【2】
大司教は胸に手を当て簡易な祈りの仕草をとった後、口を開いた。
「では、予定が詰まっているのでさっそく本題に入ります。明日はいよいよきみたちの十八歳を祝う聖誕祭ですね。七年通った学校もあと半年で卒業とは。本当に時が経つのは早いものです」
と、懐かしむような目で二人を見つめた。
「学校を卒業すれば名実共に大人として扱われるようになります。特にきみたちは女神様の魂とお力の一部を分けあう天命の半双。ソー、きみはただ相手に触れるだけで、怪我や疲れを癒やす不思議な力がある。ツェル、きみにも光糸を紡ぐ特別な力がある。どちらも初代の御子様、そして片翼様がお持ちだったとされる聖力です。その力を受け継いだきみたち二人は、我々聖レイェス教会の象徴。これまでは子供ということで私たちの庇護下に置くことができましたが、学校卒業となるとそうもいかなくなります。この文はまさにその皮切りといえるでしょう」
話しながらテーブル上の文鎮を動かし、その下に積まれた書類の中から封筒を一つ抜き取る。
ツェルは受け取った文を、ソーにも見えるように広げた。そこには達筆でこのように記されていた。
『レイェスの愛し子、ツェル・ト=リァン。
その片割れたるソー・ル=イスタ。
天の世と現世との端境にて二方に分かたれし半双たちよ。
女神再誕を言祝ぐ、めでたき再誕の日に、一つの魂を再び現世にて縒り合わせ、その絆を永遠のものと定めん。
女神の代理たる我こそはその紡ぎ手となり、また、この尊き両翼の宿り木となりて、この命ある限り共に歩まんものとす。
すべては女神の御心のままに。
聖皇ファシムカ・レム・ナ=エル・カリオン』
ツェルは思わずソーを見た。珍しいことにソーと一瞬目が合ったが、ソーはすぐに下を向いてしまった。
「分かたれた魂を再び縒り合わせる」というのは、半双が婚姻を結ぶ際に用いられる表現だ。ということは、つまり。
「私たちの結婚が決まったということでしょうか。でも、次の再誕の日だなんてあまりに早すぎませんか」
今は初夏。再誕の日は初秋になる。
ツェルは内心どきどきしながらソーの様子を確かめた。俯き加減のソーの表情は読めない。ツェルはもごもごと付け足した。
「それに、婚姻後はザンダストラで暮らすということのようですが」
ソーの膝の上に置かれた手が白くなるほど握りしめられた。ソーは大司教を睨んだ。
「その話は何度もお断りしたはずです」
大司教は淡々と切り返した。
「逆にお訊きしたいのですが、なぜツェルではだめなのですか。子供の頃はあんなに仲が良かったではありませんか。私が言うのもなんですが、この子はとても気立てが良く、頭も良く、優しい娘ですよ」
ソーは言葉に詰まった様子でツェルを見、それから言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。
「相手がツェルだから問題だ、というのではありません。ただ、大司教様は誰かに言われるがままに結婚しますか。そこに自分の意志など全くないのに」
「私の場合、御聖告により結婚とは縁がありませんでしたが、それを後悔したことはありません。もちろん、結婚せよというお告げがあれば、喜んでそれに従ったでしょう。半双同士の夫婦が非常に多いことはきみも知っていますね。半双は魂の伴侶、ゆえに共にいて心地よいものです。半双の婚姻は幸せを呼びます。半双が同性である場合、結婚相手を決めかねて相談にくる者のいかに多いことか。婚姻だけに留まらず、半双に寄り添い共に生きることは、教会の教理に、ひいては女神様の御心に適う生き方です。ありがたいことに、我々人は、女神様の御心を受け入れた時にこそ幸福を感じるようにできているのですよ」
「そもそも前提を疑うべきです。俺とツェルの『糸』は俺たち以外の誰にも視えない。俺たちが半双であると証明できる人はいないんです。もしも違っていたら、それこそ教会が女神と人心とを裏切ることになる」
「ソー。そのような言葉をうかつに口にするものではありませんよ。それにきみは、深海文書に書かれた特徴が揃っています。治癒の力に、蒼い髪も」
「同じ力を持つ奴が他にもいたら? 隠していればわからないだろう。髪だってそうだ」
ソーが一瞬こちらを見たのはわかったが、ツェルは口を噤んだまま下を向いていた。光錘を盗んだ蒼い髪の少年のことは、ソーを除いて、まだ誰にも話せていない。
大司教はやんわりとソーを遮った。
