【3】
「ソーに出会うまでは、私以外みんな大人なんだと思ってた。でも、そうじゃないって初めて知ったんだ。私より少しお兄さんだけど、私と同じ子供。すごく嬉しかった。初対面でも全然怖くなかった。それに、あのときのソーってば」
レイは何かを思いだしたようにくすくす笑う。ソーが嫌な予感を抱いたときには、レイはあの塩辛い思い出を口にしてしまった。
「面白い顔とか、百面相とか、指人形劇とか、もう本当におかしくって。大笑いしちゃった。あんなに笑ったのは生まれて初めてだったよ。今、思い出しても……ふふっ、笑っちゃう。だって、ソーがだよ。普段は全然、そんな感じじゃないのにね」
ツェルが信じられないものを見るような目でこちらを見ている。慌てたソーは咳き込んでしまった。
「こ、言葉がまったく届かなかったからな」
レイを見つけたのは本当に偶然だった。
二度目の「治療」の後、寝かされていたソーは、真夜中に目が覚め、真っ暗な治療室にひとり置いていかれてしまったことを知った。
まだ元の家族とは引き離されたばかりで、領主家の人々ともぎくしゃくしていた。教会やツェルの前では強がっていたが、あの頃は夜とひとりが、とにかくだめだった。静寂と暗闇に押し潰されそうになる。明るいところに出たくて、誰かに傍にいてほしくて、震えながら真っ暗闇の中を手探りで歩いた。
壁伝いに歩いているうちに、いつの間にか部屋を出て、通路を抜け、地下倉庫まで辿り着いていたらしい。
埃っぽい部屋で出口を見失い、うろうろしているうちに、つまづいて転んでしまった。泣きそうな気分で顔を上げたとき、雑多に積まれた木箱の裏の方が、うっすらと明るいことに気がついた。
大人ではもぐりこめないような木箱と壁の隙間に身体をねじ込み、ソーは光のもとを探した。身体全部を使って大きな木箱を押して隙間を作ると、壁板の継ぎ目がほんの少し欠けていて、そこから一筋の光が差し込んでくることがわかった。ソーは折れた木箱の破片で壁の穴を削り、指を何本かねじ込めるくらいまで広げ、その穴を覗き込んでみた。
すると穴の向こう側に、誰かの目がひょいっと現れたのだ。
「わあっ」
壁越しに互いの眼を覗きあった二人は、同時に相手には届かない悲鳴を上げて飛び退いた。それがソーとレイの出会いだった。
二人はめいめい相手に語りかけたが、すぐに、相手側に音が伝わっていないことに気付いた。もう少し穴を拡げられないかと、あれこれ試してみたが、途中で黒く弾力のある層にぶつかって、それ以上拡げられないこともわかった。
向こう側の子供は、口をぱくぱく動かして、必死に何かを訴えようとしている。でも、それがソーには伝わらない。そのうちに、その子はわあわあ盛大に泣き出してしまった。
弟たちと同じくらいの子供が、泣きながら懸命に何かを伝えようとしているのに、何もわかってあげられないし、何もしてやれない。ここには子供の喜びそうなおもちゃは言うに及ばず、ペンもインクも、何一つない。
それでも、どうにか壁の向こうの子供を慰めてやりたくてソーが思いついたのが、星見の筒作戦だった。
壁の向こうの子供には、穴に目を当ててもらう。そしてソーは、穴の前で子供を笑わせるためのありとあらゆる手段を講じる。いつもなら格好悪くて到底できないようなことでも、身体を張ってやるしかなかった。そうやって相手を慰めようと必死になっているうちに、いつの間にか恐怖は消えていた。暗闇も、静寂も、もう怖くなかった。ソーの方こそ、一条の光と、孤独を分かち合える存在に、ずっと救われてきたのだ。
「ところで、レイ。大人たちはどうして、そうまでしてあなたを歌わせようとしていたの?」
ツェルはあくまで淡々と質問を重ねる。
ソーはどうにか過去の黒歴史を頭の隅に追いやった。時間は限られている。誰かに気付かれる前に必要な話を聞き出し、その後のことも考えなくてならない。
レイとぱちりと目が合った。レイはソーを見ながら、ためらいがちに答えた。
「それは……色々試して、一番効率良いって思ったからだと思う」
「……何の?」
レイは黙ってしまった。しばらく悩んでいたようだが、やがて顔を上げて、縋るようにソーを見た。
「あのね、ソー。もし、もしもだけど……私に何かあったら、ソーは助けにきてくれる?」
「え? あ、ああ」
ソーは面食らったが、すぐに大きく頷き返した。
「もちろん。この手と光錘が紡ぐ、すべての絆にかけて」
レイは聖堂騎士の「守護の誓い」など知らないだろう。それでも嬉しそうに頷き、ツェルに向かって両手を差し出した。
「ねえ、ツェル。その上着、もらってもいい?」
「えっ、ええ。別に構わないけれど」
ツェルがローブを脱いで渡すと、レイはするりとベッドから降り立った。大きく見開かれたその瞳は蒼く輝いている。瞳を開いたレイはすうっと息を吸い込んだ。
「衣を為す糸よ
何を思いて 夜選ぶ」
それは即興の歌だった。耳朶に心地よく響く優しい声がひとつ音を奏で、リズムを刻むたび、レイの腕の中で黒いローブの糸は次々に解けて宙を舞う。まるで舞踏会の貴婦人のように回り、跳ねて、絡まりあう。
まさか、レイが糸を操っているのか?
