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ツェルト・リァン-二つ世と未来の女神-  作者: Ari
§04 聖誕祭 Side-S
13/50

【1】

 ソーの中で一番古い記憶は、実の父が連れ去られた日の記憶だ。まだ二歳か、三歳くらいのことだったと思う。

 森の木々は陽の光を浴びて黄金色に染まっていた。落ち葉がひらひらと舞い散り、虫の声と小鳥トフィルのさえずりが静かな木立の中に響いていた。

 幼いソーは母の腕に抱かれ、大樹の洞に潜んでいた。洞の中には乾いた落ち葉がぎっしり詰め込まれ、息苦しいくらいだった。母は乱れる息を押し殺して、何度もソーに言い聞かせた。

「しぃーよ、ソー。ママとここでかくれんぼしていようね。見つかったら、ソーの負けだからね」

「パパは?」

「パパは……大きいから、隠れるのが大変なの。もう、鬼に捕まっちゃったかも。さあ、もう声を出さないで。もしパパが見えても、ママがいいって言うまで、絶対に声を出しちゃだめよ」

 きつくソーを抱きしめる両腕は震え、耳をくっつけた母の胸からは常よりもかなり速い鼓動が聞こえてくる。

 いつもと違う様子に不安を覚え、幼いソーは母にしがみついていた。

 遠くで、誰かの話し声が聞こえた気がして、ソーは母の腕の中でほんの少し首を動かし、洞の外を見た。

 落ち葉の狭い隙間から、遠い父の後ろ姿が見えた。大樹のように大きくて力強い父の背中が、まるで自分と変わらない子供のように小さく見えた。

 父は両腕を見知らぬ二人の男に掴まれていた。

 男たちは群青色の制服の上から、分厚いマントを羽織っていた。そのマントの中央に、大きな銀色の紋様が見える。

 父の姿はどんどん遠くなってゆき、やがて見えなくなった。

 それきり父は二度と戻ってこなかった。

 それからの記憶は曖昧だが、周囲から聞いた話と合わせると、どうやらそれから一年足らずで母も亡くなったらしい。

 その後、ソーを引き取り面倒を見てくれたのは、貧民街スラム生まれの大工の男だ。六歳になる頃から、ソーは彼の仕事を少しずつ手伝うようになった。

 仕事を始めて少しした頃、補修中の灯台の窓から偶然、船から降りてくる聖堂騎士の一団を見かけた。「教会には絶対に関わるな」そうきつく言い聞かされて育ったソーは、咄嗟に身を隠し、窓から彼らを覗き見た。彼らの出で立ちは、すっかり忘れていたはずの、父がいなくなった日の記憶を揺り起こした。

 聖堂騎士のマントに刻まれた「女神の杖」――それは、父を連れ去った男たちの背に刻まれていたものと同じだったのだ。


   *


 いよいよ訪れた聖誕祭当日。

 朝からみっちり組まれていた数々の式典も、いよいよこの最後のダンスパーティーで締めくくられる。

 ソーは夕陽に照らされた大聖堂の庭園に立ち、ごった返す人々を眺めていた。

 素朴な笛の音が陽気に響きわたり、竪琴が軽やかなリズムを刻む。仕事を終えた人も集まり始め、人はどんどん増えてくる。まるで陽が落ちてからが本番といわんばかりだ。

 ダンスの参加者は、この日のために準備してきた白の貫頭衣を身にまとう。単純な形の服なので、その分めいめいが張り切って刺繍を刺す。

 衣装は代々親から子へと受け継がれることが多いが、領主家の義姉あねたちは二月も前から、鬼気迫る勢いでソーの新しい衣装を縫っていた。

「ツェル様がご成人だなんて……!」

「手は抜けないわ。刺繍は四人で手分けしましょう。私とイザでソーの分を担当するわ。エミィとニネには私たちの衣装を任せます。ニネはエミィの言うことをよく聞いて、二人でうまく分担すること。テュナ、あなたは花冠と、腰にまく蔓飾りを用意なさい。ソーのものは特に念入りにね。ツェル様のご衣装をそれとなく聞き出して、色を合わせるのよ。ダンスの特訓もあなたに一任するわ」

