【2】
一向に途切れない野次馬の列を断ち切ってくれたのは、こちらに向かって元気よく駆け寄ってくる子供たちだった。十三歳のルゥ、十二歳のフィー。それに九歳のキィ。ソーの弟妹たちだ。末っ子のキィはソーに気が付くなり、目の前のルゥを押しのけてソーに駆け寄ってきた。
「失礼、急用ができまして」
ソーは曲の切れ目でいそいそと礼をして、引き留めようとする手を躱し、その場を離れた。
「ソー兄ーっ」
屈んで広げた両腕に向かって、妹のキィが勢いよく飛び込み、弟二人がその後を追ってくる。ソーは片手でキィを抱いたまま二人の弟たちの頭に順に手を置いた。
「三人とも元気だったか」
「何言ってるの。前に会ってからまだ一月も経ってないよ」
「なあ、なんで俺たちがキィの面倒を見なきゃならないんだよ。ソー兄、おまえが迎えに来いよ」
一番目の弟ルゥに続き、二番目の弟フィーが文句を言う。肩に振り下ろされた弟の拳を掌で止めて、ソーは呟いた。
「行きたい時に行きたい場所へ行けるのなら、俺も苦労しない」
「フィーはエマちゃんと一緒に祭りに行けなくなって、拗ねてるだけだろ」
「はあっ? 何言ってんだルゥ兄!」
眼前でがなり立てるフィーの顔を「はいはい」とルゥは押し戻し、妹の背を突いた。
「ほら、キィ。兄さんも忙しいだろうから、早いところ、あれを渡しちゃったら」
キィは「うんっ」と元気よく頷いて、腰のポーチから折りたたんだ紙と、ハンカチを一つソーに手渡した。
「お誕生日おめでとう、ソー兄。これね、養児院のみんなと一緒に書いたお手紙。これはね、キィが初めて刺繍したハンカチなの。ソー兄にあげるっ」
「誕生日おめでとう、兄さん」
「おめでとー、ソー兄」
ルゥとフィーも少し恥ずかしそうにその後に続く。
「ありがとな。ようやく誕生日って気がしたよ」
差し出された手紙とハンカチを受け取ったソーは手紙に目を走らせ、ハンカチを広げた。
ハンカチの隅に刺繍されていたのは黄色い円だ。円の中には青い点が二つあり、その下に赤の一本線が引かれている。さらにその横から、青い線が蛇行しながら下に続いている。
「あ、俺とルゥ兄からのプレゼントは今度ソー兄が院に来た時に渡すから」
「フィーが雑に作業するからやり直しになったんだよ」
「いちいちバラすなよ、ルゥ兄!」
「へえ、共同作業なんだな。珍しい」
ソーは賑やかな弟たちに笑い、キィの柔らかい頬を軽く摘まんだ。
「これ、俺だよな」
「うんっ。けっこううまくいったんだ」
離れようとしたソーの手を頬に押しつけて、キィはにこにこ笑って応じる。
「うまくいったあ? どこが」
と、フィーがハンカチを覗き込み、ルゥが赤の一本線を指先で突いた。
「これじゃない。式典の時の兄さんの口にそっくり」
「確かに」
げらげら笑うフィーの頭をソーは小突いた。
「大事に使うよ、キィ。そういえば書き取りの試験は合格したのか」
「うん、この間ソー兄が教えてくれたから、ばっちり」
首に抱きついてすり寄る妹は相変わらず甘えん坊だ。
「ルゥ兄もフィー兄も、いじわるけちんぼなんだもん。キィのこといっつも面倒くさいって言うんだよ。失礼しちゃう。ねえ、ソー兄も養児院に住もうよ。キィはソー兄とずっと一緒がいいよう」
「無茶言うな、キィ。兄さんが領主様の養子になったおかげで、僕たちは養児院にいられるんだよ。おまえももうすぐ十だろ。少しはお姉さんになろうか」
「貧民街に戻りたいのかよ、ばぁか」
「うっさい。フィー兄の禿げ」
「んだとっ、なーにが禿げだ!」
掴みかかる二人を反対方向に引き離しながら、ソーは騒がしい弟妹の後ろを探した。
兄弟たちの引率を頼んだ学友の他に、養児院から護衛の聖堂騎士二人と先生が一人、同行していた。
「付き添いに感謝します。後はこちらで引き取りますので」
先生は手を振ってそれを遮った。
「仕事ですので。どうかお気遣いなく」
ソーは弟妹を頼まれてくれた学友二人に向き直った。
「ネス、ナル、弟たちを連れてきてくれてありがとう。手間かけさせて悪かった」
「いいの、いいの。ルゥくんもフィーくんもキィちゃんもみんな良い子で、あたしたちも楽しかったよ。それにカイアくんがよく三人の話し相手になってくれたし」
「カイア?」
「あれ、ソーは知らない?」
ナルは周囲を見渡すと、少し離れたところに立っている少年に駆け寄って、その手を引っ張ってきた。ルゥやフィーと同じくらいの歳の子だ。