ソーは瞳を開いてみた。
レイの声が跳ねると、ローブの持つ光糸がぱっと弾ける。レイの声が滑らかに伸びると、ローブを形作っていた布はするすると元の糸へと戻ってゆく。辺りの草花からは赤や黄の光糸が伸びてきて、ローブの黒い糸に巻き付き、螺旋状に絡まりあう。
「黒は夜色 何でも隠す
されども きみには見えないか
そこに彩咲く 紅花 黄花
ほんの少し まとってみないか
紅は夕色 宵初め」
レイの紡ぐ美しい旋律と共に、光糸も繊維も共に収束してゆき、歌の終わりと同時に、空気を孕みながら、ふわりとレイの手の中に落ち着いた。
レイは両手でそれを広げて見せた。
「どうかな。ツェルには赤っぽい色が似合いそうだと思って。でもあまり明るいと帰りに悪目立ちしそうだし、このくらいで」
真っ黒な外套は、深緋色の襟付きシャツに変わっていた。ソーが今身に着けているチュニックのデザインを基に、胸元にリボンをあしらっている。しかも動きやすそうだ。
「信じられない」
レイからシャツを受け取ったツェルは、そろそろと身体に当てている。大きさはぴったりみたいだ。
「花の光糸を絡めて、色を変えた? こんなこと……、繋がりのない光糸を、別のものに編みこんで操るなんて。でも、どうして歌を?」
「リズムや強弱がいるから、歌が一番やりやすいんだ。心も込めやすいし」
「心?」
「そうしたい、って強い気持ちがないとできないんだよ。無理やりだとうまくいかない」
ソーは複雑な気分で、嬉しそうに説明しているレイを見ていた。
レイはいくつも光の枷を填めていた。華奢な首も、ほっそりとした手足も、細い腰も、どこもかしこも無数の光糸で縛られている。以前から知っていたこととはいえ、全身の様子をこんなにもはっきり視るのは初めてだ。まるでこれから磔にかけられようとしている囚人のような姿に、ソーは思わず顔を歪めた。
ツェルもレイの手足を視ていたようだが、瞳を閉じて何事もなかったかのように会話を続けた。
「やっぱり、光糸は心が伴わないと操れないようね。それにレイの場合、もしかしたら光糸に伝わる声――というより、波長や振動が力を持っているのかもしれない」
「どういうことだ?」
ソーは瞳を閉じて聞き返した。
「うーん、たとえばだけど」
ツェルは東屋の隅に置かれた大きな水瓶に向かい、柄杓で水を掬って戻ってきた。その柄杓を慎重にテーブルに載せる。
「水面をよく見ていてね」
ツェルがその水面に向かって「わっ」と大きめに声を出すと、水面には幾重にも輪が広がった。
「ね、揺れたでしょう」
と言われても、ソーにはぴんとこない。水とはそういうものだ。
「まあ……揺れるよな?」
「それじゃあ、なぜ揺れるのかは考えてみたことある? たとえば竪琴だけど、弾くと弦が揺れて、音が出るでしょう。弦の震えが空気に伝わって、それが音になるのよ。つまり音は空気を圧す力、振動なの」
ソーはそうなのか、と呟いた。なるほど、そう言われればそうなのかという気もする。それにしても、音が先か、揺れるのが先かなんて、ツェルは妙なことを考えるものだ。
レイは柄杓に顔をくっつけるようにして、目をきらきらさせている。
「ツェルは面白いことを知っているんだね。ねえ、他にもそういう話ある? もっと色々聞きたい」
さっきは取り乱していたようだが、だいぶ落ち着いてきたみたいだ――そういえば。
「さっき、歌えなくなったと言っていたが、今は大丈夫なんだな」
「うん。たぶん、ソーのおかげ」
振り返ったレイはソーの両手を取ってにっこり笑った。
「きみと会うようになってから、ぱったり、あの夢を見なくなったんだ。そのうちに、また歌いたいって自然に思えるようになって、こっそり光糸を編む練習をしていたの。いつか逃げるとき、これが役に立つかもしれないからね。でも、おばあさんたちの前では、まだ歌えないふりをしている。その方が、ここでそっとしておいてもらえると思って」