「お任せください」

「エミィ姉様、うまくやりましょ」

「腕が鳴るわ。まずは図案を考えないと!」

「みっちりしごいてあげるわ、覚悟なさい、ソー」

「あなたたち、私の衣装は最後でいいわ。母のものを着ても構わないのだから。その分ソーのものに手をかけるのよ」

「わかりましたわ、お母様」

 その時、ソーは思わず口を挟んだ。

「いや、俺は父さんのお下がりで充分……」

「あなたは黙ってなさい!」

「これだからチャンバラしか能の無い人間は困るのよ」

「隣に立たれるツェル様のご尊厳を地に落とす気?」

「私たちの御子様を何だと思って?」

「おまえは黙って私たちの言うことを聞いていればいいのです!」

 そうして本国の刺繍職人も真っ青な、それはそれは見事な衣装ができあがった。裾に初代御子の伝承をモチーフにした図案が、首元には銀色の片翼と、女神の杖があしらわれている。

 毎年衣装を新調するツェルも、感嘆の声を上げて五人の姉の腕前を褒め称えていた。

 そういうツェルの出で立ちこそ、素朴ながら意趣をこらされ、ひときわ輝いて見える。長い金髪は職務の間は自然に背に流すものと決められているが、今は背の後ろで緩やかに編まれ、ソーと揃いの青と白の花冠に彩られている。衣装もまた、本職の人々の本気が窺える芸術作品に仕上がっている。裾は上から下に向かって薄い色から濃い色へとグラデーションをつけた青い糸が海を描き、金の糸が美しい星々を描いている。首元の杖はソーと揃いの意匠だ。

 だが、よく見ると胸元に一カ所、不思議な模様があった。うっかり落として潰れた赤茄子マーテスのような、ぎざぎざした金色の模様である。

 ツェルにそれは何かと訊いてみたら、さっと手でその部分を覆い、絶望的な表情で「見ないで」と告げられた。

 今もツェルはその部分をさりげなく隠したまま、にこやかに挨拶の応対をしている。

「お誕生日おめでとうございます、御子様。片翼様」

「ありがとう。あなたに善き糸が紡がれんことを」

「ありがとうございます」

 挨拶に訪れる者の大半はツェルのことしか見ていない。外国から訪れたカナンと縁遠い客ほど、かえってソーにも無難に接してくれる。

 絆の挨拶を形ばかり返しながら、ソーは所在なく庭園に視線を戻す。

 咲き乱れる花々の爽やかな匂いに、酒と、香ばしく焼けた肉と脂の匂いが混ざる。そこへダンスで火照った人々の熱気が合わさり、複雑な匂いをいっそう強く立ち昇らせている。

 ソーにはその喧噪や雑多な匂いが、どこか懐かしく感じられる。

 整然とせず、喧噪と、熱と、人々の無遠慮な感情が飛び交う場所。自由に感情が弾けて、皆が大声を出して笑い合うところ。ここにはしきたりも、礼節も、建前ばかりのきれい事もない。自由を奪う銀色の足かせが解けてゆくようだ。

 いや、そうでもないか。

 今度挨拶に訪れたのは、ソーたちと同じか、少し年上ほどの男だ。彼はソーが見えないタイプの男らしく、自分は漁業ギルド長を継いだばかりなのだと自己紹介した。

「御子様。お誕生日、誠におめでとうございます。いやあ、ますますお美しくなられましたね」

 赤褐色の髪、日焼けした太い腕。頬にはそばかす痕が目立つ。どこかで見覚えのある顔だ。

 漁業ギルド長がツェルの手を額に押し戴いた。ツェルの眉がぴくりと跳ねた。彼女はするりと手を引き抜き、胸元で握りしめた。

「『私たち二人』の誕生日をお祝いにきてくださって、どうもありがとう。ダン様」

「いやいやそんな、当然ですよ。私たちは幼馴染みじゃあないですか。この庭で一緒に駆け回って遊んだ日が、まるでつい昨日のことみたいです」

「え? ええ、一緒に。そうだったかしら」

 ツェルはにこりと微笑んだ。口元が少し歪んでいる。感情を隠すのがうまいツェルにしては珍しく、表情を取り繕うことに失敗している。

「幼馴染みのダン様はもちろんご存じかと思いますが、今日はソーの誕生日でもあるの。私たちは半双メトワですから」

「ああ、そりゃあ、もう」

 ギルド長はツェルにへらへらと愛想笑いを向け、いかにも仕方なさそうにソーを横目で睨んだ。

 世間話を少しと、今度開催される漁業ギルド発足二十周年パーティーへの招待をツェルに持ちかけてから、ダンはようやく二人の前を離れた。すかさず聖堂騎士が立ち入り規制のロープを二人の前に張った。ようやく小休止の時間だ。

