【1】
大聖堂の最奥区域、ごく一部の限られた者だけが立ち入りを許される場所に、ひっそりと地下室がある。
ここの錠前と鍵を作った領内一の細工師は、それらが完成した三日後に亡くなったという。いわく付きの部屋だ。
かつてここには、レイェス教会の神器、聖遺物が多数収められていた。
本物の大きな蒼石が填め込まれ、古い言葉が柄にびっしり彫り込まれた「天冥の杖」。
聖皇が戴冠式の際にだけ被る「白銀の冠」。
どれも、創世神話に登場する宝物で、すべて本物だと伝えられている。
カナンは初代御子様が終生お過ごしになった聖地。それで、そうした宝物たちがザンダストラ本国から託されているわけだ。
しかし、御子ツェル・ト=リァンが七歳のとき、宝物はすべて敷地内の塔に移された。当時のツェルは、次々階段から運び出されてくる宝物たちを、わくわくしながら眺めたものだ。
しかしまさか、宝物が運び出された理由が、手入れのためでも、儀式のためにザンダストラ本国に移送するためでもなく、この部屋をツェル専用の仕事部屋にするためだったとは、当時、夢にも思わなかった。
この日ツェルは、早朝からその部屋に閉じこもっていた。
だだっ広いだけの地下室は、初夏といえど肌寒いし、蜜蝋を焚いた臭いが籠もるし、薄暗いしで、とにかく気が滅入る。飾り気といえば、気持ち程度に敷かれた青い絨毯に、壁際の大きな書架、部屋の中央にぽつりと置かれた円卓と椅子、そしてぽつぽつと置かれた燭台ばかりだ。
ツェルは白髪の高位司祭、黒髪の青年神官と三人で円卓を囲み、形ばかり背中をぴんと伸ばし、真面目な顔を取り繕っていた。
「良いですか、ツェル様。もう一度申し上げますが、これは女神様の御心に適うべく行うかけがえのないお仕事でして――」
云々かんぬん。
どうしてこう、聖職者たちは揃って説教が好きなのだろう。仕事の説明は真面目に聞くが、その後の道徳論は毎日同じ話の繰り返しだ。一体何度同じ話を聞かされてきたことか。何なら、大部分は空で言える。そういえば、昔ハフラムでそんな映画を見た。若い兵士たちに、同じ話を朝から晩まで繰り返し吹き込み、復唱させて、洗脳する。そうして敵地に放り込んでしまうのだ。でもツェルは別に戦争に行くわけではない。やるべき仕事があるのなら、一度説明してくれれば充分なのに。
大司教は娘の空想癖を嘆いているが、ツェルとしては、これは環境のせいだと言いたい。退屈な時間が長いから、妄想力が育まれたのだ。
そうして今もツェルの意識は、話の内容ではなく、しきりに口を動かしている目の前の二人の容姿の方に向いていた。
白髭の司祭の蜜色の肌。そして、若い神官の茶色がかかった柔らかい黒髪。ハフラムでは滅多にお目にかかれないダークカラーは、最近ツェルのお気に入りだ。
(エキゾチックな魅力があるのよね。ハフラムはみんな似たり寄ったりでつまらないのよ。今度、向こうで試してみようかしら。エル先輩は黒って好きかしら)
なんて黒髪の自分を想像していると、年配の司祭の咳払いがそれを掻き消した。
「――説明は以上ですが。ツェル様、よろしゅうございますか」
「あ、ええ。そうね」
「お話は聞いておられましたか」
「もちろん。この後は糸切りのお仕事。そして、切った糸を使って、光錘を一振り作る。それで今日の仕事はおしまいでしょ」
すらすらと答えてみせる。どうせツェルには、仕事を選ぶ権利なんてないのだから。
神官が卓の上に置かれた細長い箱を手に取り、その蓋を外した。中には仕事に使う『光錘』が収められている。ツェルは差し出された箱からその小さな杖状の道具を取り上げ、近くの燭台の灯りに翳した。
