5-18 声の届かない夜明け
どれくらい経ってから電話をかけたのか、律子は覚えていない。
スマートフォンの履歴を見返しても、順番が曖昧だった。
ただ確かなのは、あの夜以来、心の中がずっと音を失っているということだけ。
最初に声を聞いたのは、バンクーバーにいる千賀子だった。
「律子さん? どうしたの? 声が……」
彼女の明るい声に、律子は一瞬だけ泣き崩れそうになった。
けれど、どう言葉にしていいかわからない。
胸の奥に重く沈んだ現実を、口にした途端、本当にそれが“起こってしまったこと”になってしまう気がした。
「……ううん、ちょっと寝不足で」
それだけを言うのが精一杯だった。
千賀子は何かを察したようだった。
「そっちは大丈夫なの? 圭祐さん、忙しそうって言ってたけど……」
「うん、そうみたい」
律子は答えながら、視線を遠くにやった。
カーテン越しに射す光が、やけに眩しい。
まるで、自分の嘘を照らしているようだった。
通話を終えたあと、律子はふとメールの送信者をもう一度見つめた。
“件名:あなたが知らない方がいいのかもしれません”
差出人の名前には、圭祐の会社のスタッフの名前が記されている。
けれど、よく見ると、その英語のスペルに違和感があった。
一文字だけ、微妙に違う。
──見間違い?
いや、そんなことに気づく余裕なんて、あの夜にはなかった。
律子は返信ボタンを押した。
指が震えて、文字を打ち込むのにも時間がかかった。
「メールをくださった方へ。
あの写真は……どういうことですか?」
送信を押そうとした。
けれど、その瞬間、何かが引っかかった。
本能的な違和感。
送信ボタンの上で、指が止まった。
まるで、その向こう側に“誰か”が息をひそめて待っているような気がしたのだ。
何かを見透かされているような。
「……違う」
律子は小さく呟き、メールを削除した。
何が“違う”のか、自分でもわからなかった。
ただ、あのメールに返信してはいけない、そんな直感だけがあった。
その夜も眠れなかった。
蓮が泣いても、抱き上げる腕が重い。
体ではなく、心が疲弊していた。
気づけば夜明け前、律子は窓際で膝を抱えていた。
外はしんと静まり返り、街の灯がひとつ、またひとつと消えていく。
スマートフォンが光った。通知の文字。
誰かが“既読”をつけては、すぐに消したような、奇妙な既視感。
──あのメールの送り主。
なぜ、私に?
どうして、今?
答えはまだ霧の中だった。
ただ、心の奥底で、律子はうっすらと気づき始めていた。
この物語の裏側に、もっと深い“何か”があるということを。




