【1】
わたしがあの女神さまの子供だなんて、やっぱり何かの間違いじゃないかしら。
仲良くくっつきかける瞼の重みと戦いながら、九歳のツェルは大聖堂の天井を見上げていた。
くらくらするほど高い天井には、輝く蒼石を先端に付けた長い杖を掲げる女神さまや、その周囲の光景がびっしりと描かれている。「天地創造」物語だ。
絵に描かれた女神さまの長く波打つ金髪は、確かにツェルとお揃いだ。でも、おっちょこちょいな女神の子なんているのかしら、と彼女は疑問に思う。何しろ昨日は久しぶりのショッピング・モールで迷子になり、館内放送をかけられたくらいだ。
*
前日――
半年ぶりの買い物に出た彼女は、興奮ぎみに飛行車の窓から顔を突き出していた。
空中に光線で描かれた街道の先には澄み切った青空と草原が広がっている。そのただ中に白亜の建物群が浮かんでおり、きらきらと輝いている。実際のところ、建物は宙に浮いているわけではないのだが、そう見えるように外壁が透過金属で造られているのだ。
前をゆく色とりどりの飛行車たちが、次々その建物に吸い込まれてゆく。
賑やかな音が近づいてくる。屋上を疾駆するジェット・コースターから届く悲鳴や歓声、回転木馬のリズミカルな音楽。
温度、湿度共に快適に保たれた外気が、円やかな少女の頬をなぶる。
彼女は風の中で目を細め、運転席の祖父を振り返った。
「おじいさま、今日はアイスを食べてもいい?」
「具合が良いのなら、もちろんいいよ。大好物のダルジェはいいのかい」
「それはお家に持って帰るの。お父さまとお母さまにもお供えしてあげたいから」
「ああ、それはいい。フィエラもダルジェは大好きだったからね。他に欲しいものはないのかい。ロボメを買う前に、まずきみの好きなものを買おう。この間の誕生日は、たいしたことをしてやれなかったからね」
「ロボメ」はハフラムでよく使われる人型ロボット・シリーズの総称で、今日の買い物の目当てだ。
彼女は目を輝かせて、興奮気味に声をあげた。
「じゃあ、じゃあ、白銀馬のぬいぐるみ! 動いたり、鳴いたり、眠ったりするし、水の上も走れるのよね。泣いていたらなぐさめてくれるし、退屈していたら遊んでくれるって書いてあったわ!」
「ああ、そうだよ。発売されたばかりなのに、よく知っているね」
「おじいさまに教えてもらってから、ネットで調べたの。すっごく可愛かった。ふわふわだし、水に浮かべると、ちゃんと目が青くなるんですって!」
「そうかい、きみの好みに合いそうで良かったよ。でも、それだけでいいのかい。遠慮しなくていいのだよ」
「ほんとにいいの! だって、今日はおじいさまとお出かけよ! もう、最高!」
自動収納のカー・ポートに車を預け、おもちゃ売り場を目指しながら、祖父がぼやく。
「子供服の店は、ほとんどなくなってしまったなあ。少し前まで、この辺りにあったんだが」
「ふうん、そうなんですか。でも、お洋服ならいっぱい持っていますし」
が、祖父は唸った。
「しかし、今日はきみの髪飾りから靴まで、一揃い新調するつもりだったのだよ。せっかく甘やかす口実があるのになあ」
売り場案内を眺めた祖父は、しぶしぶ女性服売り場へ向かい、モスグリーンの花柄ワンピースと黄色のカットソー、赤いチェックのフレアスカート、きらきら光るスニーカーを彼女のサイズに合わせて特注した。
ペット型の動くおもちゃは、独り身の多いこのご時世、どの世代にもよく売れる。目的のぬいぐるみはすぐに手に入った。
「うわあ、本物そっくり」
彼女はわくわくとリボンの掛けられたぬいぐるみを抱きしめた。有名な童話に出てくる幻想動物、白銀馬。水面を駆けることができる、という設定だが、もちろん「こちら側」に実在しないことは彼女もわかっている。
レストランでペアランチプレートを胃袋に入れた後、ふたりは、もう一つの目的を果たしにロボット・ショップに赴いた。