「この子、カイアくん。あたしの弟だよ」
ナルが少年に頬をくっつけると、少年は心底嫌そうにナルから顔を離した。
「同じ黒髪だからって変なこと言わないでください。僕たち、今日初めて会ったじゃないですか」
カイアは湖水のような目を眇めてナルから離れると、ソーに向かって丁寧に腰を折る挨拶をした。
「ソーさん、初めまして。カイア・バス=エンテです。ルゥくんたちが誘ってくれたので一緒に来てしまいました。僕は一月前にザンダストラ聖皇国から来て、今は養児院でお世話になっています。ソーさんのお話はルゥくんたちからよく聞いています」
「へえ、ザンダストラから」
目を輝かせたネスがソーとカイアの間に割り込んだ。
「おう、それだそれ。ザンダストラのこと、もっと聞かせてくれよ。実際のザンダストラってどんな感じだ? どでかい岩山の上にあって、雲海の中に浮かぶように見えるってんだろ。聖典にある女神の園になぞらえて『アプテル』とも呼ばれている神秘の土地。中央の聖皇宮殿はまさに女神の宮殿そのものの壮麗さ! くうっ、ちっちぇえこのカナンとは規模が違うぜ」
「話の腰を折るんじゃないよ」
興奮気味に口を挟むネスの後頭部をナルがどつく。
「いってえな、何すんだよ」
「今はソーとカイアが話してるんだ。そのくらい察しろって」
「だからって叩くことねえだろ」
ネスとナルの喧嘩はいつものことだ。カイアと目を見合わせて苦笑していると、弟たちがそこに割り込んだ。
「兄さん、カイアはすごいんだよ。外国の珍しい図鑑をたくさん持っているんだ」
「そうそう。こいつ、色々と物知りで面白いんだぜ」
「カイアくん優しいよ」
弟妹たちはカイアを尊敬の眼差しで見上げている。確かに、賢そうな少年だ。痩せぎすだが、育ちの良さそうな顔を艶やかな黒髪が縁取り、その下の水色の瞳には理知的な光が滲み出ている。
「ルゥたちの兄、ソー・ル=イスタだ。騒がしい弟たちだが、きみみたいなしっかり者と一緒だと安心できる。これからもよろしくな」
ソーは胸に軽く拳を当ててから、その手をカイアに向かって差し出した。
「喜んで」
カイアが笑顔を浮かべて同じ仕草をする。二人は互いの手を結び合った。互いの光糸が良く結ばれますように、という気持ちを込めて行うレイェス教式の挨拶だ。手を離すと、カイアは遠慮がちにソーを見上げた。
「実は僕、生まれつき病気がちで、今回は療養のためカナンに来たんです。ところで、ザンダストラで小耳に挟んだんですが、聖地カナンにいる蒼髪の片翼様の加護をいただくと、怪我や具合がたちまち良くなるのだとか。その蒼い髪って、もしかしてソーさんのことではないですか? ひょっとして、僕の病気も治せたりするのでしょうか」
「へっへーん。そうだよ、キィの転んだ時のケガだって、ソー兄が『飛んでけ』するとすぐ」
すかさず胸を張ったキィの口を、反射的にルゥとフィーの手が押さえる。
カイアは目をぱちくりさせた。
「もしかして内緒の話でしたか」
ソーの力はごく一部の人にしか明かされていない。教会の指示でもあるが、知られたら最後、我も我もと怪我人病人が押し寄せてくるのは経験上、わかっている。だが完全に隠すというのは難しく、どうやら外国まで知れ渡っているらしい。
「いや、驚いただけだ。キィが妙な見栄を張ってすまない。そんな噂があるなんてな」
ソーが曖昧に答えると、カイアはさりげなく話題を逸らしてくれた。
「ところで、ソーさんも施療院に通っているそうですね。あそこのことでちょっと聞きたいことがあるんですけど、いいですか」
ソーが頷くと、カイアは周囲を気にするように見回した。病気に関することなら周囲には聞かれたくないかもしれない。
ソーは身を屈めた。カイアはその耳に顔を寄せ、小声で囁いた。
「施療院の地下で特別に保護されているあの人を、ソーさんも知っていますよね。歳が近いからって、僕、その人の話し相手になるよう院長先生から頼まれているんです。でも、あまりそういうのは得意じゃなくて。あの人の好きなことや興味のありそうなことを知っていたら教えてもらえませんか。今晩もこの後、会いに行く予定なんです」
ソーはぎくりと身を強張らせた。
「特別に保護している人?」
「あれ、知らないですか。ソーさんも地下で治療を受けているって聞いてましたけど。僕より少し年上で、亜麻色の髪と目をした、すごくきれいな子です。見たことないでしょうか」
間違いない、月毛だ。月毛に話し相手だって?