 立ち去るダンの背に向かって、ツェルは小ぶりな鼻をふんと鳴らした。

「ソー、知っていたかしら。私、お魚が嫌いなの」

「魚?」

「覚えていない? あの人、子供の頃、目つきが気に食わないとか意味のわからないことを言って、一方的にソーに殴りかかったことがあるわ。返り討ちにあって、こてんぱんにやられていたけれど」

 なるほど、見覚えがあるわけだ。

「ああ、しょっちゅうツェルに絡んでいた、あいつか」

 ツェルに近寄るなとか、賤民のくせにツェルに馴れ馴れしいとか、事あるごとにいちゃもんをつけてくる奴だった。たぶんあの頃からツェルのことが好きだったのだろう。だったら嫌がらせなんかせず、優しく接すれば良かったものを。伸してやってからは、顔を合わせると慌てて逃げていくようになった。あんな奴には、さすがにツェルを任せておけない。

 短い休憩が終わると、曲調が変わった。

 再誕舞曲。

 赤子の御子を抱いた天の御使いが現れ、妖精や人々が喜んで迎え入れる情景を描いた曲だ。カナンの者なら誰もが知っている伝統的な曲。だが、今年は途中に少々、脚色が加えられている。

 何も知らない来客たちは曲に合わせて、例年通りに庭園の中心を空けていく。神官見習いの少年たちが御使いの役を担い、円を描いてステップを踏む。

 御使いたちは生まれたばかりの御子を取り囲み、人間界の中心へ、人々が作った円の中心へとツェルを導く――ここまではいつも通りだ。

 円の中央でツェルは舞う。しかし、そこに現れるはずの妖精役の少女たちが現れない。それどころか一人、また一人と、「御使い」たちが離れてゆく。ツェルは一人その場に残され、緊張気味に腕を振り、くるりと回る。

 いつもと違う展開と曲調に、集まった来客たちは戸惑っている。

 静かに動きを止めたツェルが辺りを大きく見回し、高らかに声を上げた。

半双メトワよ! 私と共に生まれ落ちた、もう一つの銀の翼よ! そなたは今、どこにいるのですか!」

 ソーは大きく息を吸ってそれに応えた。

「私はここだ! ここにいる!」

 ゆっくりと円の中心に向かって進み出る。痛いほど突き刺さる視線を意識の外に締めだそうと足掻きながら、ソーは伸ばされたツェルの手を掴んだ。ツェルがくるりと回る。腕の中に収まった身体を抱き上げ、ソーが回る。下ろしたツェルと手を取りあい、二人は踊り始めた。