店頭に飾られたサンプルのロボットは、白いボディに濃紺のエプロンスカート姿で、ショーウィンドウ越しに通行客を眺めていた。顔にはつぶらな黒い目が二つと、滑らかに上下に稼働する口がついている。顔のデザインを除けば、家にある旧型と見た目はさほど変わらない。
入店するふたりに向けて、店頭に飾られた少女型ロボットたちが一斉に笑顔を向け、手を振ってくる。少年型もいるにはいるが、奥の方に追いやられているところを見ると、売れ筋は少女型の方らしい。
「そういえばおじいさま、動物のお人形は本物みたいなのに、ロボメはどうして人間に似ていないの」
「ああ……、技術的には、もっと人に似せて作ることもできるのだよ。ただ、そうすると人と区別がつかなくなるのでね。惑星法で規制されているのだ。社会科の教科書には書いていなかったかね」
「ロボット文化は後期からなの」
「そうか、そうか」
人間とはほど遠い、いかにもロボット然としたロボットをしげしげと観察してみる。
「今おうちにあるのより、ちょっと小さい子みたい。大丈夫かしら」
「使い勝手はよくなっているはずだよ。最新の第十七世代は『気が利くロボット』を売りにしているからね」
「ふうん。おじいさまが作ったの?」
「そうだなあ。情感のパターンを汎用ネットワークから吸い上げて自己学習する理論を組み立てはしたが、こいつの設計自体には関わっていないよ」
情感のパターンって何かしら。悲しいとか嬉しいとか、気持ちの種類のことかしら。
彼女は曖昧な吐息を漏らして、背中側も確認しようとロボメの隣に立った。
握り拳一つ分くらい背の高いロボメは、微かな音を立てて首を回した。思わず会釈する彼女をカメラの端で感知したのか、ロボメは身体ごと向き直って、目を山形に細めてみせた。
ちょっと背中を見せて、と言おうとして彼女は思いとどまった。
家にあるロボメだって、壊れる前は、お家のことをなんだってしてくれたわ。この新しいのは、どのへんが前のより良いのかしら。
「はじめまして、可愛らしいお嬢様。お年はおいくつですかあ」
旧型よりもやや高い声がした。彼女よりいくらか年上くらいの少女のような声だ。語尾が間延びする訊ね方に彼女は少しむっとした。
おいくつですかあ、ですって。わたしは子供だけれど、そこまで小さい子供じゃない。わたしだってお客さまなのに、失礼しちゃう。
「十一よ」
「あら、ご気分を損ねましたか。すみません。十一歳でしたら、もう立派なお姉さんですよねえ。そうだ、それよりお嬢様、大人の買い物って退屈でしょう。待っている間、一緒に屋上遊園地で遊びませんか。スカイブランコ、エアリーゴーラウンド、最新型のバーチャル・スライド……あっ、バーチャル・スライドがお好きですか。迫力満点で楽しいですよねえ」
と、またロボメの可愛らしい声は間延びした。旧型とは違う応答に、彼女はなるべく平静を保ってロボメの顔を見つめ返した。
どうしてバーチャル・スライドが一番気になってるって、わかったの? わたし、まだなにも言っていなかったのに。
ロボメはキッと微かな摩擦音をつけて首を傾けた。
「どきどきしていらっしゃいますねえ。なぜ私がお心を推察できたのか不思議ですか。最新の情感察知センサーが搭載されているんですよ。お役に立てれば幸いですう」
彼女はとうとう祖父の袖を掴んだ。
「なんか、こわい」
腕に着けた装身情報端末を確認していた祖父は、袖を掴む小さな手を辿って彼女の顔を見下ろした。
「こいつは気に食わんかね」
彼女は顎を鎖骨の間にくっつけた。勝手に人の心を読むことが禁じられている理由が、初めてわかった気がした。
「だって、乗り物は乗ったらだめなのに」
これは本当だ。呼吸発作が起きやすくなるからという理由で、激しく揺れたり回ったりする乗り物は禁止されている。これまで一度も乗ったことはない。
