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ツェルト・リァン-二つ世と未来の女神-  作者: Ari
§05 レイェス Side-S
16/49

【2】

 木立に隠れていた月が葉陰から顔を出す頃、いよいよカイアが戻ってきた。

 池底から東屋まで戻ってきた彼は、先ほどと同じように光錘リューゲルを池に向かって伸ばし、水嵩を元の高さまで戻した。それが済むと、カイアはすぐに立ち去っていった。

 資料室の窓は人が通り抜けられる大きさではない。二人は来た道を戻り、通用口にしっかり施錠してから、中庭に隠しておいたローブを羽織った。

 初夏の夜はまだ少し肌寒く、水草と泥の臭い、そして控えめな虫の声が夜を支配している。

 ソーはツェルに手を貸しながら慎重に飛び石を渡り、カイアがしていたようにリィを開いて池を観察してみた。

「確か、この辺りに光錘リューゲルを差し込んでいたよな」

 光錘リューゲルをゆっくりと動かし、水中の糸にするすると通してみたが、小石や水草から伸びる糸ばかりで、気になるものは見当たらない。ソーはさらにリィに力を込め、より薄く繊細な糸にも注意を向けてみた。さっきより鮮明になった光糸リーリエによって夜がさあっと明るく照らされ、池の中で泳ぎ回る魚の姿まで、くっきり確認できるようになった。

 ……あれは何だろう?

 ソーは光錘リューゲルを動かしていた手を止めた。

 池底から突き出た一本の光糸リーリエが、ほとんど垂直に上へと伸び、東屋の上に差し掛かった枝に引っ掛かっている。消え入りそうに薄い糸だ。

 ソーはその糸を光錘リューゲルで撫でてみた。何の変哲もない、岩とその破片を繋ぐ糸だ。

 隣のツェルが同じ糸を指先で摘まんで、糸の行く先を目で辿った。

「手前側のあの岩に続いているようね。これは、誰かの手であの枝に固着されているわね」

 ソーはその糸を光錘リューゲルに絡めて引いてみた。すると、カイアの時と同じように水面が下がりはじめた。それと同時に、庭園の隅に繁る灌木のあたりから、ぼこぼこという水音が聞こえてくる。ソーは、あ、と思わず声を漏らした。

「なるほど。半双メトワ池のあっちとこっちとで水が移動するようになっていたんだな」

半双メトワ池?」

「子供のとき――あ、いや。何でもない」

 うっそうと繁る低木のせいで隠れているが、実はあのあたりは地面が大きく窪んでいるのだ。

 子供の頃あの辺りを走り回っていたソーは、うっかり滑り落ちてしまったことがある。中は意外に深く、おまけに底に溜まった泥水で滑るので、子供のソーは自力で這い上がることができなかった。たまたま居合わせた老人が二人がかりで助け出してくれ、三人共、全身泥まみれになったのだった。それ以来ソーは、奥の灌木の窪地と、目の前の池、ふたつ合わせて「半双メトワ池」と呼んでいた。

 やがて茂みの窪地は満水になり、元の池はすっかり空になった。カイアの靴跡がまだ泥の中に残っている。

 糸から手を離したツェルは、やや警戒したように呟いた。

「あの子もこの糸が視えたのよね。こんなのが視えるのは、カナンでもほんの一握りのはずよ」

「カイアを疑っているのか」

「そういうわけでは。ただ現状では、すべて用心するに越したことないでしょう? ここも気を付けましょう。足跡がはっきり残るから」

「だな。光糸リーリエの上を渡っていこう」

 二人はカイアの靴跡を追って、底すれすれを渡る光糸リーリエの上を慎重に進み、東屋の裏手に回った。

 カイアが消えた辺りは東屋の基礎が積まれ、行き止まりになっていた。周囲には背の高い水草が繁茂し、その手前に、泥まみれの大岩がひとつ顔を出している。普段は水中に没している岩だ。