薄緑色に乳白色の差しが入っている。数ヶ月前に作ったものだ。光錘は一つずつ色合いが異なるから、見れば大体わかる。これは「大成功」の光錘で、確か聖皇に献上する話が出ていたはずだ。
光錘の性能は仕事に大きく左右するので、当然、できの良いものを使った方が良い。しかし、性能の良いものがあれば、やろうと思えば、ほとんどの人間の『糸』に干渉することができる。だから、仕事でも滅多に使わせてもらえることはない。それなのに優れた光錘を使わせようというのだ。ということは、よほど宗教的、あるいは政治的に重要な案件か。それとも、これよりもっと優れた光錘を作れということなのか。
老年の司祭が椅子をずらし、身体ごとツェルに向き直った。司祭の瞳が青色に染まってゆく。彼は自身の腕から何かを摘まみ上げる仕草をし、その手をツェルに向かって差し出した。
ツェルもまた瞳を開いた。その目に老司祭の手の間に渡るものが映る。光糸――それもとびきりのものだ。薄紫色のまばゆい光を放っている。
なんて強い光。なんて強い絆なの。これを切らなくてはならないなんて。
ツェルは不安を押し殺して、差し出された糸を光錘で絡めとった。
(これは仕事だもの。考えちゃだめ。淡々とやるのよ)
瞳から取り入れた冷気を腕から指先へ、そして指先から光錘へと流し込む。
人同士の絆を断つのは、今でも怖くてたまらない。糸を切られた者同士は互いに関する記憶をすべて失ってしまう。人の記憶を、人生を変えてしまう。失敗は赦されない。
訓練を重ねる中で、ツェルは「切断」を合い言葉に決めていた。それを唱える時は、糸を断つ時。悩んではいけない。迷ってはいけない。その言葉を唱えるのと同時に、反射的に動けるよう自分を訓練した。だから、この時もその言葉を唱えようとし――その口と手が止まった。
ふと糸を介して、持ち主の姿が視えてしまったのだ。視えたのは老いた老人と、少女の二人。祖父と孫、だろうか。サジュナとリァンのような。
ツェルの中に迷いが生まれる。
いつもだったら、そんな失敗はしない。糸の持ち主たちの記憶が流れ込む前に、さっさと仕事を済ませてしまう。けれど今は、そのあまりに強い糸の輝き、優れた光錘の性能が災いした。
動きを止めたツェルの中に、さらに鮮明な光景、音が流れ込んでくる。
栗毛と新緑のような瞳を持つ少女が、老人の手を掻き抱き、むせび泣いている。
『だめ、だめだよ、おじいちゃん、死なないで。あたしを置いていかないで。おとうさんもおかあさんも、あたしにはいないんだよ。あたしにはおじいちゃんしかいないの。お願い、お願い……』
――おじいさま。
老人の姿に、サジュナの優しい笑みが重なる。
もし――私がおじいさまを失うことになったら? たった一人の家族。大好きな人。その存在を、別の誰かの手で無理やりなかったことにされてしまったら?
「ツェル様、お早く……」
窓越しの売り子の声のように聞こえる司祭たちの声が、ツェルを急かそうとする。ツェルは苛立ちを覚えた。
早く、何? この糸を切ってしまえというの? そうよね、あなたたちは私に命じるだけだもの。この糸を切れるのは私だけ。糸を切った罪を背負うのも私だけ。
あなたたちにとってはどうでもいいことかもしれないけれど、私はいつも悩むのよ。本当にこれで良かったのか。大切な人を忘れてしまった人がその後、どうやって生きているのか、悩んで苦しくて眠れない日だってあるのよ。
依頼があったということは、この二人の関係を絶つことが、誰かにとって益となるということ。でもそれは、なぜ? 誰の願いなの?
「ツェル様」
司祭の、ツェルを責め立てるような声は、逆にツェルの背を押した。
せめて、私には知る権利がある。ううん、背負うべき罪を知る義務があるのではないの?