「そうだなあ。身体に触るといけないからね」
二人の会話が途切れたとき、すかさず奥から店員が近づいてきた。話しかけるタイミングを見計らっていたらしい。
店員は二人をカウンターに案内し、胸に着けたカード型の店員証に触れた。するとカウンター中央のパネルが光り、その真上に、先ほどの十七世代のホログラムが現れた。
「家事ロボットをお探しですか。今でしたら、情感推測機能のついたこちらの最新型がお勧めですよ。指示を出す前にご主人の望みを察知して動いてくれます。機能面につきましてはご要望に応じてカスタム可能でございます。簡単な書類整理、庭掃除、ペットの散歩までこなせる万能型と、看護、あるいは炊事洗濯に特化したタイプ、勉強計画の立案からサボリ監視機能まで備えたコーチング特化型と様々ございますが、どのような機能をお求めでしょうか」
「基本的な家事が一通りこなせるものを見せてもらえんかね。今まで使っていたものが壊れてしまってね。看護ロボットや掃除ロボット、事務ロボットは別にいるので、そこまで高性能でなくても構わないんだよ。これより前のモデルで問題ない」
「ロボメの旧製品でございますね。それでしたら、一つ前のこちらのバージョンはいかがでしょう。今でしたら新製品の発売記念セールで旧型はすべて三割引きになります」
喋りながらホログラムの前で指をスライドさせていた店員は、ふと目の前の顧客の頭部に目を留め、顔をしげしげと眺め、やがて恐る恐るといった風に口を開いた。
「スゥラ研究員の……もしやサジュナ=エーゲル博士でいらっしゃいますか」
「ああ」
祖父サジュナが頷くと、店員の凝視するこめかみでちかりと光が反射した。親指の爪ほどの大きさをした金色の石のようなものがそこに埋め込まれている。
店員は背筋を伸ばし、胸に両手を当てた。
「お会いできて光栄です! 私がこの仕事に就きましたのも、昔、娘が博士の発明された救急救命ロボットに命を救われたことがきっかけだったんですよ」
「そうだったのかい。それは本当に良かった。娘さんは今いくつなんだい」
博士が微笑むと、店員はさも嬉しそうに顔を紅潮させた。
「今年でもう六十になりますよ。しかし、まさか博士ご本人にお会いできるなんて」
博士はさらに話したそうな店員を手で制してやんわり告げた。
「すまないが、今日は孫を待たせているのでね。買い物は手短に済ませたいのだ」
「失礼、然様でございましたか。これはこれは、お小さくて可愛らしいお孫様ですね」
店員は彼女とサジュナとの間に素早く視線を行き来させてからサジュナに視線を戻した。
「何とも珍しい……とても綺麗な虹色の瞳ですね。もしや、博士のこだわりですか。最近はこんなに複雑な色が作れるようになったのですか」
よく言われる反応に、サジュナは小さく微笑んで手を顔の前で振っている。彼女はなんとなく居心地が悪くて俯き加減になった。
「すみません、不躾でしたね」
店員は奥のロボットに指示して、彼女の前に甘酸っぱいプレッジ・ジュースを、サジュナの前にアイスコーヒーを置かせた。
「こちらの商品ですが、スゥラ研究所員の方には星費より半額の補助がありますから、そちらにセールの三割引きを足しまして、お客様の自己負担額は二割となりますね。カスタムはいかがなさいますか。こちらの見守りオプションは特にお勧めです。ボードが独立しておりますので、他の処理と平行して常時作動し、万が一のことがあれば、お子さんの安全を最優先に行動します。育児や介護の必要なご家庭や、ペットとご一緒の方からは大変ご好評いただいております」
「ああ、当初の育児サポート機能だね」
「これはこれは、賢者に手引書でしたね。いや、お恥ずかしい」
彼女は暇だった。それはもう二周刻も待たされた。ようやくオーダーが成立し店を出たときには、彼女はすっかりご機嫌斜めだった。一歩一歩、足を投げ出すようにして歩く彼女にサジュナは言った。