 ソーは裾汚れを気にするツェルの脇をすり抜け、岩を丹念に調べてみた。すると岩の下から、注意深く視ないと見落としそうな、ごく細い光糸リーリエが、まっすぐ上に向かって伸びていた。さっき、池の水を移すときに引いた糸に様子が似ている。

 光錘リューゲルに絡めて軽く引いてみると、泥が盛大に撥ねた。咄嗟に飛び退いて直撃は免れたが、かえってツェルを驚かせてしまったらしい。悲鳴をあげかけたツェルの口をソーは慌てて覆った。

「飛んできた泥を避けただけだ。大丈夫か?」

 ツェルがこくこく頷くのを確認して、ソーは手を離した。

 目の前であの大岩が斜めに持ち上がっていた。岩の底面はいやに平らだ。しかもそこに、大きなばねが取り付けられている。

「跳ね上げ蓋だったのか」

「見て、階段よ」

 ツェルが指差す岩の下には、確かに地下へと下る階段が見えた。その奥から、ほんのり薄青い光がこぼれている。

 そろそろと覗き込むが、階段の先はしんと静かで、誰かがやってくる気配はなさそうだ。

「よし、行こう」

 ソーは石段の上に飛び降り、ツェルに手を差し伸べた。ツェルはしばらくためらっていたが、やがて思い切ったようにソーの手を掴み、光糸リーリエを蹴ってソーの隣に着地した。

 人目に付きにくいようにと蓋を下ろしかけ、ソーはその手を止めた。跳ね上げ蓋というのは内側からは開けにくい場合がある。岩蓋が完全に閉じてしまわないよう小石を挟んでから、ソーは改めて蓋を下ろした。

 螺旋状の石段を、かなり長いこと下ったと思う。途中で水の光糸リーリエの薄膜に当たった。びっしりと張り巡らされたそれは、もはや糸と呼べるようなものではない。緻密に織り上げられた青いレース地だ。いつも月毛と会うときに、地下倉庫の穴から覗いていたものと全く同じだった。

(間違いない。この先に月毛がいる)

 ソーは緊張しながらその薄膜を通り抜けた。


 地下室に降り立ったソーは目を瞠った。

 ここは本当に地下なのか。

 まるで真昼のように明るい。闇に慣れた眼には眩しすぎる。光の矢に射貫かれた眼を思わず手で覆って、二人は光に慣れるのを待った。

 目が利くようになると、今度は目の前に広がる光景に驚いた。

 上はくり抜かれたままの岩天井で、ずいぶん高いところにある。それを見れば、ここはどう見たって地下室――いや、地下空洞だろうか、とにかく地下だということがわかる。

 それなのに、目の前には広々とした草原が広がっていた。

 色とりどりの野花が咲き乱れ、周囲にはぐるりと緑の木立が連なり、小川が流れ、小さな丘がある。木の葉の合間に赤い果実が枝もたわわに実り、時折重そうに揺れている。

 揺れる――?

 ソーはふわりと浮き上がる前髪に触れた。そういえば地下なのに、風が吹いている。

「ソー、ルブラがいるわ」

 ツェルが指差した先に、真っ白な仔馬トッティ・ルブラがいた。長い尾を振りながら草を食んでいる。その脇には、白い毛並みのと灰色の毛並みのと、合わせて二羽のパニウが跳ねている。梢の上では翡翠色の羽を持つフィルが美しい声でさえずり、街中でよく見かける薄桃色の渡り鳥(フィリー)たちがのんびり羽を休めている。