光錘へさらに力を込める。
送り込んだ力と入れ替わるようにして、糸主の心が脳裏に流れ込んでくる。
視界がぶれ、こめかみが収縮したように痛む。実際に目に映る光景と、光糸から流れ込んでくる光景、全く異なる情報を同時に受け取った脳は混乱し、ひどく痛むのだ。
不慣れな子供のうちは二重に入り混じる別々の光景がうまく処理できず、パニックを起こして泣いたものだが、今では手慣れたものだ。これまで糸切りの際に心を読んだことはないが、別の依頼では何度も読んできた。
注意深く意識を向けて、光糸からの情報に集中する。
次第に視界からの情報がぼやけ、別のものが見えてきた。立派な梁を組んだ天井だ。仰向けに横たわった人物の視点だ――この糸は、ベッドの上の老人のものらしい。もう一方の端は――ベッドに縋り付いて泣いている栗毛の少女に繋がっている。
「兄さん」
と、すぐ傍で切羽詰まったような男の声が聞こえた。その呼びかけで、ぼやけていた視界が定まり、音が拾えるようになった。何人かのすすり泣きが折り重なって聞こえてくる。
ツェルの意識はさらに奥へ、奥へと突き進む。老人の記憶の中へ。老人の想いの中へ――。
*
孫ほども歳が離れているが、栗毛の少女は数年前に遠戚から引き取った義理の娘だ。
娘の実の両親は流行病で亡くなっていた。
自分を親代わりとして慕ってくれるこの娘にとって、自分がいなくなるということはどれほど辛いことだろう。
この子には新しい家族が必要だ。
ちょうど、子宝に恵まれなかった甥っ子夫婦が養子を欲しがっていた。養子縁組みは順調に進んだ。
だが引っ越しの準備が済んでも、肝心の娘が傍を離れてくれない。
「いやだ。絶対行かない。おじいちゃんと暮らしたこの家がいい。あたしはこの家が好き。おじいちゃんとの思い出がたくさんある、この家がいい。他のおうちも、別の家族も、いらないもん!」
宥めてもすかしてもだめだった。こういう時に頼れるのは教会しかない。
さっそく大聖堂から高位神官が派遣されてきた。老人は金貨の詰まった袋を差し出して、こう願った。
「どうか御子様にお取り次ぎを。私と、この子とを結ぶ糸を切ってください。私に関する記憶をこの子の中から消し去ってください。この子がこれ以上悲しまなくて済むように。新しい家族と幸せに暮らしていけるように」
「悲しみは時と共に薄れてゆきます。いずれは娘さんも新しい家族と馴染んでゆくことでしょう。時の解決を待ってみてはいかがですか」
善良な面持ちの神官はこう言ってくれたが、彼は首を横に振った。
「いえ、良いのです。これは私の自己満足にすぎぬのですから。私はこの子を、かつて喪った我が娘の代わりにしようというのです。この子のために何かせねば、私は自分自身が赦せない。神官様、この際、私の罪を告白しても構わないでしょうか」
神官はもちろん、と頷いた。老人は長いこと溜め込んできた澱のような悔恨を、ぽつぽつと語り始めた。
「実は私には血を分けた娘が一人いました。母親を早くに亡くしたにも関わらず、娘は優しく、賢く、真っ直ぐに育ってくれました。ですが、娘は若くして亡くなりました。おそらくあの子は最後の瞬間まで、この私を恨んでいたことでしょう。娘が亡くなったのは私のせいです。私があの子を追い出したりしなければ、あんな事故は起きなかった。あの子は私に言ったのです。好いた男と一緒になりたいと。それが聞き分けの良かったあの子の、最初で最後のわがままでした。しかし私にはそれがどうしても赦せませんでした。相手の男は身一つで迷い込んだ素性の知れぬ者でした。たまたま縁あって路頭に迷う彼を拾ったので、仕方なく下男としての仕事を与えてやっただけでした。それがいつの間にか、結婚を間近に控えた一人娘を奪われようとは。まるで恩を仇で返されたような気分でした。私は激昂し、娘の言葉を撥ねのけました。それは決して娘を案じたからではありませんでした。私が用意した婚約を台無しにされたことへの、幼稚な憤りに過ぎませんでした。私は感情のまま男を追い出しました。娘は彼を追って飛び出していきました。