「とにかく、こうして猊下が公式文書で通達された以上、私にはどうすることもできません。ただ、わかってください。私も猊下も皆、きみたちの幸せを願っているのです。もちろんきみたちに期待されている役割もあります。ですが、ただそれだけでこの話を進めたわけではありません」
「幸せを願っているだって」
ソーは椅子を蹴って立ち上がった。
「だったら自由にしてくれ。片翼なんて肩書きも、領主家の息子なんて地位もいらない。何度そう訴えても、あなた方は聞く耳を持たなかったじゃないか。俺がここに連れてこられてから、もう十年近くになるんだぞ。教会が決めた通りに御子の隣に並び、教会の指示する学校に入り、決められた通り神学を専攻した。それに、どこへ出かけるにも見張りがついて回る。加えて、あの妙な施療院での治療だ。行くたびに調子が悪くなるのに、引きずってでも連れていかれる。自由時間は早朝と夕のそれぞれ半時だけ、それだって決められた囲いの中、監視付の中でだ。どうしてそこまで監視されなければならないんだ。子供だからか? 卒業と同時に大人だって? 貧民街では六、七歳の子供でも働くのが当たり前、仕事ができれば一人前だった。こんな監視はもううんざりだ。御子の半双だか何だかが重要なだけで、俺たちの幸せに興味なんてないくせによく言う。仮に俺が本当に、『片翼』だったとして――俺を縛りつけておきたい目的は一体なんだ? 『女神が使わした御子はその片割れと結ばれ、共に世界へ永遠の平和をもたらす』か? 一体、どうやって? 結婚一つで、世界まるごと何かが変わるのか? なぜ、それが俺でなくてはならないんだ?」
「ソー、何か勘違いがあるようです。まずは座って落ち着きなさい」
大司教の言葉にソーは苛立たしげに言葉を重ねた。
「だったら、もっと納得のいく説明をしてくれ。理由もわからないまま一方的に管理されるのはもうたくさんだ。確かに御子のツェルには聖典の言葉を実現できるだけの力がある。人同士の光糸を操作できれば、世界を変えることだってできるだろう。だが、俺はそうじゃない。治癒の力は、俺が本心で願わなければ発動しない。相手が目の前にいなければ効き目も弱いし、強制されたって望まない相手には効かない。それに死者を蘇らせられるわけでもないし、致命傷にも効かない。持って生まれた寿命を延ばせるわけでもない。せいぜい、元々持っている自然治癒力を高めてやれるくらいだ。どうやって世界平和をもたらすっていうんだ? 第一、ツェルが可哀想だ。ツェルはあなたの子じゃないか。どれだけ御子という肩書きに縛りつけたら気が済む。結婚する相手くらい本人に選ばせてやれないのか」
「結婚はすなわち、家と家同士の、あるいは力と力同士の結びつきです。そう自由にできるものではないのですよ。きみにはわからないかもしれませんが、特に地位や力を持つ家の娘であれば、嫁ぎ先を幼い頃から決められているのはごく当たり前のことです」
「ああそうだ、俺にはわからないし、理解したいとも思わない。俺は良識も信仰心もない、賤しい孤児だからな」
「いい加減になさい。誰が何と言おうと、あなたはノイ・ス=エバンの息子です。あなたの元の家族だって、以前よりずっと良い生活を送れているではありませんか。貧民街でのことは、あくまで過去のこと。もうお忘れなさい。ノイはあなたに充分良くしているはずです」
「それはわかっている。あの人たちのことは立派だと思っている……でも、十年では到底、消せないんだ。俺の記憶も、人々の記憶も。大多数にとって俺はいまだに『片翼』ではなく『貧民街の成り上がり』だ。この大聖堂の中でさえそう呼ばれているのを、あなたも知っているはずだ」
ソーは怒りというより、悲しみを押し殺したような目をしている。言葉に詰まった大司教を諭すようにソーは続けた。
「俺はここでは異質な存在だ。他の誰かに言われたからじゃない、自分自身がそう感じている。心が拒否するんだ。本心を殺して愛想を振りまくのも、自分の手を汚さずに侍従を使うのも、女神を信じる振りをするのも、身近な人たちより大衆に尽くさなければならないことも。ここでは多額の金品を納めた人に優先的に祈りを捧げる。別に、苦しんでいる人たちを癒やすことはいいんだ。でもその一方で、高熱を出して苦しんでいる妹の傍にはついていてやれない。式典があれば、俺はツェルの隣に立って、大衆のための祈りを捧げなければならないんだ。今の俺の家族はここにあるから、と……。でも……それなら、家族って……一体何なんだ……」
辛そうに言葉を切るソーの姿は、ふいに昔、彼自身から聞いた言葉を思い出させた。
あれはソーが騎士団長に引き取られたばかりの頃だった。祭日の式典があるというのに、ツェルと共に出席するはずのソーが前夜から突然姿を消して、教会中騒ぎになったことがあった。
