香港、光と影のあいだで
キャセイパシフィックのビジネスクラスは、まるで空の上のホテルだった。
広々とした座席、丁寧なサービス、美しく盛り付けられたミールトレイ。
律子は圭祐の隣に座りながら、薄く微笑んで窓の外を眺めていた。
(贅沢のはずなのに、心が浮かない)
香港——そこは彼女がこれまで幾度となく訪れ、街の喧騒も静けさも、すべてを愛してきた場所だった。
だが新婚旅行の行き先として提案したのは、実のところ律子ではなかった。
「どうしてそんなに香港が好きなのか、僕も知りたいんだ」
圭祐のその一言に、律子は少し戸惑いながらも頷いた。
他の国や、もっと特別な場所を思い描いていたのは確かだったけれど、圭祐が自分の好きなものを理解しようとしてくれる気持ちは、嬉しかった。
それでも、どこか心は晴れなかった。
ペニンシュラ香港のスイートルームに足を踏み入れた瞬間、ラグジュアリーな空間に思わず息を呑んだ。高層階の窓から望むヴィクトリア・ハーバーの夜景は、昔見たどの景色よりも美しく、完璧なはずだった。
——でも、完璧だからこそ。
律子は思ってしまう。
「私は、本当にこの人と幸せになれるんだろうか」
豪華なベッド、ふかふかのバスローブ、美しく並べられたフルーツプレート。
どれもがまるで映画のワンシーンのようだったけれど、律子の中には冷たい水がすっと流れるような違和感があった。
日中は二人でレストランを巡り、買い物をし、街を散策した。
圭祐はまるで初めて香港に来た観光客のように目を輝かせ、律子にあれこれと尋ねてくる。
「この通り、何度も来たんでしょ?」
「そう、何度も。でも誰と来たかは、内緒」
律子は冗談っぽく笑ったが、心の奥にはひっそりとした孤独が横たわっていた。
夜、スイートに戻ると、圭祐は疲れた様子でシャワーを浴び、先にベッドに入った。
律子はひとり、ソファに座って夜景を見つめた。
——今が幸せなはずなのに。
彼の隣で眠るのが少し怖かった。あのICレコーダーことを思い出してしまうから。
あの小さな機械が、彼の心の中の疑いを物語っていた。
何も言えずにいる自分が、弱くて情けなかった。でも、話すにはまだ早すぎる気がした。タイミングを誤れば、何かが決定的に壊れてしまう気がして。
この旅のどこかで、必ず話そう。律子はそう心に決めた。