一年、二年と私の怒りは冷めなかった。しかし、三年目になってようやく娘の安否が気に掛かり、私は娘を探し始めたのです。しばらくして娘は見つかりました。小さな墓標の下で……。なぜ娘は亡くなったのか。私はそれをどうしても知りたくて、娘と一緒にいたはずの男を探しました。しかしわかったのは、亡くなる前には娘はあの男と別れていたようだ、ということだけでした。だったら家に戻れば良かったものを、そう思いました。でも、戻れなかったのでしょうね。いや、私がそうさせたのです。二度と帰ってくるなと、この私が娘に言ったのですから。あの後、この幼い子供との出会いがなければ、私は今も部屋に閉じこもったままでいたことでしょう。この子を引き取ったのは、何も慈善の心からではありませんでした。この子の鮮やかな緑の目を一目見て、死んだ娘ソア・ニに似ていると思ったのです。身勝手な理由です。しかし、この子はそんな私を慕ってくれました。その優しさにどれほど慰められたかしれません。私は、せめてこの子だけでも幸せにしてやりたいのです。若くして亡くなったあの子の分まで。ですから、どうか御子様にお取り次ぎいただけませんか。去りゆく私の記憶を残したとして、この子に何の利がありましょう。罪深い私が天と御子様に願うなどおこがましいことです。しかし、この清らかな娘には何の罪もありません。どうか、どうかこの子に、私との絆に代えて、新しい家族との絆を与えてやってください」
*
糸を読むツェルの手が震える。
「ツェル様! 何をしておいでです」
ついに司祭が叫んだ。
ツェルは震える手に力を込め、光錘を思いきって引いた。
「切断!」
死にゆく老人と、その義理の娘。
ぷつん。
微かな音をツェルの耳に残して、糸はツェルの目の前で切れた。
と同時に老人と娘の影は脳裏から消え、彼らの声も聞こえなくなった。ツェルは次第に光を失ってゆく切れた糸先を見るのが辛くて目をきつく瞑った。
「さあ、次はこちらを」
神官が早口にそう言い、光糸を二本、ツェルの前に差し出した。
切れた糸はそのままではすぐに消えてしまうが、その前にツェルの仕事がある。娘側の糸を別の糸に縒り合わせるのだ。老人の願い通り、この娘と、この娘の新たな義理の親との間に絆の糸を創り上げるのだ。娘が新しい家族と速やかに馴染めるように。
ツェルは閉じた目をこじ開け、二本の糸を光錘に巻き付けた。指先に灯した冷気を光錘に流し込む。光錘が淡く輝き始める。光錘の下部には丸みを帯びた錘が付いている。その部分を下にして神官の差し出す台座に乗せる。光錘の先端部分を摘まんで独楽のように回す。
頃合いを見て光錘を止め、絡めた糸を左右に引いてみた。糸は解けることなく、ぴんと張った。橙色の明るい光を放っている。
試しに軽く握って目を閉じてみる。老人の枕元に立っていた壮年の夫婦と、栗毛の少女とが、互いに凭れかかるようにして寄り添う姿が視えた。
糸の様子を確認した司祭は満足げに頷いた。
「良いようですね。では、終の光糸はこちらへ」
司祭が老人の側に繋がっていた糸の端を差し出し、神官が新しい光錘をツェルに手渡した。
いや、正確にいえばそれは光錘ではない。光錘と同じ形に削り出した木の枝。木目の鮮やかな普通の杖にすぎない。
ツェルは糸端と杖を手早く回収し、糸を軽く引いた。繋がりあう先を失った糸はあっけなく切れ、ツェルの手に落ちてきた。煌々と放っていた薄紫色の光はほとんど失われ、今にも消えてしまいそうだ。
ツェルは急いでその糸を光錘型の木片に押しつけた。冷気がツェルの瞳から指先へ、そして糸と木片へと流れ込んでゆく。糸はじわじわと、少しずつ溶けるようにして木片表面に広がり、染み込んでゆく。ツェルの額に珠の汗が浮かぶ。身体は燃えるように熱いのに、瞳から流れ込む一筋の流れは凍えるほど冷たい。
やがて杖がわずかな光を吸い尽くした。充分に間を置いてから、押し当てた手をゆっくりどける。杖の表面からはきれいに木目が消え、まるで磨き上げた貴石のように、薄紫色の光を灯してうっすら輝いていた。