「よし、屋上に行こうか。今日は顔色も良さそうだし、観覧車やメリーゴーラウンドだったら乗れるだろう。その後はアイスだったね。帰りはおいしいダルジェも買っていこう」
ダルジェ。それは液体固着化技術で炭酸水を球体にした上で、中に色とりどりの果実やジェリーを閉じ込めた小惑星のような愛らしいデザートだ。固着化された表皮はスプーンで突けばぷちんと弾け、タンブラーの中にきらきら光る銀河の海が広がる。ほんのり弾力のある爽やかなジェリー。星を模した銀色の砂糖粒の、ほどよい噛み応えがたまらない。
「ツェルは水色の。アスラ味ね」
勢い込んでそう応じると、サジュナは困った顔をした。
「わかった、アスラ味だね。ところで今のきみはカナンの御子ツェル・ト=リァンじゃない。私の可愛い孫娘、リァン=エーゲルだよ」
あっ、と叫んで彼女は顔を赤くし、両手で頬を覆った。時おり自分の名前を間違えてしまう癖がなかなか直らない。
リァン=エーゲル。
ツェル・ト=リァン。
どちらも彼女の名前である。
理由もわからず、説明のしようもないが、事実として、彼女は二つの世界で、二つの人生を過ごしているのだ。
今ここにいる彼女はリァン=エーゲル。惑星ハフラムで最後に生まれた子供で、スゥラ研究第一人者、サジュナ博士の孫だ。
もう一つの人生は、こことはまったく別の「海洋都市カナン」という街にあって、そこでは「ツェル」と呼ばれている。
ツェルは、ここにいるリァンよりずっと特別な女の子だ。なにしろ、ツェルは女神様の子供なのだ。
ところが、その「カナン」という街は、どうやらこのハフラム星には存在しないらしい。物知りな祖父に聞いても知らないというし、いくらネットで検索しても出てこないのだ。
もしかしたら、もう一つの人生なんて本当はなくて、ただの夢なのかもしれない。
ただ、夢だとしたら、ずいぶんへんな夢だ。物心ついた頃にはすでに見始めていたし、今日まで連続してお話が繋がっている。それに、ツェルはここにいるリァンと同じように毎年大きくなっている。リァンの方が一歳か二歳くらい、ツェルよりお姉さんだ。だって、リァンの誕生日がくると二歳差になり、ツェルの誕生日がくると一歳差になるから。でも、そんなへんてこな夢なんて、どうやらリァン以外の人は見ないらしい。もしかしたら、珍しい病気のせいかもしれないと言われて、有名なお医者さんに診てもらっているけれど、今のところなにもわかっていない。どうしてわたしだけ、なんて時々思うけれど、考えるだけ無駄だった。これまで何一つ、わかったことなどないのだから。
もう少し小さい頃は、突然がらりと変わってしまう街並みや、言葉や、家族のことを、うっかり間違えてしまうことが多かった。でも、そうするとみんな怒るのだ。ツェルの言葉で話せば「真面目に言っているのに、暗号なんかで誤魔化して」と怒られたり、カナンに広がる海の広さを話せば、「VRの見過ぎだ」なんて注意されてしまう。笑ったり、馬鹿にしたりする人も多い。だから次第に、どちらの人生においても、他方の世界のことを話してはならないし、あまり考えない方が楽なんだと思うようになってきた。
もちろん、大好きなサジュナおじいさまは例外だ。
リァンは毎日日記を付けている。正確には、もう一つの世界にいる間は二、三日眠りっぱなしになってしまうので、その間に体験したことは、起きてからまとめて書くことになるのだけれど――奇妙な眠り病の原因究明のためと医師に指示され、ツェルになっている間に体験したことは全部その日記に書いて、サジュナに見せているのだ。だからサジュナは、もう一人の彼女「ツェル」について、大抵のことは理解している。
(でも、いくらおじいさまとお話していたからって、自分の名前を間違えるなんて。赤ちゃんみたい!)