 そして、この空間の中央には、白く優美な建物が建っていた。薄いレースの襞飾りが吊り下げられ、そのレース越しにベッドやテーブルの影が見える。

 建物だが、壁はない。柱と屋根は付いているが、それだけだ。小屋というより、東屋と呼ぶべきだろうか。

 ツェルが思わずといった風に呟く。

「すごい」

「すごいな」

 ソーも驚いていた。月毛の背後に草花が見えるのは知っていたが、こんなにも広い空間が広がっているとは思ってもみなかった。

 二人はどちらからともなく中央に見える東屋に向かい始めた。一足ごとに土と草の青い匂いが立ち昇ってくる。

 歩きながら天井を見上げると、ちょうど真ん中に昼下がりの太陽のように明るく輝く丸いものが見えた。

照明ミュリィ……?」

 隣のツェルが妙な単語を呟く。ツェルがよくわからない言葉を呟くのは昔からだ。

「むりい?」

「あ、天井の眩しいものが、天の世の道具に似ているなと思ったの。火の光糸リーリエでも集めてきたのかしら。ここまで明るくするのは、相当大変だったでしょうね」

「水の光糸リーリエのことといい、本国の司祭たちが駆り出されていそうだよな」

「ええ。それでも、これだけの規模となると、何十人がかりで一年や二年はかかるわ」

 ツェルの緊張と不安が膨れ上がってゆくのが、隣に立つソーにも伝わってくる。

 ここにあるもの――つまりは月毛のために、そこまでしたということだろうか。それとも、元々あったこの空間に、月毛を連れてきただけなのだろうか。

 東屋まであと少しというところで、突然何かが背の高い野草の合間から飛び出してきて、けたたましく吠えた。

 咄嗟にツェルを後ろに回して光錘リューゲルを構えたソーは、ほっとして息を吐いた。

 大型の黒いワーグがそこにいた。低い唸りを上げてふたりを威嚇している。レイには良い守護者がいてくれたようだ。ソーはワーグの前に膝をついた。

「おまえ、オウ……だったか? 何度か会ったことあるよな。俺のこと、覚えていないか」

 ソーが手を差し出すと、ワーグは手の匂いを丁寧に嗅ぎ、きゃん、と叫んでソーに飛びついた。顔や手を舐め回され、ソーはくすぐったさに笑った。どうやら匂いで思い出してもらえたようだ。頭を両手で撫でてやると、ワーグは千切れそうなほどしっぽを振り、ぴょんぴょん飛び跳ねて歓迎の意を示してくれた。

「フォグ、どうしたの。誰か来た?」

 東屋の方から声がした。

「カイア? 忘れ物でもした?」

 東屋に見える寝台の上で、誰かがもぞもぞと動いた。レースが捲られ、その姿が顕わになる。

 質素な白いローブに、すっきりと出た白い額。後頭部に沿って編み上げられた亜麻色の髪。耳元の髪が幾束か残されてふわふわと揺れている。その髪が上体を起こす仕草につられて、はらりとその華奢な肩に落ちかかった。

 起き上がったその人物は軽やかな仕草で立ち上がり、柱に手を添えてことりと首を傾げた。

「あれ、カイア……じゃない? きみたち、誰?」

 月毛だ。壁の隙間越しじゃない、同じ空間に月毛が立っている。月毛はこんな声をしていたのか。想像よりも低い。でも、耳に心地よく馴染む声だ。

 ソーは背の高い草を掻き分け、月毛から見えるよう前に出た。

「俺だ。えっと…………わからないか」

 月毛、と呼びかけようとして、ソーは口を噤んだ。それは、彼女が何度もがんばって名前を伝えようとしてくれたのに、とうとうわからなかったソーが勝手に自分の中で付けた名前だ。金よりも柔らかく、白木よりは冷涼に輝く美しい巻き毛を見て、九歳のソーに思い浮かんだ精一杯きれいな名前だった。大好きなルブラの中でも、一番きれいだと思っていた毛色にちなんだ。だが、初めてその名を聞いたツェルは微妙な表情を浮かべていた。落ち着いて考えてみると、確かにあまり良くなかったかもしれない。仮にも女の子に向かって、ルブラの毛だなんて。

 草花を揺らす優しい風が吹いた。赤い唇をくすぐる髪をたおやかな手でそうっと押さえて、月毛はじっとソーを見つめた。最初はやや疑わしげに。それからゆっくりと大きな目を見開いて、信じられない、といった表情で呟いた。