「確かに、その方がいいな」
目を合わせてレイと微笑みあっていると、不機嫌な顔をしたツェルがややつっけんどんに口を挟んだ。
「レイ、他にはない? 妙な話を聞いたとか、気になることとか」
「ううん、特には。ここに来てからは本当に何もなくて。時々、胸が痛くなるのが、ちょっと気になるくらい。おじいさん先生たちは口が堅くて」
「そうだ。俺たちが入ってきた階段は昼間は使えないと思うんだが、その人たちはどこから出入りしているんだ?」
レイはソーたちが降りてきた階段とは反対側を指差した。
「向こうに扉があるよ。先生も、おばあさんも、兵士さんも、皆そっちから来る。扉に穴があって、ごはんはそこから受け取るんだ。むしろ、そこしか出入り口は無いって思ってたよ。今日は突然カイアが変なところから現れて、びっくりしたんだよね」
そうだったのか。
招かれてきたはずのカイアは、なぜ平常時と違う秘密の出入り口を使ったのだろう。
少しの引っかかりを感じたが、ソーはその疑問を飲み込んだ。ここでカイアの行動を話しても解決しそうにない。
ツェルは考え込むようにソーを見た。
「わかったことをまとめてみましょう。一つは、ソーもレイも、他の人にはない特別な力を持っているということ。少なくともレイの力は、誰かが必要としているようね。もう一つは、ふたりとも目覚めたときに胸が痛むことがあるということ。そして最後に、この地下を管理しているのは教会で間違いなさそうだ、ということね」
「それをいうならツェルもだな。無理やり連れてこられたわけではないにしろ、俺たちと同じように親元から引き離され、教会から離れられない立場にいる。現に教会は、きみの力を必要としているだろう」
ツェルは何か言いたそうにしたが、すぐに「そうね」と呟いた。
「もしかして、ソーとツェルも、糸を操れるの?」
「ソーのは少し違うけれど、私はそうね。私は……光糸を縒ることができるの。あなたみたいにモノ同士の糸を操ることはできないけれど。その代わり、ヒト同士の絆を繋ぎ変えることができる」
「ええっ、ヒト同士の? 私の歌は、人の糸には効かないんだ。でも、絆が結ぶ先を変えてしまったら、その人たちはどうなるの?」
「強い想いや記憶は消えずに残るわ。繋ぎかえた相手に対して元々持っていたものだ、という記憶のすり替えが起きるの。多少の矛盾があっても、人の記憶は自然とその凸凹を埋めるように働くらしくて、一晩も経つと新しい絆が馴染んで、違和感は感じなくなるみたい」
切る能力の方に触れなかったのは、光糸に縛られたレイを気遣ったからだろう。
「すごい力だね。でも――ええと、私の糸には、触らないでね」
「もちろん、そうそう干渉したりしないわ。それに、あなたほど強い瞳の持ち主だと、そもそも干渉できないかもしれないわ」
「それなら良かった。それで、ソーのはどんな力なの?」
「病気や怪我、疲労の快復を速めることができるわ。人にも動物にも植物にも、大抵の生き物には効くけれど、効きやすさは相手によるみたいね」
「それもすごいね! ねえソー、どんな人なら効きやすい? 私にはどうかな」
興味津々と覗き込まれて、ソーは思わず笑った。声で交わす会話は初めてなのに、全然違和感がない。レイは好奇心の塊みたいな子なのだ。
「レイにはかなり効くと思う。繋がりが強い相手にはよく効くんだ。心から願えば効果は出るが、距離は近い方がいい。相手に触れるのが一番だな」
「あ、もしかして私が元気になれたのも、そのおかげだったのかな」
「そうかもしれないわね。私もソーが傍にいると、どんな悩みでも『どうにかなる』って気になるの。本人はおしゃべり上手というわけでもないのに、何だか不思議よね」