光錘が完成したのだ。
年下の神官がツェルの前に跪き、天鵞絨で内張りされた箱を広げた。
ツェルは瞳を閉じ、気だるい腕を持ち上げて古いものと今できあがったばかりのもの、二本の光錘を乗せた。神官が慎重に箱を閉めて鍵をかける。
「ツェル様、お疲れ様でした。本日のお勤めはこちらでお終いです」
「そう。ご苦労様」
「冷や冷やしましたぞ。今日は一体いかがされたのです」
司祭の小言はさらりと聞き流し、ツェルは大きく息を吐いて椅子にもたれた。
瞳を開くのにはとても集中力を使う。こんな短時間でもとても疲れる。
それに、とツェルは光錘のしまわれた小箱を見つめた。
今回は切ることを選べた。あの可哀想な老人のために、そうしようと思えた。でも、これからは、今まで通り何も考えずに切ることができるのだろうか。
「何も無いなら、良いのですがね」
司祭は神官が用意したペンと皮紙を受け取り、仕事の経過を綴り始めた。対象者の情報、糸切り前後の様子、そして光錘の出来具合。ペンを置くと、転写防止のための木の薄皮を挟み、くるくると丸めて紐で結わえる。
「では、そろそろ上に戻りましょう」
立ち上がる彼らを、ツェルはふと思い立って呼び止めた。
「ねえ。先のご老人だけど、どこかでお会いしたことなかった?」
「サー・ツ=アルヴ殿のことでしょうか」
神官はそう聞き返してきた。
「サー・ツ=アルヴ?」
アルヴ。どこかで聞いた名だとツェルが記憶を探っていると、年配の司祭が神官を睨んだ。
「余計なことを口にせぬように」
神官は首を竦めて黙った。司祭は厳めしく言った。
「やはり糸主の心を読まれたのですね」
「誰にも話しません」
「それもですが、視たことはお忘れください、ツェル様。あまりに糸主たちにお心を寄せすぎれば、大局を見る御子の目を曇らせてしまいます。同じことは二度と繰り返されませんように」
「わかっているわ」
ツェルはむくれて、肘掛けに頬杖をついた。
「ちゃんとお務めは果たします。決められた通りに糸を切り、縒り合わせます。『些末事によらず、大局を見、世界を俯瞰する女神の目を持って、この世界に生きる人々を一人でも多く幸せに導くため』でしょ」
「仰せの通りでございます。『女神の寵愛を受けし御子の定めを両のかいなに深く受け止め、世界と人を愛する御子たらんことを』。光糸を操る力、これは一千年も昔に現れた初代の御子様とツェル様の他は誰も持ち得ぬ特別なお力でございます。その希有な御方と同じ時代を生き、こうしてお側近くお仕えできるとは、得がたき僥倖にございます。それにツェル様は、私めがお教えするまでもなく、ご自身の使命をよくよく理解しておいでですから、安心してお仕え申し上げることができます」
さっき受け流したからって、皮肉で返すとはね。ツェルは内心の苛立ちをどうにか堪えた。
「それが学校に行くための条件だったんだもの。破ったら即退学だものね。速翔の大会が控えていようと、たった半年で卒業だろうと、約束は約束。私に自由がないってことくらい、十分すぎるくらいわかっているわ。ところで、今からお父様にお会いできるかしら」
「お急ぎの御用ですか」
「ううん。ただ、保留にしていた誕生日プレゼントをやっと決めたの。だから直接お願いに行こうと思って」
贅沢な悩みだが、大して欲しいものもなくて、今の今まで決めかねていた。
「ほう。何になさるのですか」
「それは内緒」
さっきの意趣返しとばかりにツェルは口元に指を当ててみせた。
ベイル製の宝飾品をねだるつもりだった。学校の友達はみんな持っている。教会御用達のラツィニクよりは手の届きやすい価格だそうで、花々を象った繊細なデザインが街の女性たちに人気だ。
ツェルが持っている宝飾品といえば、教会のシンボルカラーたる青い石のついた銀製のものばかり。確かに石は大きくて立派だけれど、デザインも重量も重すぎる。
(とにかく、時代遅れなのよ。それにいくら青が好きだといったって、たまには他の色だって着けてみたいわ。学校でナルが言ってた、紅巻花の赤い石がついたものが欲しい!)