「うそ……。まさか、ソー?」

「ああ」

 ソーは急いで頷いた。頷いてから、はたと動きを止めた。なぜ彼女は自分の名を正確に知っているのだろう? 声が聞こえないのは、お互い様だったはずなのに。

「ソー!」

 月毛が東屋を飛び降り、二人までの少しの距離を思いきり駆けた。そして走る勢いをまったく緩めぬままソーに体当たりした。

 受け止め損ねたソーは尻餅をついた。下は草花のクッションがあるから痛くないが、上に乗った月毛の細い肘が肋骨を圧迫している。ソーが思わず呻き声を上げると、月毛は慌てて顔を起こした。

「ごめん。嬉しくて、つい」

「いや、大丈夫」

 ソーが顔を上げれば、ぶつかりそうなほど近くに月毛の亜麻色の瞳があった。くっきりと深い二重の刻まれた薄いまぶた。髪と同じ甘い色合いの長い睫毛が形の良い大きな目を縁取っている。

 二人は慌てふためき、這うようにしてその場を飛び退いた。月毛は草原に座り込んだまま深呼吸し、赤くなった顔を手で扇いでいる。ソーもなんだか顔が熱いような気がして、汗の滲む手を服に擦りつけた。

「信じられない。どうやってここに? 話し相手の子が来てくれただけでもびっくりしたのに、まさかソーに会えるなんて」

「その子の後を付けてきたんだ。すごい隠し扉になっていたぞ。あれは普通にしていたらまず見つけられないだろうな」

「カイアを知っているの?」

「たまたま最近知りあいになったんだ」

 その最近とは数時間前のことなのだが、ツェルの時のように話がこじれそうだと思ったソーは、咄嗟にそう答えた。

「出口、そんな厳重な感じなんだ」

「ああ」

 妙に緊張する。けれども、初めて言葉を交わしたとは思えないほど、月毛の声はすんなり馴染んだ。身振り手振りだけで九年も会話を続けてきたのだ。声が聞こえようと聞こえまいと、月毛は月毛だった。まるでこれまでのやりとりの答え合わせをしているような、不思議な高揚感に包まれる。