それとなく話下手を指摘されて、ソーは少しばかり落ち込んだ。レイはソーの腕を突きながらくすくす笑っている。
「ツェルにも効くんだろうね。ふたりの間の糸は、半双の中でもちょっと特別な感じするから。すごく太くて、眩しいくらい。今まで見た中では一番だよ」
ソーが驚くのと同時に、ツェルはレイの両肩を掴んでいた。
「私とソーを繋ぐ糸が視えるの?」
「う、うん。視えるよ。どうして?」
ツェルは泣き出しそうに顔を歪めると、目元を指で擦った。
「私とソーは、本当に半双だったのね」
嬉しそうに微笑むツェルとは対照に、ソーは沈み込んだ。
まさか、ツェルとの間の糸を視ることができる人物が現れるなんて、夢にも思ってみなかった。これで教会の言い分は正しかったことが証明されてしまった。他の第三者ならともかく、利害関係のないレイの言葉なら、疑う余地はない。
ツェルがちらとこちらを見た。
「そうだわ。ソー、そろそろ……」
「ああ、そうだな。その前にレイに訊いておきたいことがある。ここから逃げれば、教会から追われることになると思う。しばらくは隠れながら、窮屈な暮らしを送ることになるかもしれない。それでも構わないか? もしそれが嫌なら、あるいはここに留まった方が――」
「ソー。私の夢は前に伝えたよね」
レイは二本の指を歩行するように交互に動かしてみせた。
「私はここから出たいの。ソーと同じ世界を見たいんだ。だから、必ず助けに来てね」
ソーは頷いた。
「ああ、必ず」
「絶対だよ」
「約束する。準備に少し時間はかかるかもしれないが、脱出の前にまた会いに来るから、待っていて欲しい」
「うん!」
名残惜しく立ち上がったソーの袖を、ツェルが軽く引いた。
「ねえ。せっかくだから、さっきレイからもらった服に着替えていくわ。服が泥で汚れてしまって。だから少しだけ席を外していてくれる?」
「だけど急いだ方がいいんじゃないか。こうしている間にも、もし誰かが来たら……」
「中まで染みて気持ち悪いの。それに、さすがにあなたの前で着替えるのは恥ずかしいわ」
「ソーってば、最低!」
「ええっ」
ソーは慌てて回れ右をした。
「あ、辺りを散策してくる」
追い払われたソーは部屋の外周に沿って歩き始めた。
どうせならもう一つの出入り口や、これまでレイと顔を合わせていた、あの隙間を探してみるつもりだった。小さな情報でも、レイを助け出すとき役に立つかも知れない。
……それにしても。
ダンやワジに対してさえ穏やかに接しようとするツェルが、レイには心なし当たりが強かった。
二人だけにして大丈夫だっただろうか。
ツェルは幼い頃から周囲に傅かれて育ってきた。上下関係どころか人間関係をほとんど知らずに育ったレイの態度を礼儀知らずに感じたのかもしれない。もちろん、人が傷つくようなことを言う人ではないが……。
ついふたりのいる方を振り返りそうになるのを、「着替え中だ」という言葉で堪えた。
レイから教えられた「もう一つの扉」はすぐに見つかった。
岩壁にぴったりくっつけるようにティーテーブルが置かれ、そのすぐ上に食器を載せたトレイがぎりぎり通せそうな高さの隙間が空いている。
ソーはその周囲を調べてみた。
一見、普通の岩壁だが、よく見ると継ぎ目があった。取っ手は見当たらないが、ここは確かに扉のようだ。継ぎ目を指先で辿りながら、先ほど浮かんだ疑問を改めて考えた。
カイアはなぜ、ここを通らなかったのだろう。院長からの依頼なら招かれた客だ。衛兵を素通りしていることからも、そこは間違いなさそうだ。
それでも裏口を使った理由が気になる。
わざと後をつけやすい状況を作り、おびき寄せられた可能性はあるだろうか。決行のタイミングを決めたのは昨日のことだ、可能性は低いと思うのだが。
ソーは緩く首を振って、纏わり付く眠気を払った。