恥ずかしさのあまり今は「リァン」である彼女は下を向いたまま歩き、そのせいでサジュナとはぐれてしまった。
慌てて最後にサジュナと歩いた通路を目指して駆け戻ったが、サジュナの姿はどこにもない。目の前には見覚えのない雑貨屋やファスト・フードの店ばかり並んでいる。入り組んだ迷路のような館内だ、元の道に戻ったつもりが、そっくりな別の通路に入り込んでいたらしい。
「あっ。そうだ、装身情報端末!」
叫んで首に手をやったリァンは、嘆息してその手を下ろした。去年の誕生日に買ってもらったGPS付き通信機はそこにはなかった。首に張り付く感触が苦手で、どうせ祖父と一緒だからと、車に置いてきてしまったのだ。
装身情報端末のことを考えていたせいだろうか、装身情報端末販売店に目が留まった。ガラスのショーケースには一番人気のブレスレット型端末がずらりと並び、他にもピアス型、リング型、チョーカー型などの最新型がつやつやと光を弾いている。去年の誕生日に贈られたものとそっくりな、星飾りの付いたチョーカーもあった。
初期設定を済ませていない売り物じゃおじいさまには連絡できない――
そうとわかっていても、なお未練がましくチョーカーを見つめていると、ショーケース越しに店員と目が合った。女性店員はにこりと笑って、彼女に近づいてきた。
「大丈夫? あなた一人? ご家族は一緒じゃないの」
どうしよう。
リァンは口ごもった。
自分の名前も、サジュナの名前も、外で知らない人に安易に話してはいけない、と日頃からきつく言われている。
祖父は星立機関で働いていて、惑星キミツにも関わっている。最近は政府転覆を狙う悪い人たちもニュースになっている。だから、サジュナの唯一の家族であるリァンも慎重に行動しなくちゃならない。
ここからなら、ひとりでも星立鉄道を使って帰れると思う。鉄道は無料だし、乗り方くらい知っている。最寄り駅から自宅まではすぐそこだ。
でも、勝手にいなくなったら、それはそれで大変なことになるかもしれない。なにしろ、おじいさまったら心配性なんだもの。
……お店の人だったら、名前を言っても、たぶん大丈夫よね? それに、ひとりで帰るのもちょっと不安だし。
「さっきまで、おじいさまと一緒でした」
弱々しく伝えると、店員はリァンの両手を優しく取ってくれた。
「そう、はぐれちゃったんだ。装身情報端末は持っていない?」
「置いてきてしまいました。でも、おじいさまの装身情報端末IDならわかります。連絡してもらえますか」
店員はリァンの頭を軽く撫でた。
「まだ小さいのに、しっかりしているんだねえ。でもほら、IDは個人情報だから、大事に取っておこうね。大丈夫、すぐに見つかるよ。一緒においで」
この人もきっと見た目より年配の人だ。話し方でリァンはそう当たりを付けた。
店員はショッピングモールの巨大な吹き抜け前にある大きな受付カウンターまで付き添ってくれた。受付の女性はリァンをカウンターの中に招き入れ、保護者の名を訊いた。飛び出た保護者の名にひとしきり驚いたり感心したりした後、受付は「ファースト・ネームは伏せた方がいいかな。博士のファンは多いから、大騒ぎになりそう」と言って、おもむろに胸元のマイクに手を触れた。
「東地区方面よりお越しのエーゲル様。お孫さんがお待ちです。いらっしゃいましたら三階インフォメーション・センターまでお越しください」
館内にアナウンスが響き渡った。リァンは冷や汗をかいてカウンターの影に張り付いた。
まさか、放送するなんて! ここに知り合いがいたらどうしよう。十一にもなって迷子だなんて知られたら!
