揺れる心、深圳にて
ペニンシュラのロビーは、午後の光に満ちていた。
高い天井から吊るされたシャンデリアがキラリと瞬き、世界中の旅行者たちが静かなざわめきを織りなしている。
「ねえ、今日の夜さ、深圳に行こうか」
圭祐が、ティーカップを持ち上げながら言った。「ほら、律子の中国の友達夫婦。会ってみたいって言ってたじゃない」
律子は、はっと我に返ったように顔を上げた。「うん、そうね。向こうも待ってるって」
中国本土に入るには、友人夫妻が手配してくれた許可証が必要だった。
香港から羅湖を越え、深圳へ。日帰りではあったが、少しの冒険のような旅になる。
夜――
友人夫婦が迎えてくれたレストランの円卓には、色とりどりの料理が並び、会話は途切れることなく弾んだ。
律子は、久しぶりに見る彼らの温かなやりとりに、どこか懐かしさと羨ましさを感じていた。
互いを気づかい、冗談を言い合い、さりげなく腕に触れるしぐさ。
自然体で、安心しきったような信頼。
(私は、これからそんな関係を築けるのだろうか)
圭祐の隣に座りながら、律子はそっとグラスの水に口をつけた。
笑顔は浮かべていたが、胸の奥では静かに何かが沈んでいた。
あの盗聴器――
圭祐が、自分を疑っていたという事実は、日が経つほどに心に沁みるようになっていた。
自分がされたことの意味、それをどう受け止めたらいいのか。
そして、彼がいま隣で笑っているこの時間を、どこまで信じていいのか。
「写真、撮ろうよ!」
友人の奥さんが言い、店員にカメラを渡して、四人で並んだ。
シャッターが切られる瞬間、律子は思った。
――この写真が、私たちの旅のなかで、数少ない記録になるのかもしれない。
その予感は不思議なほど確かだった。
ホテルに戻ったのは夜遅く。
羅湖のイミグレーションを越えて香港に戻るタクシーの中、律子は夜景に滲む街の灯りをじっと見つめていた。
「明日、アフタヌーンティー、予約取れたよ」
圭祐は満足げに言った。「やっぱりここに来たら、あれを体験しないとね」
律子は一拍置いて、うなずいた。「うん。ありがとう」
そして心の中で決めた。
――明日、言おう。
このままでは、何も進まないまま、何も終わらない。
紅茶とスコーンの甘い香りに包まれるあの場所で。
せめて、きれいな思い出の中で、私は自分の言葉を差し出そう。
たとえ、その言葉が二人の距離を決定的に変えるものであっても。
彼が何を思っていたのか、
どうしてあんなことをしたのか、
そして、私がこれから彼をどう見ていくのか――
この旅の終わりまでに、答えを見つけなければならない。
それが、律子のなかで唯一揺るがない事実だった。