眠気のせいで、何かを見落としているような気がする。もっと他に、考えるべきことがあるような。
欠伸を噛み殺しながら一通り岩扉を調べ、開く気配も変わったところもなさそうだとわかると、ソーは岩壁沿いに歩き出した。
地下空洞の外周は木々に囲まれている。傍らの枝を伝っていた栗鼠がじっとこちらを見ているので立ち止まると、ひょいと肩へ飛び降りてきた。
ソーは栗鼠の小さな頭を指先で撫でた。
温かいそよ風が吹いて、緑陰が瞼に揺れる。まるでピクニックにでも来たみたいだ。今は真夜中のはずなのに。
そこでふと思いついて、天井を見上げた。 そうだ、こんなに明るいが、今は夜なのだ。場合によっては夜明け近い。
ここがこんなにも眩しいのは、天井に陽のように輝く石が付いているためだ。
レイと会うときはいつもそうだった。明るい色がはっきり識別できるほど明るかったからこそ、月毛、なんて名前を思いついたのだ。
レイはいつも、当たり前のようにこんな夜更けに活動している。壁越しに会っていたとき、こちらがうとうとすることはあれど、レイが眠そうにしていたことは、そういえば一度もなかったと思う。
レイを捕らえている連中は、なぜそんなことをするのだろうか。
レイは眠る必要がないのか?
いや、でも東屋にはベッドがあったし、「目覚めたときに胸が痛くなる」と言っていたのだから、眠らない体質、なんてことはさすがにないはずだ。
――意図的に昼夜逆転させられている?
なんのために?
そういえば俺は、このすぐ隣の部屋で強制的に眠らされている。もしや治療士たちは、俺たちが眠る時間の方に用があるんじゃないだろうか。たとえば――俺が夜間で、レイが昼間、そんな風に時間を調整して、俺たちに何かしているのだとすれば……。
「わっ」
考えに耽っていたせいで、目の際に枝が当たってしまった。驚いた栗鼠は肩から飛び降り、走り去ってしまった。
栗鼠を目で追ったソーは、その先に気になる光景を見つけた。少し先の壁際に、両手でどうにか抱え上げられそうなくらいの大きな石がある。その傍に紫の花々が生い茂り、そのすぐ上の枝には、小鳥の巣がある。
大きな石と、紫の花。そして、鳥の巣。
レイから聞いた条件が揃っている。
花をかきわけ、石を退けて、岩壁の前に膝をつく。注意深く探すと、岩壁のでっぱりの下に小さな隙間があった。ここだ。ここが、あの倉庫に繋がっている穴に違いない。
「こんな小さい穴、よく見つけたよな」
これまでのことが思い出された。
出会ったその日のうちに打ち解けてくれたレイは、ソーが来るのを心待ちにしてくれるようになった。会うたび大喜びしてくれるのが嬉しくて、次はどんな話をしようか、こんな合図を作れば話は伝わりやすくなるだろうかと毎日考えるようになった。
二人で考えた指人形劇には、いつしか指ごとに配役ができた。主役も、宿敵も、恋敵も、母親役も、親友役もできた。大きな問題が起きると、主役とその仲間たちは合体し大きな鳥になって飛んでいくのがお決まりだった。その場面に差し掛かると、ふたりは腹を抱えて笑い転げた。
そうして声も物音も何も聞こえないまま、ふたりは明け方近くまでここで遊んだ。
ただ、二人が大きくなるにつれ、いつしかそんな風に遊ぶ時間は少なくなっていった。
壁越しに寄り添いあい、何度も会ううちに少しずつ作っていった、指や手、口の動きを使った会話で話す時間が増えていった。ふと会話が途切れて微笑みあっているうちに、何となく気恥ずかしくなって照れ笑いすることもあった。そんな風に静かに過ごすのは、とても特別な時間だった。
レイを連れ出すことができれば、もうこの穴の前に集まることも無くなる。そう思えば少し寂しくさえあった。
じっと穴を見つめる。よく見ると周囲が少し黒ずんでいるようだ。
その場で屈み、汚れを手で拭ってみたが、かなり強めに擦っても落ちない。いや、これは。
