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5-5 母になる場所

7月半ば、バンクーバーは少しずつ夏らしさを増していた。

涼しい風に揺れる木々、道端に咲くラベンダー、陽に照らされたレンガ色の街並み。

この街での生活にもようやく慣れ、ほんの数ヶ月だったとは思えないほど、律子にとってはなじみ深い日々になっていた。


それでも、カレンダーの赤い印が近づくにつれ、心は東京へと引き寄せられていく。

出産予定日は8月1日。

その数週間前、律子はひとりで日本へ帰国することを決めていた。


「行ってくるね」

スーツケースを転がしながら、圭祐にそう言ったとき、ほんの少しだけ、胸の奥がざわついた。

見送ってくれる圭祐の表情には、寂しさなのか、気遣いなのか、あるいは別の何かが混じっていた。


機内では、赤ちゃんの胎動を感じながら窓の外を眺めていた。

目の前にあるのは「これから母になる」という現実。

カナダでの賑やかだった日々や、実佳との笑い声は、少しずつ過去へと遠ざかっていった。


成田に降り立ったのは、蒸し暑い夕暮れ時だった。

圭祐の実家ではなく、自分の生まれ育った実家へと向かう。

母はすでに冷房を入れて部屋を整え、手作りの夕飯を用意して待っていてくれた。


「おかえり。疲れたでしょう」


その一言に、律子はふと涙がこぼれそうになる。

この人の娘だったのだ。

そしてこれから、自分も誰かの「お母さん」になるのだと、実感が胸に染みていった。


赤ちゃんと新しいお母さんのために、一から丁寧に建てられた助産院は、隅々まで愛情が行き届いた設計だった。

やわらかな木の香り、太陽の光をたっぷり取り込む大きな窓、ふかふかの授乳ソファ──ここならきっと、大丈夫。そう思える場所だった。



日が経つにつれ、律子の心は少しずつ「母親モード」に切り替わっていった。

朝はラジオ体操をするようになり、夕方は母と散歩に出かけ、赤ちゃんの肌着を畳み、布おむつを洗い、沐浴のイメージトレーニングを繰り返す。


そして自然と、圭祐に対して以前のように頻繁に連絡を取ることも減っていった。

忙しいだろうし、わざわざ送るほどのことでもないし──

そんなふうに自分に言い訳しながら、LINEの返信も少し遅れるようになった。


圭祐は出産予定の5日前に帰国し、出産には立ち会う予定だった。

「早産になったらどうするの」と母は少し心配そうだったが、

「うちは遅れそうな気がする」と律子は笑って答えた。


それは予感でも予言でもなく、

ただ母親になろうとしている自分を、どこかで冷静に見つめている証だった。



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