十日前に会った時、月毛は何か言っていただろうか。いや、他愛のない冗談や、互いの身長の比べ合いなどばかりで、新しい話し相手の話など出なかったはずだ。
何も持ち込めず、会話どころか筆談さえもできなかったが、九年もの時間をかけて様々な合図を生み出してきた。最近では身振り手振りだけで、けっこう意思疎通できるようになっていた。読み間違えることはないはずだ。
なぜか腹が立っている自分に気が付き、ソーはふうっと息を吐き出した。月毛が何を話そうと彼女の自由だ。自分が腹を立てる筋合いはない。
「悪いけど、知らないな。俺は個室で治療を受けているんだ」
「そうだったんですか。てっきり僕、地下はあの一室だけだと思っていました。すみません、今話したことは忘れてください。本当は彼女のことは秘密だって言われているんです」
「わかった」
落ち着いてそう返したものの、内心では何か感づかれていやしないかと冷や冷やしていた。
月毛のことを話したのはツェルが初めてだ。誰かと会っていることが知られたら殺される、と月毛はいつも怯えていたから。
月毛と会うのは、いつも夜半過ぎから明け方までの数時間、ソーが治療室で眠りから覚めた後だ。治療師たちの様子から察するに、本来は朝までぐっすり眠る薬を投与されているため、一人にしておいても問題ないと思われているらしい。早めに薬が切れるのは体質のせいだろう。
カイアも夜間に会いに行くと言うのなら、今後は鉢合わせないよう気を付けなくてはならない。
「カイアー、まだかあ。おれ、腹減ったよ。早くメシ取りに行こうぜ」
じっとしているのが苦手なフィーが辛抱を切らした。ルゥが比較的空いているテーブルを指し示す。二人はカイアを引っ張って、食事の並べられた円卓に向かって走っていった。
「男の子たちは元気だねえ。さて、あたしもご飯食べようかな。それにしても、ソー。今日のその格好やばいね。片翼様、片翼様って、さっきから学校の子たちが大騒ぎしてる」
と、ナルが指さす方をちらりと見れば、見覚えのある女子の一団がそれに気付いて、大きく手を振ってきた。学校でも、わりと好意的に接してくれる人たちだ。
ソーが小さく手を振り返すと、そこから甲高い歓声が上がった。
「ネスくーん! 今日も格好良くてありがとうっ」
赤毛のネスが負けじと裏声を使って叫ぶ。ナルは呆れている。
「自分でやるとかさ。空しすぎ」
「そんなら俺にも黄色い悲鳴くれよ、ナルちゃん」
「ソーくーん!」
ナルがわざとらしくソーに向かって両腕を広げる。すかさずキィが間に割って入った。
「だめっ、ソー兄はキィのお兄ちゃんだよっ」
ナルは吹き出した。
「ごめんごめん、キィちゃん。ただの冗談だよ。ソーお兄ちゃんは、ツェルお姉ちゃんの婚約者だもんね」
キィがそれもまた不服だと言いたげに頬を膨らませる。ナルがそのふっくらした頬を突くと、キィはぷいと背を向けて行ってしまった。向かった先は食事に夢中になっている兄二人とカイアの元だ。
「キィちゃーん、ごめんってば」
慌てて追いかけるナルの後ろに、すかさず養児院の先生がつく。ソーの心はわずかにざわついた。
引率してくれているだけだ。が、やはり弟妹たちを見張られているように感じる。
憮然としているソーの肩にネスが腕を回した。
「何辛気くさい顔してんだよ。可哀想な俺へのフォローもねぇの。まさかその視線に、俺への哀れみも入ってたりする?」
「まさか。俺はネスを心底尊敬するよ」
「何だそれ。それより、おまえさっきから踊りっぱなしで全然食ってなかったろ。なんか取ってくるから、その辺で休んでろ」
「今日はどうしたんだ。恩の大安売りだな」
「十倍返しでよろしくっ」
身軽に食事の並べられた円卓へと向かうネスを見送ると、ソーはその場で待つか、ベンチに座るかで悩んだが、座って待つことにした。
一日、潜入のことを考えながら来客対応をこなしていたからか、思ったより気疲れしている。
ベンチに凭れて目を瞑る。
カイアが今晩、月毛に会いに行く。下手したら鉢合わせる可能性がある。