すぐに見つかって連れ戻されたが、ソーは固く口を引き結んだまま、説教する大人たちに一言の謝罪も釈明もしなかった。ツェルはソーを説得しようと試みた。
「皆が心配していたのよ。それに、勝手にいなくなったりしたら皆に迷惑がかかるでしょう」
その時ソーは困惑と怒りの入り混じった顔をして初めて口を開いた。
「家に帰ったらだめなのか」
「家に?」
戸惑ったツェルだが、すぐに答えは出た。騎士団長の家から行方不明になったソーが向かう「家」は一つしかない。
「もともと住んでいたおうちのこと?」
ソーは一人で貧民街の家に帰っていたのだ。
「お休みの日なら許可をもらえば行ってもいいはずだけど。お父さまやおじさまが、だめと言ったの?」
「そうじゃない。おやじたちが言ったんだ。もうここはおれの家じゃない、だから二度と来るんじゃねえって。弟たちにも迷惑がかかるからって」
ソーの弟妹は、ソーが騎士団長に引き取られるのと同時に養児院という教会の一施設に預けられていた。幼い子のための全寮制学校といった方がいいかもしれない。一般市街の孤児院よりずっと恵まれた環境だ。
今にして思えば、貧しかったソーの親は子供たちのためを思って、ソーを教会に帰したのだろう。けれども、親に拒絶され、独り見知らぬ場所に放り出された九歳のソーは何を思っただろう。
ふと、びっしり書き込まれたソーの皮紙を思い出し、ツェルはあっ、と思った。もしかして、ソーは、成績がどうこうというのではなく、誰にも頼らず生きてゆく力を付けようとしていたのか。だからあのとき、学科にはない商業指南書を勉強していた?
「分不相応に恵まれた環境を与えてもらったのはわかっている。それでも、毎日、望まない生き方を強いられて息が詰まりそうだった。首に縄をつけられて飼い慣らされるより、飢えや死と隣り合わせでも、俺は自由でいたい。自分の立場に誇りを持っているツェルとは違う。俺は、ツェルと同じようには生きられない。俺では彼女を幸せにしてやれない。俺たちが見る世界は、あまりにも違いすぎる」
ツェルは耐えきれず俯いた。
ソーの言いたいことはよくわかる。ツェルだってこれまで、自分の思ったようにできることなんてほとんどなかった。歩き方、話し方、服装、身に着けるもの、共に過ごす友人、読む本、一日の過ごし方。すべてが教会によって決められてきた。
「御子」の役割は頭上にのし掛かる重石だった――けれども同時に、ツェルの存在意義を示してくれる羅針盤でもあった。
「なるほど。きみの言いたいことはわかりました。ツェル、きみはどう思いますか」
大司教に話を振られたものの、すぐに返答はできなかった。
ソーがツェルを拒む理由が、個人的な好みの問題ではなく、立場から来るものだとわかったのは良かった。でも、拒否されたのは間違いなく事実だ。
ツェルは泣きそうになるのを堪え、冷静になろうと努めた。
「ソーの言ったこともわかります。私も、好きなことを好きなようにできないことを辛いと思うことはありますから。けれど、すべての決定権を持つのは、本国におわす聖皇様であって、お父様ではありません」
ツェルは大司教からソーに視線を移した。
「ねえ、ソー。私たち、お父様の話を最後まで聞くべきだと思うわ。その上でどうしても伝えたいことがあるのなら、二人で話し合って、一緒に本国へ申し入れをしましょう。これは、個人のしたい、したくない、で選べる話ではないのよ。それに少なくても結婚については、あなた一人の問題ではなく、私にも関係のある話でしょう?」
聖皇はザンダストラのみならず、七国連合の総帥、世界の中心だ。
聖地を任された大司教でさえも、あくまでカナンという一地域をザンダストラ聖皇国から委任された者の呼称にすぎない。
聖皇命に真っ向から刃向かったとて、監視や束縛が強まるだけ。得策ではない。
ツェルの言いたいことを汲みとったのか、ソーはぐっと息を飲み、ゆっくり元の椅子に戻った。
大司教は頷き、再び静かに話し始めた。
「多感な年頃のきみたちにとって、こうした話が理解しがたいのも無理はありません。しかしソー、これだけはわかってください。きみが本当にツェルを不幸にするような人物であれば、私は立場を差し置いてでもこの結婚に反対したことでしょう。でもきみは優しく、思いやりがある」
大司教はツェルに目を遣った。その目配せが何となく居心地が悪くて、ツェルは縮こまった。大司教は表情を微かに緩めた。