 二人はちらりと互いを見、相手の目の中に同じ感情があることを知り、声を出して笑い合った。

「それにしても俺の名前、よくわかったな」

 草地に座り込んだソーに先ほどのワーグがしきりと鼻をこすりつけてくる。耳の裏を掻いてやると嬉しそうに目を細めて、膝の上に顎を乗せてくる。

 月毛はワーグの頭を突きつつ、ソーに向けて微笑んだ。

「簡単だよ。口の動きでわかるよね」

 ソーは気まずさに手を止めて黙った。その簡単な作業とやらが、何度繰り返してもらってもわからなかったとは。

「ねえ。まさかと思うけど、結局きみってば、私の名前がわからなかったの?」

「……すまない」

 月毛はむっとしたように眉を顰めてソーの肩を軽く押し、大きく息を吸い込んだ。

「レイェスだよ、レ、イェ、ス。ちゃんと覚えて!」

「レイェス?」

 ソーが呟くと、月毛、いやレイェスは心から嬉しそうに美しいかんばせを綻ばせた。

「女神様と同じ名前なのね」

 突然背後から聞こえてきた声に、ソーとレイェスは振り返った。

 腕を組み、どこか不機嫌そうなツェルが二人を睨んで立っている。

 女神と同じ名を授けることは、教会によって禁じられている。不敬の名だとツェルが言い出すのではないかとソーは慌てたが、先に口を開いたのはレイェスだった。

「きみはだれ?」

「ツェル・ト=リァンです。初めまして、レイェス」

「俺の幼馴染みなんだ。ここまで来るのに協力してくれた」

「ソーの友達なんだ。あれ、どこかで聞いた名前のような」

 レイェスが考え込んでいる間に、ソーは素早くツェルの耳元に囁いた。

「ツェル、あの子の名のことは」

「もちろん、あの子のせいではないことくらいわきまえているわ」

 ツェルの声は冷え冷えしていた。いつの間にか放ったらかしてしまったせいかもしれない。

 レイェスは思い出すのを諦めたらしい。

「そういえば、ソーにも長い名前があるの?」

「彼はソー・ル=イスタというのよ」

 ソーが答えるより早く、いつもよりやや低いツェルの声がそう答える。

「ふーん……。ふたりはお揃いなんだ」

 レイェスはつまらなそうに呟いた。

「私は、レイェスだけ」

「じゃあ、『レイ』」

「え?」

「レイェスが長い方の名前で、呼ぶときは『レイ』でどうだ?」

「あまり変わらないような」

 レイェスはくすくす笑った。

「でも、それがいい。ありがとう、ソー。話ができるってすごく素敵だね。あ、そうだ。せっかく来てくれたんだから、ご招待しないとね。ふたりとも入って、入って」

 レイェス――レイはその場で軽やかに回り、東屋に向かって駆けだした。

「ほら、早く!」

 なおも構って欲しそうに足元に絡むワーグをどうにか引き離し、ふたりはレイの後に続く。入り口の踏石で靴底の泥を落としてから、ソーは東屋へと上がった。

 剥き出しの床板の上にラグがひとつ敷かれ、端には簡素な木のベッドがひとつ。奥には大きな水瓶が二つ。椅子が二脚と、一人分のティーセットを載せたテーブルがひとつ。ベッドの上には本が三冊。それがここにあるもの全てだ。

 草原と仕切られていないところに生活空間があるのは、やはり不自然に感じる。

「普段はここに一人なんだよな」

 楽園のように美しいが、あまりにも開放的で落ち着かない。動物たちの他には話し相手もいない。なんて寂しい生活だろう。

「うん。そうだよ」

「食事は毎日、朝夕に運び込まれてくるって言ってたよな」

「そっちはちゃんと伝わっていたみたいだね」

 レイはくすりと笑った。

「そうだよ。でも、食事は壁越しに受け取るの。毎日ここまで入ってきてくれるのは、朝と夜の身支度を手伝ってくれるおばあさんだけ」

「他に来るのは、杖をついた先生と……あと、カイアくらいか?」

「あ、それ、そう受け取ってたんだ。先生は杖をついてるわけじゃなくて、おじいさんだって言いたかったの。カイアは、どうかな。また来てくれるとは言っていたけど。あとは二日に一回、兵士さんが水瓶を運んできてくれるけど、今日の交換はもう終わっているから、しばらくここにいても大丈夫だよ」

「そうなのか。ちょうどいいタイミングだったみたいだな」

 と言いながらツェルを見ると、ちょうど目が合った。さて、何からどうやって話したものか。

「とりあえず、どうぞふたりとも座って。カップはひとつしかないけど」

 ポットの茶を一つきりのカップに注いだレイは、そのカップをティーテーブルに置いた。

 椅子にかけたソーは、さっそく切り出した。

「レイ。俺たちの『約束』を覚えているか。ここから『出たい』って言っていた気持ちに、今も変わりはないか」

「もちろん! こんなところにいつまでも閉じ込められるなんて、ごめんだね。あの約束が今の私の生き甲斐なんだから」

「そうか、良かった。俺たちが今日ここに来た目的は、まさにそのためなんだ。ただ闇雲に逃げるだけじゃ、その後で何が起こるかわからない。だから、逃げる計画を立てるためにも、きみがここに捕らえている事情をなるべく知っておきたいと思っている」

