めた。

昨日更新するはずだった分です。

週末は週末で別途更新予定です(と宣言しておいて自分にプレッシャーを与える作戦)。

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