「焦げ跡?」
ここで煮炊きでもしたのだろうか。食事は外から運び込まれてくると言っていたが。
その黒い跡は、でこぼこした岩壁にうねりながら続いている。よく見ると一つではなく、穴を中心に、蛸の足のように広がってついている。焚き火の跡なら下から上に向かって煤けるはずだ。
ソーは数歩後ろに下がって、その跡を眺めてみた。
離れて観察してみると、放射状に伸びる焦げ跡は、それぞれ枝葉のような形をしているのが見てとれた。穴から周囲へ、蔦草が伸びていったような具合だ。
この跡は、見たことがある。治療室と同じだ。
「定期治療」を終えて夜中に目覚めると、二、三回に一度くらいの頻度で、同じような枝葉状の痕が治療室の壁や天井の隅に残っていることがある。眠る前にはなかったものだ。ただ、次に治療室に連れていかれたときには、きれいに消されている。治療士に訊ねてみたこともあるが、「私にはわかりかねます」の一言で終わった。他の誰かに訊いても、図書室で調べても何もわからず、特に害もないので、近頃は気にならなくなっていた。
ソーは穴の下に向かって伸びている焦げ跡を指で辿った。焦げ跡が地に達したところで、草を掻き分け、手で土を掘り進めてみる。さほど深くないところで手が土ではないものにぶつかって止まった。真っ黒で弾力のある不思議な板。治療室の床と同じだ。
ソーは立ち上がり、手に付いた土を払うことも忘れて、その奇妙な焦げ跡を見つめた。
特異な能力。拘束。焦げ跡。そして、床の材質……。
ふたりの間の奇妙な共通点。だが、その関連性が見えない。
「ソー、もういいよーっ」
東屋からレイが大きく手を振っている。
ソーは急ぎ、彼女たちの元に戻った。
「おかえりなさい、ソー」
「ああ」
いつもの穏やかな表情に戻ったツェルに、ソーは少しほっとした。
さっきのことを相談しようか迷ったが、けっこう時間をとってしまった。急いで戻らないと面倒なことになるかもしれない。それに、ツェルにはいつでも相談できる。
ツェルは眠そうに目を擦っている。
「どうかしたの?」
「いや……その服、似合っていると思って」
ツェルは胸元のリボンを両手で横に引っ張ってみせた。
「レイのおかげね。ソーが私の見た目のことで褒めてくれるのなんて初めてだわ」
「それはひどいね」と、レイ。
「ね、そう思うでしょ」とツェル。
レイとツェルは表面上穏やかに頷きあっている。でもどこか殺伐とした雰囲気だ。
二人は一体どんな話をしたのだろう。気にはなるが、とりあえず後回しだ。
「ツェル、急ごう。夜明前には戻らないとまずい」
「そうね」
ツェルは立ち上がり、東屋に設けられた少しの段差を降りた。
最後にレイに声をかけようとしたが、レイはいきなりソーの背を両手で押しはじめた。
「どうしたんだ?」
「早く行かなきゃいけないんだよね」
「あ、ああ――」
東屋の縁まで来てしまい、ソーは仕方なくそこから飛び降りた。上からレイの声が落ちてくる。
「もうすぐ速翔の大会があるんだってね。がんばってね、優勝楽しみにしてる。私はここから離れられないけど、ソーが幸せになれるよう祈ってるよ。……きみに会えて、本当に良かった……」
「また来るって言っただろう。どうして、そんな別れみたいなことを言うんだ」
麦穂色の目は涙で潤んでいるように見える。
「ここを出て、きみと一緒に行きたかった。ソーの兄弟たちにも会ってみたいし、本で読んだ海も、ソーが翔ける速翔も、ぜんぶこの目で見てみたかった。でも、私は何も知らなかったんだね。私の世界はこの場所と、ソーが全部だった。でも、だからって、ソーも同じとは限らないよね。そんな当たり前のことも私は全然、わかってなかった」
「待てって。レイ、急にどうしたんだ」