「きみたちならきっと、天命を全うすることと、きみたち自身の幸せを見つけること、その両方を果たすことができますよ。それにね、ソー。私には確信があるのですよ。たとえ治癒の力がなかったとしても、きみは確かに女神《 レイェス》様の翼に違いありません」
「……ご神託ですか」
「ええ。きみこそが御子の半双である、とあの声は確かに告げたのです。女神様を測るなどとんでもないことですが、私の受けたご神託は、これまで必ず成就してきました。それは、きみもよく知っていることでしょう」
ソーは眉をひそめてツェルを見た。
「ツェルも聴いたのか」
「いいえ、私は一度も。ご神託が聴けるのは聖皇様とお父様だけよ」
「御子は女神の娘であると同時に、世に現れた女神の魂そのものですから。強いて言えば、ツェルの心の奥底に芽生えた強い思いこそ、女神の言葉であるというべきでしょう――もちろん、ソー、きみもそのはずなのですがね」
大司教は「さて」と表情を改めた。
「いずれにしても、明日の式典ではきみたちの婚約を公にしなくてはなりません。これは本国の決定事項であり、私の一存でどうにかできるものではありませんから、二人ともその心づもりでいてください。それから、ソー。猊下からきみ宛てにこちらが届いています」
大司教がソーに指した下のは、小さな一筆書きだった。さっきの公式文書と同じ筆跡だ。同じ封書に忍ばせてきたのだろう。
目を通したソーが眉を潜めている。隠そうとはしていないので、ツェルも横から覗き込んでみた。そこにはこう書かれていた。
『ソー
次の速翔では必ず優勝しなさい。もちろん十分な褒美は与えます。何を望むか考えておくように』
俯き、額を抑えたソーから表情を伺うことはできない。ツェルはなんと声をかけようか迷った。その重い沈黙をノックの音が破った。
「大司教様。次のお約束のお時間です」
「今行きましょう」
書類の束を手に立ち上がる父の気配を察して、ツェルもまた立ち上がった。大司教は戸口のところで振り返り、ふたりに、というよりソーに向けて言った。
「あなたたちなりの感情や考えもあるでしょう。しかし、それで終わるのはどうでしょうか。人は独りで生きているわけではありません。自分をここまで育んできてくれた存在や、自分と繋がりあう存在のことも考えてみることです。実際の婚礼まではまだ少し時間がありますからね。……ああ、そうです、ツェル。この後、ソーをいつもの客間に案内してあげてください。荷物は先に運びいれてあります」
「はい、わかりました」
部屋を出て行く大司教を見送っていると、ソーがツェルの脇をすり抜け、大司教に向かって声をあげた。
「ルキ・オン大司教! なぜ俺だけが地下で治療を? それとも、あそこには他にも誰かいるのですか」
大司教は立ち止まり、首だけ捻って応えた。
「きみの症状には十分な休眠が必要です。それが地下室を選んだ理由です。地下は窓明かりが入らず静かですからね。そして、今のところその症状が出ているのはきみだけですから、地下室に行くのは当然、治療士ときみだけですよ」
大司教はそれだけ言うと背を向け、廊下の角に姿を消した。
ソーはその背を睨むようにしている。ツェルは横に並び、ソーの顔を覗き込んだ。
「ソー。とりあえず部屋へ行きましょう」
ソーのために用意された客間は、大聖堂の奥手側、居住区二階にある。ツェルの部屋のちょうど真下だ。部屋には学校で見慣れたソーの鞄が置かれていた。
ソーが暮らしている領主の城館はここからそう離れていないが、聖誕祭の日は早朝から準備があるため、前夜から大聖堂に泊まり込むのが慣例になっていた。
「では、何か不便があったらいつでも呼んでね」
呼び鈴を指し示し、煙たがられないうちに部屋を出ようとしたツェルを、ソーが呼び止めた。
「ツェル」
ツェルは振り返った。
ソーは何かを言いかけた。たぶん、さっきのことを話したいのだろう。が、彼が口にしかけた言葉は微かな吐息になって霧散した。
「いや、何でもない」
ソーが自分からツェルに話をしようとしてくれるなんて、滅多にないことだ。これはサジュナおじいさまの言っていたチャンスかもしれないと、ツェルは急いで霧散しかけた言葉を拾い上げた。
「あのね、ソー。もし時間があればだけれど、さっきのことで少し話をしない? その、情報交換というか。今日は休みだし」
明日は早朝の着付けから始まり、特別礼拝、元老議員たちとの昼食会、その後は市街地の孤児院訪問、中央広場で演奏会参加と続き、夜のガーデンパーティーまでびっしり予定が組まれている。それで今日は英気付けのため、午後から暇をもらっている。
「半日時間があ……る、から」