「なるほど。思い当たることはあるにはあるけど、あの人たちが、それで何をしたがっているのかは、全然わからないな」

「思い当たること?」

 思わず聞き返したソーをツェルが制した。

「待って。まずはできるだけ古い記憶から順を追っていきましょう」

 確かに、先走りすぎてしまったようだ。

 ソーは一呼吸おいて、不安そうにこちらを見ているレイに説明した。

「ツェルは信用できる人だ。今日だって、ツェルの協力がなければ、ここまで来られなかったと思う。だから、レイも信じてほしい」

「……わかった。ソーがそう言うなら」

 ソーに身体ごと向いていたレイが、はじめてツェルに向き直る。

 ツェルもようやく肩から力を抜いてくれたようだ。

「レイ、あなたとソーが初めて出会ったのは、今から九年前のことだと聞いたわ。当時、あなたはまだ六歳くらいだったと思うのだけど、間違いない?」

「うん」

「そうすると、ずいぶん長くここにいることになるけれど、その間、一度もここから出たことがないの?」

 レイは両手を広げて、東屋の周囲に広がる草原を示した。

「この場所から別の場所へ、ってことだよね? うん、一度もないよ」

 ツェルは何か言いたそうな様子を見せたが、落ち着いた様子で続けた。

「そうなのね。それでは可能性の一つとして訊くけれど、もしかしてあなた、何か病気を持っている?」

「前にソーにも訊かれたことがあるけど、これは絶対に病気の隔離じゃないよ。私は教会に捕まっているの。覚えている限りずっとね。だから私は、親のことも、生まれた家のことも、どの土地の出身なのかも、何も知らない」

「ずっと捕まっていたのに、どうしてそうと気付けたのかしら。ごめんなさい、別にあなたが嘘をついていると疑っているわけではないの。ただ、あなたの環境を思うと、そういうことを知るのは難しい状況だったのでは、と思って。誰か、教えてくれる人がいたのかしら」

「そうだね。先生に教えてもらったよ」

「それはいつ頃のこと? 教えてくれたのはどんな人だった?」

「ここに移る前だから、五歳か六歳くらいのとき。音楽の先生が教えてくれたの。あとは……そう、先生たちが貸してくれる本を読んで、少しずつ外の世界のことを知るようになって、それからは自分の置かれている状況がおかしいんじゃないかって、段々思うようになっていって……。それで、先生たちに色々質問したの。勉強に関すること以外は何も教えてもらえなかったけど、時々、先生が貸してくれる本や詩集に、線が引いてあることがあったんだよ。その時は、まだ小さかったからよくわからなかったけど、もう少し大きくなってから、ふと、そういえば、あれは先生からの答えだったんじゃないかって、気付くこともあって」

「本はとても貴重なものなのよ。所有する人は限られているわ。あなたのところに来ていた先生たちは、どんな人たちなのかしら」

 レイは頭を振った。

「さあ、会えばわかると思うけど。勉強に関すること以外は、先生自身の名前も含めて、ほとんど何も教えてもらえなかったから。でも、そういえば」

 レイは空に絵を描くような仕草を見せた。

「こういう形のペンダントをしている人が多かったな。銀の輪っかの下に、頭を半円に曲げた杖みたいなのがくっついている形の」

 ソーとツェルは目を見合わせ、ツェルが服の胸元から何かを引っ張り出した。レイェス教のシンボル、「女神の杖」を象ったペンダントだ。

 ツェルの手の下で揺れるものを見て、レイは頷いた。

「うん、これだよ」

「これは、レイェス教会の徴なの」

「やっぱり、そうだったんだ。聖典の表紙にも同じ徴が書いてあった。ツェルもレイェス教会の人なんだね。あ、だから『リァン』って名前なのか。確か、初代御子様の名前だよね」

「聖典も読んだのね」

 ツェルの心は次第に沈みがちになっている。

「それで、借りた本を読んで、あなたは外の世界のことを知ったのね。だけど不思議ね、本を貸してくれるなんて。外のことを知らない方が閉じ込める側としては扱いやすいでしょうに。実際、あなたは外に出たがるようになったのだから」

「それは、あまりに退屈すぎて、私が病気になったからだと思う。だんだん何もしたくなくなって、一日中寝てばかりいるようになったことがあったの。一番楽しみだった授業中も起きていられなくなって、ゴハンも欲しくなくなって。その頃から、本を置いていってもらえるようになったんだ。本がなかったら、私は今まで生きてこられなかったと思う」

 ツェルが沈痛な面持ちで下を向いた。さすがにこんな話を聞かされては、教会の頂点に据えられた者として平静でいられるわけがない。もともと状況を推察していたソーでもショックを受けたくらいだ。