 御使いの少年たちがダンスを再開し、妖精の少女たちがその環に加わる。

 来客たちの中に笑顔が戻り、例年の賑やかなダンスが始まった。

「直前まで渋っていたわりには上手だったわね、ソー」

 軽いステップを踏みながら、ツェルが満面の笑みでそう言う。

 ソーは顔をしかめた。

「成人の晴れの日にツェルに恥をかかせる気かと、父さんや母さんも、姉さんたちもうるさくて。俺に拒否権はなかった」

「主にテュナね?」

 ツェルがくすくす笑い、ソーは渋面のまま頷いた。

 不思議だった。

 ツェルの手を取っていると、やはりこの娘が自分の半双メトワに違いない、という確信めいたものが湧いてくる。

 ツェルの動きが読める。彼女がバランスを崩すタイミングが感覚でわかる。ずっと距離を置いてきたとは思えないほど、ツェルとはぴたりと息が合った。

 ソーの肩に手を添える時、ツェルは指先に当たった刺繍を撫でて呟いた。

蒼石ソーのモチーフ、とても素敵ね。あなたの髪色によく似てる。私の一番好きな色よ」

 少し迷って、ソーは技術的な方に話をずらした。

「首回りはイザが縫った。リラよりもこういうのは得意なんだ」

「いいわね……」

 と、ツェルがまた絶望的な表情を作る。

 曲が跳ねて、二人も跳ぶ。女神の両翼であることを示すツェルと左右対称の銀の肩帯が鳴った。

 蒼石ソー――女神の杖を飾る、世界創世の秘宝。

 亡き実親は一体何を考えて、この石の名を自分に与えたのだろう。

 神話や聖人になぞらえた名は、一般的には祝福の贈り物だ。けれども実母は教会を嫌っていたと聞いている。もしかして自分は望まれない子供だったのだろうか。

「ソーったら、難しい顔」

 握り合う手を右手から左手に移し替えながら、ツェルは困ったように眉尻を下げた。

「みんな楽しそうなのに、一人だけしかめ面していたら、周りから変に思われるわよ」

「そんなに目立つか」

 苦笑すると、ツェルはほんのり頬を赤らめた。

「あなたは人目を引くから」

 メロディーを奏でていた横笛が景気よく跳ねて曲の終わりを告げた。軽く跳ねたツェルが着地の際に足を縺れさせるのを、ソーは咄嗟に腕を伸ばして抱き留めた。

「大丈夫か」

 ツェルはこくこくと頷いたものの、俯いたまましばらく顔を上げなかった。ソーの手を借りて体勢を立て直したツェルは、顔を上げないままぼそぼそと言った。

「あっ、ありがとう。ソーは上手ね。こんなにダンスが楽しかったのは初めて」

「それもテュナ効果だな。ここ一月は光錘リューゲルを持つ時間よりもダンスの練習をしている時間の方が長かった」

「ものすごく想像できるわ」

 二人は顔を見合わせて笑い合った。

 久々にソーの心は晴れやかだった。ツェルが笑ってくれることが嬉しかった。

 ソーはこれまで、ツェルからの好意を異性としての恋愛感情として受け止めていた。恋愛感情ならば、変に期待させてはいけないと思っていた。御子と結婚して一生教会に縛られるなんてのはごめんだ、それだけは回避しようと、大分前から決意していた。でもそうではなかった。婚約関係を終わらせたいと告げた時、ツェルは迷わず協力を申し出てくれた。友人としての好意だったのなら、最初から冷淡にする必要などなかったのだ。勝手な勘違いでツェルにひどいことをしてしまった。変な思い上がりをしていたことが今は恥ずかしい。

「自意識過剰だったな」

 自嘲は気付けば声になっていた。

「どうしたの」

「いや」

「変なソー」

 あどけなく笑うツェルに、十二歳の少女の笑顔が重なる。

 ツェルからの好意をそんな風に受け止めたのには、もちろん理由がある。

 きっかけはソーとツェルが十二歳、レイェス大聖堂付属学校に入学してもうすぐ一年になろうというある日のできごとだ。


 その年の秋の初めにソーは同級生の女子から手紙をもらった。「あなたをずっと見ています。もっと仲良くなりたいです」そう書かれた手紙には、押し花が添えられていた。春にだけ咲く薄紅色の花。好意を寄せる相手にその花を贈るとうまくいく、といった言い伝えがあるのをソーは知っていた。ツェルがそうと教えてくれた。

 今にして思えば、ソーはまだ幼かったのだ。異性からの特別な好意を嬉しく思うよりも、こんなもの一体どうしたら良いのかという戸惑いが勝った。

 女子のことなら同じ女子に聞こう。

 ソーは、当時一番身近だった女子、ツェルに手紙の処遇を相談した。

「ソーはどうしたいの」

 ツェルは深刻な顔をして訊いてきた。あまり覚えていないが、「別に仲良くなるのは良いんだけど」とか、そんな言い方をした気がする。

 ソーの言葉を聞くなり、ツェルは泣き出した。ぽろぽろと泣きながらうずくまり、そのまま崩れるように倒れた。まったく予想していなかった事態にソーは慌て、ツェルを負ぶった。その身体は燃えるように熱かった。

 精神的に重圧のかかる御子の役割に、学校生活。二重生活で無理をしたのかもしれない。ちょうど試験が終わって間もない時だった。

 すぐさま駆けつけてきたツェルのシィカたちが彼女を引き取った。

「後は我々に任せてください」

 いつものソーなら彼らについていっただろうし、見舞いにも行っただろう。けれど、その時ソーはツェルに会いに行くことができなかった。

 負ぶった時、熱に浮かされたツェルがうわ言のように呟いた言葉が頭から離れなかったせいだ。

 ツェルのソーを取らないで。何でもするから。お仕事もがんばるから。だからお願い、ソーだけは取らないで……。

 どんな顔をしてツェルに向き合えばいいかわからなかった。幸い元気になったツェルは、あの時のことを覚えていないようだった。それに気付いたソーは妙にほっとしたのだった。