早口で一気にまくしたてたツェルは、次第にしどろもどろになった。半日付き合ってほしいとせがんだように聞こえただろうか。赤くなった頬を慌てて両手で隠した。
「その、本当にただ、時間があるという意味よ。それ以外の意味は全くないわ」
咳払いが聞こえて顔を上げると、ソーは珍しく困った顔をしていた。
「外で話そう」
ソーはそう言うなり、テラスに出た。身軽にテラスの手すりに飛び乗り、振り返って、戸惑うツェルに向かって手を伸ばす。その目はいつもより明るい光を帯びている。空へ上がるつもりなのだ。
ツェルもまた瞳を開き、緊張しながら差し出されたソーの手を掴んだ。
二人は手すりを蹴り、空へと足を踏み出した。
初めて出会ったあの日と同じだった。
膨大な量の糸がツェルの視界いっぱいに広がっている。ゆらゆら、きらきら輝きながら波打って、まぶしくて目を開けていられないくらいだ。ふたりの繋がった手を介して、ツェルの中に何かが流れ込んでくる。瞳から流れ込む力はひやりと冷たいのに、ソーの手から伝わってくるものは全然違う。まるでソーの血の温かさを宿したかのように、心地よく、ツェルの中に残っていた緊張や、疲労が解けてゆく。
大聖堂の青い屋根に上がると、ソーは先にツェルを座らせ、自分も少しの距離を空けてそこに座った。
ツェルは離れてゆくソーの手を目で追いかけた。
最後にソーと手を繋いだのはいつだっただろう。記憶の中のものより二回りも大きくなったその手は、光錘の訓練で固いタコができ、長い指は関節が太くなった。もうすっかり聖堂騎士の手だ。
でも、肌が荒れている理由は、たぶんそれとは違うだろう。
「まだ、馬の世話をしているの?」
ソーは少し焦ったように袖の臭いを嗅いだ。
「臭うか」
「ううん。手を見て、そうかなって」
ソーは両手を見下ろした。
「……そうか」
「うん」
実は、教会に預けられた孤児たちの世話をしているのも知っているし、厨房の女性たちの水汲みを手伝ったりしていることも知っている。全部、親友のテュナから聞いた。
「止めても全然聞かないのよ。ツェル様からも言ってやってくれません? 私もまったく納得いかないけれど、あいつだって、仮にも領主家の息子で、わたくしの弟なのよ。他の者への示しがつかないわ」
だけどツェルから言ったって、どうせソーは聞かないだろう、と思う。
誰にも媚びない、真っ直ぐで優しいソー。そんなソーにツェルは惹かれた。けれども変わろうとしないソーは、この先も決して、今の立場や教会に染まることはないのかもしれない。
変わってほしい。その方がソーはもっと楽に生きられるはずだし、何より、ここで一緒に生きることを受け入れてほしいから。
でも、変わらないでいてほしいとも思う。それこそが、あの日、たったひとり貧民街で手を差し伸べてくれたソーという人なのだから。
地上よりも幾分強い風が吹き付けてきた。
風が吹くたび、すぐ目の前まで枝葉を伸ばす御神木が揺れ、昼さがりののどかな木漏れ日が光の水面を描き出す。
平和そのものの昼下がりに、気まずい沈黙が落ちる。
なにから、どうやって話せばいいのだろう。長年ずっと、ギクシャクしていた。話す時間をとってくれただけでも、大きな進歩だ。
ツェルは会話のとっかかりを、景色の中に探した。
白い壁と赤い屋根に統一された市街地と、遙かな水平線とが一望できる。この街を内包する半島の先が馬蹄型をしているのが、ここからだとよくわかる。
空の蒼と海の碧。一面の青の中、馬蹄の切れ目に跨がる真白い元老院塔。塔の足下がカナン湾と外洋を結ぶ唯一の出入り口だ。そこをおもちゃのように小さく見える帆船がのんびり行き交っている。湾内には大きな外洋船が二艘停泊している。遊牧民の国シュナの交易船と、ザンダストラ聖皇国の巡回船だ。
白と青のコントラストの上を薄桃色の海鳥たちが舞っている。鳥たちの細く長い声が潮騒を裂いて響き渡る。
口元をくすぐる髪を押さえて、ツェルはほうと息を吐いた。
「きれい……。前にVRで観た景色みたい」
「らびとる?」
「あ、ううん! つい、天の世の言葉が」
「懐かしいな。その癖」
ソーは慌てるツェルを見て、微かに表情を和らげた。
ツェルはどきどきして、両手を胸の前で組み合わせた。
どうしよう。今日はいつもより優しいみたい。それに声が低くて素敵。肩が広くて、手脚が長くて。それに、ソーってこんなに睫毛が長かったかしら。何より眼が、本物の蒼石みたいに深い青で、吸い込まれてしまいそう……。
ツェルはぎゅっと腕を抓った。
だめ、このまま黙っていたら心臓が爆発しそう。何でもいいから、何か言わないと!