恐る恐る覗き込んだカウンターの向こうを、仲睦まじそうな夫婦が通り過ぎてゆく。
「まあ、館内放送なんて久しぶり。本当に子供が来ているのかしら」
「子供なんて久しく見ていないなあ。何歳くらいの子だろうね」
リァンは急いで頭を引っ込め、茹だってしまったような熱い顔をカウンターの裏に隠した。遊園地や大好きなダルジェを買って帰るという目的がなければ、サジュナが迎えに来る前にその場から逃げ出していたかもしれない。
間もなくサジュナが駆けつけてきた。呼吸は乱れ、リァンの手を握ったその手は汗でびっしょりだ。やっぱり勝手に帰らなくて良かった、とリァンはほっとした。幸い、姓を放送したことについては何も言われなかった。
屋上遊園地へと続く浮遊盤乗り場に着いたちょうどそのとき、サジュナの手首に巻いた装身情報端末がベル音を鳴らした。口を寄せて小声で応答したサジュナは、壁際に寄りつつ、離れたところで待つようリァンに手で示した。
リァンは大人しく向かい側の壁に凭れたが、離れていても、次第にサジュナの表情が険しくなっていくのがわかる。
「死んだ? 番号に間違いはないのかね」
リァンはびくりと身を震わせた。
死んだって。だれが? なにが?
それに気付いたのか、サジュナは気まずそうにリァンとの距離を空け、いっそう声を潜めた。
そこから先は聞こえなかった。
向かいの壁に凭れて通行人をぼんやり眺める。カップルが五組。ひとり客が二十人。接客ロボットが七体に掃除ロボットが三体。あれ、アナウンス・バグは何体通ったっけ。
天井付近を一直線に飛んでゆく羽虫型ロボットを目で追っていると、リァンの肩に手が触れた。戻ってきたサジュナの顔は別人のように疲れて見えた。
「リァン。急な仕事ですぐ家に帰らなくてはならなくなった。久しぶりに出かけたというのに、我慢ばかりさせてすまないね」
ああ、やっぱり。コールが鳴ったときから、そんな気はしていた。でも、それより、死んだっていうのは。
喉元まで出かかる好奇心と、落胆とを飲み込んで、リァンはにこっと笑ってみせた。
「ううん、いいの。おじいさまのお仕事はとっても大事なお仕事なんだもの。スゥラがないとハフラムの皆が困ってしまうものね。だってスゥラは、みんなの暮らしを支える、せ、生活基礎……」
「生活基盤だね」
「はい、生活基盤です。スゥラ・エネルギーがなければ装身情報端末もロボットもみんな止まってしまうし、大気清浄機も止まってしまうし、明かりも消えてしまうし、飛行車も落っこちてしまいます。スゥラはお水と同じくらい大事なものだもの。ダルジェはまた今度ですね」
サジュナはきゅっと眉根を寄せ、リァンの頭を撫でた。
「いいや、ダルジェは買っていこう。すまないね、いつも」
サジュナはそれ以降、じっと考え込むようにしていた。帰りの車でリァンがあれこれ話しかけても、心ここにあらずだった。
自宅に着くなり、サジュナは仕事部屋に直行した。リァンは仕方なくダルジェを箱から取り出し、フォトフレームの中の両親に一つずつ供え、自分の分を持ってダイニング・テーブルについた。が、そのとき急な眠気に襲われた。
「や、やだ、まだ、ダルジェが……」
必死に眠気に抗おうとしたが、あまりにも強烈な眠気だった。リァンはそのままテーブルに突っ伏してしまった。
そして目が覚めたとき、そこはもう「あちら側」だった。
すなわち大聖堂が中央に鎮座する海辺の街カナン――もう一人の彼女「ツェル」が生きる世界だったのだ。