 個人としてのツェルのことは好ましく思うし、尊敬もしている。

 初めてツェルと出会った日の印象はソーの中に深く刻まれている。

 薄汚れた貧民街スラムの街に、突如として真っ白な裾をなびかせた身綺麗な女の子が舞い降りてきた。住民たちはぽかんと口を開けて、およそ場違いな天上の落とし物を見上げていた。ソーもその中の一人だった。輝くような金髪が風になびいて、まるで小さな女神そのものだった。

 その小さな女神が、ためらいもせず、この手の中の水を飲んだことを、ソーは決して忘れない。

 カナンはレイェス教の教えとは裏腹に、厳然たる階級社会だ。カナンの街は長い間続いた宗教戦争の影響で貧富の差が広がり、他国からの移民を中心とした貧民街スラムはあらゆる支援の手から断絶されている。それどころか、先代領主はまるで臭いものに蓋をするようにあの地区を分厚い壁で囲わせた。

 物乞いをしたわけでもないのに、一般市街に出れば露骨に嫌な顔をされ、罵倒され、時には石を投げられる。

「なんでツェルは、最初からおれのことが平気だったんだ?」

 ある時、思い切ってそう訊ねると、ツェルはきょとんとしていた。

「平気って、なんのこと?」

 ツェルは教理のために差別をしないのではなく、誰にでも公平に接することが当たり前だと考えているようだった。

 ツェルの不思議なところは、もうひとつある。

 神学の勉強に打ち込み、奉仕活動に熱を注ぐくせに、女神の奇跡についてはときどき懐疑的な言葉を口にするところだ。

 戸口に蜥蜴プロッシーを吊り下げ、聖堂に向かって必死に祈りを捧げる夫婦を見かけた時、ツェルは隣のソーに向かってこっそり耳打ちした。

「あのね、本当はあれ、効き目ないのよ。お父さまたちに言うと怒られるから、内緒だけどね。森の湧き水で傷口をよく洗えば熱は出ないから、ソーは試してみてね」

 実際、それ以来ソーも、ソーの弟たちも、怪我が元で大きな熱を出すことはなくなった。

 ツェルは立派だ。御子に相応しい品格と知恵を持ち、どんな時でも笑顔を絶やさない。

 でも、だからこそ、その隣に並び立てば、ソーは彼女と比べられた。

 学問の成績、佇まい、ちょっとした仕草、発音の癖。習い覚えたばかりの儀礼作法に少しでも下手があれば、これだから賤民の子はと蔑まれる。

 ツェルが立派であるほどに、ツェルが讃えられるたびに、ソーは自分がだめになっていくような気がした。

 一時期、それが悔しくて必死に努力してみたこともある。教会は想像以上にそれを喜んだ。

「今日のお作法はご立派でした。勉学の様子も大変によろしいようですね。これなら安心して御子様をお任せできます。世と人々のため、終生真心込めてお務めください」

 冗談じゃなかった。

 いかにして教会と距離をとるか。次第にそればかりがソーの頭を占めるようになった。

 ツェルとの結婚の話は、出会って間もない頃から出ていたように思う。最初のうちは、半双メトワといったって証拠なんてないのだし、周囲が勝手に言っていることだと楽観視していたのだが、ツェルのうわ言を聞いたあの日からソーは不安になり始めた。

 ひょっとしてツェルは、結婚を望んだりするのだろうか。

 ツェルが望めば、それは周囲が好き勝手に言っている話ではなくなってしまうかもしれない。ならば、ツェルには正直に自分の考えを話してみるか?

 教会は嫌いだ。教会のせいで肉親とは離ればなれになり、その次に家族になってくれた貧民街スラムの人たちとは無理やり引き離され、自由に会いにいくこともできなくなった。

 今の義家族は良い人たちだと思うが、教会組織に組み込まれた彼らは、教会から切り離された自由なんてものはこの世に存在しないと頭から信じている。

 教会は父を連れ去っただけでなく、ソーのこの先の人生まですべて手に入れようとしている。この血筋に、そうするだけの理由があるのだろうか。だが、大司教や騎士団長に聞き回ったところで、教会の中に実父のことを知る人は一人もいないようだった――少なくとも、表向きは。