潜入を見送るべきだろうか。いや、誰にもばれずに抜け出す労力や、施療院の警備を考えれば、今日を逃すとしばらく潜入は難しくなる。潜入経路が特定できているのならまだしも、行ってみないとわからないことだらけだ。
むしろ、カイアをうまく使えないだろうか。
近いうちに会いに行く、と伝えた時の月毛の嬉しそうな表情が思い出される。これまで見てきた中で一番の、輝くような笑顔だった。結局行けないとなれば、どれだけ落胆することか。
もう何年も前になるが、いつか必ずそこから出してやると約束した。だが逃げだせば一生、教会に追われる可能性がある。その危険を冒してでも逃げる気は彼女にあるだろうか。結婚してザンダストラ行きとなれば、彼女を助け出す機会は失われてしまう。連れ出すとしたらその前しかない。決行前に直接話して、彼女の意志を確認しておきたい。
だが、そこにツェルを巻き込んで良かったのかは、わからない。
巻き込みたくない、と思っていたのも確かだし、一方で、真面目で優しいツェルを教会の操り人形のままにしておきたくない、と思ったのも確かだ。
だけどやっぱり、何も知らずに今まで通り過ごす方が、ツェルにとっては幸せなのかもしれない……。
「おおい、ソー。ほんと、調子でも悪いんじゃないか」
突然ひょいと顔を覗き込まれて、ソーははっとした。右手に葡萄ジュースの入ったゴブレットを二つ、左手にタルトや肉をこれでもかと盛り付けた大皿を持ったネスがソーを不思議そうに見下ろしていた。
「さすがに疲れたか? あっ、そういえば向こうにイア・ロ=マーダ先輩が来てるぜ。挨拶まだならしてこいよ。すっげえ知らせがあるんだ。話聞いたら、びっくりするぜ」
「ダンスの前に会った。ブラムドワの貴族に嫁がれるそうだな」
「そう、まさかあのイア先輩が嫁入りとかな! 一体どんな豪傑御仁が相手なんだ。いやいや、やっぱねぇな、あの先輩に勝つ男なんて。尻に敷かれっぱなしどころか、飼い犬みてえに躾けられちまうに決まってら」
「確かに」
ソーはネスと笑い合い、さっきイアから聞いた話を伝えた。
「出国直前になるが、次の速翔本大会は先輩も観に来るらしいぞ。あの人が翔ける姿をもう見られなくなるのは残念だな」
イア・ロ=マーダはソーたちより三つ年上だ。腕力は屈強な男たちには負けるものの、敏捷力、技術力において右に出る者はなかった。また群れるのを嫌うものの周囲からは慕われていて、味方も多い。女性としては初めて速翔で優勝した人だ。
速翔の授業は熟練者と未習熟者が組む、徒弟制度が適用される。ソーの師として付いたのがイアだった。
おそらく教会の上層部が手を回したのだろう。国際的人気のある速翔で目立てば、国境を越えて脚光を浴びる。学校の片隅でぱっとしない学生生活を送っているソーをどうにかしたかったに違いない。
そう考えると面白くなかったが、イア本人のことは尊敬していた。選手として一流なだけでなく、真面目で練習には厳しいが、茶目っ気のある人柄も好きだった。ちっとも本気を出さないソーを練習のたびに追いかけ回しては、本気で殴りつけられたのも今では良い思い出だ。
「おまえ、世話んなったもんな。送別の品くらい贈るんだろ」
「だな」
ネスは料理をソーが座るベンチに下ろし、ゴブレットを一つ手渡してからソーの顔を覗き込んだ。
「ほんと、気分上がらねえなあ。あのツェル様と結婚が決まったんだろ。国中の男子が地団駄踏んで悔しがってるんだぜ。もっと嬉しそうな顔しろよ。そんな浮かない顔してたら、幸運が全部逃げちまうぞ」
「そう思うか」
「えっ、思わないのかよ」
「周囲が勝手に決めた結婚だぞ」
「そらそうだが、相手がツェル様なら文句ないっしょ。それとも、なあに。ソーちゃんたら、別に好きな子でもいるわけ? もてるしなあ、おまえ。彼女の一人や二人、いたとしても別におかしかないけど」
にやにやしていたネスは、期待していた突っ込みが返ってこないことに戸惑い、落ち着きなくソーの表情を確認してから、所在なく頭を掻いた。
「え…………まじか」