「ツェルが教えてくれたんだ。教会がどれくらい大きくて、強い組織なのか。こんな風に捕まえている相手が逃げ出したら、教会は何年、何十年かかっても、世界中洗って、必ず相手を追い続ける。これまでに逃げ切った犯罪者は、たった一人だけなんだって。確かに、そうだよね。どうしてその可能性を考えてみなかったんだろう。ここから出さえすれば、何もかもうまくいくって勝手に思い込んでいたんだ。そのせいで、ソーに迷惑がかかるなんて、考えてみたこともなかった。ほんと、ばかみたいだ。すぐ捕まって連れ戻された挙げ句、ソーが酷い目に遭うなんて、そんなの嫌だ。それじゃあ何の意味もないよ。だから私、ツェルの言うように、ちゃんとここで待つことにするよ。真っ当にここを出る方法があるんだったら、時間がかかっても、その方がいいよね。だから――ツェルときみが、いつか教会の一番偉い人になって……、私を自由にしてくれる日がくるって、信じてる。信じて、ここで待っているよ。五年でも、十年でも……、今までの時間を思えば……我慢できるよ。それまできみと会えないのは、寂しいけど……」
ソーは驚いてツェルを振り返った。
ツェルはソーを見ようとしない。じっと握りしめた手元に目を落としている。
ソーはレイを見上げた。
「違うぞ、レイ! 俺はそんなに何年も待たせるつもりはない。きみだけのためじゃない、教会から離れるのは、俺自身のためでもあるんだ。だから、これは俺の独善だ。迷惑だなんて考えなくていい。教会勢力は確かに強大だが、怖れるばかりでは何も変えられない。一緒に変えよう。自由になるんだ。きみはどこへだって行ける。なんだってできる。前に約束したように――」
レイは頭を振り、ソーを見つめる。
「だめだよ。言わないで、ソー。それを聞いたらせっかくの決心が揺らぐから。お願いだから今は行って。こうしてきみと話ができて、すごく嬉しかった……でも……次はもっと、って期待しぎてしまいそうで怖い。自由を諦めるわけじゃないけど、でも……っ」
レイはその場で背を向けた。
「ツェル、お願い。早くソーを連れて行って。ソーに何かあったら耐えられないのは、私も同じだから……」
ツェルは何も言わなかった。黙ってソーの手をとり、地下の草原を階段に向かって歩き始めた。
「待てって、ツェル――レイッ」
一体どんな話をしたら、こんな流れになるんだ。やはり二人の傍を離れるんじゃなかった。
ツェルに手を引かれながら、ソーはレイに叫んだ。
「レイ、近いうちに必ずまた来る。約束だ!」
後ろ姿のレイは、微かに頷いたように見えた。
地下から中庭に戻り、小石を挟んでおいた岩蓋をわずかに押し上げた。
待ち伏せの可能性を心配していたが、隙間から窺う中庭には人の気配はなさそうだ。ソーは岩蓋を大きく押し上げ、汚れていない方の手でツェルを引っ張り上げた。
光に慣れた眼には、闇はいっそう暗く感じられたが、空の端はわずかに青を取り戻しつつあり、星は去りゆく夜の一方から順に消えようとしている。池の水を元に戻し、飛び石を渡って中庭に出ると、ソーはツェルを振り返った。
「降りたときと同じ要領で、俺が先に行くぞ」
ツェルは己の腕を掴んだまま動かない。虚空の一点を見つめている。
「ツェル?」
ツェルはのろのろと視線を動かし、ソーを見た。「うん」と頷く。すごく眠そうだ。
「疲れたのか。手を貸そうか?」
同時に行けば、見つかるときも二人同時になってしまう。囮になれないが、ぼうっとしているのに無理はさせられない。
ツェルは「へいきよ」とやや舌足らずに応えた。
「……わかった」
ソーは迷いつつもツェルから手を離し、光糸を蹴って一気に屋根まで上がった。
中庭一帯。回廊。そして正門と裏門。どちらも問題なさそうだ。
ソーはツェルに合図を送った。――が、一向にツェルが動かない。最後に見た時と同じ、俯き加減の姿勢のままだ。
呼ぼうにも大声は出せない。