司祭は疑わしげにツェルを見た後、懐から取り出した懐中時計を眺めた。
「今時分でしたら、奥の応接室で祭事の打ち合わせをなさっているのではないでしょうか。タイミングが合えば来客の合間にお会いできるかもしれませんね。くれぐれも妙なおねだりはなさらないでくださいよ」
「そんなことしないわよ。とにかく、ありがとう。行ってきます」
ツェルは勢いよく立ち上がり、二人の間をすり抜けるようにして廊下を駆けた。
応接室の扉は閉まっていた。深々と礼をする見張りの聖堂騎士たちにツェルは訊ねた。
「もうすぐ終わりそう?」
「いえ、たった今お客様がいらしたばかりです」
「そんなあ」
地下室で無駄話なんかしていないで、さっさと上がってくれば良かった。なんて後悔しても今さらだ。
大司教の予定は、午後は街の視察と元老院との打ち合わせ。夜遅くまで戻らないはずだ。昼までに欲しいものを言えば、視察のついでに見繕ってくれるという話だったのに。
「またすれ違ってしまったわ」
ツェルの嘆きを耳にして、騎士たちは困ったように目を見合わせている。一方の騎士がノックの手を扉に当てようとしたが、それよりも一瞬早く、応接室の扉が内側から開いた。
「やっぱりきみだったか」
扉を押さえて立っていたのは端正な顔立ちの青年だ。すらりと伸びた背丈に、後ろでひとくくりにされた長い青髪が肩の上を滑りおちる。ソーだ。ツェルはぱっと笑顔になり、駆け寄った。まさかソーから話しかけてくれるなんて。
「どうして私だってわかったの?」
これが半双の力だろうか。そういえば私もわかるもの。どんな大勢の中に紛れていても、ソーのことはいつだってすぐに見つけられる。以前神官にそう言ったら、「半双を見つけやすいといった話は聞いたことありませんが。ああ、ソー殿は背が高いので見つけやすいのでは」なんてつまらない返事が返ってきた。でも、実際は私の言う通りだったのではない?
「大司教が来客と会っている部屋の前に走り込んでくるのはツェルくらいだろう」
「もう、可愛くない半双ね」
なんてぼやいてみるものの、ツェルは笑顔を隠せない。無視されたと思ったのは気のせいだったのだろうか、なんて楽天的な考えまで浮かんでくる。
ソーの後ろから大司教が顔を出した。
「おお、ツェル。今日の勤めは終わったのですね。ちょうど彼も着いたばかりですよ。今からきみを呼びに行かせようと思っていたところでした。さあ二人とも、座ってください」
「お父様」
がっかりだ。せっかく嬉しかったのに、単純に用があっただけなんて。
大司教は二人に椅子を勧めてテーブルの対面に回った。空いている椅子はソーの隣しかない。椅子に掛けたツェルはふわふわと浮き上がる気分が顔に出ないよう、生真面目な顔を装った。