「そっ、その、さっきのことだけれど!」
突然の大声に驚いたのか、ソーはびくっと肩を揺らした。
「ずっ、ずいぶん急な話だったわね。たった半年で結婚なんて、どうしてしまったのかしら。私も今日、初めて聞いたのよ。半年――そう、半年といえば、誕生日よ。誕生日でさえ、半年前には準備が始まっていたのよ。それなのに、いきなり結婚よ。あなたが驚くのも無理ないわ。私だって、すごく驚いたもの」
だから私だって、別に諸手を挙げて結婚に大賛成、というわけでは決してないのよ――そこまで口を滑らせかけたツェルは、慌てて口を噤んだ。そこまで言ったら、逆に大賛成だって言っているようなものじゃない!
「だっ、だからね、つまり……あの……招待とか、準備とか……けっこう無理があるわよね? だから、どうしてこんなに急ぐのかしらって、単純に疑問で……」
ああ、ひどい。本当に何をしゃべっているのかしら。
屋根から飛び降りて隠れてしまいたい衝動に駆られる。
幸いソーは疑問に思わなかったらしく、話を続けてくれた。
「そうだよな、確かに無理がある。勝手に話を進めるのは『あの人』のいつものやり方だが、こんなに急ぐのには、何か理由がありそうだ。それに、ツェルには他にも候補がいただろう?」
ソーの自然な反応に、ツェルは心底ほっとして返した。
「そうね、絵姿を見せられたこともあったわ」
美男子だって仕女たちが騒いでいたけれど、どれも全然ぴんとこなかった。どんな人かもわからないのに、結婚相手の候補だと言われても困ってしまう。
「でも、そういえば最近はそういう話もなかったわね。今回の話となにか関係あるのかしら」
「最近、身のまわりで変わったことはなかったか」
最初に思い浮かんだのはハフラムのことだ。
人類の滅亡間近であることを告げられ、異星に移住するかどうか、大きな決断を迫られた。でも、それはリァンとしての記憶だ。
ツェルには何かあったろうか。
もうじき世界的に大きな行事、速翔の大会があるが、あれは毎年行われている。今に限った話ではない。
「いいえ、特に何も。学校の卒業が控えているくらいかしら。でも卒業とタイミングを合わせるという話ならもっと前から決まっていたはずよね。あなたの方はどう?」
「実は、少し前に聖皇の使いが訊ねてきた。でも、本当にそれくらいだな」
「聖皇様があなただけに用事って珍しい。どんなお話だったのか聞いても?」
ソーは辺りを憚るように視線を走らせてから、小声で説明を始めた。
「少し前に大聖堂の高官や、学校の教官たちが何人か入れ替わったのを覚えているか。そのほとんどが俺を御子の半双とは認めないと公言している奴らだった」
「ケイ・ス司祭や、サンセ・ドゥ教授たちね」
あなたに差別的な発言をしたり、嫌がらせしたり、鼻持ちならない人たちだったから、内心ほっとしたのよねとツェルは心の中で付け足した。
「そういえば一年前にもあったわね。身分差に拘りの強い先生方が異動になるってこと。今回異動になった中では数学科のモートン教授くらいかしら、中立的な立場だったのは。待って、もしかして」
「ああ、全部あの人のやったことだ。使者は俺のために環境を整えたと、わざわざ海を越えて伝えに来たんだ。追い出された人たちにだって、それぞれ家族や生活があっただろうに。ただ俺を認めなかったという理由で――いや、そうじゃないな。あの人の意図にそぐわない人物だったという理由で、あの人は彼らを左遷したんだ」
ソーはツェル同様、聖皇が手配した影によって警護、および監視されている。そして、監視の結果は定期的に本国に報告されている。
聖皇はソーの正義感の強さを知っている。だから、あえて周囲を巻き込むようなやり方をした。つまりこれは大人しく言うことを聞け、さもなくば周りの人間が犠牲になるぞ、という脅しに違いない。それに、脅されたと言うことは。
「つまり、何かご指示があったのね」
「御子の伴侶として相応しい功績を残せ、だと。さっき見せられた優勝の話も、たぶん同じ話なんだろう。そこまで買い被ってもらっているとは思わなかったな」
努力次第で手柄が立てられると思っているとは、とソーは自虐的に呟く。
「俺がツェルの相手に相応しくないとわかっているのなら、最初から相応の奴を連れてくれば良かったんだ。どうせ俺たちの間にだって半双の証しなんて視えやしない。半双を喪った奴と同じだろう。誰をツェルの片割れだといっても、その嘘を見破る術はない。いくらでも誤魔化せるだろうに」