仕方なく引き返そうとした矢先、ツェルの身体が傾いだ。あっ、とソーの口から小さな声が出た。ツェルは茂みの中に倒れ込んだ。小枝の折れる音が静寂の中に響き渡った。
すぐに建物の中から、誰かが駆けつけてくる音が聞こえた。
咄嗟にソーは服の隠しから光錘を引っ張り出した。
せっかく荒事を避けられたと思ったのに、そううまく事は運ばないようだ。ツェルが見つかる前に警備兵を倒すしかない。
ソーはローブのフードを目深に下ろし、いつでも飛び降りられるよう身を屈めた。
建物から警備兵が飛び出してきた。
彼の手には真っ赤に輝く光錘が握られている。その明かりが徐々にツェルの倒れている茂みへと近づいてくる。
ソーは光錘を握る手に力を込め、警備兵に向かって飛び降りようとした。そのとき。
「すみませーんっ」
廊下から駆け寄ってくる軽い足音があった。警備兵は驚いた様子でそちらを振り返る。そこへ、正面口の方から小柄な影が駆け寄ってきた。
「なんだ、カイアじゃないか」
警備兵は肩に入っていた力を抜いて剣を鞘に収め、少年を迎えた。
「どうした、とっくに帰ったと思っていたぞ。さっきの物音はおまえか?」
カイアはすまなそうに項垂れている。
「すみません、お騒がせしてしまって。急いでいたので、つい転んじゃって」
「やれやれ、盗人かと思ったじゃないか。それで、どうしたんだ」
「これです。入館証、落としたのに気付いて。院長先生のご命令で、絶対内緒だって言われてここに来ているので……」
「確かに『地下』のことはバレたらまずいな」
警備兵はカイアの手に握られたものを確認して嘆息した。
「まあ、何もなくて良かったよ。次からは首にでもかけておきなさい。付き添いの先生はどこなんだ。一緒に行こう」
「いっ、いいですよ。さすがに悪いです。僕一人で戻れますから」
「うむ、もうすぐ夜明けだが、まだまだ暗い。足元には気を付けなさい」
「はい。それじゃあ、また」
丁寧に腰を折る挨拶をするカイアに、先に背を向けるつもりはないとわかったのか、警備兵はゆっくり元来た道へと引き返していった。警備兵が扉の中に消えると、カイアは盛大な欠伸をした。
「ふああ、すっごく眠いや。落とし物は早めに回収しないとね。そうだ、後でルゥくんたちのお兄さんに相談したいこともあるんだった。近いうちに会えると良いなあ」
独り言にしては大きな声だ。
――俺に言っているのか。
緊張したままカイアの挙動を凝視する。カイアはそのまま正面口に向かって引き返していった。ややあって正門の方から話し声がした。二人分の足音が鳴り、それは少しずつ遠のいて、やがて辺りは静かになった。
ソーは中庭に降りてツェルを助け起こした。ツェルはすうすうと穏やかな寝息をたてて眠っていた。声をかけても、頬を軽く叩いても目が覚める気配はない。
この深い眠り。まさかこのタイミングで、「女神様の御許に呼ばれてしまった」のか。
一通り頭部を触って確認してみたが、灌木がクッションになってくれたお蔭か、幸い腕のかすり傷の他に怪我はなさそうだ。
ソーはツェルを負ぶい、空へと上がった。
さて、この後はどうしたものか。
ツェルが目覚めないことには、大聖堂の彼女の部屋には戻せない。影に見つかってしまう。
そうなると、いったん自宅に連れていくしかない――が、義家族にはどう言い訳すればいいんだ……。
背中のツェルの温もりと、明け方のキンと冷えた空気とがソーの頭から眠気を拭い去ってくれたが、どう考えても一番無難そうな言い訳に、ソーは頭を抱えたくなった。
婚約を交わした夜に、男女二人がこっそり落ち合う理由なんて、限られているじゃないか。姉たち、特にテュナにはひどく罵られるだろう。考えただけで気が滅入る。
ソーはずしりと重いものを抱えたまま、領主の館に向かって白ばみはじめた空の中を翔けていった。