ソーは固まってしまったネスを笑って肘で押した。
「別にそんなんじゃない」
ネスは疑わしげにソーをじろじろと見回して、それから大皿を持ち上げてソーの隣に座り、大きな骨付き肉に齧りつきながら言った。
「まあ、あれよ。俺も半双ってんでナルとの結婚が決められちまったクチだから、ちょっとは気持ちわかるよ。おまけにおまえの場合はお相手が千年に一度の御子さんだもんな。色々考えなきゃいけないこともきっとあるよなあ。結婚後、家はどうすんだ? あ、大聖堂か。それとも雲の上のザンダストラ宮殿か? 仕事は、教会に生涯就職が決まったようなもんだよな。家族はどうなる? ルゥくんたちも呼んで一緒に住めばいいじゃねえか。奥さんに難ありか? いや、顔良し、スタイル良し、性格良し、と三拍子揃ってるときた。どこが問題なんだ、ソー。俺と替われや!」
唾液と共に飛んでくる肉の破片を避けながら、ソーはまた苦笑してしみじみ言った。
「替わる、か。確かにネスなら意外と信仰心も厚いし、教会やツェルともうまくやれそうだ。半双を交換できればいいのにな。光糸は視えているのに、切ることも繋ぎ変えることもできないのはもどかしいな」
それができるのはこの世に唯一人、ツェルだけだ。だが、自身の光糸は視ることも触れることもできない。ツェルとソーとを繋ぐ糸はツェルにだってどうしようもない。
「かーっ、おまえって奴は。何をどうしたらツェル様とナルの奴を交換したいなんて考えになるんだよ。縦糸の一本でも抜けちまってるんじゃないか」
「ちょっと、あんたたち何言ってんのさ」
ナルの甲高い叫びが響いた。
ネスはしまった、という顔をして首を引っ込めたが、予想に反してナルは、ごちそうの並べられた円卓の傍に立ったまま、こちらではない別の方を向いている。
人々の歓談でざわめいていた庭園がしんと静まりかえった。
ナルは険しい顔をして、両手に持っていたゴブレットと銀の皿とをテーブルの上に叩き付けるように置いた。肩を怒らせたナルが向かった先は、すぐ傍で笑い合っていた学校の男子学生三人組のところだ。三人は同時に立ち上がり、ナルに向き直った。
「何だよ。文句あんのか」
「あるに決まってんでしょ。大聖堂の敷地内で、よくもそんなことが言えたもんだね。あんたたちは今、女神様の遣わされた片翼を罵倒したんだよ。わかってんの?」
「本物だったら、な。そんなに言うなら、あいつが本物だって証拠を見せてみろよ。いいか、御子に半双はいねえってのが長年の通説だったんだぜ。それが、海底から都合良く石版が出てきて? 都合良く、貧民街出身の乞食が『俺が片翼だ!』って登場して? あっという間に領主様の息子に収まって? あまりに都合良すぎるじゃねえか。今日の演奏会を見たか。きたねぇ格好をした奴らがわんさかソーに会いにきていたんだぜ。しかも、ずいぶん長いこと親しげに話し込んでた。婚約者のツェル様を放ったらかしてな」
「へーえ。それじゃあんたは、婚約者ができたら、それ以外の人たちとは話もしない気なんだ。そりゃあ立派だね」
「時と場所をわきまえろって言ってんだよ。おまけにお相手は普通の女じゃない、御子様なんだぜ。それを賤民ばかり相手にして……」
「あのさあ。演奏会って、広場で開かれていたあれのことでしょ。入場制限があるわけでなし、誰が来たっていいでしょうが。『上も下もなく平らかな世界を女神の御許に築きましょう』と聖皇猊下も仰ってるんだ」
「はっ、わかってねぇな。そういうことを言ってんじゃねえよ。いいか、世の中じゃこう言っているんだぜ。片翼なんて話ができすぎだ、貧民街の野郎どもが深海文書を利用して、見た目のたまたま合致した鼠を使って、この街を乗っ取ろうとしてんだってよ。あいつがこのままツェル様と結婚したらどうなると思う。権力を手にしたが最後、いよいよ俺たち上層市民を排除しにかかるぜ。ナル、おまえも大店の娘ならわかんだろ。あいつが現れてから、俺たちの家がどんな目に遭ってきたのか」
「くだらない妄想、屁理屈だね。同じ商家の者として恥ずかしいよ」