「そういえばさっき、病気の隔離のためではないと言っていたが、具合が悪くなることは全くないのか。たとえば、時々心臓が痛んだりとか」

「えっ。どうして知っているの? うん、寝起きに時々、そういうことがあるよ。少し休めば治まるんだけど。ソーに話したことあったっけ?」

「いいや。ただ、もしかしたら俺と同じことが、きみにも起きているんじゃないかと思って」

「えっ、それならソーも?」

 同じようにこの地下に拘束されるふたりに、同じことが起きている。拘束される理由と心臓の痛みには、何か関係があるのかもしれない。

 しばらく俯いていたツェルが、ふと思い出したように顔を上げた。

「そういえばさっき、ここに移される前、と言っていたわね。ソーと出会う以前に、ここ以外の場所にいたことがあるの?」

「そうだよ。寝ている間にここまで連れてこられたから、どこだったのかは全然わからないけど。前に居た場所は、ここよりずっと狭かったよ。ベッドとテーブルを置いたら、もういっぱい。ここみたいに明るくなかったし、窓もないし、ひどい場所だった」

「そうだったのね。できれば、そこのことも覚えている範囲で教えてくれる? ささいなことでもいいの。どんな環境で、どんな風に過ごしていたとか。それと、ここに移された原因に思い当たることはない?」

「ここに移されたのは五歳の時だから、あんまり覚えていないんだけど――はっきり覚えているのは、水の中に見えるたくさんの顔のこと。それから、たくさん先生がいたこと。今はおじいさんやおばあさんばかりだけど、あの頃はお兄さんやお姉さんの先生もいたんだ。でも、あの頃は今よりずっと怖かった。言うことを聞かないと食事がもらえなかったし、たまに優しい先生が来ても、すぐに怖い先生に変わっちゃうし」

「ちょっと待って。水の中に見える顔? どういう意味かしら」

「そのままだよ。辺り一面の水の中にたくさんの顔が見えるんだ。そうとしか表現できない」

「心象的なものかしら。特に小さい子供のうちは、恐怖や辛い体験が、別の苦手なものと結びついて心象を創り出すことがあるってどこかで読んだことがあるわ」

「そう……、なのかな。自分だとわからないな。それで、ここに移されたきっかけだけど――たぶん、音楽の先生のことがあったからだと思う」

「音楽の先生?」

「うん。シェス先生。名前を教えてくれた、たった一人の先生。優しい人だった」

 そう語るわりには、レイの表情は今日で一番沈み込んでいる。

「シェス先生は、初めて私に音楽を教えてくれたんだ。確か、ツェルより少しお姉さんくらいの人だったよ。最初は冷たい人だなって思っていたんだけど、帰り際にはいつも課題に紛れ込ませるようにして、外の景色を描いた風景画や、甘い蜜菓子を渡してくれた。今思うと、私に親切にしたことが知れたら追い出されるから、そうならないようにシェス先生は気を付けていたんだと思う。でも、しばらくしてシェス先生は死んじゃった。あの頃の私には、まだ死ぬってことの意味がよくわかっていなかった。でも私を捕まえている人たちは、どうにかして私にわからせたかったみたい。先生が死んだその時、たった一度だけ、建物の外に連れ出されたんだ。背の高い兵士たちが私を囲んで、海に突き出た岬のような場所へ連れて行かれたよ。そこで、眠っているように見えるシェス先生が箱に入れられて、その箱を入れた大きな穴を、黒い服を着た大人たちがどんどん埋めていこうとするんだ。私は、お願いやめてって、叫ぶことしかできなかった。私を押さえつける大人が、怖い声で言ったんだ。『私を逃がそうとすれば、皆こうなる』って。そんなことしてない、先生を返してって頼んだけど、それ以上は誰も何も言わなかった。いつもの部屋に戻されてからは、何もする気が起きなくて、何日も泣き続けたよ。でもある時、先生が隠していた書きかけの楽譜を見つけたの。ルブラや、海を渡る海鳥フィリーに乗って、世界を旅する私のための歌。それを眺めているうちに、不思議とその続きが私の中に閃いて……。私は夢中でそれを書き付けた。そして、完成させたその旋律を歌ったんだ。先生に届くように。そうしたら先生が戻ってきてくれるような気がして。そうしたら、そうしたら先生が――」