「相応しくないなんて、そんなこと言わないで」
ソーは困ったように首を横に振った。
「どちらにしろ、教会に一生を捧げるつもりは最初からなかったんだ」
ツェルは膝の上でローブを強く握りしめた。
「ソーは…………よほど嫌みたいね?」
ソーはうろたえたようだった。息を飲み、手をあたふたと動かしてから、はっとしたようにその手を膝の上に戻した。
「さっきも言ったが、別にきみだからというわけじゃない。けど、教会に人生を弄ばれるのは、もううんざりなんだ。本物の王侯貴族ならともかく、特別な間でもないただの学友と、普通は結婚なんてしないだろう。まして、俺たちの親が決めたものですらないんだ」
「そう、ね」
沈みこむツェルを見て、ソーは手を浮かせたまま困ったように固まっている。
もう少しポーカーフェイスを保ってくれたら、冷たい人だと怒りも湧いたかもしれないのに。
ツェルは冷えた塊を飲み込み、どうにか平静さを保った。
「そういえば、ソー。さっきの施療院の話だけれど。地下室って一体、何のこと? 定期的に通っているけれど、そんなのがあるなんて知らなかったわ。特別室か何か?」
「いや、あれは……」
ソーは考え込んでいる。かなり待ったが、なかなか続きが出てこないので、ツェルは話を続けることにした。
「瞳の反動が出ている、と聞いたわ。その治療のために施療院に通っているのでしょう? 騎士団の訓練も、無理してはだめよ」
瞳を酷使すると身体に負担がかかる。生まれ持った力が強い場合、過負荷により寿命を縮めることもあるという。ツェルも念のため定期検査を受けているが、幸いこれまで問題を指摘されたことはない。女神様の御許に還っている間――すなわち長時間の休眠が瞳の負荷を和らげているのだろうと言われた。
「何かがおかしいんだ」
しばらく黙っていたソーが、突然、そう言った。
「瞳の反動も、施療院の地下も、治療も。そして、ここに俺が連れてこられたことも。全部、腑に落ちない」
あなたは昔から反抗的だったから――咄嗟に浮かんだその考えは、ソーの表情を見た途端に消えていった。
さあっと風が駆け抜けて、ソーの髪を揺らした。爽やかな潮風の中に、迷子のように不安そうな青い双眸がある。
どうして、そんな顔をしているの。
ソーは、真剣だ。それに、たぶん怖れている――一体、何を?
ツェルは指二本分だけ距離を詰めて、ソーに囁いた。
「何か、そう思わせる理由があるのね」
ソーは、じっと覗き込むツェルをまじまじと見て、それから周囲を見回し、声を落として話し始めた。
「……色々気になることはあるが、まずは瞳の反動のことだ。正直、そこまで無理に力を使うようなことはしていない。貧民街にいた頃のほうが結構無茶もやっていたが、あの頃は心臓が痛むようなことはなかった。初めて調子が悪くなったのは、こっちに来てからだ。それも、施療院で『念のため』とかいう初検査を受けさせられた翌朝のことだ。変だと思わないか」
どきりとしたが、ツェルはその不安を押しやった。施療院は教会の一組織で、名高い名医が揃っている。妙なことをするはずがない。
「蓄積したものがたまたま出たのかもしれないわ」
「俺もそう説明されたし、最初はそう思っていた。でも、定期検査を受ける度に同じことが起きるんだ。確かに、毎回というわけじゃない――痛みが特にひどかった治療の後は、まるで休息を与えられるみたいに、ぴたりと治療後の痛みが止むんだ。そして何回か間を置いて、また痛みが再開する。そんなことってあると思うか? 十年近く、同じことが繰り返し続いているんだぞ。副作用だと説明されたが、到底信じられない。施療院通いをやめて様子を見ればはっきりすると思うんだが、治療をやめることも、日程をずらすことも絶対に許されない。聖皇の厳命らしくてな、父さんも容赦してくれない」
「どんな治療を受けているの? たとえばだけど、気胸のような治療法を試しているとしたら、そういうこともあるかもしれないと思って」
「とらむ?」
いけない、これもハフラムの言葉だった。こちらでは何ていうんだろう。もしかしたら、まだ存在しない治療法かもしれない。
「胸に小さな穴を開ける治療法よ。でも、そんなことまでしないかしら」
ツェルも瞳の反動が出ていないか、定期検査は受けている。目を見たり、脈を測ったり、問診したりするくらいだ。
「どうだろう。少なくとも見た目には外科処置の痕はなかったが、わからないな。毎回、治療室に入ると異様に眠くなるんだ。おそらく直前に飲まされる薬のせいだと思う。俺だけ地下室に連れていかれるからな。様子を見ているやつもいないと思う」