「やれやれ、おまえもあいつの見てくれに騙されたクチか。ネスがかわいそうだぜ。なあ、冷静に考えろや。至高なる女神の魂が、賤民に生まれてくるなんてあり得ると思うか? 大工の下働きや、どぶさらいなんてすると思うのかよ」
どぶを攫う格好をしてみせる一人に、残りの二人が爆笑する。
「ねえわ。あんな奴がツェル様の半双なわけねえだろ。っつうか、あいつが本物の片翼様を始末して、その座を奪い取ったんだって俺は聞いたぜ」
「あー、聞いた、聞いた。あとあれだろ、あいつの近くに寄ると、怪我も病気もあっという間に治っちまうんだろ。いやー、噂ってすげえ。とんでもない嘘までまかりとおっちまうんだもんな」
「そうまでして目立ちたいかね。そんな力があるんなら、あいつ自身の病気とやらも自分で治しゃいいのによ」
「ああ、そりゃ無理だわ。だって、僕ちゃんお勉強も速翔もできないんだもん。授業をサボる言い訳がなくなっちゃう!」
三人の大笑いが響くと、そこかしこまで、くすくす、にやにやと笑いが広がる。一般市民もいるが、商人たちや、同じ学校の学生たちが大半だ。ダンが意を得たりと笑い、ギルド員たちに何やらひそひそ話をしている。ソーに手を振っていた好意的な女学生たちは、その後ろでおろおろしている。
「ソーの具合が悪いのは瞳の力が強すぎて身体に負担が掛かってるからだよ!」
分の悪くなったナルはテーブルに両手を叩き付け、勢いよくこちらを振り返った。
「ねえ、ネス! そうだよね!」
視線を受けたネスはうろたえ、うへえ、と情けない声を上げた。庭園中の視線が今度はネスに向いている。ネスはおろおろとソーを見た。
「ど、どうしろってんだよ。ナルの奴、すぐ頭に血が上るんだからよお」
それを見た三人組は声を上げて笑った。
「ネスは見てねえってよ。だがそこまで言うなら、実際見せてくれたっていいんだぜ? この間の速翔の練習で痣ができてんだよ。ほら、これだこれ。今すぐパパッと一瞬で治してみせてくれよ。なあ、片、翼、様」
聞き慣れたやっかみだ。ソーは淡々と相手を見返した。治癒力は心を寄せる相手にしか効果がない。そもそも、こんな大勢の前で見世物にする気もない。
「おいソー、何とか言えよ」
ただ目立たないように過ごしていたいだけなのに、どうしていつもこう、色んな奴が噛みついてくるのか。気に食わないのなら放って置いてくれれば良いものを。
弟たちを回収してさっさと場所を移ろう。まともに相手にするだけ無駄だ。
そう結論を出したソーは、目の前に割って入った白い影に驚いた。とっくに引き上げたはずのツェルだった。足元は部屋履きのままだ。騒ぎを聞いて自室から飛び出してきたのか。
ツェルは両手を広げ、ソーを庇うように立ちはだかった。
「今の言葉、聞き捨てなりません。今すぐ取り消して、私の婚約者に謝ってください。私たちの結婚は深海文書に則したもの。すなわち教会の総意で決まったのです。あなた方にどうこう言われる筋合いはありません。訂正なくば聖レイェス教会、いいえ、我が母への冒涜と受け取りますよ」
三人の学生たちは言葉に詰まり、気まずそうに互いに目を見合わせた。まさかツェルに聞かれているとは思いもしなかったらしい。だが、そのうちの一人が意を決したように声を上げた。
「冒涜だなんて、とんでもございません。ツェル様、我が家は毎年教会に多額の寄付をし、礼拝にも欠かさず参席しています。女神様と教会を篤く信奉しているからこそ、そこの下賤な者が赦しがたいのです! あいつは尊きツェル様のお相手として相応しくありません。私や家族だけでなく、学校の多くの者たち、それに街中でも皆が同じように言っているのですよ。あいつが壊した『壁』のせいで、一般市街がどんな目にあったかご存じでしょう。貧民街から溢れ出してきた盗人どものせいで、私たち商家は大きな損害を被り、次々廃業に追い込まれていったんです」
「なるほど、御神託くだりし女神の片翼は、あなた方の基準を満たさないと言うのですね」
「ツェル!」