 このままでは、一生、教会から逃れられない。

 その嫌悪感と漠然とした不安とを、どうやってツェルに説明すればいいのか。

 ツェルは教会を心から信じている。公私のすべてを投げ打って、献身的に尽くしている。

 言えない。確たる証拠はどこにもない。曖昧な話でツェルを傷つけ、悩ませてしまうことになる。

 長いこと悩んだ末に、ソーはとうとう結論を出した。

 教会の問題はあくまで自分の問題だ。ツェルには関係ない。伝える必要はない。

 ――ツェルと距離を置こう。

 疎遠になれば、いずれツェルの気持ちも離れていく。その方がきっと傷つけずに済む。いっそ突然冷淡になった自分に腹を立て、嫌ってくれれば良い。

 ある日突然よそよそしくなったソーに対して、ツェルは怒ったりしなかった。ただ傷ついた顔をしていた。何かとても神聖なものを壊してしまったような罪悪感ばかりがソーの中に降り積もっていった。

 けれども他にどうしたら良かったのか。ソーには未だにわからない。教会の言いなりになる選択肢はあっただろうか。教会を信じるツェルに、証拠もなく教会を信じるな、と伝える選択肢はあっただろうか。いや、やはりそれは無理だ、という自答しか出てこない。

「さっきからどうしたの、ソー。朝から働きづめだったし、さすがに疲れたかしら」

 ツェルが目の前で手を振ってみせている。

 意識を引き戻されたソーは、無意識に強張っていた手から力を抜いた。

 こちらを覗き込むツェルの息はまだ少し乱れている。首筋や額には焚き火を照り返す汗が光っている。

「いや、疲れているのはツェルだろう。早朝からがんばっていたからな。少し休んだ方がいい」

「まだ大丈夫よ」

 ツェルはちらりと周囲の様子を窺っている。真面目な彼女のことだ、主役が早々に引っ込むのは来客に申し訳ないとでも思っているのだろう。

「今日の主役はツェル一人じゃないだろう。俺でも代役くらいはやれる」

「そんな、代役だなんて。あなただって今日の主役でしょう」

「……とりあえず休もう」

 ソーは彼女を空いているベンチまで誘導した。ツェルはそこに腰を下ろすなり、子供のように足を揺らした。

「ありがとう。実は足が痛かったの」

 ツェルが無理をするのはいつものことだ。どうしてそんなに御子の責務や勉強に対して懸命になるのか、ソーにはずっと不思議だった。まるで何かにせき立てられているかのように、ツェルは何にでも必死すぎるきらいがある。

 ツェルの痛そうに擦っている足首に手を宛がうべきか、ほんの一瞬迷った。靴擦れならすぐに治してやれるだろう。が、女の子の足にいきなり触れるなんてさすがに無い、とすぐに気付いた。

 ツェルをその場に残してダンス会場に戻ろうとすると、後ろから手を引かれた。

「どこへ行くの。疲れているのはあなたも同じでしょう。ここで休んだらいいわ」

「二人とも引っ込んでいたら、ここに人が集まってくるだろう。俺が相手しておくから、ツェルは頃合いを見計らって先に引き上げてくれ。父さんたちにも適当に言っておく。十二時にあそこに集合だ」

 ソーは念のため屋根を見上げた。大鐘楼は庭園から死角になっている。北側の屋根伝いに向かえば誰かに見咎められる心配はないだろう。

 一方のツェルは不安そうに目を周囲にやった。

「ねえ――本当に今日、行くの?」

「向こうの警備が手薄になる滅多にない機会だ。気乗りしないなら、ツェルは残ってくれ。巻き込んですまなかった」

「だっ、だめよ、一人でなんて絶対だめ!」

「無理するな。そもそも、ツェルにこんな話すべきじゃなかった」

「本当に平気。勝手に置いていったりしたら、お父様たちに話しますからね」

 なんだかツェルは必死な様子だ。無理しなくていいのに。それとも、ツェル自身も何か思うところがあるのだろうか。

「わかった、一緒に行こう。潜入前に少しでも眠っておいてくれ」

 身を屈めて耳元で囁くと、ツェルはその耳に手を宛がい、下を向いて小さく頷き返した。

 ソーは意を決してダンス会場に引き返した。外国からの招待客や、野次馬たちが、ひとりになったソーの許へこれ幸いと押し寄せてくる。極端に嫌悪されるか、極端に好意を寄せられるか、あるいは好奇心剥き出しで食いついてくるか――この立ち位置に向けられる反応はどうも極端だ。

 地下への潜入前に目を付けられるようなことは避けたい。

 ソーは深々と息を吐くと、野次馬の輪に甘んじて飲み込まれた。

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