 レイは自らを抱きしめて震えだした。

「どうしたんだ、レイ」

 立ち上がったソーは、レイの前に膝をついた。さっきまで血色の良かったレイの顔は真っ青だ。

「ねえ、ソー。手を握っていて……」

 ソーは一瞬躊躇した。レイが座っている場所は彼女のベッドだ。でも、他に並んで座れるような場所はない。ソーは諦めてレイの隣に並び、ベッドの上に置かれたその細い手を上から包み込んだ。

 レイは重ねられたソーの手に縋るように力を込め、それから続きを語りだした。

「先生が、本当に還ってきたんだ。墓石の下から。土に還ろうとしていたぼろぼろの手足で床を這って。髪や服がなければ、先生だってこともわからなかったと思う。先生が通った後には、黒い跡が残っていた。私と一緒にいた大人たちはパニックを起こして、我先に逃げようとした。先生は一つきりの戸口を塞いで、大人たちを次々捕まえた。その肩や手足を、肉が削げ落ちて剥き出しになった歯でどんどん噛み千切っていった。服が破れて剥き出しになった先生の胸は空っぽで、まだらに茶色く染まった骨があるきりだった。真っ赤に染まった部屋の中で、私はいつの間にか気を失っていた。それなのに、目が覚めたときには、部屋はきれいで、すっかり元通りに戻っていた。最初は、さっき見たことは夢だったんだと思ったよ。でも、何かがおかしいんだ。私を見張っていた兵士さん、先生たち、食事を届けてくれる給仕さん……周りにいた大人たちが全員入れ替わっているんだ。それに誰に聞いても、まるで事前に答え合わせをしてきたみたいに、揃って『私はおかしな夢を見たんだ』って言う。でも……。あれはきっと、本当にあったことなんだと思う」

 かちかちと音が鳴っている。それがレイの歯が鳴らす音だと気付いて、ソーはレイの両肩を掴んだ。

「レイ」

 レイが額をソーの肩に押しつけた。ソーはその場で固まった。後ろからツェルの視線を感じる。ソーが宙に浮いた手のやり場を見つける前に、レイはその格好のままで再び口を開いた。

「だって、目覚めた私の首に、ペンダントがかかっていたから。さっきツェルが見せてくれた飾りと、もうひとつ、青い石の嵌まった銀のプレートも付いているペンダント……」

「それは教会が優れた功績をあげた信者に贈るものだわ。プレートには、魂名と贈呈日が彫られているはずよ」

 レイの細い首が縦に揺れた。

「プレートに彫られていた文字は『テ』。シェス・テ=アムス先生の魂名だった。大好きな先生の名前は、何度も何度も書く練習をしたから、絶対に読み間違えたりしない。綺麗に磨かれていたけど、鎖の間には、よく見ると赤黒い何かが少しだけ付いていた。そのペンダントは、棺の中に入れられた先生が身に着けていたはずだった。怖くて怖くてたまらなかった。私はそれを投げ捨てた。それきり、私は歌えなくなってしまった。歌おうとすると、目の前が真っ白になって何もわからなくなってしまうんだ。私を管理していた大人たちはどうにかして私を歌わせようとしたけど、何をやっても駄目だった。お医者の先生が来て言ったよ。私には休息が必要で、できれば人目の少ない、自然に囲まれた別の環境が良いって。その後、私はこの場所に移されたんだ。ここに来てからは、おばあさんと、勉強を教えてくれるおじいさん、水瓶の兵士さんにしか会っていない。おばあさんも、おじいさん先生も、一人じゃなくて何度か入れ替わったり、違う人が来たりしたけど、それ以外の人たちが来ることはなくなった。怖い大人が来ないのにはほっとしたけど、寝ていても、起きていても、常にあの時のことを思い出して、私は震えていることしかできなかった。そんなときだった。ソーと初めて会ったのは」

 レイは顔を上げて、泣きそうな顔でソーに微笑みかけた。

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