ソーは思わず口を挟んだ。ツェルの声は怒りに震えている。周囲の者たちがツェルの怒りに怯えているのがわかる。
女神の両翼の言葉は対外的には教会の総意と見なされる。ソーもツェルも、外では当たり障りの無い応対をするように教育されてきた。ソーはともかく、ツェルがその教えを踏み外したことはない。それなのに、ここで怒りに任せて動けば、後で辛い思いをするのはツェル自身だ。
ツェルはちらとソーを見ると、自らを宥めるように一度大きく深呼吸した。
「『壁』の撤去については、最初から当代領主の計画にあったものです。私には、ソーが……長いこと失われていた私の半身があの区画で見つかったことにこそ、大きな意味があるように思えてなりません。炊き出しでは、あの区画に暮らす貧しい人々が飢える日を一日先延ばしにすることしかできません。しかしソーは、彼らが灌漑や防波堤の造成事業に関われるよう行政との間に立ち、自らも率先して仕事をしてみせることで、彼らに手本を示しました。その姿が無気力だったあの区画の人々に働く意欲を取り戻させたのです。壁を壊して以来、あの区画は、少しずつですが収縮を見せています。そうした街の変化に伴い、一般市街にも経済的影響が出たことは承知しています。農地が増えたおかげで、以前より安価に農作物が手に入るようになり、輸入卸の大店は以前ほど高額な手数料を取れなくなったそうですね。しかし、一部の事業者の利益を優先するあまり、カナンの半分を占めているあの区画の人々を犠牲にすべきではないと、領主も教会も考えています。もちろん、篤き信仰を抱くあなたにおかれましても、それについては反対のお気持ちはないことでしょう。母はすべての人に平等に手を差し伸べよと仰いますから」
「へっ、あの、いえ、それはもちろん……」
「そういえば、あなたの最初のご心配は盗難のことでしたね。やはり初めの頃はそういった心配の声が聞かれましたので、聖堂騎士の巡回を増やし、相談の窓口を設けました。被害の報告が上がれば対応に当たったはずですが、そちらに何か不手際があったのでしょうか」
声音が落ち着いている分、余計に迫力がある。三人組はすっかりツェルの雰囲気に飲まれてしまっている。
「いえ、そんな。しかしその」
「へえ、なんか面白いことになってんな。メシだけ食いに来たんだが、来てみて正解だったぜ」
太く張りのある声が割って入った。
「ワジさん!」
ツェルと相対していた三人組の顔が明るくなる。入り口から悠然と歩み寄ってくるのは、袖を捲り上げた普段着姿に、日焼けした逞しい腕を晒した大柄な青年四人だ。
特に先頭の男は堂々としている。現元老院で七人しかいない上院議員の孫、ワジ・マ=ウォルト。後ろの連中は彼の腰巾着。四人とも授業は好きにサボり、多くの取り巻きを連れ、対抗勢力と喧嘩沙汰が絶えないという学校の頭痛の種だ。
しかし一方で、ワジは優れた速翔選手でもあり、昨年、一昨年の大会では他の追随を許さない圧倒的力量差を見せつけ優勝した。二年連続優勝の栄冠は速翔始まって以来の快挙だ。その名声は各国に轟き、今やカナンの英雄と讃えられている。そんなワジに面と向かって歯向かうものはこのカナンには一人もいない。つまりやりたい放題だ。
ワジは助けを求めてすり寄ってきた学生三人組を無視して、まっすぐツェルの前に向かった。
ツェルはいかにも不愉快そうに眉根を寄せているが、背筋を伸ばし、その場から動かなかった。ワジはにやにや笑いながらツェルに顔を近づけた。
「今日も最高に可愛いな、ツェル。どうだい、今からでも遅くない。俺のところに来いよ。面倒な婚約話とやらは、俺がどうとでもしてやれるぜ? ソーなんかより、俺の方が何百倍もいい男だってところ見せてやる」
「いいえ、大丈夫です。お気遣いなく」
「ツェル! 可哀想に」
ワジはツェルの肩を強引に抱き寄せると、大声を張り上げた。