「そうなの……。普段はよく眠れている?」
「ああ、問題ない」
ツェルは口元に指の背を当てて首を傾げた。
睡眠が必要だから、睡眠薬を飲ませているのだとすれば、まあ、納得はできる。普通の睡眠だけでは足りないのかもしれない。
でも、心臓が痛くなる、というのは妙だ。起きたときに胸が痛めば、誰だって不安になるに決まっている。
「誰か、施療院以外の専門家から意見が聞けるといいわね。学校で医療科の人に相談してみる?」
「もう訊いた。俺を担当している治療士にも、町医者にも、学校の医療科の奴らにも。どいつも施療院がやることなら間違いないって言うんだ。だけど、考えてみれば医業は教会の専売特許だし、学校も教会が運営しているだろう。口裏合わせなんていくらでもできる」
確かに学校の先生方は全員、聖職者だ。
「図書室にある医術書は?」
「片っ端から調べたが、ほとんど症例が載っていなかった。本当に稀なんだろうな。まともな記述があったのは『医術百科』だけだ。『強すぎる瞳は全身に過負荷を与え、寿命を縮める。治療法はまだ見つかっていない。しかし過去に両目の光を失った男が症状から回復した例が報告されている。男が受けたのは対症療法である。重要なのは、連続して半日以上の睡眠をとらせること。具体的手法としては、睡眠の妨げとなりうる周囲の雑音から隔離し、眠り草または夢見草を定期的に投与することである』」
暗記するほど何度も確かめたのだろう。ソーはすらすらと諳んじた。けれどその記述さえ疑っているのは表情を見ればわかった。確かに、眠るだけなら痛みが出ることはない。ソーは眠っている間に、何か別の治療を受けさせられている可能性がある。
「『医術百科』なら、編纂される前の情報源が他にあるはずね。大聖堂の蔵書は調べたかしら。まだなら他の調べ物をするついでにこちらで調べてみるわ」
教会の図書室は許可制だ。ツェルは普段から仕事の一環で出入りしているから、誰も気に留めないだろう。
それにハフラムでなら何かわかるかもしれない。光糸も光糸認識力もない世界だが、心臓の疾患についてなら調べられる。
「ありがとう。そうしてもらえると助かる」
「あなたの不安はすごくわかったわ。でもね、ソー」
ソーとの関係だけを思えば、黙っていた方がいいのかもしれない。でも、教会が人生のほとんど全てであるツェルとしては、どうしても言わなくてはならなかった。
「頭から教会を疑うことはしないで。私たちは医術の専門家ではないし、素人考えにすぎないかもしれないのよ。治療を受けなければ、もっとあなたの体調は悪化していたのかもしれないでしょう。確かに、教会の中にはあなたを悪く言う人たちもいる……だからといって教会の全部を悪いものだと思わないでほしいの。大きな組織の中の良くない芽を摘んでいくのは難しいことなのよ。あまりに締め付けがすぎるとかえって反発が大きくなって、組織がまとまらなくなってしまうの。そんな中でも、お父様はよくカナン大聖堂をまとめていらっしゃると思うわ。片翼については、御子よりも情報が少なかったから、きっと皆、戸惑っているだけ。あなたのことを知ってもらえれば、誤解は少しずつ解けていくはずよ。私だって、そのためにできることは精一杯やると誓うわ」
「きみの言いたいことはわかるが」
ソーは言葉を探すように宙を睨んでいる。
「ツェル。俺の弟妹のことはどう思う。まるで人質に取られているみたいだと思わないか。俺が教会から逃げ出さないようにするための」
「考えすぎよ」
驚いたツェルは、つい声を上げてしまった。慌てて周囲を見回し、それから声量を落として続けた。
「養児院の外出は許可制だし、外出にもいちいち聖堂騎士が護衛につくから、そう見える面もあるとは思うけれど。ある程度地位の高い家庭のご子息を預かるところなんだもの。責任上、仕方のないことよ。お父様たちとしては、こちらの都合であなたを連れてきた以上、せめてあなたのご家族にも十分な暮らしをと思ったのでしょうし」
貧民街で暮らしていたソーの父は教会の支援を受け、今は一般市街区のごく普通の民家で暮らしているはずだ。
「……ツェル。これから話すことは決して他言しないと、約束してくれるか」
「もちろん、あなたがそうしてほしいと言うのなら」
ツェルが頷いたのを確認すると、ソーはさっきよりもさらに声を落として続けた。