「どうやらお互いお困りのようじゃないか! どっちも主張を展開し、互いに譲る気はない。このままじゃ平行線だぜ。そこにいるソーは、御子ツェルの半双『らしい』。だが証拠はなく、誰もがその信憑性ってやつを疑っているわけだ。いやいや、ここにいる奴らだってきっと、教会の言うことを信じたいって思ってんだぜ? でもよお、こいつとくりゃ虚弱体質で通院生活、ぱっとしない成績にスラム出身の噂。これで女神様の片翼だって言われてもなあ。御子様と並ぶにゃ不釣り合いだって言われんのも無理ないぜ。しかし、心優しい我らが御子殿は文句一つ言うでもなく、けなげにもこの流れを受け止めようとしている。なんて泣ける話なんだ。可哀想なツェルのためにも、証拠がねえならせめて納得いく証しを立ててもらいたい。俺だけでなく、きっとここにいる誰もがそう思っていることだろう」
「は、離して」
押し離そうとするツェルを、ワジはがっちり掴んで離さない。
「ソー!」
ツェルの助けを求める声が届くより一瞬早く、ソーは駆けだしていた。
瞳を開き、服の内側から普及光錘を引き抜く。大きく振りかぶった光錘は狙い通りワジの脚に巻き付いた。そのまま大きく腕を後方に振り抜けば、ワジの巨体が宙を舞った。
人垣の中から悲鳴が上がる。
ソーはすかさずツェルを引き寄せると背に庇った。ワジは見事な体捌きで受け身を取って、すぐ跳ね起きた。その手には既に光錘が握られている。ワジは息つく間もなく光錘を伸ばす。ソーは素早くツェルを抱え上げ、後方に跳んだ。下ろされたツェルは何が起こったのか理解が追いつかないのか、目をぱちぱちさせている。
空振りしたワジは忌ま忌ましげに舌打ちした。
「前々から思っていたが、ソー。てめえ試合の時、手を抜いてやがるな」
ワジの目は光錘を握るソーの右手に向いている。ソーは光錘をローブの内側にしまった。
「ツェル、大丈夫か」
ツェルはこくこく頷き返した。
人の輪の一角で、ルゥたち弟妹が拳を握って「もっとやれ」とばかりに声援を飛ばしている。ワジに気付かれては一大事と、ネスが子供たちを引っ掴み、庭園の奥へ引き摺っていく。
火の粉があちこち飛ばないうちに引き上げた方が良さそうだ。ソーはツェルの手を軽く引いた。
「行こう」
ツェルも同じ気持ちなのか、素直に後をついてきた。並んだ二人の後ろにワジの怒鳴り声がぶつけられた。
「おい、ケリもつけねぇで逃げるのか、ソー! 高貴なる女神の魂が、ペテン師や臆病者だなんて、誰も認めねえ! 誰もおまえがツェルの相手だなんて納得しちゃいねえ! 認めてほしけりゃ、次の速翔で身の証しを立ててみろ! 予選を勝ち抜き、この俺と真剣勝負しろ! おまえが勝ったら、何でもおまえの言うことを聞いてやる。おまえに文句言う奴をねじ伏せろと言うなら、そうしてやるよ。だが、俺が勝ったら、ツェルは俺がもらうぜ!」
重ねた手の中でツェルの指がぴくんと動いた。そのまま行こうかとも考えたが、ワジはしつこく追いかけてきそうだ。ソーは諦めて振り返った。
「ツェルはモノじゃない。そんなの俺が決めることじゃない」
「良いでしょう」
が、予想しない声が隣から上がった。ツェルは虹色の瞳に大きな篝火の色を宿して、ワジや、後ろの取り巻きやソーを罵倒した三人組を睨んでいる。
「その勝負、乗りましょう」
「お、おい、ツェル」
一体何を言い出すんだと慌てるソーを手で制して、ツェルは高らかに宣言した。
「勝負は公平に行いましょう。ワジ・マ=ウォルト、あなたが勝ったら私はあなたの言うとおりにするわ。ソーが予選に落ちた場合も同様よ。でも、もしソーが勝ったらあなたは彼の願いを真摯に叶えるよう努めてください。約束していただけますか」
「望むところだ」
一も二もなくワジは応じる。ツェルは頷いた。
「それでは、この場にいる皆さんが今宵の宣誓の証人です。よろしいですね」
庭園で歓談を楽しんでいたはずの客は、いつの間にか何倍にも増え、庭園の隅まで埋め尽くしている。騒ぎを聞いた近隣の人々が駆けつけてきたらしい。
彼らが一斉に歓声を上げ、ツェルの名と、ソーとワジの武運を祈る声を上げた。
こうなればもう後戻りはできない。
ソーは急に痛み出した額を抑え、深々と溜め息をついた。